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aoneko
創作物なんかを題材にしてネオリベがどうのとかポスト・トゥルースがどうのとか時代を論じたりしちゃうのも、それ自体が事実や現実の複雑性を無視して適当に物事を語りたいっていう、むしろフェイクニュースとかに騙されたがる側の知性だと思うんですよ。 2020/09/20
お彼岸なので一人で墓参りに行った。実家には片道1時間くらいなので、本を読むにはちょうど良い。木下古栗『サピエンス前戯』を読みながらの墓参り。不謹慎だろうか。年老いた母。井上陽水の歌にあったよな、「年老いた、はっはー」ってやつ。「人生が二度あれば」だったっけか。
木下古栗を読むのは初めてで、ネタ的な下ネタとの融合がとても愉快だし、なんとなくこの世界をおちょくってる感じがとても好みだということはあまり大きな声では言えないことかもしれない。いや、声を大にして言おう。木下古栗面白い!
紙に丸を描いたところで、その丸は紙から独立した存在にはならず、まさにその紙において存在します。 丸の内も外も、その枠線も紙において存在します。要するに丸を描いたところで、その内と外は存在論的には別個にはなりません。
木下古栗『サピエンス前戯』P.105
限りなく広がる二次元の紙の上に、丸が描かれている。その丸が個体です。そしてこの丸の枠線が内外を完全に別個のものとして隔てられないということは、すなわち存在論的には内部も外部もない。その内外の別、相対性 は幻想だということです。さてその次、その丸という幻想、個という幻想を消去して表すには、どのような操作を加えればいいか? それは丸の内部をど んどん狭めていって、遂には内部が一切ない状態、つまり点として表すことです。点というのは大きさがない、つまり内部がないものとして扱われます。そして内部がないということは、それと相対的にしか定められない、外部もまたないということになり ます。そして大きさがなければ、実在しないも同様なので、幻想として掻き消えます。こうして限りなく広がる紙だけ残り、つまり世界だけがあるという、さきほどの結論に至ります。
木下古栗『サピエンス前戯』P.111
下ネタの合間にこういう衒学的な言説が挟まれるのだけど、これもまたネタであるというか、すべてがネタみたいな小説で、あらゆるものが相対化されてネタとしてしか存在し得ないような世界というのは、筆者と同じ年に生まれた自分としてはとても共感できる世界観だったりする。世界だけがあるのであって、作品を偉そうに解釈して浮世離れした偉そうな物語を語る奴らはあんまりリアルじゃないんだよなぁ。
まるで風呂上がりにトレンチコートだけを羽織って夜の散歩に出た露出主義者が、そのまま通りがかりのコンビニの夜勤を手伝い始めてしまうかのように。この世では時としてすんなりとは理解しがたいことが起こる。僕はそれを応仁の乱から学んだ。
木下古栗『サピエンス前戯』P.163
まぁくだらないんだろうけど、くだらなくても、ここで応仁の乱が出てくるのがなんとなく面白かったからそれで良いじゃないというか面白かったんだよという気持ちなので面白かった。
あとそういう前衛的な散文詩みたいな方向じゃなくても、小説で社会的、政治的な問題を取り上げて何か考えた気になっちゃったり、文芸批評でも文化評論でも何でも、創作物なんかを題材にしてネオリベがどうのとかポスト・トゥルースがどうのとか時代を論じたりしちゃうのも、それ自体が事実や現実の複雑性を無視して適当に物事を語りたいっていう、むしろフェイクニュースとかに騙されたがる側の知性だと思うんですよ。
木下古栗『サピエンス前戯』P.289
この感覚がリアル。
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