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【DDtheS】File.2 月光と空想/DESDEMONA


※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)





 視線の先を、大男が景気よく吹っ飛んでいく。直後その二メートル弱の肉体は壁に叩きつけられ、無様な呻き声が響いたと思えば、「遅せえんだよ!」とダリュの大音声。普段の可愛らしいハスキーヴォイスからは到底連想できないどら声を上げ、彼女は床でへばっているハティの前まで移動すると、彼を蹴り起こした。既に鼻血が出ているというのに、彼女のつま先は鼻骨に容赦なくダイレクトアタック。流石は躊躇を司る神経が焼き切れて久しい女だ。私の傍らでハーフムーンが「ひっ」と細い悲鳴を上げる。
「先生、ダリュちゃんにどんな教育してるんですか……足癖が……」
「教育? それはもう私のデカチ」
「あ、いいです。察しました」
「そうか。ハーフムーンは賢いな」
「どうもー」
 昇級RTAのためにはまず基礎から叩き直す必要があると踏んだ私は、今日からダリュにハティへのインファイト指導を要請していた。SGJのLA支部には新人が多く配属されることもあり、基地ベースにはトレーニング施設が充実している。そのうちのジムナジウムを一棟貸し切り、始業からぶっ通しで打ち合いをさせているのだが、なかなかどうしてハティがダリュに迫れないでいるようだ。特に明確なルールの上に試合を設けているわけではないのだが、その通算成績は明らかに全敗。彼は文字通りボコボコにされていた。身体も、メンタルも。
「明らかにスプリンター体型なのに瞬発力がない。その筋肉が重たい理由を考えな。バネ使うんだよ。そんなに腿鍛えといて早漏か? あ? それともフニャってんのか? もっと気合入れてバコバコ血ィ送れよ海綿体によ!」
 しゃがみ込んだダリュに前髪を掴まれながら、ハティは酷い罵声を浴びせられてもなお「さーせん……」としっかり反省した様子でいる。ダリュの意図としてはこの罵倒の隙にでも殴りかかってきてほしいのだろうが、彼にはそれが理解できていないようだ。先ほどまで兄に同情的だったハーフムーンですら「ありゃりゃ……」と若干呆れた様子でいる。
「なに、わたしが女だからって躊躇ってんの? 戦場じゃガキでもナイフ持って追突してくるぞ。アンタもそうやって生きてきただろ。躊躇いなく殺れよ。ほら。試しにわたしの腹殴ってみな。ほら!」
 ハティを叩き起こし、ダリュは棒立ちになって自らの薄い腹を叩く。ショート丈のトップスとハーフパンツといった、上下揃いのデザインのジャージ姿でいる彼女の腹は、確かに剥き出しで狙いやすい。しかしハティは構えはしたものの、どうしてもその懐に突っ込んでいけないようで、渋い顔をしてただ肩で息をするのみだ。じりじりと距離を詰めることすらしない。
「なんだよ、なにを躊躇うんだよ。説明してみな。さっきから防御防御防御! ダッセーんだよ!」
「……臍フェチで」
「はあ? ふざけてんの?」
 ハティの唐突な宣言に、ダリュは意気を削がれすこし笑ってしまっているが、すぐに「隠すから殴りな」とそのピアスで彩られた臍を手で隠した。そのまま「これでいいでしょ。ほら!」と笑いを噛み殺した様子で、一歩詰める。「うっ、そうやって隠されると余計に」「隠し方もなにもないだろーが! つか余計にってなに。手ブラ萌えか。この程度で海綿体が充血すんのか? あ? おっ立つのか? 立たねえだろ? ナメたクチきくんじゃねえぞちいカブがよ」「ちいカブってなんだよ。ちいさかねーよたぶんな」「一丁前に下ネタこいてんじゃねー。つかどうやって比較すんの。やる気マックス状態で周囲の男性陣と並べる機会でもあんのか? 激ヤバ文化圏のこと教えてくれてありがとね!」「いやいやそこは伝聞推定で建造されたガラスの城なんで」「ガラスって言っちゃってんじゃん」……もはやコントだ。しかし彼はこの間に息を入れたかったのだろう。いくらか落ち着いた呼吸とともに垂れ流れた鼻血を拭い、「もう一本お願いします!」とファイティングポーズを整える。しかしその姿から窺える違和感で、彼の腕の骨が折れていることが見て取れた。そろそろ制止すべきかと思っていると、ダリュは「来いよ、ハーフムーン!」と私の隣でペットボトルの軟水を飲んでいたハーフムーンに呼びかける。すると次の瞬間にはそこに彼の姿はなく、視線を元に戻した頃にはダリュが吹っ飛ばされていた。彼女の華奢な身体はハティを巻き込み、もの凄い勢いでゴロゴロと床を転げまわり、壁に激突する。するといち早く起き上がったのはハティで、彼は鼻血を噴いているダリュを胸に庇いながら「おい翠雨! なにしてんだよ!」と本気で怒鳴った。「女の子だぞ!」
「だ、そうですがー?」
 二人の前に仁王立ちし、恐らく笑みを浮かべているであろうハーフムーンがそう声音で含みを持たせると、ダリュは「最悪オオカミだよ」と吐き捨てたあと、「でもアンタは最高だよハーフムーン。やっぱり兄貴より強いじゃん。シビれるね」と嬉しそうに顔を上げる。舌を噛んだのか口からも出血していた。
「あれ、首折ったと思ったんだけどな」
 ハーフムーンの表情は私の位置からは窺えないが、きっと笑顔のままだ。視認が難しかったが、先ほどの彼はダリュの頭部目掛けて膝蹴りを食らわせていたことは確認できた。さっきまでダリュの容赦のなさに怯えていたくせ、微塵の躊躇いもなく、呼ばれたから行った、くらいの調子で。
「ハティなら折れてる。……おい、こうやるんだよ。わかったかおええええ」
 ハティの腕の中から顔を出すと、ダリュは口内に溜まった血を吐いたらしい。それを見てハティは、「えっ、ちょ、ダリュちゃん舌切ったのか?」と顔を青褪めさせておろおろする。それからシャツの裾を咥えさせようとして、彼女に跳ね除けられていた。「うちの弟がごめん」「ごめんはアンタだろ。弟からちゃんと見て学んだ?」「見……て、ない」「兄さんそりゃないでしょ。せっかくダリュが身体張ってくれたのに」
 やいのやいのと楽しそうな三人を眺めて、そろそろ休憩を入れようかと時計を見る。もう半日はダリュとハティはふたりで打ち合っていた。休憩のあと、私からの有り難いご指導ご鞭撻タイムを挟めば、ちょうど退勤時間といった頃合いだろう。
「ん。ハティ、アンタ腕折れてんの?」
 ふと私と同様に違和感に気づいたらしいダリュがそんなことを問うのが聞こえてきた。抱きかかえられたことでダイレクトにその異変を感じたのだろう。彼の太い腕をぺたぺたと触って確かめている。
「ちょっとな」
「ちょっとってなに。折れたか折れてないかの二択でしょ。ヤワだね」
「ヤワでさーせん……」
「しかたないなー。ほら、おいで」
 そう喋りづらそうに言って、ダリュはハティの胸倉を掴んで引き寄せ、キスをした。
「んんんんん……?」
 目を丸くして固まっているハティは、疑問符を連打したかのような呻きを上げると、急速に傷や骨が治っていく感覚が新鮮なのか「ん?」「む?」「んん?」「ふ?」と舌の擦れる合間になおも多彩な疑問符を叩き続ける。それを見てハーフムーンは「あっ……そっか」となにかに納得した様子でひとり頷いていた。数秒後、ダリュは唐突にハティを押し退け、「はい。痛いの飛んでった」と言葉でキスを締めると、
「……よし、ハーフムーン、わたしとやろ! ハティ、アンタは邪魔だからあっち行って見てな!」
 と、立ち上がり、笑っているらしいハーフムーンの手を取ってホールの中心へ駆けていく。残されたハティは茫然としている様子だったが、ダリュに「邪魔って言ってんだよ!」と再度促されて壁際にとぼとぼと寄り、そして私の近くにやってくると床に置いてあったタオルや水といった諸々の私物セットの前に腰を下ろし、膝を抱えた。なぜだか妙に黄昏ている。
「どうした。やはり骨折が一気に治る感触は慣れないか」
 上長として励ましてやるつもりで隣に立ってそう声をかけると、彼は大袈裟にその肩を跳ねさせ、数秒の沈黙ののちに「そっす……」とだけ返事をした。確かに高速再生に慣れている個体とそうでない個体がいる。彼には高速再生が備わっていないし魔力の供給源となる主人もいないので、もしかしたら初めての体験なのかもしれない。私も初回は「うわ、ぬるっとする」と思ったものだ。遠い昔のことだが、面白かったのでよく覚えている。
「なあに、すぐに慣れるさ。殺しくらいすぐに慣れる」
「うっす……」彼は水を飲みながら頷く。
「治癒の感覚は若干性的というか、やはり肉体内部の損傷は外傷に較べて……」
「話の途中にすんません、眦哩先生」
「ん?」
 彼が私に質問したがっているようなので、笑顔でそちらを見る。すると彼は幾度か言葉を躊躇する素振りを見せたあと、
「妬かないんすか?」
 と言ってその凛々しい眉の入り際に力を込めた。
「ヤク……とは?」
 しかしその言葉の意味が、いや、誰のソレがどこに向いているのかがわからずに私は問いを返す。すると彼は、「あ、やっぱいいっす」とさらりと言って、激しくぶつかり合っているダリュとハーフムーンの戦闘に注目したようだった。
「そうか。やっぱよくなくなったらいつでも言いなさい」
 私も腕を組んでふたりの試合を見つめる。それは最早試合というよりは死闘と呼んでもいいほどで、勿論ある程度手は抜いているのだろうが、どちらかがリズムを崩せば瞬く間になにもかもが『終わる』のだと予感させる迫力があった。
「おお、やはりハーフムーンは筋がいいな。見てみろ、知っているかもしれんが彼には吸血種が混ぜてあってな。ヘイストが使えるから実に華麗だ。流石はショウ・ケースにいただけのことはある。死闘とエンタメの共存が見事に成っているな。相当苦労しただろうに……ふむ。やはりナイト・シリーズは優秀だな。私が主に力を入れたのはサバイバル・レート起死回生術なのだが……」
 私の有り難いオーディオ・コメンタリーのなにに反応したのか、ハティはさっきのキスよりもぐっと目を剥いてこちらを振り返った。そして恐る恐るといったふうに「アンタ、あそこにいたのか」と問うてくる。まさか私の元所属も知らないのだろうか。しかし聖者協会には多くの拠点がある。ゆえに私をただの『元聖職者』とだけ認識していた可能性もあるので、優しく教えてやるつもりで、
「ん? そうだが。パパと呼んでもいいぞ。ナイト・シリーズは私の担当だ」
 と促すと、立ち上がった彼に胸倉を掴まれた。その動きは見切っていたが、敢えてそうさせてやる。鋭い眼光だが、わたしを射貫くには足らない。まだ認知確定距離より光年離れている。
「いいぞ。首でも絞めるか? 私は構わないが、その場合ダリュが即座にキミの首を刎ねるぞ。これは個人的な意見だが、あの子にキミを殺させないほうがいい」
 すると彼は舌打ちをして私を突き飛ばすかのように乱暴に解放したかと思えば、口ではしおらしく「すんませんでした」だなんて言う。謝る必要はない……と、思っても言ってやる義理はないので、私はそれをしない。ジャケットの襟を正して「許そう」とだけ返す。
「……ざっす」
 だのに、この若狼はボコボコにされたまま、息を吹き返さない。まったく、私の優しさがわからないとでもいうのだろうか。好きな娘を二度も失ったことが、余程のトラウマになっているらしく、彼はここのところずっと傷ついた目をしたままだ。しかし負の感情というものを永続的に抱き続けるには相当な持続力が要る。それを乗り越えるにしても放棄するにしても、今のままでは結局のところ、力が足らない。彼はただずっと、渦中で蹲っているだけだ。
「はっはっは、私のこの壮麗なる顔貌のせいで却って生存本能を誘発してしまったか。許す許すー」その肩を叩いて、敢えて雑にこの件を処理する。「でもまあ覚えておきなさい。私がキミに期待したのは運命力だ」……それだけ伝えて、私は忘れてやる。
「なあ、アンタ。左目、見えてないのか」
 まだ私と雑談してくれるつもりなのか、彼は首にかけたタオルでその怜悧な美貌を汚している血を拭いながら、そう問うてきた。なるほど、観察眼に劣るわけではなさそうだ。
「ああ、左は義眼でね。BMIと繋ぐことのできるウェアラブルデバイスなのだよ。だから視覚情報は得られるし詳細に分析もできるぞ。出して見せてやろうか」
「いや、それはいい。つまり死角のフォローは要らないってことだな」
「おや、そこまで考えていてくれたのか。いい子だな。今夜は肉を奢ってやろう」
「肉」……一瞬、ハティの目が輝く。そのさまはなかなかに可愛らしく、私は年長者として真っ当に嬉しくなる。食事で喜ぶ若い個体というのはいつの時代も構い倒し甲斐があるというものだ。私がつい笑顔になったからか、ハティは繕うように二三度咳払いをすると、「……差し支えなければ、どうしてか教えてくれるか? トラウマとか、あれば……できるだけ触れないようにするし」と自らの左目を指でさした。彼はナイーヴなだけあって気が回る性分なようだ。
「ん? ダリュにやったんだ」
「やった……?」
「そうだ。食わせた」
 どうやら彼は、絶句したようだった。沈黙は遠くで鳴るきゅっきゅとした足音に掻き消され、ジムナジウム全域には及ばない。私以外が観測しようもないそのサイレント。また、その動き。愉快で甚だどうでもよくて心にかかって未知数だ。もっと見てみたいとさえ思う。
「知らないのか。主人の一部を食わせた使い魔は強くなる。他にも腕の一本くらいは与えてもよかったんだが、あの子が嫌がってな」
「つまりアンタは、ただ使い魔を強くするために嫌がる彼女に自分の目を食わせたのか……」
 ああダレスよ、私を聖職を辞すに至らしめた狼よ。もっとびっくりしてみてくれないか。
「そう捉えてもらって構わんよ。だからその点にトラウマだのはない。気を遣うな」
 だが今はただ視線を外す。現在のところ私は彼の上長で、なんてことのない他人だ。逸らした視界の向こうから、ダリュがハーフムーンを背負ってこちらにやってくるのが見える。いや、ハーフムーンがダリュを後ろから抱きすくめて首筋に咬みついているのだ。つまり、吸血をしている。私がそう認識したのと同時に、みるみるうちにハーフムーンの白い肌の上に奔る赤黒い傷や痣が快癒していくのが確認できた。しかし興味津々な私の傍らでハティが先ほどの弟と同じように「ひっ」と短い悲鳴を上げたのは、それがあまりにも獰猛で野蛮な行為のように思えるからか。だが当のダリュは首を若干傾けたまま、「見て、永久機関」と背中の彼を指差してけろりとしている。
「なるほど。先ほど同様、お前の性質を活用しているのだな。確かにトレーニング時や緊急時には非常に有用であると認めざるを得ない。しかしその機関は私のビッグマグナムがあってこそ完成するので今はデミ・永久機関と呼びなさい」
「うっぜえー。てかだいたいさ……」
 もう少し続くかと思われたダリュの悪態は、ハーフムーンが「ぶは」と息を漏らしながら顔を上げたことで上手い具合に中断された。彼は白く滑らかに戻った顔面にかかった前髪を掻き上げながら、
「もー、さっき鼻折られちゃってさあ……これくらいして貰わないと割に合わないよねって感じなんで先生ごめんなさーい。使い魔ちゃん食べちゃった」
 と軽い調子の言い訳を私に向けて、それから「やっぱダリュちゃん強いねー」と自らの赤く濡れた唇を舐めた。「あと美味しい」
「えー、わたしはアンタに肋骨折られてるんですけどなにか貰えないんですかあ?」
「んふふ、なにほしい?」
「そのリップ、FMの? あとで貸して。今朝わたしの折れちゃって、マジ萎えてさ」
「いいよおー。あとPC間違えて買っちゃったアイシャドウパレットあるからあげる。夏イケるでしょ?」
「やった。いけるいける。セカンド夏っぽいんだよねー」
 どうやらふたりとも戦闘と出血でハイになっているようだ。流石はバトルジャンキー(と、私は分析している)である。きゃいきゃいと姦しく絡み合いながら、ダリュとハーフムーンは手を繋いでジムの出口へと向かっていった。どこへ行くんだとハティが問うのに、ダリュが「シャワー浴びてきまーす」と背中で返す。そうこうしているうちに置いて行かれたハティに、「背中を流してやろうか?」と笑顔を向けると、彼は「いいっす!」と引き攣った表情で言い切って、慌てて二人を追いかけてゆく。


 折角なのでチャイナタウンの外の店を選んだ。普段の出前や近場での昼食夕食で、アメリカナイズされた中国料理には飽き飽きしているだろうと踏んでのことだったが、一緒にタクシーに乗ったハーフムーンは喜んでくれた。道中、「いつも外にご飯に出るの面倒で食堂で済ませちゃうから」と、彼はベースの食堂のメニューに飽きたという話をしたが、全くもって同感だ。食堂の料理は不味くはなく美味ですらあるが、代わり映えがしない。同意を示すと、「ていうか先生、私服のほうがセクシーですねっ」と笑って、彼は私の座っている助手席のヘッドレストに絡みついてくる。
「ちょっとフム、やめなって。つけあがるよ」
 と、彼の隣に座っているダリュが新発明したらしい愛称で彼を呼んで窘めるが、私の美貌が評価されることは当然であるのになにが不満なのだろう。ヤキモチだろうか。
「なっはっは。もっと讃えるといい、ハーフムーン。店で私の隣に座ることを許そう」
 下ろした前髪を掻き上げながらそう言うと、ダリュはそのアンニュイフェイスを更に憂鬱にして傍らの彼を睨む。
「ほらー調子乗ったじゃーん」
 するとハーフムーンは、
「私は自信満々な男のほうが好き。優れてるのに控えめとかキッショいでしょ」
 と言いながらダリュの肩を組んだ。ふたり並んでいるところを観察してみると、勿論ダリュが華奢であるのは当然として、ハーフムーンも中々狭小な骨格をしていることが顕著に見てとれる。客観的にも女にしか見えないだろう。ゆえにショウ・ケースでも人気を博していたのだろうが、それと同じだけそのきらびやかな日々は苦悩に満ちていたに違いない。……ショウ・ケースとは賭博で運営されている闘技場見世物小屋であり、彼は人間界に降りてきてからSGJに入るまでずっとそこで生計を立ててきたと聞いている。あそこでは負ければ待ち受けるのは死のみだ。流石に赤いドレスの女王インデペンデント・クイーンの名を、人間界にいる人外族で知らぬ者はいない。彼はそこで百年以上玉座を譲らなかった。ゆえに、彼は兄より強い。生に対し切実だからだ。
「謙遜キッショと傲慢キッショにどのくらいの差があんの?」
「えー? ハナ差」
「僅差じゃん」
「その僅差が重要なんだよね」
「わっかんないなあ……」
 タクシーが目的地に到着したので、つつき合って楽し気なふたりを促して降車する。ダリュは彼と腕を組んで少し嬉しそうだ。間に割って入ろうとすると「邪魔しないで」と睨まれた。
 もう一人は後でやってくるとウェイターに告げて席へ。ガラス張りの天井が植物園あるいは聖堂のような趣きを演出するこの店では、アルゼンチン料理を取り扱っている。アルゼンチン料理といえばやはりアサードというバーベキューが有名だ。弱火で燻し焼きにした肉を岩塩やチミチュリというソースで食べるもので、そのシンプルさゆえに野趣を味わいたいならうってつけの料理といえる。ハーフムーンが「エンパナーダも食べたいですう」と言うので、それと一緒に人数分の盛り合わせを注文した。それから役者はひとり足りないが、先にアルゼンチンワインで乾杯をした。マルベックの酸味が食前にちょうどよく、穏やかなタンニンが強調する果実感をゆったりと鼻から抜く。
「てか兄貴なにやってんの?」
 ダリュがテーブルの上でスワリングしながらハーフムーンに問うと、彼は「なんか買うものがあるらしいよ」と腕時計を確認する。そしてワインのボトルと一緒に出てきたアカエビとオオハタの創作寿司を、指で摘まんで口に放り込んだ彼は、「うん。美味しいです先生」と笑顔で私を見上げた。なかなか可愛らしい振る舞いをしてくれる。
「愛い奴だな、ハーフムーン。抱いてやろうか」
「えー、まだ先生のこと知らないからなーどうしよっかなー」
 笑顔のまま「おかわり注いでくれますー?」と私の肩にタッチして、彼はグラスを差し出してくる。ふむ、可愛げがある。可愛げがあるのはよいことだ。言う通りにしてやると、彼は「心込めてくれましたっ?」とグラスを手に小首を傾げた。……ふむ、可愛い。
「勿論込めたとも。察してくれるか?」
「ふふ、どうでしょう」 
「チョロすぎない、先生」
 斜め向かいの席からダリュの不機嫌な眼差しが向けられていることに気づき、握っていたハーフムーンの手を離す。まったく、私の使い魔はヤキモチ焼きで困る。お前が一番だぞとウインクをしてみせると、彼女が持ち上げた皿でガードされた。投げキッスも同様に。素直じゃないところも可愛いのが私の使い魔の美徳である。可愛いふたりに囲まれて、今夜は気分がいい。
「ね。アンタ、どういうオトコが好きなの?」
 僅かに身を乗り出したダリュがそう問うと、彼は「興味あるの?」とワインをひとくち。「え、ない」「そういうトコ」「縄張り争いしたくないからご参考までにって感じ」「それは賢明」……もう一杯をふたりから催促され、注いでやる。
「やっぱり背はヒール履いた私より高くないとダメ。あと、肩周りががっちりしてて、腕が太くて、胸板がぶ厚くてー。髭はあってもなくてもいいかな。でもただのマッチョはイヤ。男性ホルモン! って感じと、ある程度の優美さが共存していてほしい。動物に喩えるなら肉食獣か猛禽系」
「兄貴過ぎてウケる」
「えー、兄さんはナイかな。見た目は大好きなんだけど、自信がないんだもん」
「なら私だな」
 どんと胸を叩いてそう主張すると、ハーフムーンは「そうかも」と言って私を一瞥した。するとダリュは寿司にいつも鞄に入れて持ち運んでいるホットソースをかけながら、
「いや、先生よりアンダーソンじゃね?」
 と言って、空いている手で彼を指さす。
「そうなんだよねー。いや、アンダーソンはもうガチパパだから違うんだけど、なんかそうなんだよね」
 なんだと。私よりもアンダーソンが好みだというのか。あの、枯れた見た目の男が。あの、なんだかちょっとドジな雰囲気のあるトホホ系の男が。このビューティフルビーストである私よりも。……衝撃で声が出ない。
「ああ、わかった。パパみだ」
 ダリュまでわかったふうに再度ハーフムーンに人差し指を向ける。
「そうなのかもー……ああいう甲斐性オーラってやっぱり妻子持ちからしか分泌されないのかな」
「アンタ愛人顔だもんね。そりゃ好きだわな。破滅しないでよ」
「愛人顔って酷くない? だとしても顔だけでしょ。人生関係ないでしょ」
「いーや、人相ってモンご存知?」
 私の窮状を微塵も察してくれる気配なく賑やかなふたりの皿に、私は渋い気持ちになりながら運ばれてきたエンパナーダを取り分ける。一応ハティの皿にもひとつ乗せた。ナイフで割ってみると中身は粗い牛ひき肉とタマネギ、それからゆで卵のようだ。断面にレモンを絞って齧り付けば、クミンが強めに香る。そして少量混ぜられているレーズンの甘さがワインとの相性をまた一段階上へと引き上げており、私は早々にボトルを追加した。ハーフムーンも美味だと喜んでいるようで、「先生の一個ちょうだい」とウインクしてきたので気前よく譲ってやる。ダリュはしばらくじっとその素直な揚げ色のついたペイストリーを見つめていたが、やがてホットソースとレモンを手に取るとそれらでサクサクに揚げてある生地をビタビタにしてから食べ始めた。ハーフムーンは「舌どうなってるの」と笑っていたが、私は「食事など好きにしたらいいのだよ」といつものように声をかけてやる。ダリュは味が強烈なものを好むというよりは、そっちのほうが安心するからそうしているのだ。


 ダリュはあの双子がまだ手のかかる時期に生まれた。いずれ王となる個体に与える私設兵の一員として機能するよう、私が手ずから調整を施し、周囲にも『最高傑作になりそうだ』と吹聴していたのだが、どうやらそれがよくなかった。生まれた彼女は、私を妬む他の聖職者からの嫌がらせに遭うようになったのだ。私が双子に絵本を読み聞かせているあいだ。彼らの教育プログラムを組んでいるあいだ。その成長に一喜一憂しているあいだ。奴らは私に直接手を下すのではなく、ダリュを標的にした。主に食糧への混ぜ物をしていたらしく、彼女は頻繁に体調を崩していた。私は彼女に対してよく体調を崩す子だなとしか思っておらず、子どもなのだからある程度は仕方がないとその体調不良の原因究明を怠り、気づいた頃にはダリュは極めて強い対毒耐性と引き換えに味覚障害に陥っていた。ダリュは生きるためになんでも食べた。味を妙に思っても食べた。吐いても食べた。混ぜ物の量が増え、その風味をごまかすために極端な味付けのものになればなるほど食べ易いと感じるようになったのだ。どうせ食べなくてはならないのなら味が強いほうがスムーズに食べられるという思考から、いつしか味が強くないと食べられないという方向へ捻じ曲がってしまった、らしい。……色々あって協会からダリュを連れ出してからは、その食事の矯正が大変だった。パンが食べられないし水も飲めない。いくらなにも入っていないと説明しても嫌がり、無理に口に押し込めば噛まれた。最初のうちは私の血だけは飲ませていたが、それだけでは肉体が維持できない。私がいくら数々の傑作を幼体から育て上げ世に送り出した天才とはいえ、教育とは仕事でやることであって私生活に食い込んでくるとなると話は別だった。それでも今度こそ投げ出したくはなくて、私は毎日毛を逆立てて怯えるダリュと向き合い、そのぶんほとほと困り果てた。当然ながらダリュは次第に体力が落ち、省エネのために獣形態のままでいるようになってしまった。その暗い睛から涙をこぼしながら私の指から血を舐める彼女は、それでも私の腕のなかで眠ってくれるから、余計に辛かった。私はお前の信用を得るに値しないというのに。
 しかしある日、ダリュは私がちょっとした会食から持ち帰ってきたピザに添えられていたタバスコのミニパウチに興味を示した。と、いうより目を離した隙にそれらを置いていたカウンターテーブルの上でそれに小さな牙で穴を開け、滲み出たそれを勝手にペロペロと舐めていたのだ。私はそのさまを目の当たりにして、テーブルの上に乗ってはいけないと注意することも忘れ、テイクアウェイパックを開けて中身にタバスコをしこたまかけてからダリュの前に差し出した。するとダリュはすんすんと鼻を鳴らしてなにかを確認すると、ぱくりとパン生地に齧り付いたのだ。私はそれまでずっと、そんなに苦しい思いをしてまで味の強い物を食べる必要はないと思っていたのだが、ダリュにとってはそれがよかったのだ。それが彼女にとっての普通なのだ。以来、私はそれを彼女の個性として捉えるようになった。食べてくれさえすればいい。少しずつ味を変えなくても食べられるようにはなってきたが、私はもうそれを過剰に喜んだりはしてみせず、強制も矯正もしない。流石に口にするものすべてを味変することは少なくなってきたが、未だに前菜などは味を変えるとその後落ち着いて食事ができるらしいので、私はそれを咎めない。未だになにが正解かはわからないが、ダリュがそれでいいなら、それでいいのだ。


「遅れてすんません」
 そろそろ肉が焼き上がる頃かと思っていると、ヘルメットを抱えたハティがやってきた。彼は私の威光に竦んでいるのか、「俺、ここっすか」と若干引き攣った顔をして私の目の前の席に腰を下ろす。
「なあダリュちゃん、席交換しないか」
「嫌。私はフムとお喋りしたいんだよね」
 早々にダリュのそっけなさを受けて肩を落としている彼に、「なにを飲む? ここにあるのは赤のボトルだが」と声をかけると、彼は「バイクなんでノンアルで」とフレーバーウォーターを注文した。人間界のルール如き、無視しても支障はないだろうに。まったく律儀な男だ。
「兄さん、そのエンパナーダ冷めちゃってるから食べてあげよっか?」
 そう言って身を乗り出すハーフムーンに「こら、追加注文しなさい」と注意すると、ハティは無言で皿を斜め前に突き出す。兄弟にものを分け与えることに抵抗がない性分なのだろう。そして甘えることが生業とでも言いたげに、ハーフムーンはそれを笑顔で搔っ攫った。
「……まあいい。好きに注文して好きに食べなさい」
 促すと、ダリュがメニュー表を開いて「アサードの盛り合わせは頼んであるよん」と彼に身を寄せる。するとこちらからは表で隠れていて肝心の部分は見えないまでも、ハティの視線がダリュの開放的な胸元をチラチラと見ていることが窺えて、若いなと思う。流石のプレイボーイもダリュの麗しい乳房の前ではまるでひよっこだ。しかしああいうのは敢えて見ないままに揉むのが常道であろうに、若造めてんでわかっちゃいない。さりげなく背中から手を回して手の甲をリトマスにし、拒絶がなければワシっといくのだ。……私の視線に気づいたダリュは、きっとハティの視線にも気づいているが、ただ私に向かってじっとりとした眼差しを向けてくるだけで、彼の視線を咎める気はないようだ。
 アサードの盛り合わせが運ばれてくると、若者たちはわかりやすく色めきだった。奢り甲斐のある可愛いチビどもに先に肉を取らせて、私は適当に余りを貰う。こういう部下の労いの場では私は前には出ない。アサードでチャックアイ(肩ロース)を取らないとはわかっていないな……と思いながらチミリュリをかけた肉を食う。柔らかい肉が織火で柔らかさを保ったまま焼かれており、非常に口当たりがいい。半スモーク状態なので風味もよく、非常に肉々しく豪快な味わいであるものの、どこかしっとりとした品格を備えていた。アサードという語には社交会という意味もあり、共餐のための料理なのだからある意味当然かもしれない。アサードに欠かせないソースであるチミチュリは店や家ごとに味が違うというが、ここのものは唐辛子が効いている。ハーフムーンはラムとパクチーソースの組み合わせが気に入ったらしく、早々にソースの追加注文をしていた。ダリュはスペアリブとサルシッチャが好みらしく、チミチュリと一緒に他の付属ソースもびたびたになるくらいにかけて笑顔だ。ハティはとにかく気持ちのいい食いっぷりで、付け合わせのマッシュポテトと一緒に赤身肉を軽快に片付けていく。流石は肉体が資本の特殊部隊員たちである。
「先生は大食いじゃないのか? ガタイいいのに」
 肉のメインであるコスティーヤ(骨付きカルビ)をナイフで全員に切り分けながら、ハティが問うてくる。それを「私がやるから食べなさい」と代わって、私はナイフを動かしながら彼の問いに返した。
「私はゆっくり食事をするのが好きなんだ。別に小食というわけではないが、若者からしてみたらそう見えるのかもな」
「若者って。先生、いくつだ?」
 その問いには、ダリュが答えた。
「アンダーソンより歳上だよ、この人」
「は? 見えねえ……」
「精神がね、幼稚だからね」
「いつまでも若々しいと言ってほしいな、ダリュ。お前がこーんなにちいさかった頃の私と今の私はなんら変わりあるまい」
 手で仔猫だった頃のダリュを表現してみせると、彼女は「は? ウザ」とまるで反抗期のような反応をする。しかしハティは、妙に両手を握ったり開いたりを繰り返しながら、
「ちいさい……写真あるか?」と身を乗り出してきた。
「あるぞ? 見るか?」
「見る」
「ちょっと、やだ! やめてって!」
 ダリュはどうやら仔猫の頃の画像を彼に見られるのが恥ずかしいらしい。慌てた様子でこちらに身を乗り出してくるのを、ハーフムーンが「いいじゃんいいいじゃん」と笑って止める。その隙にスマホのカメラロールを漁る。
「少し待て。卑猥なフォルダばかりで中々出てこないな。……知ってるか、義眼だとハメ撮りに便利なんだ」
「ふ、ふーん……?」
「見るか?」
「見」
「ヤダもうぜんぶ無理無理無理!」
 私とハティの両方に逆手に握ったナイフを向けて、ダリュは顔を真っ赤にして「刺す!」と叫んだ。殺意のある持ち方である。周囲の席から視線が集まったのを危うく思ったのか、ハーフムーンが「どうどう」と彼女の手首を掴んで制する。「はは、冗談だ。ハメ撮りは見せない。お前のは」と言ってやるが、彼女の憤りはおさまらないらしく、ハティの肩を殴りつけはじめた。「ハティ最低ほんと最低ばかばかばかばーか」「最低なのは先生だろ」ハティは笑いながらその拳を掌で防いでいる。「それはそうなんだけど!」「なにが恥ずかしいんだよ」「だってザコなんだもん」「ガキならみんなザコだろ」……ふたりがそうこうしているうちに、私は二段階ロックにしてある『チビ』というタイトルのフォルダを見つけてそれを開いた。そしてちいさなダリュが『ごめん寝』をしている渾身の画像をタップして、「ほらこのフォルダは健全だ」と言ってハティに渡してやる。するとハーフムーンまで身を乗り出してきて、鑑賞会が始まった。
「うわ、ほんとにちいさいな」
「かわいー。ふにゃふにゃじゃん。耳ちっちゃ」
「くっ、わしわししたい……」
「なにこれ、ランドリーマシンの中?」
「ああ、いないと思って探しに探した結果、ここだった」
「これはなに?」
「ああ、謎に不機嫌だったときのムービーだな」
 まううううう。「ダリュ、どうしたんだ」ふううううう。「なにが気に入らないんだ、ダリュ」るるるうううううう。「こっちにおいで、ダリュ」まおまおまおまお。
「はは、怖くねえ」
 笑うハティにダリュは、「あとで怖がらせてやるからな絶対なにかしらで」と、顔を覆いながら呪詛を吐き捨てているが、「まあ今もあんまり怖くないな」と彼は気にした様子ではない。そして極めてナチュラルに「なにしても可愛いだけだし」と続けるものだから、俄かに私を含めた彼以外の三人が沈黙した。私がこれはダリュには効果的な口説き文句なのだろうかと観察の眼差しになったのと同時に、ハーフムーンが「兄さんさあ」と目許を引き攣らせ呆れた声を出す。当のダリュは口をぽかんと開けたまま固まっていた。
「えっ……あ、俺、いま不味いことを、言いました……?」
 数拍遅れてハティが焦ったような反応を見せる。するとダリュははっとしたように肩を跳ねさせて動きを取り戻すと、そのまま無言でナイフとフォークを握って食事を再開した。これはときめきを繕う行動ではなく、「忘れてやるぞ」の意が込められているだろう。可哀想に、どうやら彼の意図せぬ口説きは彼女には効かなかったらしい。
「……翠雨。兄ちゃん、なにが悪かったんだ」
「兄さんはクール素直なのがよくないと思う。もっとアダルトに出し惜しみしなよ。軽薄に聞こえるよ」
 短い反省会が終わった。デザートとして運ばれてきたドゥルセ・デ・レチェがかかったアイスクリームの、ハティのぶんをダリュは「貰ってあげるね?」と笑顔で言ってひったくると、返事も待たずにレモンを絞って食べ始めた。どうやら謎の不機嫌パートが始まったらしい。まおまおまお、だ。昔と違って威嚇の大音声はないが、彼女の性格は今も変わらない。相変わらずの仔猫ちゃんぶりだ。私は彼女のそんなさまを愛しつづけている。


 *


「おっと、アンダーソンに誘われた。……ふむ、近いな。キミたちは足代を振り込んでおくから各自帰りなさい。私はパパみとやらを究明しにいく」
 店を出ると、直後に震えたスマホを確認して先生は繁華街に消えて行ってしまった。またおあずけかよ……と声に出さないようにそっと悪態を吐いて、わたしは配車アプリを開く。
「パパみってなんだ?」
「パパみはパパみでしょ。私は帰るね。バーイ」
 怪訝そうに先生の言葉を繰り返すハティにそう言って、ハーフムーンはわたしにハイタッチを求めると、そのまま近くにあったメトロの駅へと踵を返した。帰るとか言っておきながら、どうせ男漁りか麻雀だろう。追求せずに見送り、そのままアプリ上で配車オプションを選んでいると、唐突に大きな手が伸びてきてスマホを取り上げられた。顔を上げるとハティがわたしのスマホを勝手に操作している。
「まだいたんだ」
「ひでえな、それ」
 スマホが手元に戻ってきたので覗き込んでみると、なんとオーダーがキャンセルされていた。折角すぐに呼べそうな車があったのに最低である。「なに、やり返しのやり返し?」と吐き捨てると、彼は「そうだよ」と言って私にヘルメットを被せた。
「え、なに。ていうかヘアセットくずれるって言ってんじゃん」
「ん、ごめん」
「ごめんじゃねえ。つかマジこれ覚えといたほうがいいよ。女の子のヘアセットを崩していいのはセックスだけなの。わかる? こちとら毎回毎回時間かけて可愛くセットしてんの」
「……肝に銘じます」
 だなんて適当なことを言いながら、彼は私の手を引いてバイクの前まで連れてくると、シートを叩いた。どうやら乗れということらしい。
「ん、送ってくれんの? やった足代まるっと懐インじゃん」
「いや、俺んち」
「え、ヤダが?」
「ヤダじゃないが? このあいだ勝手に俺のバイク運転したの、これでチャラにしてやるよ」
「え、アンタんちからわたしはどうやって帰るの? どうせアンタ飲むんでしょ?」
「歩け」
「はー?」
 このイキり童貞がよ……と暴言を吐きそうになったが、堪えてハティの後ろに跨る。少し躊躇ったがその腰を抱くと、彼は大袈裟に身体を跳ねさせた。前と同じだ。この程度のボディタッチに過剰反応するメンタルでよく女を部屋に誘えるな……と却って感心しながらヘルメットの側面をその背中につける。流れていく街並み、人、その営みの明かり。切なく綺麗でどこかサイケでいい感じだと思うのに、そのうち忘れてしまうんだろうなと思いながら目を閉じる。わたしの前を通り過ぎるだけのものなんて覚えてらんない。わたしの前で立ち止まってくれたのは先生だけだ。アンタはわたしを救ってそのまま通り過ぎただけの人だ。そのうちきっと忘れて、いつか再会することがあっても「ああえーと」とか言ってなかなか思い出せなくて困ったりするのだ。今までずっと忘れられなかったけれど、わたしはきっと忘れてみせる。アンタが忘れたように。
「相変わらず綺麗だねー。逆に掃除だけしてくれる人でもいんの?」
「逆にってなんだよ」
「童貞だけど、逆に」
「それは逆にだな」
「でしょ」
 案内するもされるもなしにふたりソファにどかどかと座って、タバコに火をつける。電子タバコにしたいのに先生が「お前のタバコを強奪できなくなるだろう」とかいうワガママでわたしを引き留めるのでずっと紙巻きだ。ふうと一筋煙を吹いて、ハティに「お酒」と促すと、彼は「なにがいい?」とタバコを咥えながら立ち上がった。私は勝手にテレビモニターを起動して、登録してあるサブスクを吟味する。映画系ばかりでエロいのはない。
「味が強いの」
 答えながら、適当にアクセスしたサブスクの『今週のオススメ』の中から人気ナンバーワンだという映画を再生する。静かだと童貞には気まずかろうというわたしからのありがたい気遣いだ。
「なにがあったかな……フェルネットブランカは?」
 キッチンスペースの棚を漁りながら彼が提案してきたのは、世界一苦いという薬膳酒だ。ならばせっかくアルゼンチン料理を食べてきたのだから、
「じゃあフェルネット・コン・コカがいい」
 と提案する。フェルネットはイタリアの酒だが、アルゼンチンでその製造量の大半が消費されているという。フェルネット・コン・コカはそのコーラ割りで、アルゼンチンの国民的カクテルだ。さっきはマルベックとミックスしたくなくて注文しなかったが、今はもういいだろう。
「レモンは?」
「いる」
 答えながらファーのジャケットを脱いでソファの背凭れに掛けた。そしてそのポケットからミラーを取り出してヘアスタイルをチェックすると、案の定バンが崩れていたので舌打ちしながらピンを抜く。しゅるりと解けて落ちてきた髪を手のひらで受け止めて嗅いでみると、焼いた肉臭くはなくて安心した。やっぱり奮発して買ったリンデンブロッサムのヘアオイルがいい仕事をしてくれているようだ。手櫛で髪全体を整えて、指で毛先を巻いてカールを維持する。それからアイシャドウに残ったラメが左右均等かを確認してふと顔を上げると、ハティがカウンターテーブル越しになんとも言えない顔でこちらを見ていた。
「なに」
「いや、やっぱり女の子だなと思って」
「アンタも毛繕いくらいするでしょ」
「その、鏡出して色々気にするの、なんかいいな」
「やればいいじゃん。鏡買ってあげようか?」
「……いや、いいす」
 ミラーを閉じてスカートのポケットに押し込むと、ちょうどそのタイミングでハティがソファ前のテーブルにボトルやら氷やらを運んできた。相変わらずステンレスボトルなことに若干笑ってしまいながら、一緒に酒を作る。わたしが注いだフェルネット・ブランカの量に彼は「勘弁しろよ」と言ってきたが、有無は言わせない。
「そんなネイルなのに器用だよな」
「慣れだね。かわいっしょ」
 わたしの手元を気にしたハティに自慢のロングネイルを見せてやる。冬仕様でイルミなギラギラマグネットネイルだ。まあ年中ギラギラではあるが。
「……う、ん。すごく、すごいな」
「あ? まさか若いのに旧弊な思想してねえだろうな」
「いや、かわいいっす……。刺さったら痛そうってだけで基本、かわいいっす」
「だよね」
 彼から納得のいく返答を引き出してから、乾杯をする。苦い! が、コーラのおかげで後味が爽やかに甘い。スライスレモンをマドラーで沈めて潰して、もうひとくち。そのまま一気。そして二杯目を作っていると、ハティが自分の口許を指しながら「舌はもう痛くないのか」と訊いてきた。それはきっと昼間の負傷のことを言っているに違いなく、「もう治ったよ」と返して彼が飲み物と一緒に持ってきたナチョの袋を開ける。「アンタの腕と同時に」……すると彼が「ごほあ」という情けない声とともに酒を吹いた。
「あはは、タバコ吸ってると噎せるよねー。ラーメンとか尚更。……ほら、拭きな拭きな」
 テーブル下の収納ボックスに入っていたティッシュボックスを渡してやると、ハティは「鼻にがっ」とショボショボの表情になりながら抜いたティッシュで顔の下半分を押さえる。「新手の健康法じゃね。薬膳酒鼻うがい」「体験談申し上げるぞ。最悪だよマジで」「いや、まだわかんない。これでアンタはこの冬風邪ひかないかも」……ティッシュの次弾をスタンバイしながら彼が落ち着くのを待っていると、丸めたティッシュをゴミ箱に捨てた彼はふっと静かになって、「あのさ」とわたしの目を見ずに切り出してきた。
「アレは、どういうつもりで?」
「アレって?」
「えーと、ですね……」
 彼がそわそわ濁している、あるいは思い出せずにいる語彙を待っていると、ふと彼が先ほどと同じように口許を指していることに気づいて、「ああ」と納得する。なるほど、彼はギバー体質の個体と組んだことがないのだろう。彼にはマスターがいたことがないのだから、その経験に乏しいのは当然といえば当然だ。
「アレはね、わたしが一応使い魔だけじゃなくてマスターにもなれるように調節されてるからなんだけど、双方のパスを繋げたあとに……」
「じゃなくて」
「じゃなくて?」
「なんで、したん、すか」
 なんで、した。とは? ……いつのまにか彼は妙に真剣な目でわたしを見つめている。
「え……腕折っちゃったから……? 鼻血とか打撲ならほっとくけど、骨は流石に仕事に支障が……」あれ。これはもしかして、わたしが間違っている、のだろうか。「ごめん、余計なお世話だった、みたい……?」なんだか先生のキーボードに飲み物をこぼしたり、花瓶を割ったり、書類の山を崩しちゃったときに近い雰囲気だ。そしてそれは彼からというより、わたしの内側からじわじわと滲み出てくるものだ。やっちゃった、ときのやつだ。
 彼の雰囲気に気圧されるようにして思考を自責方面に調整しつつ、わたしはこわごわと彼の表情を窺う。めっちゃ、見られてる。もしかすると骨折フェチとかだったのだろうか。彼は怪我が多いし、そういう期待も込めてわざと負傷している可能性も全くのゼロでないはずだ。であれば折角のお楽しみタイムをごめん、である。そりゃ骨折なんて毎回するもんじゃないだろうし一大イベントの可能性が………。
「あ、あのう……ワザとじゃないの……ワザとじゃないから許せってのは違うけど、ワザとアンタのお楽しみを奪おうとしたわけじゃないっていうか。でも共有して欲しかったかもそういうのは……」
「じゃあ共有する。初めてだった」
「そ、そりゃそうだよね目の前で楽しみにしていた骨を搔っ攫われるってのはわたしたちくらい強い個体だとなかなかないよ。あーごめんほんともう一回骨折ったらいいかな……? お詫びとして余分に一二本ボッキリいくね……?」
 目の前がぐるぐるする。そういうフェチでそういう性的嗜好であればそりゃあ童貞である可能性も大きかろう。ああわたしはなんてことを! 責任を持って今度は綺麗に折ってやろうと腕捲りをしていると、彼は「ストップ」と言ってわたしの両肩に手を置いた。そして「絶対になにか重大な齟齬がある」と続ける。
「そご」怒られたときに言い訳をしてしまいがちな短所をふっと反省し、若干落ち着いたところで彼の言葉を反芻する。そご、は、齟齬、か。
「治してくれてありがとう」
「え、ああ、うん……?」
 優しい。いつも優しいなこの男は。
「で、俺のファーストキスを奪った感想は特にないと?」
 ファースト、キス。ファーストキスって、アレか。初めてのファーストチュウキス。……え?
「そういえばアンタ童貞だったね!?」
 マジの落雷のような衝撃。わたしは尻尾がボフボフになったという実感と同時に獣型形態になっていた。そしてその衝撃のまま、その体勢のまま、ビックリジャンプをかましてソファから落下すると、壁際のベッドの下にスライディングして入り込んだ。ベッドの下も埃ひとつないってどういうことなんだ……とどこかでぼんやり思いながら、「穴の代わりに! 入ってるよ!」と主張する。「反省してます!」ああだからさっきからこの男は変だったのだ。流石に一途な男の初キスを奪うなんてギルティだ。しかも全然ロマンチックとか真剣とかそういうんじゃなかった。いたずらに奪った。なんにも考えてないどころか、「腕折ったのごめんねー治しとくわー」ぐらいの、まるでナチョってほど軽いノリだった。
「あああああ黒歴史マジほんっとごめんハティごめんごめんごめんごめんなさいいい」
 肉球で顔を覆いながら謝罪を絶叫する。『なんにも聞いていない』を行使する先生と同列の迂闊さだった。もしかするとわたしが『なんにも考えてない』のは、先生に似たからなのかもしれない。ああ主従……。
「ダリュちゃん? 俺、怒ってないんだけど」
 少し笑った声で、ハティはわたしのいる上のあたりに腰を下ろしたようだった。「出てこいよ」とマットレスを叩く音がする。
「嘘」わたしはいま、バチクソにヴィランだ。なのになんでこんなに悲しいんだろう。
「嘘じゃない。責めようとかも思ってない」
「嘘。アンタはわたしをパニッシュしようと攫ってきたんだ。これから拷問とかするんでしょ。わたしの爪は長いから剥きやすそう……。でも吐くことなんてないよ。朝オフィスのクッションから綿が出てたのはわたしのせいってことくらいで……」
「アレはどこからどう見てもキミのせいだろ」
「うう、明日先生に申し出る」
「先生もとっくに犯人が誰かわかっていそうなんだが」
 無意味にベッド下への滞在を引き延ばしていると、なにやらごそごそと音がして、それからマットレスから垂れたコンフォーターの向こうからなにか紐のようなものがするすると床に落ちてくるのが見えた。これはなんだろう。うう、気になる。しかもちょいちょいと動くのだ。うずうずする。尻尾が揺れる。姿勢を低く構えると、「かかか」と喉がクラックする。準備を整え、よし今だ! とその謎の紐状のものに飛びついて明るいところへ飛び込んでゆくと、はっとした頃には「マジでひっかかるんだな」とハティがわたしを見下ろしていた。あ、やばい……と思った瞬間、片手で抱き上げられてしまう。おのれ屈辱である。でも紐はどこだろう。紐がほしいのに、彼はわたしを抱いたままで紐をくれない。
「落ち着いたか?」
「紐は? 紐ちょうだい」
「紐はあとで」
 苦笑した彼はわたしの頭を撫でる。逆毛になってしまったので、「ちがう。その向きじゃないの」と教えてやると彼は優しく整えてくれた。その指からはさっきカットしたらしいレモンの匂いがする。それから彼は手品みたいにその手の中から黒くて細長くてちいさな箱を取り出すと、「ほら、お詫びだ」とわたしの鼻先に差し出してきた。スン、と鼻を鳴らす。食べ物じゃないいい匂い。近くてよく見えないのでヒト型形態に戻ってそれを受け取った。FMの包装だ。箱の裏を見るとエクストリーム・ジュエルズシリーズ九九番とある。FMの新作だと察しつつ爪を使って箱を開けると、鋭利なカッティングの黒いパケ。割るように蓋をひらけば、中身は黒いリップだった。繰り出してみると、マットな質感のスティックに星屑のように不揃いなラメが散っている。
「かわいい」
 手の甲に塗って色味を確認しようとしたが、ふと思い立ってミラーを取り出し、唇に直接塗ってみる。テクスチャは滑らかでムースっぽい。発色は鮮やかで見たままが乗る。角度を変えると紫っぽくなったり赤っぽく照ったり。ラメはぎっしりコズミックなのに主張しすぎていない。わたし、濃い赤や紫だけじゃなく、黒いリップも似合うかも……という新発見が嬉しくて、ハティを振り返り、
「ね、似合う?」
 と、問う。すると彼の睛が間近にあって、そこで彼の膝に乗っていたことを思い出した。あ、やばい近いぞまた怯えさせてしまう……と固まっていると、彼はきらりと一瞬だけ睛に採光したかと思えば「……っす」と謎の返事をした。
「っす。ってなに」
「可愛いです」
「わたしがかわいいのは当然って言ってんじゃん似合うかって聞いてんの」
 殺すぞ、と凄めば、彼は気の抜けたような笑い声を上げたかと思えば、大きく溜め息を吐いた。その笑った犬歯がすこしあどけなくて、可愛いと思う。しかしわたしのほうが可愛いに決まっているというか、わたしのほうが可愛くて、可愛いのは偉くて、猫は神であるので、さっきまで反省して消沈していたのが馬鹿らしくなる。初キスくらいなんだってんだ、童貞め。つかその歳で童貞ならまだしもキスすらしたことないなんてマジの未踏の地かよ。入っちゃいけないところに入るのは猫の当然の権利であるのだし、荒らして引っ掻き回して知らん顔して死ぬ頃には消えるのが猫の義務だ。
「ハティ、ありがとう。これ、大事にする」
 とりあえずちょっと素直。
「ん。どうも」
「でもなんの詫び?」
「翠雨が顔面蹴った詫び」
「はあ? そもそも発端はアンタがちゃんと戦わないからじゃん。なーにが臍フェチだよ触ったことも舐めたこともないくせにナマ言いやがって」
 それから、暴れるターン。許せ許せ、わたしは猫だ。
「そもそもわたしはもうフムから詫びは貰ってるというか、チームなんだからその程度で貸し借りお詫びにはならないわけ。コスメの話はただのじゃれあい。まったく、過剰だよ過剰。しかもアンタ関係ないし。だから弟の詫びじゃあ受け取らない。でも真面目に戦わなくてごめんなさい代とダリュちゃん可愛くてつい贈り物しちゃいました代のどっちかなら納めてあげなくもないかな。好きなほうを選ばせてあげる」
 ほらほら、とケースに納めたリップで顎を突いてやる。するとハティはわたしの手からリップを取り上げ、それから「キス代」と言ってわたしを押し倒した。「んんんんん……?」……疑問符を連打。ぽかんとしていると、彼の顔がゆっくりと遠ざかって。その唇に、黒いリップカラーが移っていて。あ、ティントじゃないんだと思ったりして。そんな呆けた頭でも理解できる確かなことは、その黒の軌跡が示すのが、解釈違いギルティだということ。
「……おい、ヘタクソ。ナメてんの?」
 彼、あるいはわたしを殴りたかったが、堪えた。わたしは先生のお陰でここぞというときのアンガーマネジメントが上手い。
「見てらんない。受けてらんない。笑えない」
 言いながら、彼の胸を押し退けて起き上がる。「これ、アンタの欠点。覚えときな」吐き捨てて、手の甲で唇を拭うと黒が擦過した。それから着ていたワンショルのニットを脱ぎ捨てると、ハティがぎょっとした顔でわたしの名を呼んだが、無視してスカートも脱ぐ。ストッキングを下ろすと爪でちょっと伝線してしまって、なんだかそれでものすごくしんどくなったが、堪える。わたしは堪えるのが得意だ。同僚に裸を見せることくらい、地味に高かったハイブラのストッキングが裂けたことにくらべたらどうってことはない。そしてそのままハティを押し倒すと、彼は目を剥いて「え、え」と狼狽えた様子でいる。
「わたしがぜんぶ教えてやるよ。イイ男にしてやるから感謝しな」
 そう吐き捨てた口で彼の唇に食らいつく。苦い。苦い苦い、苦い! まったく、ちょと仲良くなっただけで単純接触効果にメロついて誤認しやがって、これだから童貞は困る。わたしはただ彼と友だちになりたかっただけなのになんかアプローチがヘタクソだったみたいだし。誰の『せい』かといえばそれはイーブンであるはずなのに、バッドデーであるというただそれだけのことが天秤をわたしに傾ける。リップ折れるし舌噛んだし肋骨折れたし子どもの頃の写真見られるし生理前でセックスしたいのに先生どっか行っちゃうしなんか今日のなにもかもが最低で、わたしだけを罪人にする。それもこれも、あの子が、わたしたちの宝物が、どっかに行っちゃったせいなのに。もっとはやくに躊躇ってないで迎えにいけって、全然仲良くない立場からでも彼に発破をかけておけばよかった。
 顔を上げる。「脱げよ」と促す。「とりあえず勃起できるようにしてやる」サイドテーブルに置いてあったリモコンで明かりを消す。恋愛映画だけが明るい。ものすごくおおきな涙が膨らんだ気がするが、彼のシャツで拭いて、わたしは覚悟を決める。こうなったらわたしはアンタの人生の欠点になって、帳尻を合わせてやるしかない。


 また朝帰りだ。だいだいあの子が消えた日の再演で吐き気がした。そのせいで胃が重くって、わたしはマンションの一ブロック手前で道にしゃがみ込んでしまう。下腹が痛い。震える手でタバコを取り出し路上喫煙。早朝の薄青く冷えた空気に膨らむ煙が、わたしの存在を隠す。朝の喧騒のなかわたしの前で立ち止まる人なんて誰もいないから、眠い瞼を落としてすこしのあいだそこで過去を夢想する。


 子どものころ。与えられていたのが毒餌だったということには、早い段階で気づいていた。人間界とか市井の人たちの食事とは違って、研究所で出されていたのは素っ気ないペースト状のものだとか、顎力を鍛えるための謎に硬いキューブだとかの、美味しくもないけど不味くすらない低刺激の食事だったが、あるときから舌がビリビリするようになった。おかしいとは思ったが、これもなにかの訓練なのかと幼児だったわたしは早々に納得し、気にせず食べた。こんなところで生きてゆくしかないのなら、うっかり死んでしまう可能性を高めたほうがいいと思っていたからだ。その夜は鼻血が止まらなかった。
 先生はわたしに優しかった。その時期はいつも双子のお兄ちゃんお姉ちゃんたちにかかりっきりだったけど、ちゃんとわたしの面倒も見てくれていたし、お兄ちゃんもお姉ちゃんもわたしに優しかった。お姉ちゃんはいつもわたしを見ると「ちちゃ!」と指さして、ガシガシと乱暴に頭を撫でてきたけれど、お姉ちゃんだってちいさかった。……思い出すと今でも笑える。お兄ちゃんが「ゆびさすのはだめ。リリもちちゃだよ」と注意すると、お姉ちゃんは「ちちゃない!」と怒り、ぶわりと赤くふくれてエンエンと泣いた。「ぼくもちちゃだよ」「にいさまもっとちちゃない!」えーんえーん。これを毎回やる。わたしはいつも困り果てて「リリでんか、ちちゃないよ」と毒でよく回らない舌で訴えて慰めようとした。先生はいつもそれを笑いながら見ていた。
 わたしが聖職者たちや他の被験体から『末っ子ダリュ』と呼ばれていたことからして、あの時期の先生はわたしのあとに新個体を作っていなかったことが窺える。先生は一貫して、被験体を乳幼児期から育て上げることに拘っていた。他の聖職者の担当は大抵、青少年期の個体を生み出すことで育成コストの削減と企画遂行の効率化をはかっているようだったが、先生は彼らにもわたしたちにも、幼児教育の重要性をいつも説いていた。でも本当にそうだと思う。わたしは、先生が塗り絵を「たいへんよろしい。エキセントリックで視神経を見事に刺激するな。花丸をあげよう」と褒めてくれたことを覚えているから今もビビッドカラーが好きだし、注射が嫌で逃げるわたしを追いかけ「キミはすばしっこいな。いいぞいいぞ。一番速くなりなさい」と言った先生のことも覚えているから速さを求めた。……要は、忘れられない思い出が、言葉が、たくさん胸のなかにあるということ。でもお兄ちゃんごめん、わたしはいまでも人を指でさすよ。怒られちゃうね。
 他にも忘れられないできごとがある。『末っ子ダリュ』はよく虐められていた。毒餌のせいで身体の発達が遅く、いつも頭もふわふわしていて鈍臭かったせいもあるだろうが、まあ先生が他の聖職者たちから妬まれていたというのが大きな要因だろう。彼らからけしかけられた他の被験体お兄ちゃんたちから嫌がらせばかりされていたのだ。そのせいでわたしは、閉鎖的な環境で育った子どもたちの残虐性を身をもって味わった。その日は、キンキンに寒い雪の日だった。彼らはいつものように先生の見ていない隙にわたしを追い回し、すこしでも速く走ろうと獣形態で逃げるわたしを蹴っ飛ばした。お腹がごきんと聞いたこともない音を立てて、かっかと熱く痛くなった。折れたかも。と思ったら、息をするのも痛くなって、わたしは蹲った。わたしはちいさなちいさな猫だった。まだキトゥンブルーの仔猫だった。そして彼らはわたしを鷲掴みにすると、水中戦闘訓練用のプールに投げ込んだのだ。
 なあなあとわたしは鳴いた。でもそれは数秒だった。キンキンに冷えた水であっという間に手も足も動かなくなり、飲んだ水に喘いで、折れた肋骨が余計に痛んで、竦むようにしてわたしは沈んだ。うう、今思い出しても怖い。冬のプールは遊泳どころか訓練すら禁止だ。それでもわたしは軽かったから底まで沈むわけがなかったが、暗い水がずっとずっと深く続いていて、奈落みたいだったことは覚えている。ヒト型に戻ったら重くてもっと沈むかもしれないとパニックを起こしてもうどうしようもなくなっていると、不意に襟首を掴まれ、その瞬間わたしは本能で落ち着いた。一気に水から引き揚げられ、わたしはそのうつくしい睛を視た。きらきらしていた。金色の瞳孔と、雪のぎゅっと詰まって固まったクレバスみたいな青が、星のようにまたたいて。……彼はわたしを抱き上げると矯めつ眇めつして、「よし、生きてるな。偉いぞ」と笑った。わたしは彼を知っていた。いや、リリ殿下が「ひみつのことあるなのな」と絵に描いてみせてくれた(下手すぎたけど)、謦咳府に通っているという騎士様なのだと察したというのが正しい。絵の中の彼の目は特徴的だったから覚えていた。
「よしよし、冷たいな」
 彼は飛び込む前に脱ぎ捨てていたらしい上着にわたしを包むと、あとはなにも言わずにどこかへ運んだ。朦朧とする意識の中、彼が「おいラドレ、猫拾った。暖房つけてくれ」と言う声が聞こえてきたことは覚えている。彼だけではなく、もうひとりぶんの声も。「拾ったってなに? 人間界じゃあるまいし、猫って落っこちてるものじゃないでしょう」「プールに落っこちてた」「もっとないよ。うわー、ちいさいな……待っててね。今あったかくなるから……」……今となっては、あの紫色の男は嫌い。
 そうしてわたしは、一晩彼らにちやほや世話を焼かれてあっためてもらった。でもこのままだと聖職者たちに怒られそうで怖かったから、明け方わたしは眠っている黒い騎士様の腕の中からするりと抜け出した。そして窓を開けようとひとり踏ん張っていると、紫色のお兄ちゃん(顔が綺麗だったからしばらくはお姉ちゃんだと思っていた)が起き出してきて「帰るの?」と問われた。「かえる」「そう、どこからきたの?」「あそこ」窓の外、少し遠くにある聖者協会を指す。「おこられちゃう」「……やっぱりそうか。わかった、ダレスには説明しとくよ。ひとりで帰れるの?」「たぶん。わたし、跳ねるの、とくい」「そりゃあすごいね」「わたし、なにもいわないよ。ひみつのことあるなの」……彼に窓を開けて貰って、わたしはピンクと紫の空の下へと飛び出した。先生がチューンナップしてくれたすごい身体だから、もう肋骨はくっついていた。
 協会へ戻ると、先生はわたしを見て「どこへ行ってたんだ!」と大きな声で言って怒っているふうだったけれど、わたしを強く抱きしめてくれた。先生は一晩中わたしを捜しまわってくれていたらしく、「迷子になったの」と嘘を吐くと、「どこまで行ったんだ」と真剣な顔でわたしの頬をつねった。
「うんととおくだよ。お星さまのずっとむこう」
「……そうか。そのお星さまのずっとむこうには、なにがあったんだ?」
「きらきらがあったよ」
 きらきら。お星さまの向こうなのだからきらきらだという幼稚な夢想だが、あのときわたしは一度死んで、お星さまになったからきらきらを視たのかもしれない。
 それからわたしは死ぬという希望のために惰性的に食べていた食事を、生きるために食べるようになった。リリ殿下のいう『ちょうかっくいい騎士様』にわたしもなれたら、またきらきら騎士に会えるかもしれない。そうしたらあの人にありがとうって言えるかもしれない。その人はわたしを覚えていないかもしれないけれど、それでもよかった。強くなって、超強くなって。超かっこよくなって。そして、そして。
……でも現実というのはひとしくザコだ。再会したあの人はわたしより弱くって、なにもかもを削ぎ落された抜け殻みたいになっていた。わたしは彼を助けたかった。なのにただ身体がふたつあるだけなのにどうしてそういう性的なことでしか交われないんだろう。男と女だからだろうか。そんなクソザコ価値観に身を委ねたくないのに、そうせざるを得なくなってしまったことがただただ悔しい。クソクソクソクソ。肉体が、性欲が、指向が、嗜好が、なんだってんだよ。わたしはわたしだふざけんな! 墜落してんじゃねえぞきらきら!


 拳を地面に叩きつける。落ちたタバコが指の背を焼く。ちっと舌打ちをして、吸い殻を取り出した携帯灰皿に突っ込む。ちょっと泣いているらしいわたしもザコ。……ああたぶん生理だ。股が不快だ。帰ったらナプキンつけなきゃっつーかパンツ洗ってシャワー浴びなきゃ。めんどくさ。
「ダリュ、どこに行ってたんだ」
 ふと月明りみたいな声がして顔を上げる。そこには部屋着のガウンの上に雑にコートを羽織った先生がいた。手にホットコーヒーのテイクアウェイカップとタバコのカートンを持っているから、キオスクに寄ってきたのだろう。彼の毎朝の日課みたいなものだ。その姿を見た瞬間、わたしはどっと安堵と疲労に襲われて、ふらつきながらも立ち上がって先生の袖を掴む。
「先生」
「うん?」
「抱っこして」
「いいぞ。おいで、ダリュ」
 周囲の確認もせずにわたしは獣形態になって先生の胸に飛びつく。先生は大きくなったわたしを胸元にそっと隠しながら、その大きな手で顎を撫でてくれた。先生はいつもわたしの前に立ち止まってくれるし、「どうした」とか、どうもしないのに声をかけてくれる。うざいけど、通り過ぎたりしない。だからわたしはどっかに行っても返ってくることができるのだ。わたしは彼のタバコの匂いのする指を嗅いで目を細める。すごくいい匂いというわけじゃないけど、いつも通りで落ち着く。今はレモンよりいい。



End.

フェルネット・コン・コカ味の


☆次の一杯をどうぞ。


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