徐々に道具を手ばなしていく大衆に、どう物を売るのか。そのとき資本の側から考えだされたのが、ファッションとおなじようにイメージの差異であり、同時に大衆の側で醸造されてきたのが雑貨感覚であろう。 2020/12/03
今日は久しぶりの終日在宅勤務。落ち着く。人それぞれなんだろうけど、終日在宅の方が資料作りとか作業は捗る。家事も捗りまくり、夕飯は豚汁と、娘たちにはリクエストにお応えしてラーメンを作った。
まぁ特段、なんということもない日常なのだけど、三品輝起『すべての雑貨』を読んだ。三品さんは、西荻窪の雑貨屋FALLの店主、ということらしい。寡聞にして知らず。でもなんともいい佇まいの本だったので手に取った。
Amazonで書影出てこないのだけど、これがすこぶる良い。とにかく読み始めて、うおー、って感じで良い。
一方、資本は手わけしながら、どういう人間が、どういう雑貨を、内装を、色彩を、音楽を、マチエールを好むのか、日夜、分類整理している。 人々の嗜好のデータが積もりつもると、雑貨、道具、生活、暮らし、民藝、 北欧、丁家、手仕事⋯⋯と、遺伝子を解読するかのごとく芋づる式に関連タグが掌握されていく。パターン化がすすんだ雑貨界において、店名のつけかたにはトレンドがいくつかあって、 そのうちのひとつは、前述の関連タグをシャッフルして組みあわせる方法である。適当につくってみると 「民藝、生活の道具店」「手仕事と暮らすこと」「北欧の工芸、暮らしの雑貨店」⋯⋯といった具合。冗談みたいだが、人々の欲望を喚起するシグナリングだけで構成された店の名は、市場にあふれている。
三品輝起『すべての雑貨』P.11
いい。シグナル。ただ、大人数を相手にした商売ってのは、結局わかりやすい物語、わかりやすい記号の消費って事から逃れられないんだよなぁ、とも思う。メディアやっててもそうだと思っていて、宿命なんじゃないか。まぁ、ターゲットが細分化されている世の中とはいえ、そのターゲットの中での最大公約数的な記号を生み出し、消費させる事、それがマーケティングとかインサイトとか呼ばれる訳で、それがビジネスというゲームのルールなんだろうなと思う。多くの支持を集めるものには必然的にそういう側面が生じる。
徐々に道具を手ばなしていく大衆に、どう物を売るのか。そのとき資本の側から考えだされたのが、ファッションとおなじようにイメージの差異であり、同時に大衆の側で醸造されてきたのが雑貨感覚であろう。もはやハサミだって金槌だってペンキだって、製品の質だけでは測られない。かっこいいとか、おもしろいとか、美しいとか、商品どうしをくらべたときのイメージの落差にお金を払うのだ。本でいうならば、書かれている内容ではなく、カバーや帯やフォントを基準に小説を選ぶような感覚が消費者にめばえてくる。それはとどまるのことのない、雑貨化の狼煙があがった瞬間でもあった。
三品輝起『すべての雑貨』P.16
雑貨化!全てが雑貨化していく!ポストモダン⋯⋯。全てが相対化されていく。いや、そんなのは昔からそうだった、というか、もうずっとそういう世界だったんじゃないかな。それが本当に色々なところに浸透、侵食、してきているのかもしれない。しかし、いいなぁ。長らくファッションの世界で商売してきたから、共感。
久々に読みながら興奮してしまった。静まれ、ブランデー飲んで寝た。
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