海外医薬翻訳の潮流(欧州EMWAの季刊誌より)
前回の記事では、欧州メディカルライター協会(EMWA)の季刊誌から、メディカルライター達のAIに対する考え方をまとめました。今回も、この季刊誌からの記事をまとめたいと思います。EMWAは年4回発行する季刊誌「Medical Writing」で、メディカルライティングに関連する様々なトピックを特集しています。
今回は、2024年3月発行の「翻訳」特集号です。この雑誌Medical Writingは誰でも無料でダウンロードできるので、興味がある方はDeepLやChatGPTで翻訳して是非読んでみてください。
※尚、ChatGPTで翻訳をする場合は、以下にプロントの書き方をまとめた記事を掲載しておりますので、ぜひご参照ください。
さて、本題に戻ります。この今年3月に発行されたEMWAの季刊誌Medical WritingではTranslation(翻訳)が特集されています。メディカルライティングの雑誌ですので、ほぼ全て医薬翻訳や医療機器に関する記事が掲載されています。この特集号では、医薬翻訳の役割を「言語の壁を越え、世界中の人々の医療へのアクセスを向上させるもの」として説明しています。
様々なトピックに関しての記事が掲載されていましたが、その中でも目を引いたテーマとして今回は、
翻訳によるHealth Equity(健康の公平性)の実現
患者とのコミュニケーションにおけるPlain Language(プレイン・ランゲージ)の普及
AI翻訳の良い点と悪い点
これら3つのトピックについて紹介したいと思います。
1. 翻訳によるHealth Equity(健康の公平性)の実現
最初は、翻訳によるHealth Equity(健康の公平性)の実現についてです。このテーマは「Advancing health equity through language access – a global imperative」という記事で説明されています。言語的に少数派である人々(linguistic minorities)は言語による障壁によってそうでない人よりも健康や病気の治療に関して不利な結果がもたらされる可能性が高いことから、小数言語話者の言葉への翻訳が重要であることが述べられています。
この記事では基本的に、病院や医療機関での言葉の障壁(language barriers)を取り除くための各種取り組みを紹介しています。例えば、資格を有する通訳を施設が置くことや、同意書、診療記録など専門文書の翻訳、音声や動画を用いたコミュニケーションなどを用いて、言語的にマイノリティである患者が不利にならないよう配慮することの重要性が強調されています。
医薬翻訳者は毎日医学・薬学文書の翻訳をしています。私はこれまであまり意識していなかったのですが、医薬翻訳の目的は、このHealth Equity(健康の公平性)の実現であるとこの記事を読んで思いました。翻訳者は仕事上医療機関に行くことはあまりありませんが、翻訳会社や製薬会社、医療機関に翻訳を納品することで、患者さんの医療の向上に役立っているのだと思います。世界中のすべての人々が等しく最善の医療にアクセスできるよう、文書の側面から支援するのが医薬翻訳者であり、私も英語・日本語間の翻訳をしておりますので、それに貢献したいと思います。
2. 患者とのコミュニケーションにおけるPlain Language(プレイン・ランゲージ)の普及
次のトピックは、患者とのコミュニケーションにおけるPlain Languageの普及です。技術文書など、専門家にしかわからない用語や表現を避け、誰でも分かりやすい表現で作成することやその文書をプレイン・ランゲージ(Plain Language)といいます。
プレイン・ランゲージに関する記事として、「How can we maximise patient
engagement with Plain Language Summary of Publication articles (PLSPs)? A publisher’s perspective」が掲載されています。最近の傾向として、医学論文や、医療関係の文書は患者でも理解できる平易な表現でまとめる「Plain Language Summary」が作成されることが多くなっています。特に医学論文などは表現や用語が非常に難しく、これまでは専門知識を持つ医療従事者以外の患者などが読んでも正しく理解することは難しいものでした。一方で、昨今の医療の考え方として、「患者中心の医療」が訴えられるようになっています。
医療文書をプレイン・ランゲージで記載することはこの患者中心の医療を実現するうえでも役立ちます。そのため今後は、翻訳でもプレイン・ランゲージを使用することが求められること機会が増加することが予測されます。
3. AI翻訳の良い点と悪い点
最後のテーマはAI翻訳の良い点と悪い点についてです。このテーマは、「The use of machine translation and AI in medical translation: Pros and cons」という記事にまとめられています。医薬翻訳では、すでにかなりの量の仕事がMachine Translation(MT:機械翻訳)+ポストエディットによって行われています。この記事では、ベテラン翻訳者である著者の目から見たAI翻訳の長所と短所がまとめられています。まず、良い点では以下のことが挙げられます。
MT・AI翻訳の利点
翻訳の効率性の上昇
訳文の標準化・一貫性
多言語展開
1.の翻訳の効率性の上昇については、この著者の経験として、過去に翻訳ツールなどを全く使用しない時代は3日間必要であった6,000ワードの治験同意書の翻訳が、現在CATツールで用語集・翻訳メモリ・MTの3つを使用することで、4時間で翻訳することができるようになったことが述べられています。これは1時間1,500ワードで翻訳できていることになり、非常にハイスピードで翻訳できていることが分かります。
(個人的な経験としては、1,500 word/時間という速さは、文書がMTの出力にあっていて適切な翻訳メモリも使用するなど、様々な好条件が全て満たされた時の速さだと思います。平均すればもう少し遅くなるのではないかと思います。)
2.の訳文の標準化・一貫性については、特に用語集の使用について、CAT(Computer Aided Translation)ツールが不可欠になっていることが述べられています。2020年のコロナウイルスのパンデミック時にも、用語としてCOVID、Covid、COVID-19などが使用されており、これらの表現の統一にCATツールは有用であったそうです。私も特に疾患名や検査に関連する専門用語については、CATツールを使用することで一貫性や効率性が向上し誤記を防ぐことができると感じています。
3.多言語展開について、近年、特に2020年のパンデミック以降、大量の情報が生み出され瞬時に世界中に伝わるようになっており、多言語同時翻訳が医学を含め様々な分野で必要になっています。これを達成する上で、AI・MT翻訳は必要不可欠になっていることを著者は述べています。最新の科学的知見が瞬時に世界に広がることは科学者たちだけでなく患者にとってもメリットがあるものであると、著者は説明しています。
次にMT・AI翻訳によってもたらされる悪い点は以下のように述べられています
MT・AI翻訳の欠点
MT・AI翻訳に対する過剰な信頼
コスト低減圧力
文脈理解の欠如
機密保持への懸念
1.のMT・AI翻訳に対する過剰な信頼については、MTによる出力は精度が上がってきているとはいえ、それでもまだ批判的にチェックする必要があることが述べられています。たしかに、MTの出力は一見よくできているように見えても信用してはならず、注意深くチェックする必要があります。
2.のコスト低減圧力ではMT・AI翻訳によって機械翻訳ポストエディット(MTPE)の仕事が増え、これらは非常に低価格になっていることが挙げられています。多くの翻訳会社は、文書の種類や原文のタイプを考慮せず機械翻訳の仕事にしてしまうことが多く、これに対してMTPEを嫌がる熟練翻訳者は、高品質を売りにしてソースクライアントと直接契約を結ぼうとしていることが記載されています。この、翻訳会社経由の仕事⇒MTPE、直接取引⇒人手翻訳という流れは日本でも大きくなる可能性があると思います。幸いインターネットやSNSの発達で、翻訳者が直接取引を模索することは以前より容易になっています。
3.文脈理解の欠如では、MT・AI翻訳は精度が上昇する一方、それでもなお複雑な概念や用語が含まれる医学文書では正しく意味が取れていないことが述べられています。特に、原文が臨床記録などの医師の手書き文書の場合、文字が判別できなかったり、頻発する省略で訳文が意味をなさないことが記載されています。
(ちなみに、医師の読みにくい手書き文書を判別するAIはGoogleが開発中とこの記事で記載されています。日本でも、日本語の医師の手書きカルテなどを読み取る文字認識AIを開発している会社があるかもしれません。)
4.機密保持への懸念では、DeepL、Google翻訳やChatGPTの無料版ではデータがAIモデルのトレーニングに使用されるため、使用する場合は有料版を使用することが言及されています。
以上のように、既に普及しているAI翻訳は長所と短所がある一方、この記事の著者としてはMT・AI翻訳が進化しても所詮はツールであり、訳文に対し責任を持つのは人間の翻訳者であることを述べています。
個人的には、ChatGPTをはじめとする生成AIは医薬翻訳における専門用語や表現の調査について、Google検索と同様一定の有用性があると感じています。また、英語表現のニュアンスの違いを説明してくれることは、これまでにない機能を翻訳者に与えており、翻訳品質の向上につながるものであると感じます。但し、生成AIの出力は再度チェックが必要なので、翻訳の効率性アップには必ずしもつながっていないと思います。
今回は、EMWA季刊誌の翻訳特集号より、海外での医薬翻訳の潮流についてまとめました。この中では、特にプレイン・ランゲージの文書は今後も増加しそうであることを翻訳者として覚えておきたいと思います。