児童文学の役割は子どもたちにむかって、この世界は単純な場所ではないことを示すこと
子供が読んでいる本を自分も読んでみたくなってしまうのだけど、まったく読みきれなくてフラストレーションが溜まっていく今日この頃、改めて児童文学に関する本を読んでみた。
猪熊葉子『大人に贈る子どもの文学』という1冊。
児童文学研究の草分け的な存在で、トールキンの下で学んだというお方。留学は決まったものの、児童文学の研究などは国内はもとより、海外でも確立されておらず受け入れ先が決まらない中、引き受けたのがのちに指輪物語を書いたトールキン教授だったらしい。
いまだに児童文学=くだらない子供の読み物、という見解は存在しているようで、ハリーポッターブームなどもあんな子供の読み物を大人が読むなんて嘆かわしい、なんていう論調があったそうな。ただ、子供も大人も読む本としてハリー・ポッターのメガヒットはかなり革新的な出来事だった模様。そしてこのような大人も子供も楽しめる作品群をクロスオーバー・フィクションというらしい。
子供の読み物はくだらないもの、という意識の根底には、子供は未熟で無知、大人よりも劣った存在で、大人は子供よりも優れているという価値観が存在している。そんな子供は複雑なことは理解できない、必然的に子供向けの読み物は単純でくだらない、という価値観。自分で書いててイラつくくらい、そういうこと言う奴らは無知蒙昧の輩だと思う。
まぁでも児童文学が認められるまでの道のりはなかなか厳しく、1960年代においても、『ピーターラビット』の作者であるビアトリクス・ポターは『ウェブスター伝記辞典』が完全に無視していたんだとか。要するに子供向けの物書きは作家として認められていなかったと言うこと。
本書では児童文学作家ジョーン・エイキンが書いていることを紹介しているのだけど、これがとても素晴らしいので引用しておきたい。
作家の任務とは、子どもたちにむかって、この世界は単純な場所ではないことを示すことだと言えるでしょう。単純だなどとはとんでもない。この世界は途方もなく豊かで、奇妙で、混乱しており、すばらしいと同時に残酷で、神秘的で美しく、説明しがたい謎なのです。私たち自身もまた謎です。自分がどこからやってきたのか、どこへ行くのかを私たちは知りません。私たちはどれほどつとめてみてもぼんやりとしか理解できない幾重にも重なった意味にとりかこまれているのです。
P.143
ちなみに、ジョーン・エイキンの作品はこういうやつ。
本書の著者である猪熊さんご自身が訳された作品もあるね。
あと、ちょっとかわいそうなエピソードとしては、『くまのプーさん』を巡る親子の断絶。プーさんに出てくるクリストファー・ロビンは、作家のミルンの実の息子だったんだよね。おかげで現実世界のクリストファー・ロビンは作中のクリストファー・ロビンと同一視されることを避けられない苦しみを味わうことに。父が病に倒れても、見舞いに行ったのはたったの2度、夫の死後15年も生きた母には一度も会わなかった、それくらい親子が断絶してしまったらしい。それを踏まえて『くまのプーさん』を見ると複雑な気持ちになるな。
いいなと思ったら応援しよう!
