【読書】近藤康太郎(著)『百冊で耕す』を読みながら、文学について考える。
近藤康太郎(著)『百冊で耕す』を読んでいて、ふと疑問に感じたことがあります。文学には、純文学と呼ばれているものと、大衆文学と呼ばれているものがありますが、この境界線はどこなのだろうか、ということです。
国語辞典で、純文学の「純」という一文字で調べてみると
と書かれています。
純文学は、不潔なところや悪意のない、交換がもてる文学ということになるのでしょうか。
「純文学」を国語辞典で調べてみると、
と書かれており、なんとなくニュアンスが変わってきます。
では、この中の「通俗」とか「大衆」って、どういう意味なのでしょうか。
どちらもまた、国語辞典で調べてみました。
こうやってみると、大衆文学とは、娯楽というか、エンタメといったものということでしょうか。
あまり引用が多いと、コンプライアンス上問題があるので、この辺でやめておきます。
芥川賞は純文学から選ばれて、直木賞は大衆文学から選ばれると言われています。
両方の直近の受賞作品を見てみます。
芥川賞
・九段理江(著)『東京都同情塔』
・市川沙央(著)『ハンチバック』
・井戸川射子(著)『この世の喜びよ』
直木賞
・河﨑秋子(著)『ともぐい』
・垣根涼介(著)『極楽征夷大将軍』
・永井紗耶子(著)『木挽町のあだ討ち』
『極楽征夷大将軍』以外読んだことがないので何とも言えませんが、なんとなく直木賞受賞作品の方が読みやすそうな雰囲気です。
純文学と大衆文学の違いって、昔でいうと、演歌と歌謡曲の違いのようなものでしょうか。
そして、純文学にはオチがないと聞いたことがあります。そう考えると、純文学は売れることを期待せず、純粋に芸術的な意図の下に作られるというのがわかるような気がします。
芥川賞受賞作品を読むときは、オチを期待してはいけないということになります。
最後まで読み切って、「あれ、オチないやん?」というツッコミを入れるのはやめておいた方がいいでしょう。
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