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論語と算盤(5)何度も繰り返し問いかけていること

以前にもご紹介しましたが、この本の不思議なところは、1916(大正五)年に出版されたにもかかわらず、読んでいて古さを感じさせないことです。

ただし、物価が「茶碗が一個10銭、たばこ盆が1円」というところや、近い将来に次の戦争が来ることを想定しているところは、当時を偲ばせてはいますね。

個人的には、現代の経営管理の源流である、フレディリック・テイラーの科学的管理法が「最近発表された」という一文に、「おおー」と思わされました。

同じく、当時も「最近の若者は。。。」というフレーズがあります。これも時代に関係なく言われ続けているんですね。

さて、今回の本題です。

この本は全部で10章から構成されているのですが、いたるところに朱子学に対する注意喚起がなされています。渋沢栄一曰く、論語を曲解しているということです。

「朱子学は、「仁義、王道」と「貨殖、富貴」の両者は相いれないこととなっている。」

また、同様に「孔子の言葉を正しく解釈するとそうはならない」と何度も主張しています。論語は反語表現が多く、その文章の裏側の意味を正しく理解しなければならないと言っているのです。

例えば。。。( )は渋沢栄一が補った訳

(正当な道を歩んで得られる金なら)惨めな下働きでもお金を儲けなさい。(しかし、道理を外れたやり方で金を得るくらいなら)むしろ貧乏のままでいなさい。

孔子が言う「富」とは、「絶対的に正当な富のことを指す」と説いています。

今の世でも通用する、事業家の考え方の本質ですね。

本によると、孔子は初めは「経世家」だったそうです。経世家とは政治経済を発展させ、人々の暮らしを良くすることを考える思想家のことであり、それで名声を得ていったそうです。(私は勉強不足で知りませんでした。)

そのうち、弟子の多くがいろんな問題について、意見を求められ、それについて回答していった内容を弟子がまとめたものが、「師曰く」で始まる論語になったそうです。

現在で言えば、孔子は「以前はバリバリに実務をやった後、今は大学教授をしている人」とのようなイメージでしょうか?







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