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『ニッポニアニッポン』で主人公春生がインターネットを駆使して入手する情報 (として作品に取り込まれる引用個所)は、すべて現実に存在する。 2020/11/02

 今日も快調に4時頃目が覚めたので軽くランニング。最近の不摂生がたたって、6キロ程度でダウン。朝イチで住民票などをとりに区役所へ行ったのだけど、まぁまぁ賑わっている。銀行もそうだけど、必ず何をどうすれば良いか教えてくれるご案内係がいて、これが欲しいと言ったらこれを書け、と明確に案内してくれる。すぐに呼ばれて、窓口で書類を出すと、受付完了。しばし待つこと10分程度か、出来上がって受け取りの窓口へ。お役所仕事なんて揶揄されるけど、実にスムーズだしストレスなく必要なものがゲットできた。残念なのは一生のうちにそう何度も必要じゃないのでこのサービスレベルを受けることがまずないということなんじゃないかな。

 そして帰宅後はひたすら書類を記入し、ローンの審査申し込みの書類を一式整える。いやはや面倒くさい。自分を誉めてあげたい。

その後は猛烈に仕事して仕事して仕事の合間に保育園に迎えに行って仕事した。昼御飯は久し振りにがっつり食べる。カツ丼。夜は豚しゃぶにするべく20%オフの肉を買う。これから借金するから節約しようという気持ちが心の底にあるのかもしれない。

 昨日読んだ香山哲『ベルリンうわの空』がパッと見で魅力的なのは、ここではないどこかで自由に生きている(ように見える)話だからなのかもしれない。そもそもなんとなく閉塞感がある日常の中でここよりももっといい何処かを無意識に求めているのかもしれないし、そんなのは人は常に心の片隅で期待し続けてしまうものなのかもしれない。かもしれないばかりで読みにくいかもしれない。外国の街の魅力を、等身大で語る作者自身への憧れみたいな眼差し。ただ、どこで生きてようが日常を楽しめるタイプかどうかの方がどこで暮らすかよりも重要な気もする。それを見出せる人がベルリンで見出した日常の面白さってのがとてもいい。

 加藤典洋『テクストから遠く離れて』を読み始めた。「作者の死」のその先に踏み込むテクスト論。作者の意図や意向を読み解くと言った作者に還元される考え方にそった読みなどは必要ない、のだけど、それでもなおゆらゆらと立ち現れる作者の存在。そして従来のテクスト論を越えていくような「テクスト論破り」とも言える作品、作家の登場。

 これに対して『ニッポニアニッポン』で主人公春生がインターネットを駆使して入手する情報 (として作品に取り込まれる引用個所)は、すべて現実に存在する。それだけでなく、そこに引かれるサイトの情報それ自体が現実のサイトの文面を一字一句動かしていない。わたし達は、この小説を読み、 そこに紹介されているサイト、たとえば「新潟 asahi.com」の「トキ日記」だとか、「YOMIURI ONLINE」社会欄だとかに自分でアクセスすれば、この作品に出てくるのと寸分違わない文面に、そこで出会うことができる。
加藤典洋『テクストから遠く離れて』P.36

 『オーガ(ニ)ズム』を読んだ時も感じた自分たちの生きている現実の世界がフィクションに侵食してきているような感覚。フィクションが現実社会をベースに書かれた、ではなくて、現実がフィクションを侵食しているってのが強烈に印象に残っているのだけど、その中に阿部和重自身も出てきてしまうわけで、そこには「作者の死」を加藤典洋が指摘している次元をさらに越えてきている感があるなぁ、とこれを読んで感じたりした。あぁ、そういうことかと自分の中でつながる感じ。

 豚しゃぶと一緒に芋焼酎。眠くなってさっさと寝た。夜中にふと目が覚めて携帯を見たら目が覚めてしまった。


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読書好きな会社員
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