
【DDtheS】File.4 春と白/DANCER AND RETURNER
※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
LA支部の遺体保管庫は地下にある。ルーム9と呼ばれる拷問部屋の隣にある。
そのがらんと広い検視官室の壁に埋め込むように設えられた、黒銀色に光る抽斗型の扉の数々は、一見して蒐集家のキャビネットのようにもみえるが、そのじつ死体保管用の冷蔵庫だ。真鍮製の古めかしい飾り彫りのある把手のひとつに手をかけて、私はゆっくりと扉を開ける。すると中から不気味なほど滑らかに引き出されてきたのは、男の死体。そのほぼ真顔のデスマスクを一瞥する直前に、私情は捨てている。
私はジャケットのポケットに入れていた青いゴム手袋をすると、その眉間で存在を主張する黒い穴の具合を確認した。恐らく45口径。ハティは普段38口径の拳銃と45口径の両方を携帯している。そのふたつのうち、より殺傷能力の高いほうの銃を使ったのだ。つまり、最初から殺す気でこの男を撃った。……まあ眉間を撃ち抜いているのでその意識は当然かもしれないが、彼は万が一でも対象が生還することを許さなかったということになる。一撃で仕留めるという意志で以て、『ハティ』はそれを成した。
つまり、彼はダリュが被った禍事を知ったのだ。
あの男は涼しい顔をしてなかなかの激情を秘めているようだ。しかしながら、彼は悠然とそれを遂行したに違いないという確信がある。……そうして密かに笑みを噛み殺していると、
「なにか発見はあったかい?」と、間近から声をかけられた。
その誘うような声質につられるようにして俯かせていた顔を上げると、死体を挟んだ向こう側には、この検視官室の主である『リオタール』の姿があった。まったく、彼女が会議で離席している隙に検視を済ませてしまいたかったのだが、どうやら今日はツイていないらしい。私は肩を竦めて返事の代替とすると、そのまま死体を検めた。悪魔の言葉に耳を傾けてはならないというのは、どの御伽噺にも共通した約束事である。私はLearning from the pastを大切にするクチだ。
「おや。偉大なる科学者先生は素面では無口なようだ」
彼女はその潤むようなブロンドを一房指に絡めて、しばらく好奇と退屈が同居したマジックアワーの眼差しでこちらを見ていたようだったが、少しして腕やら首やらが収納してある冷凍庫から酒瓶をひとつ掴んで取り出すと、薬品棚に入れてあったショットグラスに中身を注いで私の前に置いた。そのまま顎で「飲め」と促され、私は軽く両手を挙げ降参の意を示したあとに、手袋のままそれを掴んで喉に流し込んだ。氷と紛うほど冷え切った度数の高いジンが、とろりと喉を通過し、腹に落ちるころにはその冷感は熱に変わっている。私がショットを置くのと同時に彼女も同じものを飲み干したらしく、ふたつの高い音が死体の両側で響いた。
「酔えないならもう一杯どうだい、エグジリ先生?」
「……結構だ。ご馳走してくれてありがとう」
悪魔に対しては紳士でいるべきである。私は礼を言うと、大きな溜め息とともに熱感を吐き出し、手袋に指を深く詰め直した。そして今度は真摯に、
「この男と関係のある男をあと四人、捜している」
とこちらの目的を開示した。これで無許可での検視を許してくれるとよいのだが。
「ふうん。仕事かい」
「いや……個人的な怨恨で、だ」
「怨恨! キミが、怨恨!」
嘘を吐かないよう慎重に並べた言葉を、彼女は可笑しがって手を叩いて笑う。しかしこれで彼女もいくらか情報を開示してくれるはずだ。死体の顔を一瞥してから、「助けてくれ、リオタール先生」と乞うと、彼女は「そうだな……」と漏らして顎を揉んだ。
「四人……いや、五人には、にはどんな共通点が?」
「同郷、といったところか。兄弟と言っても差し支えないかもしれない」
「ん。それはキミの娘と若狼と金魚の関係性のような?」
「娘じゃない。使い魔だ」
「答えろ、エグジリ」
「……その解釈で結構だ」
「顔は?」
「割れている。しかし整形されたり隠匿されたりしたらわからない可能性がある。……確実に始末したい」
「そうか。……耳の裏を見ろ。左だ」
問答のあと、唐突にそうするよう指示されたので、私は死体の左側……リオタールのいるほうへと移動する。そうして男の耳を捲るようにしてその裏側を確認すると、そこには白いバーコートのような刺青があった。肌に馴染んだ色味であったので、指摘されなければ気づかなかったことだろう。
「商品管理バーコードだ」そう言って彼女はスマホでバーコードリーダーアプリを立ち上げ、そこに翳した。「見つけたとき、面白半分で読み込んでみたんだ」
「……舌打ちすると思うが、いいか?」
手袋を外しつつ、自らの鼓動をどうどうと宥めすかす私は、予感している。どうせ、あの女のことだ、想像を超えた悪いことをしている。
「どうぞ。地団駄を踏んでもいいぞ。ここは地下だ」
彼女の手からスマホを受け取る。するとそこには、彼の製造番号と公称性能が並んでいた。私は白目を剥きそうになったのを瞼を閉じて隠蔽し、宣言通り舌打ちをする。そして「ありがとう」と一応は穏便な態度を取って、彼女にスマホを返した。
「参考になったかな?」
二杯目のジンを傾けながら、彼女は言う。
「ああ。大いに、助かった」
「……プログラムを組むのを手伝おうか?」
「まるで私がなにをしようとしているのかわかっているような口ぶりだな」
「それはもう。キミは常に慎重で理性的な男だ」
「ばかな。私はゆるふわ天才科学者だぞ。行動が読めないことで知られている」
「ばかな男だな。理性的であることとそのゆるふわなんたらは共立するだろう。キミのような狂えない奴の考えていることを察するなんて、幼稚園児でも可能だ」
そんな事細かな分析とともに胸を指をさされ、私は観念して再び両手を挙げる。さすがに私も人を頼れないほど腐ってはいないので、素直に「協力を頼みたい」と言ってふたたび両手を挙げた。すると彼女は「人にものを頼むときのサインではないだろう、それは」と言って、手を差し出してきた。私はこれまた素直に、「悪魔と握手はしたくないんだが」と心情を吐露しながらも、その手を握る。悪魔の手は細長く華奢で、冷たかった。
「ようし、とりあえず前金として今夜付き合ってくれ。サルクスも呼べよ」
ぱっと私の手を離した彼女は、死体が乗った安置台を膝で蹴るようにして保管庫に戻してそう言うと、「ということで、帰れ。地下は女の花園だぞ」と、私の背を叩く。その凄味のある力具合に、彼女が無許可でここに足を踏み入れたことに未だ怒っているのだと察する。地下は女の花園という言葉を反芻しながら、隣の拷問部屋に視線を向ける。検視官室も、あそこも、主は女だ。とはいっても、冥府にも花……と称してもいいかどうかは私にはわからないが。
いくら悪魔でもレディを待たせるわけにはいかない。終業後、すみやかに移動した更衣室でスーツに着替え、髪を纏めていると、「デートっすか?」と背後から声をかけられた。それに対し、つい地下室のノリで「デートだな」と素直に答えてしまうと、「マジ? 誰?」と驚いた声。私はしくじった自分を恨みながら振り返り、トレーニングウェアを脱ぎ捨て汗を拭いていたハティに、「秘密にしておいてくれ」と、一発で念を押していることを悟らせるようなトーンで言い含める。すると彼は「んあ?」と呆けた声を上げたのち、すぐに『誰に対して』なのかを察したのか、「あっ、ああ……うん……」と濁った返事をした。
「てか、別に怒らねえだろダリュちゃんは……」
ここで私が敢えて口に出していなかった名前を出すとは、なんとも風情のない男だ。しかしまだまだ若いのだから仕方があるまい。ベンチに座っている彼の隣にどっかりと腰を下ろし、その裸の肩を組むと、彼は「なんすか」と連呼した。そして「いい匂いっすね先生……俺汗くさいんで触らないほうがいいっすよ……」とへりくだる彼の生傷の絶えない素肌を、「私の威光に眩む必要はない」と何度か叩いて、それでも離してやらずにぐっと抱き込み、私は囁く。
「教えてやろう、ハティ。ダリュは怒らないが、私が同年代以上の女と会うときは若干不機嫌になる。そしてもうひとつ教えてやろう、若人。浮気は隠そうとする態度が大事なのだよ。覚えておくといい」
私からの有り難いアドバイスに、「わかんねえー……」と漏らす彼の背を、最後にもう一度大きく叩いて立ち上がると、「ということで、くれぐれも」と言い残して私は更衣室を出た。
それから指定されたバーにやってきて、先着したことを確認すると、ボックス席に座ってサゼラックを注文した。それを飲みながら待つこと十五分。まずはアンダーソンがやってきた。いつも着ているアロハシャツにジャケットを羽織ったカジュアルなスタイルだが、前髪は下ろしている。仕事仲間と外で飲むときは、オフであるというアピールが大切だというのが、私たちに共通する認識だ。
「いつも早いですね、先生」
「レディは待つものだからな」
私の言葉に、やる気がなさそうに「さすがですね」と相槌を打ったアンダーソンは、抱えていたトレンチを預かりに寄ってきた店員にオールド・ファッションドを注文する。彼は昔からこれが好きだ。私のサゼラックと同じで、ずっと変わらない。それから彼が私の隣に腰を下ろすのを歓迎し、軽い乾杯のあとじっくり娘の話を聞く。見るたびに更新されてゆくスマホのホーム画像をテーマに語られるそのエピソード群が、私は一等好きだ。彼の娘はそばかすの似合うヘルシーな娘で(父親似だ)、大変に可憐である。しかしそんな傍目にも可愛らしい娘が、最近彼氏を家に連れてきたのだという。『フクザツ』という言葉をそのまま貼りつけたような表情で「まああの子がいいならいいんですが」とかいう、嘘でもほんとうでもない表向きのコメントを聞きながら、五分、十分。「まだ落ち込むなよ。夜は始まってもいないんだ」と彼を励ましていると、エヴァンスの流れる店内に高いヒールの音が響いた。顔を上げると、リオタールが歩いてくるのが見えたので立ち上がって手を挙げ、エスコートしに向かう。
「早いな、諸君」
「なに、今さっき来たところだ。今夜も美しいな、キミは」
私は美については素直に称賛することにしている。私とアンダーソン同様にドレスアップしてきた彼女は、ワンショルダーのドレスの上からショールを羽織り、アンクルストラップに石のついたヒールを履いていた。刺すようにきらめくそれは、正真正銘のダイヤだろう。
「おや、足首に宝石をつけているなんて、天使と人魚のどちらかな」
「口が回るな。一杯飲んだかい」
「男ふたりでな。キミはなにを?」
「プレヴュー。あとオリーブも」
「喜んで」
注文を聞いていたであろうバーテンダーに指を三本立てて合図を送ると、私は彼女が座るのを待ってから、再びアンダーソンの隣に腰を下ろした。そのときさりげなくスマホを確認すると、ダリュから「朝帰りです」とメッセージが届いていたので、「夜道は気をつけなさい」と返信する。彼女は新居に越してから自室に籠っていることが増えたので、外泊でもなんでも外で楽しくやってくれるのならそれでいい。
「サルクス、娘はどうだ」
サルクスはアンダーソンの本名だ。オフのとき、私たちは彼を本名で呼ぶことが多い。彼は髭を蓄えわざと老けて見えるようにしているが、この中だと一番若い個体である。
「それがこのあいだ彼氏を連れてきましてね……」
「はは。出土した埋葬品のような顔色だな。あまり心配はするな。あの子は賢いから」
リオタールからのざっくりとしたアドバイスに、アンダーソンはいくらか血色を取り戻すと「そうですよね、へへ、そうですよね……」と頭を掻く。リオタールの意見は、女性という立場を(これは、母にも娘にも共通する)、極めて聡明である人間性で補強した信頼感のあるものだ。私の『娘のいる親』という共通点だけでは到底太刀打ちできなくて(私の人間性のよろしくなさについては、じつのところは自覚している)、悔しくて、私はちょっとへそを曲げる。サルクスは私のだぞ……と声にしそうになるのを喉奥に押しとどめて、ぐいとサゼラックを飲み干した。
やがて運ばれてきた白いカクテルで、今夜の乾杯をした。プレヴューのベースはジンだ。ほんの少しだけ入っているアブサンの主張を鼻腔で受け止め、舌を軽く湿らせる。
「今日はなんの会で?」
アンダーソンがそう切り出してきたので、一瞬リオタールとアイコンタクトを交わす。彼女は嘘を吐かない主義なのだから、采配は任せることにした。
「なあに、ちょっとそこの雪豹に仕事を頼まれてね。その前金代わりだ」
なるほど、そういうトーンでいくのか。詳細は話さないが大枠はそのままである。
「それ、俺がいる意味あります……?」予想通り、彼は深入りをしない。優しい男だ。
「あるさ。キミは可愛い後輩だからな。せっかくたっぷり酒を飲むのに、かわいこちゃんがいないだなんてつまらないだろう」
リオタールはグラスを持った手の中指で、気まずそうなアンダーソンを指すと、「俺がその枠に収まることってあります……?」と怯えた様子の彼に、「じゃんじゃん飲め。奴の重い財布を軽くしてやれ」と発破をかける。こちらからも「どうぞいくらでも」と言って肩を竦めてみせると、私は懐からタバコを取り出した。するとアンダーソンが火を点けようと身を寄せてきたので、その肩を押し退け、手で払う仕草をする。
「もうそういう立場じゃないだろう、サルクス」
そう言ってやると、彼は自分のタバコを取り出して、その宙ぶらりんな火を回収した。直後にぶわりと膨らんだふたりぶんの煙に、リオタールは「おおいやだ」と首を軽く左右に振ったが、すぐに無関心になって二杯目を注文する。この調子なら彼女は少なく見積もっても二〇杯は飲むだろう。全員で七〇〇ドルに収まれば予想内ではあるが、それでは前金として心許ない。これは残業かな、と思いながらオリーブを齧る。
*
定時五分前から五分間サボるための喫煙タイムを済ませてオフィスに戻ると、先生の姿はもうそこにはなかった。
「この速さはデートだな……」
つい声に出してしまうが、聞く人は誰もいない。ハーフムーンは非番だし、ハティはジムだ。勤怠を打って帰り支度を整えながら、わたしは真新しい冷蔵庫の中身に思い馳せる。たしか、卵、オリーブ、レーズンバター、ミルク、なんかちょっとだけのトマト。これではなにもないに等しい。であれば買い物をして帰るか、どこかで食べて帰るかの二択だ。そのままオフィスを出て、耳にイヤホンを挿しながら歩きスマホで情報を整理する。ラーメンは定休日。ジャンクフードってお腹じゃないし、最近ずっと中華だったし、ピザはなんかヤダ。冷蔵庫の中のミルクの残量が少なければスーパーに寄ってもよかったが、生憎とけさ開けたばかりだ。そういえばサウス・オリーブ・ストリートにベーグルサンドの店ができたんだっけ。でも歩くのだるいな。……外に出てしばらく経つのに、中々メニューが決まらない。そこで、そもそもわたしってお腹空いてましたか? と我が胃袋に向かって原点回帰の問いかけをする。すると、「微妙です」と返事があったような気がして、「そっか、微妙だよね。わかる」と相槌を打った。こうなったら家に帰ったあとにお腹が空いたらデリバリーを頼むのが安牌な気がして、素直に新居の方向へと足を向ける。そして横断歩道の信号が青になるのを待っていると、急にイヤホンが引っこ抜かれた。わたしは一瞬、「きゃあ」と叫ぼうかとも思ったが、自分でも驚くほど滑らかに「ああ?」と低い声が出て、その直後「ヤバ。チンピラじゃん」という自嘲がまろび出た。しかしその盗人はわたしの発言を自身に対してのものとして受け取ったらしく、「チンピラじゃねーよ」という指摘が入る。いや、チンピラで、かつ盗人である。その馴染みのある声に顔を上げると、そこにはやはりハティがいた。わたしと同じようなフライトジャケットを羽織った彼は、珍しく徒歩のようだ。
「あれ、ハティじゃん。おつ。てかイヤホン返せし」
「お疲れ。さっきから声かけてるのに気づかないからさ」
「いや、だからといってイヤホン抜くなし。痴漢だよそれは」
「えっ。そ、れは、ごめん」
「アンタだから許すけど、他の子にやっちゃダメだよ。きゃあって叫ばれるよ」
「ああ? じゃなくて?」
「そう。ああ? じゃなくて。わたしのああ? はやさしみあるああ? だからきゃあよりだいぶ手心がある」いや、なかった。なくはあったが、きゃあよりは相手を社会的に殺さない。……たぶん。
わたしのコメントに、ハティは「ざっす」とかいうナメた態度で感謝を口にしたくせ、すぐに「あのー」と腰低くわたしの表情を窺ってくる。わたしはなあに、と返事をして、奪われたイヤホンをひったくった。
「一緒に帰りません……?」
「え、高校生? てかどこまで?」
「……俺の家」
「あ、やっぱ大学生だわ。インカレのテニサーだわ」
「イン……?」
「いや、童貞だったね。ごめん」
「ちょっとひとりで完結しないでもらっていいか?」
戸惑った様子のハティに、わたしは「ごめん」と軽く謝り、「ご飯なに食べたいかわからないときってない?」と雑談を振る。すると彼は、「あー、ある。コンビニ行っても棚の前で長居したり」と言いながら、わたしの手を取り歩き出した。こういうさりげない無神経さを身につけたよなコイツ……と思いながらも、手は振りほどかずに歩幅を合わせる。まだわたしが合わせている。周囲に同僚がいないか確認するのも、まだわたしの役目だ。
「……先生は?」
「さぁ。デートじゃない?」
「えっ。デッ、デート、ですか……」
「あのひと、女とデートするときはシュバッて着替えてシュバッて消えるんだよね。きょうの退勤はデートの速度だった。わたし調べで」
しかも『デートをする』という意気込みのあるときの速度だ。それは余裕をもってゆっくりと整理されたであろうピカピカなデスク上や、高価な時計に役目を奪われ置いていかれたスマートウォッチのさみしげな姿からも明らかだ。それに、デート用の香水を吹きすぎた感じの残り香もあった。わたしの勘のよさをナメてはいけない。
「そして、アンタからも先生の香水の香りがする。おい、ユダ。上納金払いな」
わたしの言葉に、ハティが大仰な予備動作とともに立ち止まる。よし、ストライクの図星だ。
「なーにが『先生は?』だよ。それを聞いてから手を繋がないと矛盾が生まれるじゃん。嘘ヘタだね」
「……すみませんでした。上納金は払いますんでこのことはどうか、ご内密に……」
「べつに言わないよ。言ったことないし」
行き交う車のライトに目を細める。街灯りの反射で煤けた青い夜空は緞帳のような重さをして、まだまだ冬を引き摺っているようだ。見上げながら柔く握る彼の手は、缶ビールくらい冷えているのに皮膚がしっとり柔らかくて、芯のほうがすこし熱い……予感、だけがある。
「わたしも、別に先生がわたしといないときにどう過ごしてるとか、聞かないし……」
彼の袖の内側に指を入れて。しなやかにでっぱった腱に触れて。そのままひそかに弄り弄りしていると、ハティは「腹減ったか?」と問うてくる。わたしはそれに「任せまーす」と答えて指を引き抜く。腹具合は相変わらず微妙に微妙。最近、あんまりお腹が空かないのは冬だからだろうか。
「なあ、使い魔ってどんな感じ?」
今度はハティの指がわたしの袖の中に入ってくる。繊細だけど、なんか四角い。そのわたしとは違うイキモノなのだなと明確にわかる部分で内側を撫でられる感触に、肌が地味にざわざわとお喋りするから、「お静かに!」と役人みたいに声を張りたくなってしまう。いまざわざわするところじゃないですよ!
「どんなってなに?」
「使い魔になる前となった後で、なにか変わったことはあるのかな、と」
「うーん。どうかな。わたしは、気がついたら使い魔になっていたから……」彼の吐く息は白いのに、わたしの息は白くない。基礎体温が違う。指のカタチも身体の大きさもなにもかも違う。もしわたしが彼と同じくらい大きくて優しかったら、使い魔ということを抜きにしてもたぶんその歳まで童貞じゃないから、やっぱり彼とわたしは違う。でも、わたしが自分のまま、もし使い魔になっていなかったらどうだろう。おそらくずっと、誰とも深い仲にはならなかったように思う。とどのつまり、わたしは彼と違うけれど、ほぼ同じ。要はふつうの他人ということだ。「よくわかんない。あなたは、使い魔になりたいの?」……うっかり「あなた」と呼んでしまったが、まあアンタとそう変わりはないので、間違いをまるっと知らんぷりをする。
「……うーん。はは、よくわかんねえな。うん、よくわかんないな……。キミとおなじだ」
おなじじゃないよ。と、言いたかったが舌を丸めて押しとどめる。彼の優しさを有難がるべきだと思ったからだ。
「いつか好きな人と一緒になれるといいね」
本懐って、なんだろう。どうやったら遂げられるんだろう。その所在も形質もわたしにはよくわかんない。わたしが超上辺だけの、しかし同時に超本音でもある言葉を口にすると、ハティは眉をぎゅっと寄せて唇をフェルマータみたいに曲げたあと、言った。
「キミはいつも優しいけど、優しいことを言うときはされたくないことや言われたくないことがあるときだよな」
思わぬ発言に、わたしは獣型形態ならイカ耳になっているときの表情になる。「えー……」と「やめろ」と「次は噛むぞ」が一体となった顔筋の動きだ。
「え、いきなり図星を刺突する?」
「刺突する。タックルでずどんと。……キミのこと、あまり知らないから。なにが嫌でなにに対して怒るのか、ちゃんと知らないと」
その眼差しはおっかなびっくりなのに勇ましい。彼がさりげなく無神経を『やって』いることくらい、わたしにもわかる。だからその気遣いに免じる。免じつづける。わたしも彼の気が済むまで『やる』のだ。
「ジャンクと中華とピザはヤダ。きょうのところは」
「酒は?」
「うーん、飲もうかな。ジントニックにオリーブオイルかけるやつ」
「なんだそれ。初耳だな」
「マティーニにもオリーブ入ってるでしょ。だからジンにはオリーブが合うの」
「ならオリーブオイルを買って帰ろう。いいやつ」
わたしの帰る場所は彼の元ではないけれど、「いいね」と笑って返す。いまの彼には帰る場所や寄る辺というのがまるっきりない状態で、そんな悲しいことがあってたまるかとわたしは意地を張る。彼がつらくてかなしいのはわたしにはどうにもできないけれど、それを和らげるために多少の義理や恥を支払うくらいで済むのなら、わたしがいくらでも払ってやるのだ。帯もつけてやる。なんならそこに薔薇も挿してやる。『やる』という奮起を並べ立て、繰り返し、いつかわたしが絶対に送り届けてやる。彼の見上げている星へと。そしたらもう、貸し借りなしだ。
先生に今夜は帰らない旨のメッセージを送ると、「夜道は気をつけなさい」という、わたしの年齢すら忘れたのかと指摘したくなるような文面が返ってきた。どうせ先生も朝帰りだろう。返信はせずにスマホを置くと、スーパーマーケットで買ったものを片づけていたハティが、「風呂入ってきたらどうだ」と勧めてきた。
「えー、すっぴん見られるのヤダ」
わたしが拒絶の姿勢を示すと、彼はキッチンカウンター越しにわたしを一瞥して言った。「もう見たし」と、なぜか得意気な顔で。
「そういう問題じゃないでしょ。毎朝律儀に可愛いペルソナ作ってんの。わかる? アンタの前でもずっと可愛いままでいてあげようとしてるの。やさしー」
「なら俺んちにメイク落とし置かないだろ」
「そりゃ寝具についたら嫌だもん。寝る前には落とすよ」
「言葉を変えるぞ。俺、キミの素顔が可愛くて好きなんだ」
「は」途端、わたしは困る。なんか、前髪を弄りたくなって弄る。「女を口説く練習ならそのチョイスは間違ってるよ」なんだか口許が全自動もにょもにょ機になってしまっているようだ。「すっぴんのほうが可愛いとか言っちゃダメだよ」
「そうは言ってない。どっちも可愛いから安心してメイク落としてこいよ」
「うわ、先にシャワー浴びてこいよのやつだ。ドスケベオオカミめ」
「やつってなんだよ。あれだよな、ダリュちゃんって可愛いって言われるともにょもにょするよな」
「もにょもにょってなに。なにそのオノマトペ。センスない」
この発言ではわたしもセンスがないことになるが、わたしにはセンスがある。なんだかついついサイドの髪を指に巻きつけてはほどいているけれども、これはもにょもにょではない。
「あと、目が合わなくなるし。案外照れ屋だよな」
「……事実陳列やめてもらっていい?」
「ごめん。こういう性格なんだ」
こういう、唐突に手を離してくれるところはちゃんと大人だ。線引きはしっかりしてるし、わたしより結構年上なだけあって、年下の横暴を甘やかしてくれる度量はある。わたしもそこにもっとちゃんと甘えたりできればいいのかもしれないが、甘ったれているポーズしかとれないものだからヤキモキする。他者から窺い知れる表層では、その実も虚もどうであれなにも変わらないと知りながら。自分への嫌気を声音に滲ませ、「じゃあ、お風呂借りるね」と切り上げると、ハティは「一緒に入るか?」とお約束の軽口を叩いた。わたしはいつもこれをキレ気味に拒絶するが、きょうは「いいよ」と返事をする。もにょもにょするこのキモチワルイキモチを彼のムッツリハートとぶつけてキレイに対消滅させるためだ。
「へ? マジで?」
と、腰を抜かしそうだった彼だが、まあきちんとバスルームにまで着いてきた。やっぱりというか、人並みに興奮はするっぽいところはちょっと可哀想だ。一丁前に恥ずかしがっているのに目がぎらついているところとか。心臓がドキドキするあまり、あばらを砕き肉を裂き、皮膚を食い破って飛び出しそうなところとか。このわたしがついムラっとしてしまうほどセクシーなのに、ちゃんと童貞っぽい躊躇いがあるところとか。裸で向き合うときに余計なことはなんにも言わないところなんかも。ムカつくほどにほんとにヤなのに、それが彼の誰にも見せられない内側の内側なのかと思うと、その髄のありさまは清々しいほど真っ当に真っ直ぐこの胸を打つ。……わたしがこう感じるようになってしまったのは、彼があの男を問答無用で殺してくれたからだ。彼はそのとき、極めて人道的に、獣だった。強くてカッコよくて美しいその野生。野性的であるということは一種の理性的であるということで、わたしはそのピアノ線みたいな芯の通った暴力を、革命だと思った。だから。
「……ダリュちゃん、こっち見ろ」
わたしを見下ろす彼のひとみが美しくみえる。そっち側にいけないと知りつつも、その美に屈服してしまいたくなる。その獣性に共鳴するかのように、唸りながら「もうだめ」と訴えると、彼はその手指の動きを、教えた通りに変えなかった。躾けやすく聞き分けのいい部分と、「もうやめて」と言っているのに何度でも続きをしようとする、その気随が過ぎる部分のちぐはぐな采配にくらくらする。でもその眩めきも酔いどれの態も、宗教じゃない。盲信じゃない。美との邂逅だ。それは教会ではなく美術館で起こるような、静寂とともに訪れる天啓だ。気持ちは時折、誤作動を起こしてもにょもにょを引き出すけれど、もう後悔はしていない。美という心理は否定できない。
「……よくも気持ちよくなれないくせに三回も……バリタチか?」
逆上せそうになりながら彼の胸でそう吐き捨てると、彼は「バリ……?」と首を傾げ無知を披露したので「なんでもない」とその喉仏に齧りつく。それから痛いと上体を捩る彼の肩を支えにバスタブから立ち上がり、「ほんと、これまで童貞でよかったわ」と感想を口にして、いくらかぬるく調節したシャワーを浴びた。
「どういう意味だよ?」
「公衆衛生的に。アンタみたいなのがヤリチンでいてみな。場合によっちゃバイオハザードだよ」
「……俺は惚れたら一途ですけど?」
好きな子としかしたくない、という意味合いであることをきちんと理解しつつ、わたしは「だろうね。でなきゃ童貞じゃないだろうし」と煽る。すると彼もバスタブから出て、わたしの上からシャワーに頭を突っ込んだ。せっかく汗を流したのに、今度は彼の汗に濡れる。でもすぐに、それも流れる。
「童貞でいないと一途を証明できない?」
さっきみたいにわたしを見下ろしながら、彼は言った。
「それは否でしょ。逆も否だけど」わたしは彼を見上げる。「わたしがあなた……アンタなりに色々あるんだろうなって勝手に想像してネチネチ言ってるだけ。気にしないで。心の中を他人に見せる必要はないよ。いっつも、わたしの言葉なんて無視したらいいんだよ」
シャワーを止めて、髪を絞る。ハティはドアを開けてタオルを取ってくれる。そのまま傷だらけの背中をぼんやりと眺めながら身体を拭いていると、彼はてきぱきと衣類を身につけてからわたしを振り返った。
「キミって見せようとしてくれないよな。心の中」
わたしが優しいときは、されたくないことを予め拒否する姿勢でいるとき。帰路での彼の分析は正しい。
「見て面白いことなんてないから」
そう言うわたしの髪をやさしく拭いてくれながら、彼はタオル越しに耳を引っ張ってくる。ぎゅうと強くて、思わず目を閉じた。
「なんでだ? キミは面白いし、思慮深いだろ」
「そうでもないよ。せまいし、なんにもないし」
「一人暮らしの部屋みたいな?」
「あはは。アンタの部屋は広いし色々あるでしょ。登ってお昼寝できるような棚もあるし」
部屋に戻ると、オリーブオイル入りのジントニックを飲みながらふたりで料理を作った。ネクタリンを使ったグリルポークはハティの担当で、わたしはサーモンのマリネとチリコンカンだ。この部屋のキッチンにはふたり並んで調理ができるくらいの余裕はあるが、カウンター席しかない飲食店のそれくらいの広さなので、途中何度も「ナイフ通ります」「熱いの通ります」と断りを入れることになった。でも、なんだか店をやっているみたいで楽しかった。
「その爪で料理できるんだな……」
「普通の爪より丈夫だしね」
ふたりとも仕事用の青いゴム手袋をしているが、わたしはハティのものを借りたので、爪まですっぽり入った。オーバーサイズで若干収まりが悪いが、しかたない。指よりスカルプのほうがフツーに清潔だし、ハティはそういう潔癖ではないので手袋をする意味もあまりないのだが、人に出すものなのでイメージ優先だ。
薄々思っていたことだけれど、ハティは料理上手だった。朝ご飯に出してくるなんてことはないサンドウィッチのセンスがよく、もしやと思っていたが、グリルを食べたことでその予感が確信に変わる。マリネもチリも、自分のぶんはいつものホットソースでビタビタにしたけれど、その準備があったこともあって、彼の作ったものは味変せずに食べられた。というか、美味しかったからその必要がなかった。
「キミは料理上手なんだな、意外だ」
それはわたしの台詞である。その声音からハティはまだ素面でいるらしいが、わたしはもうクタクタだ。お風呂で逆上せかけたし、失った水分を取り戻そうと、料理をしながら何杯も飲んだ。夜道よりずっと彼の家のほうが危ない。
「そりゃあ、花嫁修業を、がんばろうって時期がありましたからね……」
頭痛するのやだなあ……と、予感でぐずつく頭部の熱をどうにかしたくて、氷をガンガン入れなおしたジントニックを作りながらそう漏らす。すると彼は、「花嫁修業、すか……?」と怪訝そうにわたしの顔を覗き込んできた。
「いやね。この表現キッショとも思うんだけど、昔は先生の恋人になりたかったんだよ。結婚したかったの」
ペットボトルに残ったトニックウォーターをぜんぶきっちり注ぎ切れるという見立てだったのに、氷を入れ過ぎたせいでギリギリ溢れる。舌打ちをして、表面張力の部分をちょっと啜る。溢れたぶんをティッシュで拭く。
「……しないのか?」
「しないよー。できないもん。できないって気づいちゃったの。だからもういーの」
啜って余裕のできたグラスに、オリーブオイルを注ぐ。ああ、油摂りすぎ。でも美味しいから、しかたがない。
「ハティも、使い魔になるときはよく考えたほうがいいよ。下手に内縁の妻みたいになると、大変だから。ちゃんと、すきだよって、いうんだよ」ああ、若干呂律があやうい。それを誤魔化したくて、彼の頭をわしわしと、パン種に愛情を込めるときみたいに、両手でわしゃわしゃもちもち撫でる。「ちゃんと、自分がどうしたいって、いうんだよ。ウソついてると、どこかで、ぜったい、くるしいから……たぶん、長持ち、しなくなるから。そういうの、やだよねえ。わたし、ハティにそんな気持ちになってほしくないなあ。今後も、げんきでいてね。すっかりげんきはむずかしいかもだけど。……後悔、しないと、いいねえ」
うう、と指先で熱い額を押さえる。大丈夫。結構大丈夫。呂律も絵本の読み聞かせが可能なくらいには大丈夫。新聞は読めないくらいだけど、酔っているときに新聞は読まない。つまり、ほぼ素面と言っていい。よっしゃ元気バリバリやれます大歓迎! と、どこのなにに対してかわからぬ奮起を心で唱えて顔を上げると、ハティの手がグラスを掴もうとするわたしの手を握った。
「ダリュちゃん、もう飲んじゃダメだ」
彼はなんて、真面目な顔をしているのだろう。まるでペーパーテスト中みたいだ。
「指図すんなし。あ、いや、わかってるわかってる。ハティはやさしい。やさしさには、感謝、なのです」よっしゃ、お礼も言える。こりゃほぼ素面だわ。元気元気。パワー!
「水飲もう。ほら、おいで」
「水は飲みますが、それは一旦おいといてえ」
「置くな置くな。最重要タスクだろ。そんなこともわかりませんかー?」
「わかる」最大限、しゃっきっとしてみせる。「ていうかね、素面です。ほぼほぼ。ぜんぜんわかってます。世を。宇宙猫くらい」
わたしがネットミームの猫の顔真似をすると、ハティは「似てるな」と言って微かに笑うと、絞め技をかけるかのようにわたしの首を背中から抱き込んだ。「ぬ! やめろー! きゃー!」そのままハンドタオルで顎を押さえられ、口に水の入ったペットボトルの飲み口を押しつけられる。「はいはいよちよち」まるで拾ってきた仔猫に授乳するような体勢だが、これでは飲まざるを得ない。うん、お水、おいしい。息継ぎに離れたペットボトルを掴んでぐびぐび飲みはじめると、ハティはわたしの髪に手櫛を入れながら、「よしよし。チビちゃん大きくなれよ」と聞き捨てならない言葉を吐いた。だから、無意識に主張してしまった。
「もうちちゃじゃないもん!」
呂律は怪しいけど、昔よりはずっと回るようになった舌で。わたしはもうもしかすると、リリ殿下より大きくなったかもしれない。背も一気にびょーんって伸びたし、ワンチャンまだ伸びるかもしれない。だからいつかちちゃじゃないって得意に自慢するのが夢だった。わたしってばもう一七〇センチもあるのだ。人外族のなかではけして大きくはないけれど、殿下だって昔ちちゃだったのだから今もいくらかちちゃかもしれなくて。
「うう、お姉ちゃん」ぼろりと涙があふれる。咄嗟に拭う。「いっいっ」変な声が漏れる。「お姉ちゃあん」みんないつのまにかいなくなってしまった。「うわ、なんなのわたしやば……」挙動不審は自覚できる程度の頭に生まれた、一瞬の自意識。いきなり語っていきなり泣いて超ヤベえ奴じゃんわたし。その一瞬の恥に硬直する感情の隙を突いて、理性が「泣いてないんで」と主張する。「二回目いけますか。通りますか」
「お、おう……通るよ。大丈夫だ」
わたしが俯いているせいで顔は見えないけれど、彼はきっと驚いた顔をしているに違いない。さっきまで彼のことをサポートしたい気持ちを再確認したくせ、わたしは深刻にダメダメだ。普段は泣き上戸でもなんでもないのに、こんなの疲れているせいだ。白律誕が近いせいだ。このあとはちゃんと明るくいつも通りギャルギャルしたくて、「よーし飲みなおすぞ!」とグラスに手を伸ばすと、今度は目にも止まらぬ速さでグラスを取り上げられた。
「もう今日は寝るぞ」
やだ、と言おうとした瞬間、身体が浮いた。視覚情報と彼の腕が巻きついている位置からして、小脇に抱えられたらしいことはわかった。宅配便か? でも猫だしそういうこともあるわな……と意識がちょっと遠くに向いた直後に、ベッドに降ろされる。「やだまだご飯食べる」「残りは朝メシにしよう、な?」宥められるようにしてコンフォーターの中に押し込まれ、次いで入ってきた彼の身体に追い遣られるようにして、ベッドの真ん中付近へ移動する。ひんやりしたシーツの感触が心地好くて、ちょっと落ち着きそうになっていると、ハティの手が腰に回された。
「料理、冷蔵庫に入れて……」
「入れるよ。キミを寝かしつけてからな」
「赤ちゃんじゃないんですけど……?」
そのまま彼に抱き寄せられるがままになりながら、頬と寝具の温度差にうつらうつらしていると、「こっち向いてくれないのか?」と耳元で囁かれる。いつも敢えて背を向けて眠っているのに、なんだそのたまには向いてくれるみたいな言い草は……と不服に思いながら、今日くらいはいいかと寝返りを打ってあげた。目が合う。綺麗な目だ。絶対に今後も目だけは怪我をしないでほしいと願う。するとその直後に言葉もなく唇が寄せられて、すぐに舌が。またすぐに彼が上になって。おおきな犬歯。わたしの舌ピアスと彼の牙がカチカチと音を立てる。唇がオリーブオイルでちょっとぬるぬるする。いつもよりじっくり。「ん、これさ」「んー?」「ふつーなら、セックスする雰囲気のやつだ」頭ふたつぶんの重さで沈みに沈む枕。「俺はさ」「ふん?」「キミといつもセックスしてるつもりなんだが」ああそうか。男女だからペッティングどまりだと思っていただけで、彼は彼なりの、愛情表現をわたしにしてくれていたのだ。
女同士だって、タチは気持ちよくない。でもセックスはしている。そう、愛があるから気持ちよくもない重労働ができるともいえるのに。わたしは、なんだか先輩ぶって、先に経験していたという時間マウントで、彼にとっての情交を、彼が構築した彼なりのコミュニケーションを蔑ろにしていた。……そう自覚した途端に視界がクリアになる。
「それは、めちゃくちゃごめん」
酔いが覚めるようだ。別に酔っていない……という自意識は、一旦おいておいて。そんなのは最重要じゃない。
「べつに。フツー、言わなきゃわかんないだろうし」
彼はわたしの顎や小鼻やまぶたにキスをしながらそう言うと、わたしの肩に手を回してぎゅっと抱き締めてきた。わたしはぎゅむと触れあった頬を起点にもっとからだ全体でくっつこうと、大きく溜め息を吐いてするするとかさを減らすぶ厚い背に手を回す。
「ねえ」
「んー?」
「セックスする?」
きょうはすでに散々っぱら、したという計算にはなるけれど。
「……そのことについてなんですけど」
突として神妙に顔を上げた彼に、わたしはできるだけ柔らかい発声で「なあに」と返事をする。
「……キミの考えていたほうのセックスは、してみても、大丈夫そうですか」
わたしが考えていたほうのセックス、とは。わたしが普段より若干高く、「ん?」と疑問符を伴った撥音を上げると、彼は無言のままわたしの手を掴んでとある箇所へと誘った。
「あ。てか、え?」
「……うん」
「……一旦。一旦ちゃんと触ってみていい?」
「お手柔らかに……」
それは、がちりと重みのある硬さをしていて、わたしは一瞬怯む。しかしすぐに気持ちを切り替えて、「おめでとう……?」と讃えてつい手癖で擦ると、彼は「ぐおっ」と、まるで腹を蹴られたかのような声を上げた。感覚が内臓に作用している証なのだろう。「まっ。擦らないでください……」「いやでも擦るものだし」「これ、きつい。なんだこれ。くらくらする。耳の下あたりがグツグツしてる」「えっと、実況しなくても、いいんだよ……?」見上げる彼の耳が、可哀想なくらいに真っ赤になっている。いや、そこだけではない。みるみるうちに首から上のすべてが、真っ赤になっていく。髪の毛でさえ真っ赤にみえた。頬を引き寄せて唇を寄せてみると、血がそのままそこにあるみたいな熱さをしていた。
「えーと、セックスはいいよ。してみよう。童貞もらってあげる」
「お、おう……ありがとうございます……」
「それからー……ここでフェードアウトしたらエロいのはわかってるんだけど、でもひとつだけ真面目なこと言わせて」
「はい……」
「……初めてで、中折れとかしても、落ち込まないで。大丈夫だから」
ロマンティックじゃなく、超現実的なアドバイスをしてしまう自分に、内心「可愛くねえな」と悪態を吐きつつも、わたしはそれを言うべきだったという自負がある。わたしは彼とは恋仲じゃないし、だからこそ彼のプライドみたいなものを(あるかどうかわからないが)、お役人っぽくまじめにまじめに守るべきだと思ったのだ。失敗する機会を奪いたくないなりに、初心者ゆえの失敗があるとしたらわたしがそれを貰い受けたかった。
「……ちゃんとキスしよ」
ちゃんと、と前置きするとすると、なぜかぎこちなくなってほんのちょっと触れただけになってしまう。互いの笑みでさらさらと音を立てるシーツのひそやかな音に耳をそばだてながら、「ふふ、どきどきするね」と気持ちを共有すると、彼は「生きて帰れるかな」と死地に赴くには軽い調子でとぼけてみせた。
*
「ドゥエッヘッヘッ」
「笑いかたが奇っ怪だぞ。もっと抑えろ、サルクス」
「ゴッホホホォ、だって、だってリオタール先輩……」
「──そこで私はこう言ってやったんだ……『汝平和を欲さば戦への備えをせよ』そう、奴の9mmは童貞であった」
「ホバァアアア!」
「エグジリ、サルクスを笑わせ殺すな。所帯持ちだぞ。もっと高い保険をかけてからにしろ」
私たちは大人だ。大人で、年長者だ。だから馬鹿騒ぎをするには場所を選ぶし、馬鹿騒ぎをするためにオーセンティックなバーからは早々に退出した。もうオールナイトだとかガッツリ食らうとかいう歳でもないので、選んだのは無論、和食を扱う『イザカヤ』だ。半個室とかいう謎のアピールをされているボックス席の『ホリゴタツ』の中で、アンダーソンは地団駄を踏んで爆笑している。このままでは横隔膜が過労死するかもしれないというほどに。そんな彼の肩をがっちりとホールドし、私は渾身のネタを披露し続ける。笑い死になんてものを一度でも目の当たりにできるものなら、ぜひ間近で見てみたいと欲を出しながら。
「可愛い後輩の死体検案書に、下ネタを聞かされ続けたことによる爆笑死とは書きたくないな」
春先限定の純米吟醸をちびちびやりつつ、リオタールはひとりマイペースに蕎麦を啜っている。彼女が急アル待ったナシの量を飲んだにもかかわらず、涼しい顔でいるのはいつものことだ。そしてこの場を楽しんでいないわけではないことも知っているから、私は引き続きアンダーソンを笑わせ続ける。笑い死にならギリギリ蘇生できそうだと高を括りながら。
「なに、書きたくなければ別の死因をでっち上げればいい」
私は、生きも絶え絶えになって「殺してくれ……」と痙攣しはじめたアンダーソンの上体をを卓上に放って、梅水晶をつつく。彼女と分けている日本酒は、醸造用アルコールを使っていない酒造のもので、麹の香りがよく立っていた。
「たとえば?」
「そうだな……どうせ横隔膜だからな、しゃっくりにしておこう」
「グォフフ……ッ!」
「まあそれなら辛うじて虚偽にはあたらないか。……安らかに逝けたか、サルクスよ。ああ、穏やかな死に顔だ。笑ってる」
「ブッフォオオオ」
ふたりで和やかに死体蹴りをしていると、アンダーソンのスマホが鳴った。突っ伏している彼の尻ポケットからそれを出して顔の横に置いてやると、どうやら妻からの着信だったようで、彼は「ちょっと失礼します」と店の離席用サンダルを足に引っかけて外に出ていってしまった。残されたリオタールと私は、うちの若者三人に見せたら「ジジイすぎる!」と馬鹿にされるであろうテーブル上の料理をのんびり片づけながら、今後の話をする。素案ができた時点で共有すること。意見交換はプライベートチャットでおこなうこと。現時点での計画のさわり。私たちの装いと沈着なさま、それから会話の内容からしてまるで悪の組織の幹部会のようだが、場所はイザカヤだしホリゴタツだし、日本酒に蕎麦で梅水晶だ。そんなちぐはぐな様子になんとなく笑みを浮かべていると、リオタールが「怪我でもしたのか」と私の顔を指した。どうやら先日の傷がまだ浮いて見えるらしい。
「ああ、すこしな」
手の甲の痕も軽く晒して肩を竦めると、彼女は「男の肌には傷があったほうが美しい」と言って、ゆるりと猪口を傾けた。私は口を曲げ、「今更傷が残るほどの怪我もなかなかつかないがな」と適当を言ってタバコを取り出す。もうとっくに前線からは退いているし、蓄えた魔力のお陰でたとえ土手っ腹に風穴が空いてもすぐに治るのだ。それに、私の受けるべき傷を一身に引き受けてくれている使い魔もいる。私はピカピカだ。
「それに、綺麗なほうが守り甲斐があるだろう?」
「はっ。わかっていないな、エグジリ。女は麗しい王子様より、傷だらけの騎士のほうが好きなのだよ」
その言葉に、私はまばたきをする。そのあいだに黙る。それから両手のひらを彼女に向け、軽く手を挙げた。
「それはご尤もだな。道理で、最近モテない」
ダリュは私に怒らない。愛想を尽かさない。真面目で義理堅いあの子は使い魔として真摯であろうとしてくれている。しかし、ここ数年は外でデートがしたいとか、ふたりっきりで過ごしたいとか、そういうことをめっきり言わなくなった。私に対して拗ねなくなった。それはあの黒狼と配属が同じになったからだろうか。私が親離れを促してきても効果がなかったのに、まったく、どれだけ世話をしても子どものことはなにひとつわからない。特にダリュのことは。
「ところで、今夜の残業は?」
灰皿の縁でタバコの先端を軽く叩いて訊ねると、リオタールは食べ終えた蕎麦のせいろをテーブルの端に寄せて答えた。
「年頃の娘のいる男の家にひとりで行くほど野暮じゃない。しかも新居らしいじゃないか。まったくおめでとう。そのうちサルクスと押しかけるさ」
「キミの家は?」
「いまは嵐のただなか」
「整理整頓は得意だぞ」
「知ってる。なんだ、さみしいのかエグジリ。年だな」
するとリオタールは、テーブルに身を乗り出し、私の胸倉を掴むようにして懐からタバコを一本抜き取ると、指先から火花を散らして火を点けた。それからふうと煙を吐き、ドレスに合わせて纏めていた髪を静かに下ろす。
「……あとで連絡する」それは、解散した後に呼ぶということなのだろう。「そろそろ戻ってくるだろう、かわいこちゃんが」
「そうだな。まったく、あの男は愛情表現がくどい」
「くどいほうが好きな女を捕まえたのだから、それでいいじゃないか」
交わした言葉通りに、アンダーソンが暖簾を押し分けて戻ってくる。それを口々に「ラブラブだな」「まったく何年目だ?」と囃していると、
「いやー、帰りにパンとミルクを買ってこいって」
と所帯持ちの瞬間最大風速を浴びせられて、私とリオタールは一気に真顔になる。ふたりとも一瞬にして爆風に髪が乱れた気さえした。
「見たか? 所帯持ちの輝きを」リオタールが髪を耳にかけながら問うてくるのに、「見たが、眩しくて見えなかった」と目を擦って応じる。それほどまでに幸せに満ちた苦笑(苦笑というのが高得点だ)を見せつけられ、遊び人の先輩ふたりは立つ瀬がなかった。
「では帰ろう。遅くまで開いているスーパーもそろそろ閉まるぞ」
気まずさを打破するため、立ち上がってそう促すと、アンダーソンは「え、いいんですか?」と慌てた様子だ。その肩に手を置き、「靴はきちんと履き替えろ」と促して、私たちは三人並んで小上がりの縁に腰を下ろして靴を履く。「いてて膝が」「グルコサミンだな」「普段から階段を使え」……年を取ると、ふとしたときに出るのは健康の話ばかりだ。
それから支払いを済ませて外に出ると、近くにあった営業中のスーパーマーケットにアンダーソンを押し込んだ。「じゃあまた明日!」と相変わらず私たちの前では元気な若造ムーブをしてくれる彼に手を挙げて返し、リオタールと並んで夜のハリウッド・ブールバードを歩く。途中、ショールしか羽織物のない彼女に上着を貸し、タクシーを拾うかと声をかけたが、すぐ近くのルーズベルト・ホテルを指さされたので思わず声を上げて笑う。「後で連絡するとはなんだったのか……」
「効率的だろう? それに、業務連絡が好きな奴などいない」
彼女は腕を組み、向かい風に髪を絡ませながら私を振り返った。オレンジ色のネオンが彼女のブロンドを神々しく照らして、私はそのさまを正しく悪魔だとひっそり形容する。
「確かに?」
同意を示し、彼女の肩を抱く。残業上等だ。
今でこそ私は組織内で『聖者協会出身のコンサルタント』という立ち位置に収まっているが、これでも一応、兵士としての下積みはきちんとやった。ここではチェスの駒に準えた冠位──これを得られると、一応組織内でフリーランスとして活動できるのだ──を貰うために、一兵卒から成り上がる必要がある。それはどんな経歴があろうと同じだ。ダリュを連れて人間界へ降り、SGJに加入してからは、他の同期と一緒に前線部隊で戦ったし、ある程度の地位を確立するまでは組織内政治に手を揉んだ。そのときに同じオフィスになったのがリオタールとアンダーソンだ。
当時、リオタールは救護班所属で、アンダーソンは私たちの中では歳下ではあったものの、とっくにビショップの冠位を得た上長だった。全員が督国から降りてきたという経歴もあり、意気投合した。忙しかったが、楽しかった。とは言っても、まだ思春期すら迎えていない少女だったダリュを家に残して肉体労働に邁進し、情報部に配属されデスクワークが増えてからも残業続きの日々。家に戻れば満足に食事が摂れないダリュが待っていて、細い声でえんえんと泣いている。そのケアもしなくてはならなくて、私はとにかく手一杯だった。それでも、過労がデフォルトの前職に慣れていた私はまだ平気だった。
しかし、ダリュが倒れた。忙しさにかまけて魔力補給を怠ったせいだった。聖職者としての日々では計算に狂いが生じたことなどなかったはずなのに、ダリュを連れて逃げた日以来、なにもかもがぐちゃぐちゃになっていた。……完全な言い訳だと宣言しておくが、人間の外見年齢でいえば十歳そこらの少女を頻繁に相手にするというのは私には難しかった。『娘』と意識しないようにしていても、トラウマを抱えた痩せっぽちな少女に性交を迫るというのは、かなり厳しい。ダリュはそのせいで空腹を抱えていたというのに!
獣型形態で昏倒したダリュを抱えて、私は基地に走った。たまたま夜勤だったふたりに事情を説明すると、リオタールはすぐにダリュを診て、応急処置をしてくれた。アンダーソンは「もっと落ち着いた勤務形態にしたほうがいい」と私に勧めて、なんだか怒っているようだった。それも当然だ。彼には妻と娘がいる。ダリュの親にもなれず、かといってパートナーにもなりきれない私に腹が立つのは道理で、だからこそ彼の判断は信頼に足るものだと理解した。
それから、はやく自由にやれるようになりたいとしがみついていた出世街道からは一旦降りて配属を変え、職場にダリュを連れていくようになった。ダリュは周りから大変可愛がられ、そのお陰で失いかけていた社会性を取り戻していった。そうして月日は経ち、私はダリュと足並みを揃えて一緒に冠位を受けることになったのだ。あの夜以降、私は己の立ち位置を、その領分を、意識するようになった。ダリュのためになんでもしようという親心と、ダリュのためになんでも与えようという主人としての当然を第一にしたかった。でも、もうダリュは私になにも求めてはこない。たまに「抱っこして」と強請ってくるだけだ。
なあ、ダリュ、なにが欲しいんだ。教えてくれ、私に。私に。
見限られたりはしないことをわかっていて、私は彼女の内側に踏み込めずにいる。お前の欲しいものは、私の領分の外にあるのではないかと、疑っているからだ。
翌日出勤すると、私は真っ先に更衣室に向かって服を着替えた。詰襟に白いジャケットというのが私の普段の勤務スタイルだ。ロッカーのドアの内側についている鏡を見ながら髪を纏め、靴を履き替える。それから最後に香水を振っていると、「おっ……おは、ざす」と妙にたどたどしい挨拶が背側から投げかけられたので、振り返る。デジャ・ビュだ。いや、昨日のリフレインだ。
「おはよう、ハティ」
私がじっと目を見て挨拶を返すと、彼は息を入れ直したのか、今度は滑らかに「おはようございます」と言って会釈をして、それから自分のロッカーを開けたようだった。今日は武術訓練はなかったはずだが……とその背中を見ていると、なんとまだ綺麗な着替えやタオルを新しいものと交換し、デオドラント類の補充をしているではないか。しかも布類はぴっちりと畳まれ、除菌シートでロッカーの内部も拭きあげている。回収した着替えはジップつきポリ袋に入れ、空気抜きもしている。見かけによらず几帳面なのだな……と半ば圧倒されていると、「似合わないっすよね」と私の心情を汲んだ言葉がその背中から投げかけられた。
「いや、素晴らしい気質だなと思ってな。まったく誰に似たのやら……アンダーソンか?」
「あの人、きちんとして見えてデスクの抽斗とかロッカーの中はぐちゃぐちゃっすよ」
「それは知っている。ふふ、回答を間違えたな。しかし、だからこそ彼の大切なものは皆デスクの上にあるんだ。写真とか、子どもに貰ったのとか」
「……それは気づかなかったな」
「今度注意して見てみるといい。面白い発見があるぞ」
回収物をバックパックに詰め込んだ彼を伴って、オフィスへ戻る。その道すがら、「次の休みは空いているか」と訊ねると、「休日はだいたい空いてますよ」と、私がむやみやたらに誘わないことを確信している返事があった。
「……白律誕、もしよかったら家に来ないか」
今度は言葉を直して誘う。私の見立てによると、イエス一割、ノーが九割といったところか。断られることを前提に、流れで売店でふたりぶんのコーヒーを注文をしていると、なんの引っかかりもなく「いいっすよ」と返事があった。思わず固まる私に、店番のマスコットロボット『マルチネス』が「支払いを!」と促してくる。私は数拍遅れて電子決済をし、受け取ったコーヒーを彼に渡すと、そのままオフィスへと向かって歩き出す。そして数歩で立ち止まり、ハティを振り返る。「……今、なんて?」
するとハティは、リッドの飲み口を開けていた手を止め、「え、どの話っすか?」と眉根を寄せる。私の反応にラグがあったせいだろう。
「その、白律誕の話だが……」
「ん? え、だからいいすよって」
よし、今週末のサンタアニタとシャンティンの重賞競走は大穴一点買いだ……ではなくて。
「いい、のか」
「なんなんすか、その反応」
「いや……なんでもないんだ。弟も誘うといい」
「わかりました。酒持っていきます」
これは、一大事だ。彼は毎年白律誕は仕事を休む。今年はたまたま休日なので試しに声をかけてみて、彼の未練が如何ほど強固かを探るつもりだったのだが、一体これはどういうことだ。勿論、彼が来ること自体は大歓迎だが、これは一体どういう心境の変化なのだろう。計算をミスした焦りを隠しながらオフィスに入ると、デスクでダリュが背中を反らして「いったああい」と呻いていた。
「え? 誘ったの? なんで?」
昼休み。ダリュと外のパストラミサンドの店で食事をしながらハティを誘ったことを報告すると、向かいの席の彼女は、目を丸くしてパンから肉をボトボトと溢した。「うわ、最低」と、フォークでこぼれたものを掻き集める彼女に、「いや、試しに声をかけたら存外に色よい返事を貰えてだな……」と説明をすると、「ふーん。まあたまにはいいんじゃない」と、先ほどの驚愕の表情とは裏腹に、あまり興味のなさそうな返事があった。これは隠し事があるときの態度だな……と思いながら、私は半分に割られた長いピクルスを齧る。
「じゃあお掃除して、料理も沢山用意しないと。先生は白菓子お願いね」
しかし思いの外さっぱりした態度だ。例年通りともいえる。ダリュはバルサミコ酢とマスタードをしこたま乗せたサンドイッチに可愛らしく齧りつきながら、スマホのメモに『お料理四人分と蝋燭』と打ち込んでいる。真面目でマメなところ(と、それを隠すような素振りをしているところ)は相変わらずだ。「んー、ふふ。先生、なに食べたい?」……この可愛い笑顔は、私のために家事や炊事を頑張って覚えてくれてから見られるようになったもので、私だけの宝物である。
「そうだな……チョッピーノと、ワンタン、クラブケーキにシカゴピザ……」
「ちょっと、多いって……でもまあ四人いるならいいか」
「買い物は?」
「お肉と粉ものは今日買って帰って、海鮮は明日かな」
「そうか。付き合おう」
「え、いいの……? いや、いいよ。先生はゆっくり休んでてよ」
「私は……」私は。「お前と買い物をするのが、好きなのだよ」なぜか唇が尖ってしまっているのを自覚しながら、それを隠すためにコーヒーを飲む。そっぽを向いたふうに見えないよう、さり気なく視線を窓に移した。春めいて白い陽光が、まだ裸の街路樹をあたためている。
「えっ、え、ああ、うん。えっと、今日の帰りは、退勤時間ちがうし、自分で買い物して帰る、ね……だから、明日は、付き合って……。……朝だよ。早起き、なんだよ……」
たどたどしく言葉を連ねるダリュの姿をちらりと窺うと、彼女は顔を赤くしてまたしてもパストラミを皿にぶちまけていた。そうしてもうどうにもならないそれを、サンドイッチとして食べることは諦めたらしい。手元に残ったパンを齧り、付け合わせとして肉を食べることにしたようだ。鞄からホットソースを取り出して、肉に向かって必死に瓶を振るその顔の可愛らしさときたら! 今日はなんだかやたらと可愛らしい彼女がつい小憎らしくなり、手を伸ばしてその頬を指で摘まむと、「やめてハイライター落ちる」と不機嫌な声がした。
「早起きは得意だぞ」
「でしょうね」
「ふ。久々のデートだな」
「……あーっ、そ。デートね。デートでも、いいけどお……?」
テーブルの下でその手を握ろうとして、やめる。卓上に手を差し出し、目線で促すと、ダリュはまさしく『猫のお手』のようなそっけなさで、その手を私の手に重ねてきた。それをぎゅっと握り込んで、そのまま日程について話し合う。サンドイッチを崩壊させた彼女は片手では皿を支えられず食べにくそうにしていたが、敢えて無視をして、ぎゅっと握る。
*
肉は前日に叩いて調味料に漬け込んだ。粉ものは練ったあと寝かせてから家を出てきた。ムール貝は砂抜きをして、ホタテは殻から外す。タラは捌いたあとカットした身に塩を振って放置、アラも塩をして置いたあと、一度オーブンへ。蟹は半身に割ったものと身肉を取り出したものを用意して、身肉のほうは炒めたタマネギとパン粉、マヨネーズ、それから卵とハーブと混ぜ合わせて置いておく。そして普段から作り置きして冷凍しているソフリットと水、白ワインを入れた鍋に、ムール貝とガリっと焼かれたアラを入れて、火にかけた。これで魚介の下処理は完了。一旦洗い物を済ませてワークトップを綺麗にする。新居のキッチンは前の家と違って、バーカウンターから独立しているから広くて気分がいい。
わたしは鼻歌をうたいながら、買ってもらったフラッペドリンク(ミントホワイトチョコフラッペ杏仁シロップ追加生クリームマシマシ)を飲んで、さっき先生に買ってもらったピアスを眺めてにひひと笑ってひと息入れたあと、湯剥きしたトマトと少量の唐辛子をフードプロセッサーに入れて粉砕し、それをアラを除いた鍋に注いだ。タイムとローズマリー、あと少しの砂糖と塩を加え、しばらく放置。その間に寝かせていた生地の処理だ。私は料理が好きだし、細かい作業だって厭わないが、手を抜くときは抜く。今回はワンタンの生地もピザの生地も一緒くただ。材料はほぼ同じなのだからわざわざ二度も捏ねたくはない。シカゴピザの生地は型に入れ、深皿状に形成する。余った生地は綿棒で伸ばして薄力粉をはたいた。そこで時計を確認し、冷蔵庫から下味をつけたミンチ肉を取り出す。半分はボウルに取り、もう半分はフライパンへ。スライスした大量のマッシュルームと一緒に炒め、鍋から出汁をちょっと拝借。そしてざっくりとカットしていたトマトとウスターシャーソースと煮詰めて、形成した生地の上に敷き詰める。この上にかけるホワイトソースについては楽をした。市販のソースにバターとミルクを追加してレンチンしたところに、余ったハーブ刻んだものを混ぜ込んで、チーズで覆ったトマトソースの上から蓋をする。それからまたチーズをしこたまかけて、オーブンの予熱設定をした。
「よし。あとはほぼ仕上げ……」
ひとり呟いて工程を確認したあと、軽くシャワーを浴びて服を着替えた。いつもは白い服を着たりもするが、きょうは黒いワンピースだ。でも、普段と変えるのはここだけ。別に喪服って意味じゃない。きょうはふつうの誕生日なのだ。お姉ちゃんと、お兄ちゃんの。今日の主役は、超マジ最強絶対極まれりでむっちゃくっちゃにふたりなのだと主張するために、わたしは黒い服を着る。これは、お仕事お疲れさまっていう、気持ちなのだ。
「きょうは、もう、泣かない、もん……」
わたしはひっそりと湧いた涙を拭うと、ワンピースの上からエプロンを締め直してキッチンに戻った。するとちょうど予約していたケーキを先生が持ち帰ってきたところらしく、冷蔵庫にボックスを収めているその背中になんだかそわそわする。このそわそわは、彼が珍しくデートをしてくれたからこそ湧くものなのだろうか。その広い背中にぎゅっと抱きつきたかったが、堪えてなんでもないふうに「おかえりなさい」と声をかける。
「いい香りだ。なにか手伝うか?」
「ううん。いま自分の中で時間通りきっちり仕上げるバトルしてるから」
「そうか。自信のほどは?」
「ばっちし!」
「そうか。ハティからさっき弟を迎えにいくと連絡があったぞ」
「オッケー。充分上等条件」
先生は笑ってわたしの頭に手を置くと、髪型を崩さないよう優しく撫でてから、「シャワーを浴びてくる」と言ってバスルームへと歩いていった。私は時計を確認して、まずはオーブンにピザを入れた。それからフードグレーターでパルメザンを削り、同じく削った金柑の皮と一緒にソースを作る。生クリームとオレガノと一緒に混ぜ合わせ、一旦冷蔵庫へ。ソースは凝るので元はシンプルに仕上げる。ボウルに取って室温に戻したミンチにホワイトペッパーを追加して練り、それらを先ほど作った皮で包んでいく。この作業が難関だ。なんせわたしは爪が長い。皮を破かないよう丁寧に、しかし残り時間に特大の猶予があるわけではないので、素早く。急いだのにもかかわらず、皮とタネがきっかりきっちりぴったり! なんて嬉しい状況だろう。わたしは再度鼻歌をうたいながら、下拵えしていた残りの海鮮を、じっくり煮立てたトマトスープの中に入れて行く。あとはニ十分ほど煮込めばチョッピーノは完成だ。
次はクラブケーキを焼く。オリーブオイルを敷いたフライパンに、用意していた蟹のほぐし身をパティのように形成して並べていく。ひっくり返すのを待つあいだ、新しい鍋に湯を沸かす。そこにワンタンをちょいちょいと放り込み、片手でクラブケーキをひっくり返す。……こんがりって最高! 蟹の香りが移った油でズッキーニとポテトを焼き、盛り付ければクラブケーキは完成だ。それから、湯から上げたワンタンから水がある程度切れるのを待ちながら洗い物をし、頃合いを見計らって平皿に盛り付ける。チーズと金柑で作ったソースをかけ、マサゴ(とびっこ)を散らす。これでワンタンも完成。そして鍋の様子を見ていると、オーブンが鳴った。最高のタイミングだ。扉越しに確認しただけでももう完璧。もうちょっと置けば超完璧。ひとりガッツポーズで自分を労っていると、インターフォンが鳴った。鍋の火を止めながら、もう一度ガッツポーズ。わたしってば、天才すぎる。これはご褒美として、気になっていたアイシャドウをポチるべきだ。
「お邪魔しまーす」
「わー、めっちゃいい匂いするじゃん」
先生に導かれてハティとハーフムーンが入ってくるのに、「ういす。おつかれー」と手を挙げ応じると、まずハーフムーンが「おっ。エプロン似合うじゃーん」と駆け寄ってきた。彼はいつも通り、赤いドレス姿だ。それから「これ、私と兄さんから引っ越し祝いね」と大きな紙袋をワークトップに置く。中を見ると、日本酒と思しき瓶と、布に包まれた箱が入っていた。取り出してその布を取り払ってみると『江戸切子』の文字が。しかもなにやらサインも入っている。ちいさく『伝統工芸師』とも。わたしはぞっとして「はあ?」と声を上げる。「高くない⁉」
流石にわたしでも江戸切子のグラスが高価なことくらい知っている。おそるおそるその桐箱を開けてみると、琥珀色のオールドグラスがふたつ……。
「先生! 金庫! 金庫に入れよう!」
「おっ。これは先生のあとについて行ったら金庫の場所がわかるやつじゃん」
「いいよ場所バレしても! きゃー、ありがとうフム! ハティ!」
はしゃぐわたしとは対照的に、先生は無言でカウンターに置いてあった財布から札束を引き抜こうとして、ハティに止められていた。受け取って貰えなくて、今度は財布ごと渡そうとしている。これではふたりともおなじくらいに動揺しているから、まったく対照的ではないと思い直し、わたしは一瞬で冷静になる。どちらかというと、先生のほうが動揺している。
「よし、よし、よし、とりあえずとりあえず、食事に、しよう……しよう」
先生は心底焦ると言葉を繰り返す癖があるのでわかりやすい。シャンパンを持ってきたと宣言して保冷バッグを掲げるハーフムーンと先生が、バーカウンターにグラスを取りに向かったので、わたしはハティに料理を運ぶのを手伝ってほしいと頼む。
「シカゴピザ焼いたんだよねー」
「すげえじゃん。家で作れるもんなんだな」
ふたりでアイランドキッチンの内側に回り込んで、ワークトップ下のオーブンの中を、しゃがんで覗き込む。
「おー、本当に焼けてる。うまそう。じゃあ俺が取り出すから、ダリュちゃんは皿を用意して……」
傍にあったミトンを掴んだハティが、わたしの方を見て言葉を失ったという、察知。吐息。自覚。「どした……?」と、戸惑った声がして、なんでもないと息で伝えて下唇を噛む。
「どした、おいおい」
オーブンのドアを開けようとしていた手を引っ込めたハティは、しゃがんだまま一歩詰めてきて、肩でわたしを小突く。その態度がなんだかひどくやさしいものに感じられて、わたしは自分のしょーもなさに打ちひしがれる。でもだって。だって。
「……アンタまで黒い服着てくるとは、思わないじゃん……」
家に入ってきた彼の姿を、わたしはなんとなく見ないようにしていたが、近くにこられて(わたしが呼んだのだけれど)、胸がいっぱいいっぱいになってしまった。彼は黒いスーツに白いネクタイをしていた。前髪もちゃんと上げて。
「ぐうう」
彼からしたらわたしがなんで泣いているかなんてわからないはずで、わたしはなんとか泣き止もうと息を止める。「ううう」なのに、声が漏れる。きょうは先生とデートもできたし、ピアスも買ってもらえたし、料理だってシュババって華麗に時間きっかりに仕上げた。なのにこの一瞬でぜんぶ完璧じゃなくなって、わたしは超バカな妹になる。どんくさくて声ちっちゃくてマジでザコな、お兄ちゃんとお姉ちゃんの妹になる。でも一度だってふたりの前で泣いたことなんてない。
「さっ、さんかいめ、とおりますか……」
泣いてないという主張は鼻声でぐずぐず。これまでに二回通ったんだから通るだろうという慢心ありきの決め打ちだったのに、ハティはわたしの頭に手を置いて、「通りません」と言い切った。
「つらいなら泣けって」
やだ、とわたしは泣きながら拒絶する。キッチンペーパーで鼻をかんだ。なんでだよ、という彼の問いが、シカゴピザをまだオーブンのなかに閉じ込めておく。
「わたしは、他の人にくらべたら、ぜんぜん、つらいことなんてないんだよ……」
そうだ。わたしは、全然つらくない。わたしのためになにもかも捨ててくれた先生よりも、毎日が命懸けで明日を生きるために必死だったフムよりも、一番大好きだったひとを失ったあとに、もう一度失うことになったハティよりも。いつだって大切なものを守ろうとしていたお兄ちゃんよりも、その身を賭して不屈を証明したわたしたちの陛下よりも。
「つらさは相対的なものじゃないだろ」
彼はそう言う。そう言ってくれる。
「ありがと……それは、ありがとね……」
人よりもつらくないことが、人より頑張っていないと思えることがつらかった。なににもどこにも至っていないこの身が恥で、性格面でも可愛げがなく謙虚でもなく横暴ですらあるわたしが、人よりつらいなんてことがあってたまるかと自分自身をぶっ叩いて躾けてきた。「でも、そう思っていたほうが、ラクなの。わたしは……」自分の真実なんてないなんにもないぶちまける中身もない。ぶちまけていい中身なんてない。ぶちまけてさまになるものなんてなにも。人様に。人様になんて。
「……ごめん、俺も、自分にも言い聞かせるつもりで、言った」
ミトンを嵌めた手で、ハティはわたしの肩を抱き寄せると、わたしの頭に側頭部をぶつけてきた……のが、オーブンのガラスドア越しに見える。
「でも、俺は、キミがそうやって葛藤しながらもちゃんと頑張っているところを見せてくれると、どうしようもなくほっとするんだ。キミとっては屈辱的かもしれないし、面白くもないかもしれないけれど……弱いところ『も』あるってのが、なんというか……見ていて、生きてるなって。可愛いなって……思うんだよ、俺は」
聖人みたいでムカつく。反論してやりたいけれど、それは彼の意志と意識であって、わたしの小生意気が浚ってしまえるほど不純ではないことは理解できた。だからわたしも、わたしの意見を言う。傍からしてみれば、同じであろうとも。
「べつに、弱いところを見せるからって……それで愛したり、愛されるってことにはならないでしょ。そんなの、ただ、どろりって、出ちゃっただけの一側面じゃん……愛してなんて言ってない、もん」
あくまで事故だと、意識の範疇外だとわたしは主張する。人様に見せられるものではありませんという防壁を、掘っ立てて。
「でも俺には、刺さったよ」
そっけなく、爽やかに、彼はわたしを突き刺してくる。刺さったことそれ自体を宝物のように抱えて、武器にして、刺突してくる。タックルでずどんと。
「強い弱いとか、上とか下とかじゃないだろ。俺はキミが俺と足並みを揃えてくれようとしているのが嬉しいんだ。……そうだろ? そうしてくれてるんだろ、おチビさん」
わたしが彼に意見という名の『返事』で報いようとしたそのとき、カウンターのほうでポン! とシャンパンのコルクが開く音がした。びくりと震えたわたしを、咄嗟に庇うように抱き込んでくれたハティが、状況を窺おうと首を伸ばす素振りをする。「開いちゃったじゃん先生! 予行練習って言ったのに!」「はっはっは。いやあすまない」「もう溢れ……って勿体な! これいくらすると……ちょっと飲むわ」わいわいとはしゃぐそのやりとりに、思わず吹き出すと、ハティもにんまりと笑って「じゃあ開けまーす」という声とともにオーブンドアを開けた。ぶわりと噴き出すような熱気と、じんわりとその場に滞留する蒸気に、頬がかっと赤くなるのを感じる。でも、これで気持ちが落ち着いた。「火、通りすぎちゃったかな」「そんなことないだろ。これでベストだ。皿頼む」「オッケー。そこ置いて……」わたしが思わぬ形で歩様を乱してしまったが、落ち着いたあとは、連携プレーあるのみだ。料理を盛り付け、運び、メソメソしながらカウンターを濡らすシャンパンを拭いているハーフムーンを呼び寄せて、先生の隣の席に立つ。そしてグラスを掲げ……「おめでとうに備えて、乾杯!」と、大きな声で宣言をする。日付が変わったら蝋燭でおめでとうってして、先生が用意したホールケーキは六等分して、ふたつは部屋にこっそり持っていくのだ。ここのところ部屋に籠って作っていたお兄ちゃん人形とお姉ちゃん人形(どちらもプロトタイプである)にあげて、推し活よろしく祭壇をつくる……。これでわたしの白律誕は超完璧。ちょっとリズムが乱れたくらいで、わたしの計算は狂わない。そうして祈る。バリ祈るのだ。また会おうねって。わたしは絶対にお姉ちゃんは大丈夫だって信じているのだ。だってあの人は不屈のカリスマ。わたしたちの、星。仮面をつけた騎士の人形は今日に間に合わなかったけど、来年には、まあ、間に合うはず。
End.
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