宮崎駿、モネに学ぶ、クリエイターが世に出る方法
一度映画化を断られた「風の谷のナウシカ」
「風の谷のナウシカ」は、宮崎駿の初期の代表作です。
しかし、その前の「ルパン三世 カリオストロの城」が興行的に大コケしてしまい、当時は宮崎駿に映画撮らせるのが難しい状況でした。
ナウシカの企画出しても、「原作があって、それが売れてるならともかく」と、門前払いをされたといいます。
そこで、当時アニメージュの編集部員であり、後のジブリのプロデューサーとなる鈴木敏夫氏が、頭を使います。映画化のために、アニメージュで「風の谷のナウシカ」の連載を宮崎駿にさせちゃったんですよね。
原作があって売れてるという実績作るために、わずか118ページっていう薄さで第一巻を出してしまいます。
しかし、漫画でヒットを飛ばしてから映画化する計画だったのに、実際は5万部しか売れなかったそうです。
その後、博報堂と映画化の話しがトントン拍子に進んだものの、あるときの会議で発行部数を聞かれてしまいます。
そのとき、鈴木プロデューサーは「5……、10万部」と嘘をついてしまったのだとか。
映画って予算がかかるので、実績のない人や失敗した人に任せるのはリスクが大きすぎるんですよね。だから保険をかけたくて、原作モノが求められがちになります。
ですから、クリエイターが世に出るには、目に見える実績が必要になります。宮崎駿氏の場合は、その実績を作るためにまずは漫画を描いたわけです。
(ナウシカの場合は鈴木プロデューサーの嘘が実績になっちゃったわけですが。)
モネら「印象派」は美術界から締め出されていた?
クロード・モネは印象派の巨匠として有名ですが、彼も世に出るのに苦労ししました。
モネは、当時のアカデミズム美術に反発して、光と色彩にこだわった「印象」を捉える絵を仲間たちと描き始めます。
しかし、美術界からは異端扱いされてしまい、最終的にはモネの作品は出品拒否されるようになってしまうのです。
そこでモネは、面白いことを思いつきます。仲間たちと「無名美術協会」という団体を作り、「第1回印象派展」という大規模な展示会を開催するのです。
この展示会、美術批評家にボロクソに批評されてしまうのですが、皮肉なことに、その酷評のおかげで「印象派」という名前が広まったのです。
現代に例えると、寄稿を断られたライターが自分で雑誌を作ってしまったり、漫画賞に落とされた漫画家が自分で漫画雑誌を立ち上げちゃうみたいな感じです。
結局、新しすぎて既存のカルチャーから受け入れられないクリエイターは、展覧会なりメディアを立ち上げるなり、仲間と一緒に新しい場所を作ってしまうのが一番効果的なのかもしれません。