ステルラハイツ6391
ステルラハイツのある街の近くに、大きな湖を湛えた歴史深い街がある。
山岳地帯を越え、たまこを乗せた列車がその街を通ったのはちょうど夕暮れ時だった。湖に差し込む夕陽の美しさにたまこを含めた多くの乗客が歓声を上げると、間もなく最寄りの駅に到着した。
幼年の浅黒い子どもを連れ、愛想のいいおばさんを載せた車椅子を押して降車しようとする男性客がいたので、近くにいたたまこが「手伝いましょうか」と声をかけると「駅員さんが手伝ってくれますから」と会釈をして通り過ぎようとする、その男は、なんとあろうか、あの謎の中国人ワンさん、その人だった。
言葉を交わした二人は一瞬目を見合わせ、仰天するたまこを差し置いて、そそくさと降りようとするワンさんを、追いかけるようにして、たまこも列車を飛び降りた。まさかの展開。
ワンさんがステルラハイツを後にした日、それはミミ子にとって、そこからしばらく立ち直れないほどに最悪な思い出の日であった。
あの夜、いつものように麻雀大会を終えて、ミミ子のキングサイズのベッドの片隅で寝息を立て出したワンさんに、いよいよ溢れる気持ちを抑え切れなくなったミミ子は、強行作戦に出ることにした。
単に近寄って拒否されることを恐れたミミ子は、仰向けですやすやと眠るワンさんの下腹部に優しく手を触れた。
それまで愛してきたのは女性相手とはいえ、探究心旺盛なミミ子には仕事上の経験があった。情に流されない分ビジネスに徹することができるという理由で、ミミ子はその手で男性を歓ばせるアルバイトをしていたことがある。経験してみると、歓ばせるという点では男も女も変わらないとわかったし、その点でミミ子は天賦の才を持っていると言っても過言ではなかった。
今夜はさすがに初めて愛する男性相手というだけあって、ミミ子の手も僅かに震えてはいたが、天賦の才は見事に発揮され、ワンさんは夢見心地で短いため息を漏らし始めた。
そこでミミ子は思い切ってワンさんの下腹部をあらわにし、ワンさんの硬くせり立つものに口を当てた。ワンさんのため息は徐々に熱さを増し、これはイケルと確信したミミ子は、福与かな体をあらわにし、ワンさんの体に添わせた。
ワンさんもさすがに男である。いまだ夢見心地のまま、ぴったりと寄り添う柔らかな肉体を愛しむように、手を這わし始める。その手の動きはあっという間にミミ子を陶酔させた。
気持ちはたかまり、いよいよ念願叶ったり、ああ今まさに幸せをかみしめるミミ子の耳元で、夢見心地のワンさんが何事かささやく。
それは、ミミ子の知らない外国の女性の名前であった。
あっという間にミミ子の体は凍り付く。
ワンさんはまだ夢見心地で、そのままミミ子の首筋に唇を這わせる。
凍り付いたミミ子の体は一切の動きを止めている。
しばしして、ワンさんは正気を取り戻す。そして、状況を把握し、あらわなミミ子の姿を目にすると、あろうことか、女のように「キャー」っと叫んで頭から毛布にくるまったのだ。
取り残された哀れなミミ子は、仕方なく服を身につける。そしてやるせない気持ちを紛らわすかのように煙草に火を付ける。
凍り付いた沈黙が二人の間を支配する。
黙ったままミミ子は考えていた。
毛布にくるまったワンさんも考えていた。
どちらも後には引けない状況だった。
そしてワンさんは立ち上がり、ズボンを履くと、ひと言残して去って行った。
「ワタシ、国ニカエリマス。」
話を聞かされたたまこは、JINちゃんと共に、悄然とするミミ子を抱きしめて背中をさすった。やるだけやったね、と口にはしないまでも讃える気持ちだった。
ミミ子が耳にした女性の名前というのは、おそらく国に残してきた恋人の名前なんだろうと、確認し合わないまでも誰もが思った。そしてそこにいた誰も、なんとミミ子までもが、ワンさんの国を知らないことに気付いた。
それが、この国の、しかもここからほど近い街に、ワンさんは居た。さらに、そこでたまこと出くわしたワンさんは、普通の日本語を操る、れっきとした日本人だったのだ。
どういうことか、その場で問い質したい気持ちに襲われたたまこは、一緒に居る子供と、訳が分からぬまま笑顔を浮かべる車椅子のおばさんに目をやった。それらを引き連れワンさんは、もはや逃げる気はないといった表情でたまこを見た。少々疲れたその顔は悪気あって人を騙す顔には見えなかった。
駅前の喫茶店で子供とおばさんを待たせ、たまことワンさんは落ち行く夕陽を眺めながらそのまま外で話をした。
ワンさんは、この国生まれこの国育ちのれっきとした日本人だった。それどころか、働き出すまではこの街すら出たことがない生粋の地元民。
この街の古びた温泉街に住み、両親の営む喫茶店でコーヒーの味を覚えた若き日のワンさんは、旨いコーヒーを求めてコーヒー豆のメーカーに就職する。熱意を買われたワンさんは若いながらに出世して、技術指導のために訪れた直営農場のあるアジアの島で、現地の女性と恋に落ちる。
真っ直ぐな気質のワンさんはその女性を日本に連れて帰り結婚して、両親の営む喫茶店の手伝いをしてもらうことにする。間もなく子供も授かり、ますます精力的に仕事に励むようになり、店も繁盛するようになって、ワンさんは支店を出して妻と二人で経営することを考えだした。
そんな中、突然、エキゾチックなその女性は、ワンさんの父親をたぶらかして僅かな店の貯えを手にし、子供を残して姿を消した。
それからワンさんは女性というものが恐ろしくなった。よく煎られたコーヒー豆を見ると日に焼けた彼女の肌を思い出すために、大好きだったコーヒーのにおいを嗅ぐことさえも嫌になった。もはや仕事は続けられなかった。
ワンさんに受け継いだ愚直さを持つ父親は、母親に許されて店を続けていたが、ワンさんは二人を愛しているだけにどうにも近寄り難くなってしまった。またショックのあまり、人と会話することが億劫になってしまった。
そしてワンさんは残された子供を両親に預けて一人旅に出た。生来の真っ直ぐさと根気強さに導かれて、ワンさんは旅の途中で整体の師と出会い、その者から、言葉を交わすことなく、人の身体に触れるという基本的ないろは、マッサージの心得を学んだ。それは自分の気質にあっているものだと直ぐにわかった。
それから故郷に帰ると、温泉街でその腕を発揮した。マッサージに言葉はいらない。ワンさんはすでに口数の少ない人間になっていた。それでも深く傷ついた経験は、ワンさんの瞳に人種を超えた温かさを宿すようになり、むしろ指名客は絶えなかった。
その道の者にとって、世界の各国に伝わる民間療法はまさに興味深いものばかりであるから、ワンさんは仕事と旅とを繰り返すようになり、ますます国籍不明な顔つきになっていった。
記憶に焼き付いた女性への不信感は癒えることがなく、何年もの間ワンさんはそれを職業とする女性とも交わることはなかった。そのことはワンさんにある種の神秘さを添えた。そして、ある日ミミ子と出会うのだった。
身元を明かさなかったのも、片言の日本語で喋ったのも、その方が楽だったからだと、ワンさんは正直に言った。話を聞いたたまこはそのことを責める気になどならなかった。ただワンさんと同じように力なく笑うしかなかった。
ミミ子の元を去ったのは、その直前に父親が急死し、母親も足が不自由になり、もう子供を任せきりにするわけにはいかなくなったからだと言った。そしてワンさんは、寂しげに微笑みながら、
「ミミ子サンは元気か?」
と聞いた。
たまこはその一部始終をミミ子に伝えた。すでに元気を取り戻していたミミ子は、持ち前のバイタリティーを発揮して、即座に決断した。
「わたし、行くわ。」
どこへ、かは聞かなくてもわかった。ただし今夜はもう遅いから、荷物をまとめて明日の朝一にしようと、たまこがなだめた。ミミ子はもう今すぐにでも飛び出しそうな勢いで目を爛々と輝かせていた。ワンさんにはこの位パワフルな女性が似合う。たまこは思った。
其奴は、すべての話を聞いて、そこにいた。疲れ切った捨て猫のような目でたまこを見つめていた。たまこの胸にまた哀れみが沸いてきた。たまこは其奴の頭や体をごしごしとなでて言った。
「赤い部屋が開いてるから、あんたはそこを使って。」
そして、長い一日の幕が降りた。