【SERTS】scene.9 ライヘンバッハ・キーホール∽鴨の頸
※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
ニューヨークはブルックリン・ブリッジ・パーク。快晴の昼下がり。川沿いの遊歩道で強い風を受けながら、俺は一歩一歩を意識した無意識にチューニングして歩く。足音は適度に消して、人がいないとは思わせない程度の自然な気配を醸し出し、ただの通行人に扮して、見失わないようにしているのはとある白い少女の後ろ姿だ。
ターゲットはおよそ二十メートル前方を、不揃いな歩幅で進む。興味があっちこっちに向いていて、世界に真新しさを感じているからだ。全方位に興味が向いているとはいっても、ぎょっとした表情で少女の顔や胸元を覗き込む俗世の人々の不躾な視線などは一切気にせず、気ままに、時折きれいな声で不思議な歌をうたいながら、彼女はぐんぐんと進む。きっと、さみしさを紛らわせるために。
今日も少女はひとりだ。同居人がひとりいる。肉体関係はある。彼とは同じ職場で働いていて、職場では夫婦同然に扱われていた。見かけによらず彼女はその会社の取締役で、しかもかなり物騒な業界で名が知られているにもかかわらず、彼女はボディーガードのひとりも伴わずに、ひとりで、歩く。なぜなら今日も彼はいないからだ。その理由が女であることを、実のところ彼女は悟っている。たったひとりの使い魔が自らをさしおいて外で遊んでいることを、黙認しているのだ。
ひとりでいる理由が彼の不義理であるとき、彼女は決まって散歩をする。他の理由ならば家で大人しくしているか、社員と一緒に過ごす。そういうときは俺も監視カメラやドローンの映像を、在宅もしくは職場で確認するだけなのだが、彼女がひとりぼっちのときにもそうして放っておくことは、俺にはできなかった。万が一なにかあったとき、四六時中見守っているからこそ、あの不義理な男よりもこの俺が絶望することは目に見えていたからだ。
そういったわけだから……と上官であるアンダーソンに監視方法の一部変更を申請しに行ったとき、俺が並べ立てた尤もらしい言い訳を聞いた彼はあっけらかんと「そのまま偶然出会っちゃえばいいじゃないか」と職業倫理の欠片もないことを言って俺を呆れさせた。その太く傷だらけの手がハートマークを作ったのを手刀で叩き割り、「ああ! 割るなよー! でもまたくっつきまーす」とうるさい彼の声を背中で聞きながら、俺は初めての尾行へと向かったのだ。
あれから数年。キミはまだときどきひとりぼっちになる。
今日は昼過ぎまでオフィスで仕事をした彼女は、商談があるからとビルの前で別れた彼の行く先を知っていた。一緒にいるときは見ているこっちが恥ずかしくなるほど仲睦まじくしているような男が、実は浮気野郎だなんてことは珍しくない。マメなほど甲斐性があるということなのだろう。そして、それを知っているのは彼女だけではない。慌てた様子で凛々しい顔をした女性社員が外に出てきて、少女に「どこか気分転換に行きませんか」と提案するのを、彼女は明るく、上手に断る。今日は、ひとりぼっちの日だからだ。
そうして彼女はリバーサイドを歩く。高いヒールで、軽やかに。時折立ち止まって川面を眺めたり、小鳥を追いかけたり、散歩中の犬が挨拶に寄ってくるのに気前よく応じたりしながら、今日も。俺はその行動を常に把握しているが、彼女がなにを考えているのかについては皆目見当もつかない。ニコニコこそすれ、泣きはしない。白くて可愛いブラックボックス。もし、キミがついぞ耐え切れなくなって、路傍で顔を覆い涙したとしたら、俺も耐え切れなくなるからキミと出逢えるのに。キミに貸すハンカチも胸も、いつでも用意はできているのに。なかなかどうして、キミは泣かない。
「ハニーミルクラテ」
モニターに向かって呟いた声は、響かなかった。
カーテンを締め切った暗い室で、今日も俺はモニタリング作業。モニターの向こうでは、ラドレとお嬢ちゃんが立ち寄ったチェーン店のカフェでレジ列に並んでいる。そこでお嬢ちゃんになにを飲むか問うたファッキンクソイエイヌは、彼女から「あまいやつがいいです」と返されて、あろうことかキャラメルマキアートを注文した。駄目だ、全然わかっていない。彼女が好きなのはハニーミルクラテだ。長年一緒にいてそんなこともわからないのか。……脳内で罵詈雑言。俺は、あの男が嫌いだ。
それから別件の報告書を作成しつつ、横目でテラス席にいる彼らの様子を確認していると、スタンドに立て掛けていたスマホが鳴った。見ると彼女から「お仕事中はなにを飲んでいるのですか?」とメッセージが入っており、キャラメルマキアートと一緒に俺がプレゼントしたブラック・ウルフなるキャラクターのぬいぐるみが並んだ写真も添付されていた。もう随分と前にもそんなふうにぬいぐるみを連れ歩き、写真を撮る若者文化が流行った気がする……とその行動に対する懐かしさと、それをする彼女の愛らしさに思わずひとり笑ってしまいながら、俺は彼女の問いに「ハニーミルクラテだよ」と返す。嘘だ。俺はブラックならなんでもいい。
「なんだかかわいいですね」……ニコニコの絵文字。
可愛いのはキミだ。今すぐに俺のところに来てくれ。抱きたい。……とは打てずに、「実は可愛いところもあるんだ」と返す。
「しっていますよ」(誤字があるので意訳)
「たとえば?」
「わらうとかわいいです」(変なところにピリオドが入っていたので意訳)「あ、内緒だったのに」……困り顔の絵文字。
だから可愛いのはキミだ。笑ったら死ぬほど可愛いのもキミだ。頼むから自覚をしてくれ。どこぞの理性のない男に拐われる前に俺が拐うしかなくなるから、どうか平和に過ごせるようにその自覚を持ってほしい。
「またハリエット? 好きだねえ」
自分も手元で女とメッセージのやりとりをしているくせ、ラドレは平然とお嬢ちゃんの髪に手を伸ばして言った。俺は即座にチッ、と舌打ちをして缶コーヒーを飲み、煙草に火をつけようとして、そういえばもう持っていないのだということに、毎日こうして新鮮に驚く。
「エッチな写真送ってるんじゃないのー?」
死ね。
「えっち、な、写真、とはどういうものなのですか?」
ほら、お嬢ちゃんは好奇心旺盛だから訊いちゃっただろうが。保護者としての自覚を持て。
「下着姿とか、裸の写真とか?」
説明すんな。死ね。
「それを送ると、どうなるのですか?」
「興奮しちゃうかもね」
死ね。マジで。
「でも王、そういうのは僕にしか送っちゃダメだよ」
「そうなのですか?」
「うん。ダメ。ネットに上げるのもダメ。王の身体は僕のモノだから」
シンプルに死ね。ずっと奴に対しては惨い死に方を望んできたが、もういい。即、死ね。
「……でもおまえのからだはわたくしのものではありません」
まるで舌が痺れているかのようにあどけない発音で彼女が呟いたその言葉に、なぜだかその場にいない俺が呻いてしまった。好きな子にそんな切ないことを言わせたい奴がいったいぜんたい、どこにいるのだ。ファッキンクソイエイヌめ。ああ、少なくとも俺の身体はキミのものだからそれでいいと思ってはくれないだろうか。……お嬢ちゃんに対し身勝手な同情を感じつつ、監視カメラ越しにそのちいさな背中を見つめる。心做しか痩せた気がするのは、俺の視点だからだろうか。
「王のだよ? 今夜じっくり確かめ合おっか」
けろり、というオノマトペがこのうえなく適した笑顔で、アイツはそう言った。コイツはいつか絶対に殺してやる。
「エッチな写真も撮ろうね?」
ド変態サイコ浮気野郎が。……堪らずに拳をデスクに叩きつけ、彼に「死ね」と粉飾なくメッセージを送った。すると、彼がスマホ片手でいるからか、すぐに既読になる。
「なに、ストーカーのくせに。エッチな写真欲しいの? エロ水着バージョンでいい?」
それから即座に返ってきたその言葉は、俺を最大限に憤らせた。
エロ水着とは……打ちかけて、消す。「殺す」と打ち直して、送る。「倫理の欠片もねえカスが。とっととくたばれ」
「くたばりませーん。僕は王の使い魔なので実質不死でーす。主従フォーエバー」……気色の悪いハートの絵文字。
「切り刻んでからピクルスの樽に漬けて蓋を固めてやるよ」
「うわ、酸っぱ痛そう。謎の感覚だけど想像できそうなところがイヤ」
「その感覚をレポしろ。永久に」
「電話。ごめん。またあとで」
まだまだネチネチと言ってやりたかったが、それは彼からの簡潔な報告で打ち切られた。モニターに視線を戻すと、ラドレがお嬢ちゃんに身振り手振りで待つように指示して、スマホ片手にフレームアウトしていく。朝市近くのカフェにひとり取り残されたお嬢ちゃんは、普段なら往来を興味深そうに眺めたり、ふらふらと露店に吸い寄せられそうになったりするはずなのに、今日はただ手元を見つめてじっとしていた。テーブルの上のキャラメルマキアートにも手をつけず、親指でブラック・ウルフの耳をぴん、ぴん、と撫でつけるようにして弾きながら、しずかに。妙に思い、モニターに表示する監視カメラ映像を別のものに変えてみるものの、彼女の表情は窺い知れない。他に使えるカメラはあっただろうか……と一帯の監視カメラ一覧をザッピングしていると、ふと彼女が立ち上がったので元のカメラ映像にに戻す。彼女はカップを片手に店内に入ったと思えば、少しして空になったそれを手に席に戻ってきた。
「……捨てた、のか?」
無意識に発せられたその予想は、なにか深刻な響きで以てイヤホンを貫いた。これは、どうしてか不味いことが起こっているような気がする。勿論すべて飲めとは言わないし、体調や好みもあるだろうが、妙に胸に引っ掛かるのだ。少し迷った末に、スマホを手に取ってメッセージを打つ。
「体調は大丈夫か?」
もしかしたら、月の障りだろうか。俺には子宮やそれに準ずる機能はついていないので、どのような体調の場合にそうである可能性が高いのかは一切わからないが、今どきは調べればなんとかなる。片手で検索をしながら返事を待つが、彼女はスマホを一向に手に取らず、ただただぬいぐるみを弄っているだけだ。下唇を噛みながら不安感に焦れていると、アイツが戻ってきた。
「行こっか」
そう言ってラドレは自分のコーヒーを飲み干すと、空き容器をお嬢ちゃんのカップ一緒にトレーに纏めて返却口に向かったようだった。
「今日はどこに行くのですか?」
「とりあえず朝ご飯食べてから、バスだね。ツアーを予約してあるから、神農架林区って場所を見学しに行くよ。その周辺で一泊して、次は省都に移動かな。武漢は食べ物沢山あるよー」
ふたり手を繋いで朝市を歩くさなか、そんなプランを聞いたお嬢ちゃんが、幼気な質問を数多く彼に投げかけるのを聞く。林区とはなんですか、何時間かかりますか、切符をピッするのですか、森にはサイはいますか……しかしそんな可愛らしい疑問が、今は耳を素通りして、意識上で意味を取りこぼしていくのを感じる。俺はなぜだか、張り詰めた心地になっていた。その理由の根幹が掴みきれなくて、しかしどうしても把握しておかなければいけない予感もしていて、また無意識にタバコを探していた手をぎゅっと握り込む。
モニターの中でお嬢ちゃんは、ラドレが屋台で買った三鮮豆皮を受け取っている。これは豆と米でできた粉を水に溶いて薄焼きにしたものの上に、卵とおこわ、それから具材を乗せ、畳んで火を通した小吃で、結構美味いのだが、お嬢ちゃんはまたしても口を付けずにいるつもりらしい。いつもなら喜んで齧りつき、「ハオチー」と可愛らしい笑顔を見せてくれるに違いないのに、これはやはり体調が悪いのだろうか。しかし肝心のラドレがそれに気付いていない。スマホを弄りながら食べ歩き、食べ終えたことですら曖昧にしか認識していないかのような挙動で彼は手元に残ったゴミを捨てると、お嬢ちゃんの手を握ってバスターミナルへと歩いていく。役立ずが。舌打ちを堪え、せめてこっちを見て笑ってくれないかと彼女に向かって祈ってみたが、届かなかった。人混みのなか、白い髪が幻想的に揺れている。
神農架林区は世界遺産にも登録されている山林地域だ。原生林の茂る広大な自然保護区で、現在このような『林区』は国内にひとつしか存在しない。その中では一切の林業、農業、開拓行為が禁止され、かつて居住していた農民たちのすべてが行政の指示により移住をしたことで無人区となっている。この地域はかつて林業に従事していた労働者たちに端を発するレンジャー隊によって保護されており、一部を観光地として公開してはいるものの、大昔には「野人が生息している」という伝説があったほど山深く危険で、彼らのようにエコツーリズムを予約して観光をするのは賢いと言えよう。この『生物種の遺伝子バンク』とも呼ばれる楽園には、絶滅危惧種や固有種をはじめとした数多の動植物が棲息しているがゆえに立ち入り禁止区域も多く、当然ながらセキュリティチェックも厳しい。
故に、ドローンも飛ばせなければ、こちらから繋ぐことのできる監視カメラもない。
念の為確認を取っておこうと管制室にいたアンダーソンの元に行き、林区で使用されている監視カメラへの接続の是非(敢えて、可否ではない)について訊ねてみたものの「やめとけ」と簡潔に返されたことにより、却って思考がクリアになる。俺の現在地は上海。バイクを飛ばそうが高速鉄道に乗ろうが飛行機を使おうが、約一千三百キロメートルの道程を『駆けつける』ことは自体は現実的ではないし、無意味だ。行ったところでなにもできないし、向こうも驚くなり迷惑を被るなりするだろう。なにより、なにをどうするべきなのかですらわかっちゃいない。しかしどうしてか俺は、彼女から『呼ばれている』ような気がしていた。
「……武漢に移動する」
ただの幻聴のようなものを動機に持ち場を離れるのは軽率かもしれないが、どうしても動き出さずにはいられなかった。それを端的にアンダーソンに告げると、彼は、
「いきなりどうした? ははーん、リルファンちゃんとデートか?」
と言ってニヤニヤと顎を揉んだ。
「デートならもうした」
「なんだと? そんな報告は受けてないぞ、詳しく!」
やけに食い下がってくるアンダーソンを無視して、俺は自身に宛てがわれている仕事部屋に戻ると、荷物を纏めてSGJが借り上げている廃工場を後にした。通りに出てアプリでタクシーを呼び、その車内で航空券を予約する。
「いつでも連絡してくれ。話したいことがあるなら聞くし、話したくないことがあるって話も聞くから」
それだけを彼女に送ると、タブレットPCを取り出してモニタリング可能かチェックしてみる。辛うじて観光バス内のドライブレコーダーが使えそうだが、彼女は後方窓際の席で眠ってしまっているようだった。見えない寝顔を想像しながらPCをバックパックに戻し、あとのみちゆきはただただキミのことを想う。
俺が武漢に降り立ったのと、彼女たちが林区に到着したのはほぼ同じタイミングだったらしい。メトロに乗り換えるために案内板を確認していると、そこでようやくスマホが鳴った。確認するとそれはお嬢ちゃんからで、なにかゲートのような場所から生えた巨大なツノのようなオブジェの前でラドレとふたりで映っている写真が送られてきていた。おそらくガイドに撮ってもらったのだろうそれは引きの構図で、拡大しないと彼女の顔は見えにくいが、角のポーズをしながら笑顔でいるらしいことを知り僅かに安堵する。
「なんのツノなんだ?」
「Shennong」「というらしいです」(音声入力の痕跡)
「ああ、まんまなんだな」
「どんな動物なのですか?」
「動物じゃない。王様で、神様だ」
「ごあいさつ、してきます」
「気をつけて」
俺のこと、呼んだか? ……とは訊けなくて、スマホを懐に戻して移動を再開する。メトロの中、漢口の辺りで適当に宿を探して予約し、その周辺へ。租界時代のクラシカルな建築物を観て回る心の余裕もないまま、通り沿いの屋台で熱幹麺を買い、少し早いが宿にチェックインさせて貰うと、まずは腹拵えに買ってきたばかりの麺に手を付ける。
熱幹麺は中国五大麺に数えられている湖北省の麺料理だ。カジュアルに楽しめる汁なしの混ぜ麺で、主に朝食やおやつとして親しまれている。以前、アンダーソンが食べているのを見かけ、そのソースと和えたあとの黒さに若干引いていたところ「俺を信じろ」と口に捩じ込まれたのだが、これがまあ美味かった。「な? パパの言う通りだろ?」と得意げな彼に「アンタには娘しかいねえだろ」と返しながら、黒いものも案外食えるのだなと感心したことを覚えている。相変わらず、海苔やイカ墨、黒い臭豆腐などは食う気がしないのだが。
早食いの癖がついているのを抑えようとして、普段は意識してゆっくり食べるのだが、今日はなんだか落ち着かなくてものの数分で完食してしまった。しかしやっぱりタバコはなくて、「ああ」と溜め息を吐きながらバックパックのサイドポケットからボトルガムを取り出して何粒か口に放り込む。そしてコーティングをバリバリと噛み砕きながらベッドに移動し、仰向けに身を投げたところで、スマホから受信音がした。見ればお嬢ちゃんからメッセージが届いていて、ポップアップを開くと「いた」という簡潔な言葉とともに画像が添付されていた。どうやらそれは森林をうつした写真のようで、拡大してみるが、なにがいるかは分からない。
「……いなくねえか?」
思わず独り言を漏らしながら、うつ伏せになって目を皿にする。これはもしかすると謎解きなのか? ……と不審に思いながら「ヒントをくれ」と送ってみたとろ、まさかの「?」とだけ返ってきた。これはどういうことなのだろうか。
「せめてなにがいるかだけ教えてくれないか」
「?」「さる」「いちばんちかく」「いる」
……猿なんていない。しかし画像の一番手前に、なんとなく金色のブレのようなものが見切れている。まさかこれのことだろうか……と、画像編集機能でその辺りを囲って送り返すと、ニコニコ笑顔の絵文字が返ってきた。
「わかるかよ……!」
ひとり呟きながら、笑ってしまう。あまり写真を撮るのは得意ではなさそうだとは思っていたが、これはそういう次元ではない。ひと通り腹筋を痙攣させたあと、再び仰向けになり「あーあ」と声を漏らす。なんというかあの子は、個性的だ。
その後もピントが『その他』に合いすぎている花の写真や、七割方ピンク色の写真(おそらく指だ)、紫色の残像(アイツだ)、撮影地点から遠すぎる木の枝に鳥が止まっていると思しき写真、謎の石の接写などが送られてきて、おおいに笑わせてもらった。これはセンスが前衛的すぎるがゆえの奇天烈作品群なのだろう。しかし本人は真面目なことが窺えるから、そのギャップを無性に愛おしく思う。次第に返信がまばらになり、やがて途絶えたので、メッセージアプリを閉じた。すると、ホーム画面には雲呑麺を前にして笑顔のあの子。心底脱力しながら、あの日のことをぼんやりと思い返す。
その心の傷は、癒えただろうか。……彼女は、柔らかかった。小さかった。細かった。この世のあらゆる痛みに、どんな些細な痛みにでさえ到底耐えられなさそうに脆い質感をしていた。砕いてしまいそうだった。勢いのあまり育んできた関係性のすべてを無茶苦茶にしてしまいそうになって、咄嗟に引き抜いた。直後……「やりなおして」と半ば憤っているかのように強請る声。息切れ。手負いの獣、だと思った。そして彼女はゴム製の薄膜をその爪で破ると「ちゃんと、して」と俺を睨んで。
……待てよ。これは、もしかすると孕ませていないか?
そんな天地がひっくり返るような可能性に、俺は血の気が引くのと同じ速度で飛び起きた。その拍子にガムも飲み込んでしまった。
だから食欲がないのか? いや、それだけでは断定できない。しかしお嬢ちゃんはついこのあいだ初潮を迎えたと聞いた。可能性はゼロじゃない。少なくともコンマ以下ですらない。しかしその場合、ソレが俺である可能性は半々のはずだ。そもそもアイツは俺に避妊しろと言ってきたくせ、自分はしているのか。
思考量に圧し潰されそうになりながら、手汗の滲んだ手で『つわり いつから』と検索するが、そういえば俺はお嬢ちゃんのそういう周期の一切を知らないので、検索結果があてにならないことに気付く。愕然とする。ともすると俺と『同衾』するより前の可能性もある。ああ、せめて。ならせめて俺であってくれないか。「俺の子が欲しいのか」と彼女に問うた手前もある。あれはもちろんただ揶揄うつもりの発言だったのだが、俺の方こそ彼女との子が欲しいかと問われれば心底欲しい。俺は『俺の』量も運動量も知らないが、気合いだけ誰にも負けないつもりだ。信じてもいねえ神よ、どうか。
我ながら未確定時点の妄想にしては寒気のする気色の悪さを発揮している。これでは想像妊娠ならぬ想像孕ませだ。まだ確定していないと己に言い聞かせながらも、確定してしまった場合はアイツに殺される可能性があることにも留意する。ならば気を紛らわせることも兼ねて装備の確認をしておこうと、ボディベルトで背中に固定していた拳銃を取り出し、バックパックに忍ばせた予備の銃やナイフをテーブルに広げていく。そしてひとつひとつ順番に解体して手入れをしながら、瞑想……のつもりでいたが、なかなかどうして彼女のことが頭から離れない。我ながら性欲が薄いほうだと自認していたし、色恋に興味の欠片ですら抱いたことがなかったはずで、だからこそ現状が不可解ですらある。正直なところ「一度抱いてしまえば治まるのではないか」という邪念がなかったとはいえないが、こうして抱いてしまってからも俺の頭は彼女で埋め尽くされていた。
可愛い。好き。大切にしたい。そこに性欲を落とし込みたくないという、ガキっぽい煩悶が頭をもたげていて、来る日も来る日も気分が重かった。愛と欲ばかりを人は分とうと無駄な言葉を重ねてしまうが、ほとんどの物事は純粋に独立などしていない。わざわざ要素のひとつひとつを分ける必要はないことを歳を重ねて理解してきたはずなのに、どうして俺は哲学者の卵のようにぐるぐると同じテーマの上を歩き回っているのだろう。せめて拡大し、遠くに及べよ、懊悩の裾。敗者ならせめて建設的であれ……。
途端、彼女もウォーカーであることを思い出す。ちいさくとも一人前の哲学者。悲しみの裾を引き摺り歩きまわる監視対象。彼女はなにを思い悩み、解き明かしたがっている?
幾度となくやぶれる恋? 融通の効かない手指? 百年の孤独? 逃げきれない成長痛?
そのひとりぼっちの議会の、その議論中の命題を知りたいと思った。舌戦はなくとも、ただ星を数えるようにひとつひとつの問いについてきかせてほしかった。
なんだか俺は、とてつもなく恋をしているようだった。
磨いた銃を構えてみる。外も部屋も、既に昏い。スマホは光らない。俺は短く息を吐くと、財布とスマホと、銃を一丁だけ持って部屋を出た。
酒に逃げるという選択肢があるのは大人の特権だ。ホテル近くの、静か過ぎない雰囲気が手頃なパブに入ると、その豊富なタップの中から樽で飲んだことのなかった銘柄を選んでパイントで注文する。単位がパイントだったことと店の内装がブリティッシュ風なことからして観光客が多く訪れそうだなと分析していると、案の定西ユーラシア系の団体が入ってきて、入り口から目を逸らす。ただでさえ俺は身体が大きくて目立つうえに、目付きが悪いせいであらぬ因縁をつけられることが多々あった。個人単位なら流石にこんなにデカい男に喧嘩を吹っ掛けはしないだろうが、ヒトは団体だと気が大きくなる生き物らしく、不快な目に遭ったのは一度や二度ではない。ビールを受け取ってカウンター席の隅に移動すると、わかりやすい拒絶のアピールとしてイヤホンを耳に挿した。
そしてビールを一気に半分ほど空けてからスマホを取り出し、アルバムを開いて彼女の写真を眺める。遡る。
あのパーティーの翌日、バトなる男と皆で飲茶をしたときの写真。……お嬢ちゃんが白牡丹茶をこぼしてしまった瞬間で、この後皆でどの着替えを買い与えるかの争いが起こった。
雲呑麺を前にして笑顔の写真。……正直、あれから彼女に貸したライダースジャケットを着るときはそわそわする。
パーティー直前、着飾った彼女のまるで絵画のような写真。……本当に綺麗だ。この子が王だったという臣民たちが恨めしくすら思える。
貴州でデートをしたときの写真。……あの日、彼女はずっと落ち着かない様子でいて可愛らしかった。聞いたことには人生で初めてのデートだったらしい。特にラドレが撮ったものは唸るほどの秀作だ。
それから。……ブルックリン・ブリッジ・パークでキッチンカーに並んでいるキミの横顔。
あの日彼女は、いつものように川沿いを歩いたあと、パーク内に停まっていたキッチンカーに並んでいた。列が徐々に前進していくのに倣いながら、手元のスマホを見下ろして何度も小首を傾げていたのは、慣れない買い物の支払い方法に四苦八苦していたからだろう。前があと二三人といったところで、ぱっと顔を明るくしてちいさくガッツポーズをした彼女を待ち受けていた次の試練は、慣れぬ『ヒト語』のメニューボード。勿論、読める。発音できる。しかし、どの言葉がどんな商品を表しているかがわからないようだった。コーヒーは、おそらく知っている。でも苦いことは知っているらしく、文字を見てきゅっと眉を寄せていた。ああ、隣に行ってひとつひとつを教えてやりたいが、それは越権行為だ。やがて順番が回ってくると、彼女は「あまいものをください」と言ったようだった。俺の位置からは店員の顔は窺い知れないが、きっと可愛らしい少女の拙い注文に、笑顔で対応したことだろう。少ししてスリーブのついたテイクアウェイカップを受け取った彼女は、ニコニコ笑顔でベンチに移動すると、その蓋の飲み口を開けた。
そのとき、突風が吹いた。
彼女が首に巻いていたスカーフから、留め具のリングが外れた。高い金属音。「ああ!」と声を上げてそれを拾う彼女。スカーフが、ほどけて、宙に舞って。風流の軌跡を描いて俺の目の前へ。「掴んではいけない」……強い理性が鼓動とともに俺の胸を戒めた。しかし俺は、手を出さずにはいられなかった。手の中に落ち着く、柔らかく薄いシルクの感触。ふわりと花束の香り。なぜだかその瞬間、どうしようもなく泣きそうになってしまって、咄嗟に目元を覆うつもりでいた手指が、サングラスのレンズに触れた。顔を見られる心配がないことに安堵半分、悔しさ少々。そのまま彼女に近づくと「ほら」と無愛想に言って、スカーフを手渡した。ああ、近くで見ると、もっとずっと、可愛い……。
「わ、ありがとうございます。きょうは風が強いですね」
俺に笑顔を向けたキミは、受け取ったスカーフをリングとともにコートのポケットに入れようとしている。おそらく、自分では巻くことができないのだろう。そう分析する俺の視線に気づいたのか、彼女は「不器用なんです」とはにかむと、それをポケットの奥に押し込んだようだった。
「あ、あの。お礼をさせてください」
そして俺が踵を返す動作よりもずっとはやく、彼女は俺の手を掴んだ。ちいさな手だ。握り込みたい衝動を堪え、力を込めて力を抜く。
「……いや、たまたま拾っただけだ。そこまでのことじゃない」
「ちょっとだけ。そうだ、なにか飲み物でもごちそうさせてください。ね?」
押しが強い、というよりは、魔力か引力か。断る瞬発力を奪われて、俺は一瞬で途方に暮れた。
「さっきはじめて自分の買い物をしたのです。ピッとしてお金を払いました。あれをもう一度やってみたいのです。ね?」
そう言われてしまっては断れない。しかし俺がイエスと返事をするより先に、彼女は俺の手をぐいぐいと引っ張り始めたので、仕方なしにそれに従った。知ってはいたが、その無防備さを間近で体感すると恐ろしさすら感じる。そしてキッチンカーの前までやってくると、彼女は「なにがいいですか?」と俺を見上げた。
「……キミと同じものを」
すると彼女はにっこりと微笑んで、店員に告げた。
「ハニーミルクラテ、もうひとつください」
その可愛らしい商品名に気圧されながら、俺もそれを飲んだことがないかもしれないことに気が付く。そしてラテを受け取った彼女が、「はいどうぞ」と俺に手渡してくるのに「ありがとう」と返して応じると、ふたりしてベンチに戻った。
「あっ、苦手かどうか聞くのを忘れてしまいました」
「俺も初めて飲むよ……たまには冒険だ」
「んふふ。オソロイ、ですね。オソロイは、おんなじの、こと……」
そう呟いて、彼女はおずおずとラテに口をつけた。
「……む。あま……あま……ちょっとにが……?」
「そうだな。少し苦くはあるな」
そして夢みたいに甘い匂いがする。
「でも、なんだか、イイ、の感じがします……次もこれを買おうっと」
「気に入ったか」
「キニイル……はい、キニイルです!」
笑顔。笑い声。蜂蜜とミルクの蒸気。そのすべてに他の感覚ではなく耳を澄ませていたいような、穏やかな心地。さみしいと思った。出会ってしまったがゆえに、彼女のいない時間とそれに伴う苦痛が再発生してしまったのを感じて、その漠然としたに不安感に細く息を吐く。きっと、俺の心にはこれから雨が降るようになる。苦心して曇天に押しとどめていたのに、残酷にも天気が変わるようになるのだ。瞼をぎゅっと閉じてみるが、夢ではない。ひりひりとした現実感に口が渇き、ラテをちびりとひとくちやった直後に、彼女が「そういえばよくここでお見かけしますよね」とまさかの発言をした。途端に、憂鬱を吹き飛ばす羞恥が訪れ、俺は焦りのあまり熱いラテを一気に飲み干し「それは勘違いだと思う」と繕って、最後にまた礼を言ってから彼女の隣を離れた。そのとき彼女が不思議そうにしながらも俺に手を振ってくれていた姿は、今も胸に残り続けている。尾行時はサングラスとニット帽で変装したつもりでいたが、その状態の容貌を記憶されてしまっていたのだろう。まったくの大失態だった。しかし彼女と言葉を交わし、同じものを口にしたその喜びをどう表現したらいいのか、俺は未だにわからない。そして、面と向かって再会した彼女と連絡先を交換したこの幸福についても、噛み砕けない。寂寞あれど確かに得たこの幸せを、まるごと取っておきたくて、俺は少ない思い出を掻きあつめ、何度も彼女を夢にみる。あの日の夢。はたまた、あの日の夢。或いは、あの日の夢……。
スマホが鳴った。お嬢ちゃんかと思いカウンターに置いていたスマホに飛びつくようにして内容を確認をすると、それはメッセージの受信音ではなく電話の着信音で、アンダーソンと浮かび上がったその表示に首を傾げながらイヤホンに繋ぐ。
「……んだよ、緊急事態か?」
わざと不機嫌な声を出して応答すると、アンダーソンは、
「緊急も緊急なのはお前だろう、ハティ」
と言って、そこで言葉を切った。その「なにが」を聞いて欲しくて堪らないであろう態度に多少イラつきながらも、「なんだよ」とサービスしてやる。
「お前、リルファンちゃんを孕ませたのか?」
俺は酷く噎せた。
「は、はあ?」
なんとか呼吸と態度を整えて特大のクエスチョンマークを投げ返す。爆速で喉までせり上がる動悸に、アルコール由来ではない羞恥の熱までもが誘き出される。
「だってお前、PCの検索欄に……」
そこまで言われて、察した。この男は俺の部屋に入ったのだろう。そして俺が電源を落とし忘れていたPCの電源を切ってやろうとかいう要らん親切心を働かせたに違いない。我ながら完璧な推理だ……。
「ち、違う。いや、違わないんだが、ええと、ええとだな。忘れろ。忘れてくれ頼む。マッカランか? ダブルダブルか?」
失態を買収しようと彼の好きなウイスキーを列挙していると、彼は、
「お、落ち着け、大丈夫だ経験者がここにいる、だだだ大丈夫だ」
と舌を縺れさせながら言った。
「アンタが一番動揺してんじゃねえか」
お陰でふっと冷静になる。てっきりそういうテクニックなのかと思いきや、電話口の俺の上司は引き続き動揺したままだ。
「なっ、ナマでヤッたのか。正直に答えるんだハティ。これはパパ命令だ」
俺はすっと息を吸う。
「……ヤッた」
今度は彼がすっと息を吸う。
「ヤッ……ちまったかー……ま、まあ、そういうこともあるわな。うん、ウチも一回だけとか思ってたら娘ができたんだけどね、うん」
「大丈夫じゃねえな」
「そうだ、大丈夫じゃない。だからこそ。だからこそだ、女の子のほうが不安なんだ。俺らは企画案を出すだけ。実際に製造するの向こう。適当言ってクソ条件の仕事を取ってくる営業は死ね! わかるか? スーツを脱げ。作業着に着替えろ」
どうやらその言葉には俺の知らない私怨が混ざっているようだ。
「よく、分からないんだが」
「馬鹿野郎。会え。会って話せ。会うことが大事だ」
「うん、だから俺は武漢で待機してるというか 」
前後関係は無視して、そうするほかない予定を告げると、彼は、
「あっ……そういうことー?」
と一変して気の抜けた声を発した。
ただただ一ミリも建設的ではない話をしただけになったが、まあいくらか気は晴れた。最後に「グッドラック! 超! グッドラック!」と叫んだアンダーソンとの通話を特になんの名残もなく切ってしまうと、今夜はもう帰ろうと炭酸の抜けかけたビールを飲み干す。それからイヤホンを外し、グラスを返却しようとタップの近くに寄ると、ちょうどビールを受け取ったらしい女性客ふたりが目の前で立ち止まった。それを避けようとするが、前を塞がれる。繰り返し、三回。
「ねえお兄さん、一杯奢るからお喋りしない?」
そう言ったのは金髪。西ユーラシア系。たぶん、美人。
「しない」
短く切り上げて、脇をすり抜けていく店員を呼び止めてグラスを渡す。
「なんで? 彼女いる?」
これを言ったのは黒髪。ラティーノ。たぶん、美人。
「いる。じゃあな」
踵を返して出口へと向かうが、尚も前を塞がれる。めんどくせえ……と息だけで呟いて、「どいてくれ」と再度退店の意志を示す。すると「別の場所でゆっくりしない?」と一歩詰められた。途端に湧き上がる嫌悪感に、我ながら登場が遅いぞと笑ってしまう。性欲を向けられ慣れているのに、慣れていないのが、どこか可笑しかった。
正直、俺は好きになった相手以外に性欲が湧かない。興味もない。特異だと知ったのはだいぶ前だが、自慰行為も、しない。誘ってくる相手が乳の出た服装をしていようが尻がデカかろうが積極的だろうが、『そういう』気にならないのだ。脳裏に掠めもしない。しかし掠めたとて、やる気になったとて、これはただの迷惑行為だ。
「……もう一度言う。どいてくれ」
「……ゲイ?」
「なんでもいい。どいてくれ」
全然グッドラックがねえじゃねえか……と思いながら、露骨に溜め息を吐く。俺は女相手も容赦なく殴れる。だからこそ、意識して手が出ないようにしているのだ。
「彼女可愛いの?」
……これは、どういう舵の切り方なのだろう。金髪は顎に手を宛てながら問うてきた。
「すげー可愛いよ」
「アタシたちより?」
なるほど、かなりの美人だという自覚があるから納得できないのか。
「……較べるモンじゃない」
「あはは、お兄さんいい人だね」
途端に呑気にビールに口をつけ始めた黒髪は、前髪を掻き上げながら言った。
「あのさ、正直に言うけど、お兄さんのことがちょーお、タイプなの。諦めきれない。彼女の写真ある? 見せてくれたら諦められるかも」
そこまで言われてしまっては仕方がない。諦めろよ、と言いながらスマホのホーム画面を見せてやると、彼女たちはふたり同時に顔を見合わせ「こりゃ勝てないわ」と笑った。
「てっきり彼女孕ませて現実逃避したい男と思ってたから、簡単に引っかかるとばかりね」
なるほど、盗み聞いたであろう会話の断片だけでわかるものなのか。これはそういう問題が肉体的に身近に感じられる側の察知力なのかもしれない。
「ちゃんと検査キット買いなよー」
「早めに病院連れてきなよー」
揃って「じゃあね」と言って道を開けてくれた彼女らに「はいはいじゃあな」と返して店の外に出る。夜の冷えた空気を大きく吸い込み、ジャケットの前を首まで閉じながら夜の繁華街を見渡すと、ふと白熱灯のひかりを往来に眩しく漏らして存在を主張するドラッグストアが目に留まった。普段ならば用事もなく縁遠い施設だが、少し考えたのち、入ってみることにする。
外から見ても眩しかったが、中に入るともっと眩しかった。焼き殺されそうにホワイトな店内を進み、進み、数分。どのコーナーに『ソレ』があるのかを、知らないことに呆然とする。店員に訊いてみるべきか……いや、まだその段階ではない。仕方なしに「なんか葉酸を飲むのがいいと聞いた気がする」とサプリメントコーナーを見て違うことに気付き、ベビー用品コーナーを確認してこれまたここには無いことを知り、意を決して生理用品コーナーをあらためてみて撃沈する。「クソバカアホマヌケ……」と呟きながら、「そうだ体温計だ」と思い当たりそのコーナーに移動する。無い。しかしその横にふと視線をずらすと、包帯・絆創膏コーナーのそのまた隣に、避妊具のスペースがあった。なにやらそれらしき箱もあるので、数歩横移動してラックの下段にあったそれをしゃがんで手に取ってみる。これだ。妊娠検査キット……。
「そりゃそうだわな」
独り言を漏らしながら、冴えない頭に悪態を吐く。そして裏面を確認してみると、使用方法の欄に「スティック部分に尿をかける」とあり、驚愕に固まってしまう。……もしかするとこれは使えないのではないか?
人外族で排泄をする者は少ない。エネルギー効率が他の生物より極めて高く、せいぜい精神状態に連動した汗をかく程度だ。お嬢ちゃんに至ってはその極致だろう。セックスのときも汗ひとつかいていなかった。……だとしたらどうすればいいんだ。
その場にしゃがみ込みながらSGJで使っているグループチャットアプリを開き、連絡先一覧から『小カイドウ』……海堂青蛇のアイコンをタップする。彼は『大カイドウ』海堂灯路の甥で、ふたりとも世界各地を回診している人外専門の医者だ。勿論大カイドウに連絡してもよかったのだが、ドクター・アオイはいわゆるクラシカル・ロリータファッションをしている異性装の美人で、なんとなくそちらのほうが良いだろうと思い、彼のページに文字を打ち込む。
「ドクター、今どこだ?」
すると自動返信AIが「ご用件をどうぞ」と素早く返信してきたので「妊娠検査ってどうしたらいい」と送る。すると、打ち込み中のマークが波打った。
「ハティ、まさかやっちゃったのか?」
その、本人と思しき文面に、彼の不愉快そうに歪む細眉が目に浮かぶ。
「まあ、ヤッたから連絡してるわけで」
「ふざける余裕があるんだな?」
「ないです」
「まあいい。人間? その他?」
「王種の子。生殖能力は雌雄両方ある。このまえ初潮が来たばかり」
「ガキじゃないか。狂ってんのか?」
相変わらずドクターは口が悪い。
「一応、成体ではあるんだが」
「王種に手を出す時点で狂って」「ちょっと待て」「あの子か?」
「そうです」
するとそこで返信が途絶えた。しかし打ち込み中のマークは波打っているので、その場で待機する。およそ十数秒の沈黙でしかないのに、その時間はやけに長く感じられた。
「妊娠の疑いがあるのはどっち」
「向こう」
「やることやっちゃったから連絡してきたわけか?」
「正直、疑いもしなかった。でもなんだが体調が悪そうというか、食事を捨てているようで心配になって」
「それだけでは断定できないな。確かあの子はかなり細かったよな。拒食症の疑いは?」
「ないとはいえない」
「率直でよろしい。単純に心労で食事を摂りたくなくなっている可能性もあるだろう。使い魔なりなんなりからきちんと補給しているのならその状態でも問題はないが」
「それは」手が止まる。「俺にはわからない」
「なら、診てみないことにはお手上げだ。一応訊くが、君は子どもが欲しいのかい」
「彼女となら」……意志を込めて。
「そうか。これは確かじゃないが、本人に訊いてみたらわかるとは思う。私にはあの子がどれだけチートにカスタマイズされているかは知らないけれど、あれはもう殆ど神の域にいる生物だから。協会の手にはもう負えないから放棄されているのだろうし……あいつらは星を夢の島かなにかだと思っているに違いないな」
放棄。その言葉だけが、意味を持って耳を貫いた気がした。彼女は、過去にも表舞台から放棄されている。「屠肉に選ばれた理由が、ほしい」……そう言ってあのとき彼女は今にも泣きだしそうに怯えていたのだ。その『屠肉に選ばれた理由』の詳細こそ知らないが、そういうグロテスクな判断を好む実行者たちについては知っている。俺もその被害者だからだ。
俺がなにも打ち込めずにいるのを、彼は気にして、気にしないでいてくれているのだろう。最後のメッセージから数分後、画面に新規のフキダシが開いた。
「以下、私の教え子の連絡先。婦人科志望で名はセンラン。そっちにいるときに何かあったら連絡しなさい」
「ありがとう、ドクター。恩に着る」
「他の生物なら、妊娠したとしてあの体型では安全に産めない。君の不安はただしい。グッドラック。結婚するなら式には呼んでくれ。式はすることをお勧めする。うちは盛大に挙げたお陰で円満だ」
結婚。果たして現代社会においてその契約に意味があるかどうかは疑わしいが、照れる程度には意識していることにそこで気がつく。いや、結婚とは言わずとも、未来永劫そばにいたいと切望していた。俺はもう二度と愛する人と離ればなれにはなりたくない。
立ち上がって、身体を伸ばす。念のためコンドームの箱を手に取り、水とガムと合わせて会計すると、ホテルまでの短い帰路を歩く。部屋に戻ったらラドレに今後の予定を問うメッセージを入れよう……と思っていると、スマホが鳴った。これは着信の震えだ。またアンダーソンだろうか。ガムのボトルを開ける手を止めないまま、手早く肩と耳にスマホを挟み、一粒摘んだ手で受話マークをタップした。
「……なんだよ」
今日は随分と賑やかな日だ。
「あ、ハリエット? 今時間大丈夫?」
思わぬ声に、口に放り込んだばかりのガムを飲み込んでしまう。ラドレだ。
「だ……いじょうぶ、だ」
「そう。……今見てたりする?」
「してない。位置はざっくり把握してるんだが、林区はカメラとドローンが使えないからな。無事ならいい。……で、なんの用だ」
問うと、ラドレは途端に鼻にかかった高い声を上げた。
「星が綺麗だね、ダーリン」
「シバくぞ」
鳥肌が立つのを感じながら、吐き捨てる。
「はは、ごめんごめん。今どこにいるの?」
「漢口だ」
「あ、そうなんだ。丁度よかったよ」
「なにがだよ」
「明日会えない? ダーリン」
「殺す。ピクルスにしてやる」
「せめてピクルスはやめて。……で、会いに行っていい?」
「構わないが、どうした?」
「……王がね。ご飯食べないんだ」
その言葉に、ようやく気付いたかと悪態を吐きたくなる一方で、新鮮にぞっとする。やっぱりあれは勘違いなどではなかったのだ。
「……体調が、悪いのか?」
「うーん……なんか最近よく寝るなあとは思ってて。今日も参加してるツアーの途中で寝ちゃってさ。多分魔力不足だから、普段なら無理矢理にでも僕の血を飲ませるんだけど、今回はとにかく嫌がって、獣形態になったまま動かないんだ。今もベッドの下から出てこない」
「それは……気になるな」
「……元々さ。王は僕の血をあまり飲みたがらないんだよね」
「めちゃくちゃ不味いとか?」
「まあ、その可能性もある。僕、不健康だし。……でも食事も魔力供給もダメだとこれがお手上げで……ちょっと、王! 蹄バンバンしない!」
向こうから、なにやら固いものが床に打ち付けられているような音がする。ラドレの声の詰まり方からして、彼がベッドの下に手を突っ込んでお嬢ちゃんの身体の一部を捕まえて引っ張り出そうとしているのに対し、お嬢ちゃんが対抗しているのだろうと想像ができた。その様子を妄想するだけなら微笑ましいが、比較的大人しい気性の彼女が蹄を鳴らして嫌がっていると考えると、その態度はラドレの言葉以上に深刻な気がした。
「だからキミの血なら飲むんじゃないかって……ほら、母親と父親、どっちかがよくてどっちかがイヤな時期ってあるじゃん? 王、たぶん反抗期とかなかったから……今がそれなのかもとか考えたり……あーっ! ちょっ、弱いながらも噛みましたね? ごめんなさいのペロするくらいなら出てきなさい!」
「……わかった。丁度俺も食事に誘おうかと思ってたんだ。だから離してやってくれないか。そういう気分のときもあるだろ。ほら、生理が、あるなら……尚更……」
「……なるほど? わかった。そうするよ。ありがとう。後でホテルの場所送ってくれる? 空いてたらそこ取るから。時間は……夕方かな。ツアーが終わって宣昌に戻り次第、高速鉄道に乗るよ」
「わかった。じゃあまた明日な。お前、ちゃんと寝ろよ」
通話を切って、とっくに到着していたホテルの中に入る。部屋に戻ると、少し迷った末に買ってきたコンドームの箱を開けないままバックパックに押し込んだ。もし部屋にラドレが入ることになった場合、空箱が見つかれば茶化されるか殺されるかの二択だろう。こちらとしては殺し合いも辞さない構えだが、少なくともそれは今ではない
目覚めると、まずは朝市で朝食を摂り、部屋に戻って筋トレをした。身体が資本の仕事をしているのもあり、日課と化している筋トレだが、器具がないとすぐに終わるというか、飽きてしまう。最低限のメニューをこなしてからシャワーを浴び、ガムを噛みながら残っていた報告書を片付けてアンダーソンに送った。その後、ニューヨークに残してきた直属の部下たちのひとりひとりと定期面談をして個人個人のメンタル状態を纏め、再面談が必要な者をリストアップし、予定を組む。中間管理職って嫌だなあ……と思いながらその作業の殆どをバーチャルアシスタントに放り投げ、最終確認をしてやるべきことを終わらせた直後、アンダーソンからメッセージが入った。
「ダブルダブルで」
今更かよ……と舌打ちして通販で指定のあったウイスキーを注文し、トークルームに伝票を貼り付けてやると、メンダコと思しきキャラクターが踊っているスタンプが送られてきた。タップしてスタンプのストアページを確認すると『海のなかまたちエキサイト編』という商品名がついている。エキサイト編ってなんなんだ……と思いながらも、これは孫と使うものなのだと察する。彼の孫はまだ二足歩行を始めて少し経ったくらいの年齢だったはずなのだが、話を聞くにデジタルネイティブも良いとこで、スマホに齧りついて離れないらしい。そんなちびっ子と彼とのコミュニケーションツールがこのスタンプなのだと思うと微笑ましいような気もするが、それを俺に送るとはいい度胸だ。ならば俺も訳のわからないスタンプで返してやろうと、お嬢ちゃんから贈ってもらった『ヌンチャク・パンダ 第三章』スタンプの中から、眼鏡をかけたマレーバクのような生き物が中国語で「私が食べてきた塩はあなたが食べてきた飯よりも多い」と言っているスタンプを送ってみる。要は「こちらのほうが経験豊富だ」という意味なのだが、このキャラがどういう立ち位置なのかわからないので個人的に謎なのだ。俺はつい先日このアニメを観始めたばかりなので、まだ『第三章』には追いついておらず、このマレーバクのスタンプが劇画タッチである理由も知らない。
「確かにお前さんは塩辛いモンが好きだしな」
……このオヤジ、額面通りに受け取りすぎている。
「この歳になると先人たちに漏れず薄味がいいんだよなあ。年々淡白なモンが美味くなってくる。ナスとか」
続けてコッドと思しき魚が「はやくフィッシュアンドチップスになりたーい!」と叫んでいるスタンプが送られてきた。エキサイト編というよりエキセントリック編なのではないかと思い、その旨を打ち込むと、「エキセントリック編もあるぞ」と返ってきた。「チップスにはなれないよ?」とヤドカリが冷静にツッコミを入れているスタンプとともに。
「今日はもう上がる。じゃあな」
軽く乗りかかってはみたものの、付き合いきれずにそう締め括ってアプリを閉じる。懲りずに何度もスマホが通知音を鳴らすが、引き続き彼のプライベートなアカウントからなので無視をして、デスクの上を片付けた。急用があるならば昨晩のように電話なり支給品の通信機器のどれかを使うなりして連絡ををしてくるだろう。
そして夕方。サブスクでヌンチャク・パンダを視聴しつつ噛んでいた、昨晩買ったばかりのボトルガムが早くも空になりそうで、我ながら口寂しさが過ぎるだろうと呆れたタイミングでラドレからメッセージが届いた。
「何号室?」と書いてあるのに数字だけで返信し、ガムを吐き出してデスク前の鏡をなんとなく覗き込むと、そこで自分が前髪を上げていないことに今更ながら気付いた。しかし髪をセットしている時間があるのかもわからないので、諦めて一人掛けのソファに身を沈める。……そういえば、俺には血を吸われた経験がない。昨今は吸血鬼でも血液製剤で済ませているようだし、仲間の吸血鬼が発作を起こした場合に注射薬を使う訓練もしたことがある。発作を起こした際は制圧が難しく、迅速に対処する必要がある……とは教わったが、同僚や知人のデルタたちは比較的気性が大人しい個体ばかりで、もしかすると物静かなのは種族性なのかもしれなかった。そう思えるほど恵まれた環境に身を置いていたが故に、俺は自分の血が美味いのか不味いのかを知らないのだが、この期に及んでそれが妙に恥ずかしかった。それはどうせ振る舞うのなら美味いのに越したことはないだろうと思ってしまうこの性格由来なのだが、そもそも、彼女が飲んでくれるかどうかですらわからないので、無駄な煩悶だ。
ドアをノックする音がしたので、鍵を開けに行く。するとまずはデカくて顔のやけに綺麗な男がするりと室内に滑り込んできた。「お邪魔しまーす」と笑うその背中。閉まるドア。周囲を確認して「お嬢ちゃんは?」と問うと、彼は唐突に着ていたブルゾンのジッパーを下ろし始めたので、銃でも出すのかと半歩退き警戒していると、唐突にその胸元からひょっこりと白い頭が飛び出した。……子ヤギだ。しかし、眠っている。
「はい、落とさないでね」
ラドレは胸元に抱え込んでいたそのちいさな獣を俺の胸に押し付けると、手首に引っ掛けていたビニール袋と、お嬢ちゃんのものと思しき上着、そしてバッグをデスクに置いた。
「この袋、手土産ね」
「あ、ああ……どうも」
彼の気遣いに対し、曖昧な返事をしてしまったのは、俺の触覚のすべてが手元の和毛の生物に集中しているからだ。ただのぬいぐるみのようにも思えるそれはあまりにも軽く、必要な重ささえなく、そしてハニーミルクの匂いがした。
「はは、わかる。壊しちゃいそうだよね」
ラドレは土産と言っていたビニール袋の中から缶ビールを一本取り出すと、デスクに寄りかかってそれを開け、飲み始めた。気ままな男だな、と思いながらもその挙措が持つ色気の威力についてはとうに察しがついている。この相手のことを考えていないような素振りは、献身体質の奴によく効くに違いない。……多分、これは態とだ。
「本物」
「です。中身はちゃんと王だから力は強いよ」
俺の疑問の尾を滑らかに継いで、ラドレは部屋の真ん中で立ち往生していた俺の前までやってくると、子ヤギの頭を撫でた。そして肺でも痛そうに細くながい溜め息を吐いて、ぎゅっと下唇を噛む。その顔ができるならどうして……と糾弾しそうになったのに、喉までは出てこない。胃の辺りにかたく重く鎮座し、火傷しそうなのに、既に炭化しているなにか。今はじっとしていてくれと腹に力を入れて、なんでもないふうに切り出す。
「お前、避妊してんのか?」
すると彼は「へ?」と平時より高い声を上げて驚いたようだった。目を丸くして、三度、細かいまばたきをしている。
「いや……あるだろ、女性体の体調不良は、色々と……」
言葉が濁るのは、俺だけが明確に他人だからだ。
「あ、あー……そ、ういう……まあそうか。そう考えるか。うん、優しいね。あるよね。そう考えると生理前だったりするのかも……?」
ビール缶を片手に腕を組んだラドレは、口を曲げてそのまま数秒黙り込んだ。そして、
「えっとね。こことここだと子どもができないんだよね。その、訳アリで?」
僕と、王。とは言えなかったのだろう。彼女と己とのあいだを交互に指して彼はそう言うと、どこか狼狽した様子で缶を傾けた。目が合わない。
「……そうか。で、どうすればいいんだ俺は」
今はその話題に踏み入らないという意思表示で話題を切り上げると、ラドレは安堵したのか俺から顔を背けて小さく溜め息を吐いたようだった。それから俺に向き直り、自らの首筋を指し示す。「僕はここ」と。
「どこでもいいよ。足の付け根でも」
「それはかえって難しいだろ」
「はは。王は巧いよ。僕が教えたからね」
「……茶化すなよ」
「……茶化すでしょ。ヤッたんだろ?」
今日、初めて交錯する視線。ふたりともまったくの真顔で、睛の奥だけで、睨みあう。
「悔しいか?」
「いや? これっぽっちも」
「奇遇だな。俺もだ」
「僕たち、これからどう殺りあうべき?」
「そりゃあ、実戦なんだから禁止技もクソもないだろ」
「寝首」
「オーケー」
「車」
「オーケー」
「愛犬」
「いねえけど、流石にそれはダメだろ」
「だよね」
どちらともなく笑ってしまいながら、しかしふたり同時に胸倉を掴みあう。ぐっと奥歯を噛み締めているであろうラドレは、なのに泣きそうな顔をして、それを自覚しているのか俯いて前髪で顔を隠そうとした。
「だから。逃げるなよ」
俺も眉に力を込め、感情を押し込めながら言う。お前が逃げると、彼女がつらいのだ。彼女がつらいと、俺もつらいのだ。お互いの弱点はこのちいさな子ヤギで、どちらか一方でも逃げれば全員が深手を負う。もう、戦うしかないのだ。後ろ盾がないことを自覚しながら戦場に心と身体を追いやることでしか、俺は自己を認識できない。守りたい自分というものがとうに消え失せて、昏い洞だけを抱えて今まで生きてきてしまったそのケリを、ここでつけるしかないのだ。
この舞台できっと俺は俺自身を再発見する。だからお前も。キミも。自己救済を選べ。
「……逃げたくないんだよ」
お前は言った。
「逃げたいわけない……逃げてないと信じたいよ。でも僕はいつも僕が嫌いで、存在を察知する度に自分で殺してきた。もうとっくに自分が見えなくなってる、のかもしれない……」
それは、苦悶の絡まりを視認させるような声だった。膨大な黒色がそこにあった。しかしインクの黒がどぼどぼと垂れ尽くしているのにもかかわらず、彼の主は純白に眠っている。だからこそこの男は、星に落ちるような眼差しで彼女を見るのだろう。
「俺がお前を看破する」
彼の襟を掴んでいた手を解いて、俺はそのまま真っ直ぐにその胸むかって指をさした。
「羞恥と眩しさに焼け焦げて死ね」
そう宣告すると、彼はゆっくりと俺の肩口辺りを掴んでいた手を離して、ふっと笑った。その表情は、魅力的なほど、陰鬱で。
「なんだよ。探偵かよ。僕は教授ってワケ?」
「そうだよ。ライヘンバッハるぞ」
「ライヘンバッハるってなに」
「続編までの暗転だ」
俺はお前が大嫌いだ。だから死ね。負けて死ね。続編でまた会うために。そしてできれば、その決定的瞬間までに思い出してくれ。お前を死なせたのは誰であったかを。
「……王って、こんな気持ちだったのかも」
顔を上げて、ラドレは呟いた。へにゃりとだらしなく笑って眉を下げたその顔は、しかし美しい。それはきっと他の女たちには見せないものであると信じたくて「お前の王の気持ちを述べよ」と指示してみる。
すると彼は「討伐されるのを待つのって、希望みたいだね。だからあのとき笑ってたんだ」と嘱望によって整えられた穏やかな顔で言った。そして僅かに記憶を開示した彼は身を屈めると、俺の胸で眠る子ヤギの額にキスをする。祝福あれ。それは祝福であれ。少なくとも俺は、いずれ再誕するお前への祝福としてお前の死を唱える。
教授への宣戦布告の次は、白いブラックボックスの依頼を聞くことにしよう。
「終わったら教えて」……そう言い残して部屋を出て行ったラドレの閉めたドアが、オートロックの音を発するまで待ってから、俺は再びソファに凭れた。舌戦の最中も彼女は目を覚ます気配なく、また寝入った素振りをしているようにも見えなかった。そのしずかなノンレム睡眠を邪魔するのは忍びなかったが、折りたたんだ腿の辺りをさすって「お嬢ちゃん?」と声を掛けてみる。すると何度目かの呼び掛けで、彼女は瞼をひらくよりも先に俺の胸にちいさな蹄で踏ん張り立ち、それからゆらゆら揺れながら、じわじわとそのカールした睫毛を持ち上げた。横長の瞳孔がぼんやりと俺を映し、すぐに驚いたように見開かれる。すかさず「おはよう」と挨拶すれば、彼女はか細く「め」と鳴いたあと、首をころんころんと左右に傾げた。そして首元まで登ってくると、俺の顔にちいさな角の生えた頭を寄せ、真面目な様子ですんすんと鼻を鳴らす。
「本物だぞ」
疑いを晴らしてやると、彼女は咄嗟にぴょんと俺の上から飛び降りようとしたので、空中でキャッチする。そしてじたばたと藻掻く彼女の四肢を、雪玉でも作る要領で丸め込めば、「めぁ、めぁ!」と抗議の鳴き声がした。まるで腹を押すと鳴くぬいぐるみや、踏めば鳴る幼児用サンダルのような声だ。正直を言えば、食べてしまいたいくらいに可愛いが、グッと表情を引き締めて「なんで逃げるんだ?」と問いただす。
「えっ、エレメンタリー、マイディアハリエット……」
「ああ、聞かせてくれ」
「ラドレがいない。あなたがいる。わたくしは、ヤギの姿……つまり、強制給餌……」
「過程が雑だが、まあ正解だ」
すると彼女は再び鳴いた。心底逃げたくて堪らないとでも言いたげな切ない声で脇腹を膨らませては萎ませる彼女は、誰を呼んでいるのだろう。
「アイツ、かなり落ち込んでたぞ」
「……そうですか」
「でもキミも落ち込んでるんだろ」
「……べつに、そんなことは」
「じゃあ俺の血、飲んでくれるかい」
さっきまで立っていた彼女の耳が、話を聞きたくないとでも言わんばかりにぺたんと垂れる。それを両手で揉みくちゃにしながら、「とりあえず戻ってくれるかい」と促してみると、次の瞬間にはヒト型形態の彼女が俺の膝に乗っていた。
ヒトの重さになっても軽すぎる彼女は、今日はずっと眠っているつもりだったのか、普段のアップヘアではなく髪を下ろしており、アクセサリー類もつけていない。そしてそのプレシャスオパールの色をした睛は、繊細なカッティングを施されたかのようにきらきらと動きのある発光をしており、その幻想的なかがやきであたりに影をもたらしている。そんな硬質な美で外観を彩っていながらも、駄々っ子のように片頬をぷくりと膨らませた彼女は、俺の胸に寄り掛かると背中に腕を回してがっちりと抱きついてきた。これは、ここから動かないという強硬な意思表示だろう。引き剥がそうとするが、流石は王種だ。その気になればびくともしない。
「こら。そこに太い血管はないぞ」
「大きいお胸はあります」
俺はキミの大きなお胸が腹に押し付けられていて苦しい……とは言えずに、背中を軽く何度も叩く。しかし彼女は頑なにそこから動こうとしないので、
「キスしたい」
と訴えてみる。
「……ひっかからない」
しかし返ってきたのは不満げな声だ。
「本当だ。会いたかったし、触れたかったし、キミの目を見たかった。それに、訊きたいこともある」
「ききたいこと?」
「……キミ、妊娠してないか?」
途端、彼女は身体を起こすと「妊娠?」と薄くひらいた唇で繰り返して首を傾げた。その言葉の意味するところを彼女が知らないわけがないので、ただ「そうだ」と頷く。
「食欲がなさそうだから……気になってな」
数秒前から、心臓がどくんどくんと大袈裟に跳ねている。ドクターは王種なら妊娠の有無がわかるだろうと言っていたが、果たしてどうか。そして、先ほどのラドレの発言からすると、もし妊娠させているのなら、俺にしかその可能性がないということになる。
黙り込んでいる俺を見て、彼女は慌てるでも怒るでもなく、冷静に「再確認します。ちょっと待ってくださいね」と自らの薄い下腹部に手を宛がった。そしてすぐに、
「空ですね」
とこともなげに言った。
その瞬間、盛大な溜め息が漏れる。よかったとか、よくなかったとか、そういう次元ではなく、ただただ胸の中身が気化して、リセットに向かって動き出す。
「……いらなかった?」
「そんなわけない。ああ、キミの体調が悪いのがそのせいなんじゃないかと……その原因が俺だったらと思うと申し訳なくて……いやはや、不用意で悪かったよ。ごめんな」
「ん? あのときはわたくしが抱いてほしいとお願いしましたよね? なぜ謝るのですか?」
「……そうだったとしても、俺から誘ったも同然だし、そうでなかったとしても、責任はあるよ」
「む? ん? んー?」
「ああ、心配した……」
俺の懸念はクリア。しかしまだ仕事は残っている。なにか腑に落ちない様子でいる彼女を抱き寄せて、その肩口に額をつよく押し付けた。
「なあ、頼むよ。俺の血を飲んでくれ。キミの不安を教えてくれ。なにがしたくて、なにがしたくないのか……なんとかしたい。無理でも、ぜんぶ……」
ちいさなあばら骨。俺の両手で覆い尽くせそうな背中。その素肌の感触はもう知っているのに、奇妙なほど遠い肉体。いま彼女がこの手の中にあるというのは、きっと錯覚に違いなく、どうしたらずっとここにいてくれるのかと思い悩むことそれ自体が誤りであると知りながら、なかなかどうして足掻きたくなる。
「わたくしは眠っていたい」
不意に彼女はそう言って、徐ろに俺の首を抱いた。ひんやりとした二の腕が、俺の耳を冷やして、微かに熱のある胸元が俺の唇をじわりとあたためる。
「だれもいないところで未来永劫……それが、本音」
水中のようにくぐもる聴覚を、彼女の体表から、或いは深淵からひびく振動が刺激して、落胆が全身にゆきわたる。それを知覚した俺の胸が、現在進行形の痛みを訴えて、嫌だと言いたい声を「どうしてだ?」と控えめな表現に丸め込んだ。
「いまのあの子には、その方がよいでしょう。わたくしはあの子のために起きていて、あの子のために眠る。それだけの存在ですよ」
そこには誤解と真実が半々ずつあるような気がした。
アイツの弁解も、この子の擁護も、同じだけの質量でできるこの立場だからこそ、それぞれの意見を戦わせて彼女を納得させることは、俺にはできなかった。それをするのは本人たちであるべきで、探偵が踏み入ってはならない領域なのだ。そこに俺はいてはならない。しかし彼女の言葉があんまりにもさみしいから、俺までつられてさみしい。叫びたいほど苦しい。この曖昧なシンパシーが、紛れもなくこの肉体を痛めつけている。だからこそ、そんな切ない場所にいる彼女を認めることができなかった。
俺は、欲求のため足掻くことをやめるのを、やめた。
「なあ。俺のために、キミの願いを叶えさせてくれないか。……さみしいんだよ、キミがいないと」
ぽつりと、希求がこぼれる。越権しないよう、慎重に、こぼれてしまうものを落とす。
「たとえば、キミに俺のぶんのハニーミルクラテを買ってもらうだとか……そういう、キミが俺にしてくれる、ちょっと強引な、ある意味で恩赦に近い気まぐれなサプライズが……俺は、いっとう、好きなんだ。失くしたくない……」
要領を得ないまま紡ぐ、俺だけの記憶。キミはいつも俺を驚かせて、愛着を乱暴に引き摺り出そうとしてくる。その甘やかな感覚を言葉にしようとしても、主観的な好意ばかりがあやふやに溶け出てしまうから、キミにこそ説明が難しかった。
「……やっぱり」唐突にその綺麗な色の目が、丸くなる。
彼女は俺の頭を抱えていた腕を解くと、そっと両手で頬に触れてきた。
「いつも後ろにいるひとだ」
その解答に、息だけで「そうだよ」と答え合わせをする。ずっと見ているだけだった、俺の。ひかり……。
眩しくて目を細める。視界不良のなか、手を伸ばして、俺も彼女の頬に触れた。
「帽子、似合ってないよ?」
彼女は笑いながら鼻と鼻をくっつけてくる。
「……だろ。苦手なんだ帽子って」
「あの公園を歩いているとね、いつも苺の香りがするの。甘い血の匂いと混ざって、ふしぎな気持ちになるの」
「どこか、気づいて欲しかったんだよ」
「足音が変だった」
「……それはキミがフラフラしてるからだ」
「なんでスカーフ捕まえちゃったの?」
「掴みたかったから」
すると、彼女はゆっくり頭を低くして、「……ねえ、ここでいい?」と囁きながら首筋を指で撫でてきた。ふわりとした吐息の感触がこそばゆく、緊急事態だとでも言いたげにこの心臓が繰り返し繰り返し暴れ回る。それが痛みに対する恐怖からなのか、初体験に緊張しているからなのか、理由は現時点では判別できない。
「い……いぞ、うん」
怯える背骨がざわめいてうるさい。
「痛いの、苦手?」
「……そこそこ、苦手だ」
注射ですら駄目なのに、俺はある程度平気ぶってしまうから質が悪かった。しかし彼女はそれを見抜いたのか、俺の服の裾を捲ると、腹の傷痕に触れてきた。
「カラダ、傷だらけなのに。……んふふ。痛くしていい?」
彼女はそう言って、今度は胸の傷を爪で引っ搔いてくる。
「うっ。……好きにしてくれ」
「かわいいね、ハリエットさん……ドキドキしてるみたい。胸が震えてるよ。血管もびくびくしてる」
「かっ……からかわないでくれ。こっちは真剣なんだ」
「ちゃんと飲んだらお願いきいてくれる?」
「それは、勿論……」
意を決して。決し続けて。執行のときを待っていると、不意になにか硬いものが首筋に触れた。そして次の瞬間、ぷつりと皮膚を食い破る感触。ひたと唇。その内側の粘膜。そこにヤギの要素はないのか、やわらかい舌。……脅されたほど、痛くはないが、それよりも。
「……な、ん……っ、だこれ……」
「……がまんして。こぼれちゃう」
ぞわぞわ、する。背骨から上へ、耳まで。下へ、腿へ。肌が粟立つ。思わず宙に浮いた手を握り込む。瘴気が分泌されていくのを感じる。熱い。握った手がじわりじわりとひらく。
「ふ……今日の香水、ここに置いたでしょ……」
「う……く……」
腰が浮きそうになるのを、彼女の腰を撫でることで昇華しようとしていることに気がついて、いくらかの知能の低下を認める。これは、血が減っているからだろうか。……そう思った瞬間、下半身がまずいことになっている気がして、ぞっとする。バカになっている感覚というのは、もしかすると……。
「……気になる?」
強い力で俺の両手をアームレストに固定して、彼女は息を継ぐように問うてきた。なんとも、答えられない。目視でその位置を確認したくても、彼女の胸が邪魔をしていた。
「どう、なっ、て……」
「……ると、思います?」
「くっ……」
羞恥と照射。俺がアイツに言いたかったのはこういうことではない。皮膚を剥ぎ取られ筋組織を剥き出しにさせられているような、グロテスクな恥辱。内側に他人が入ってくるというのは、こういう感覚なのか。いまにも頭部の血管が破裂してしまいそうで、いつまで続くんだ……と内心疲弊していると、唐突にじゅっと強めに皮膚を吸われた。そして彼女はゆっくりと首筋から離れると、ニコニコ笑顔で「ごちそうさまでした」と俺を見上げる。その口内は血で真っ赤に染まっているものの、その魔性の恐ろしさよりアンジェリックな可愛さのほうが上回って敵わない。
「じゃあお願いきいてくれますか」
けろりと態度を変えた彼女は、ぐったりとしている俺の胸に再度乗り上げるようにして密着してくると、「あとでばんそうこう、貼りますね」とつけ加えて、上機嫌な様子だ。血糖値が上がっているような感覚でいるのだろうか。
「今か……?」
「さっき勿論って、言った」
「……そうだな。言ったな。どうぞなんでも言ってくれ……」
彼女の指摘に、俺は観念してソファの背凭れに深く身を沈めると、お嬢ちゃんの身体を引き上げて低姿勢をとる。いい香りのする髪がふたりを外界から隔絶するかのように垂れ、流れ、その神聖な結界の中で彼女は「とは言っても」と切り出した。
「このあいだはきちんと伝わっていなかったようなので、いまあらためて宣言するだけなのですが」
「ん……? どういうことだ?」
すると彼女は俺を間近に見下ろして、まだ光っている睛をにこりと閉じた。
「一緒に、こどもをつくりましょ?」
そういえば、彼女はリアリストだった。
最初から俺と子作りをするつもりで……いや、性行為の意義をただしく繁殖に据えて今まで生きてきたのだろう。ラドレは「すぐに求婚するから困る」と冗談めかして漏らしていたし、俺も最初は単なるコミュニケーションの一環であろうと決めてかかっていたのだが、彼女は俺たちが思うよりずっとシビアな目線で己の肉体と繁殖欲に向き合っていたのだ。……きっと孤独に。
しかしそのうえで彼女が俺の遺伝子が欲しいと思ってくれたのなら原始の僥倖だ。人外族とひと括りにされてはいるが、『こちら側』には多種多様な種族が存在しており、遺伝子や身体の造り、権能、はたまた組み合わせによって受胎の可否やしやすさにバラつきがある。そんななかで模るヒト型形態というのはどの種族間でも交尾をしやすくするフォルムだとも言えるが、そもそも長命種の宿命として次代が残しにくい。なぜなら星が一度に抱え込める一種族あたりの命の上限が決まっているからだ。つまり、星にアプローチするには次代を残す必要性が薄いがゆえに受胎率が悪く、くわえて星のキャパシティが空くまで試さなくてはならないため自然妊娠には根気が要る。だからお嬢ちゃんやあの金烏の青年のように「お嫁さんがたくさん欲しい」と願うのはある意味賢い思考で、アンダーソンみたいなのはかなりの果報者なのだ。
その玉体についての詳細は知らないが、仮にお嬢ちゃんの雄の権能の受精率が格段によかったとして、そもそも交尾が成功しなくては意味がない。俺は何度か彼女が相手を犯し殺してしまった場面を見てきた。相手の遺伝子データを元にその場で卵子を作り、男女その他問わず妊娠の土壌を強制開拓する初期プロセスにですら至っていないほど、彼女は相手の肉体を壊すまでが早すぎる。前回の失敗……山西省の城塞で旧種の吸血鬼を殺してしまった場面も俺は見ていたが、彼女は相対した男に乳房を掴まれた途端にその『終体』を腰から生やし、瞬く間に相手の身体を穿いていた。俺は「その力加減では無理だろ……」とモニターの前で頭を抱え、一緒にいたアンダーソンは鼻からコーヒーを噴いた。直後、吸血鬼のファミリアどもから「殺せ!」と号令が上がりはしたものの、それもまた次の瞬間には粗方鏖殺され、遊び半分の一振りの射程外で一命をとりとめた残党はピンク色の缶切りの餌食となった。俺のデスクに飛び散ったコーヒーを拭きながらアンダーソンが「これ何回目?」と問うてきたので、俺は心底正直に「ソー・メニー」と教えてやって……。
そんな不器用極まりない経緯を有する彼女に『自らの胎でも子を成せる機能が追加された』とあれば、試したくなるのも当然である。しかも自分のことを好きそうで、実際に言い寄ってくる男をスタリオンとして確保するのは手段として大いに正しい。ラドレとお嬢ちゃんの間にはなにかボタンの掛け違いがあって子が成せないのだろうが、彼らが結んでいるような主従契約も、その根本は同じだ。
しかし、どうしてもただそれだけとは思えない。子が欲しいから番っているだけとは信じられない。それほどまでに、ベッドの上での彼女は嘘みたいに可愛くて。
「ねえ、なんでしてるときだけ名前で呼ぶの?」
「はい……?」
そんな指摘が身に覚えがないほど、俺は夢中にさせられているようだった。
「呼んでるのか、俺……」
穏やかにイチャイチャできるかと期待していた事後。そんな衝撃の報告に内心激しく動揺しながらも、俺は寝そべったままベッドの隅に丸まっていた下着を拾おうとする彼女の手を掴んで制す。「もう一回」と付け足して。
「うん、呼んでる」言いながら、彼女は手を引っ込める。
「マジか……ごめん、自覚がない」
「一歩、進んだってこと?」
それは、俺と彼女が名前で呼び合うことに課した条件だ。……彼女がケンケンパで、進みたかったらしいその関係性の現在地は、一体なんという座標名なのだろう。
「それは解釈によるかな……」
彼女の哲学的な問いかけに答えながら、ヘッドボードに煙草を探す手が空振りしたことにまた新鮮に驚き、己の喫煙欲のしつこさに辟易する。今吸えたらきっと最高なのに……。しかし彼女との事後にタバコなんて吸ってしまったら、中毒も中毒、一生禁煙なんてできなかったことだろう。
「誰が解釈するの?」
「……キミでいいよ」
俺の言葉に、彼女は赤くなった目元をにゅっと細めると、仰向けの胸に乗り上げてきた。あんなに俺の体温をぶつけたはずなのに、その皮膚はしっとりと冷たく、これでは妊娠は厳しいのではないかと不安になってその細腰を抱いた。
「じゃあ、わたくしもしてるときだけ呼びます。ね?」
「そう、かい。……そうか。うん、いいよ」
「んふふ。……呼ぶの、聞きたい?」
そう無邪気に誘導してくる彼女に「聞きたい」と頷いて返す。すると彼女は俺の耳元で「じゃあ、しよ」と囁いてきた。そのあまりの威力に喉が異音を発しそうになるのを最小限に留めて、身体を起こす。再び彼女を組み敷く。夢みがちな垂れ目が俺だけを見ている。
「……キミ、そういうのをどこで覚えてくるんだ……? セミナーとかか? 本気で心配なんだが」
「そういうのって?」
「……やることなすこと全部、ふたりだけの、秘密みたいに……」
「だってそうでしょ。……もうひとつひみつ、おしえてあげる」
「なに?」
「……うつぶせが、スキ」
ああもう。
「はい。ごちそうさまでした」
そう言って彼女は、着替えている俺の首筋に水色の絆創膏を貼ってくれた。指で触れて、少しよれているのを撫でつける。それからリップを直している彼女に並んでデスクの鏡を覗き込めば、なにやら可愛らしいウサギのキャラクターが散りばめられたファンシーなデザインであることが見て取れた。少し気恥ずかしいが、上着を羽織れば襟に隠れる位置だろう。
「……これもパンダのやつのキャラクターか?」
「ちがいます。『めろかわ』ちゃんです。しらないの?」
「知らないな……」
「ハリエットさんの世間知らず」
「キミに言われたくないな」
そのキャラクターがいかにキュートかを語る彼女が身支度を整えるのを手伝い、ラドレとの待ち合わせに向かおうとドアの前まできたところで、後ろから手を引かれた。振り返ると、彼女はちらりと俺を見上げて、それからなぜか視線を彷徨わせ無言でいる。
「……キスしたい?」
なんとなく察して問うと、彼女はこくんと頷いた。さっきまであんなに挑発的だったのに、途端に及び腰なその姿はいじらしく、思わず笑ってしまいながら唇を寄せると、触れ合う寸前で彼女は「笑った……」と不服そうな声を上げた。
「ごめん、可愛くて」
「なにが可愛いの」
「まるごとぜんぶ」
「まるごとは……欠けのない一個のこと……」
「そうだよ。キミは可愛い」
吐息が合わさる距離で問答。彼女はむっと僅かに顰め面。しかし瞼は閉じてくれたので、そっと唇を重ねた。キスをしているのに、キスをしたいと思いながら心の奥にこびりついている寂寥を削り、元々そこにあったものを発掘していく。その作業を行う手は前進気勢に満ちているのに、自分自身から漂う苺の香りにいつか手が止まりそうだと、俺は怯えている。あの日手放してしまったものがいつか俺に復讐をしにきそうで、恐ろしいのだ。
だから、備えなくては。彼女の額にキスを落としながら、自らに言い聞かせる鎮痛の呪文を決める。過去に刺されるかもしれないのなら、そのときには足掻かず、穏やかに滑らかに、それを受け容れて死ぬために。俺はあの男の死を希うのだから、俺は俺の死も真っ直ぐに見据えるのだ。それは永い永い、討伐を待つ旅であり、だからこそ。
『きっと、俺の子を産んでくれたとしても、彼女は俺のものにはならない』
そう唱える。
ホテルのロビーでラドレは「遅かったね」だとかの、普段ならマシンガンのように飛び出すであろう揶揄を口にしなかった。ただ俺の首筋を見て「おつかれ」とだけ労って、お嬢ちゃんの手を取った。
武漢には「戸部巷過早 吉慶街宵夜」という言葉がある。「朝食は戸部巷で。夜食は吉慶街で」という意味で、その言葉通り吉慶街は夜もいい時間だというのに賑わっていた。屋台やネオンの明かりで昼間のように明るい往来を、人波に乗ってじわりじわりと歩きながら、俺とラドレはきっとふたりして同じ不安を抱えているに違いなく、さっきから何度も目が合う。俺の血を飲んでくれたとはいえ、彼女が食事を摂ってくれるまでは安心できないからだ。互いに顔を顰めては曖昧に笑い、お嬢ちゃんがなにを食べたいと訴えるのを待つが、彼女は中々言葉を発することなく、なにかを注視する素振りも見せない。
「あ、王、見て。串焼きだって。カエルもあるよ」
「お嬢ちゃん、ザリガニだぞ。ザリガニ。食べたことあるか?」
「ちょっと待って、ザリガニはない。食べるの面倒じゃん」
「カエルだって骨ばっかりだろうが。ザリガニは殻ごと食えばいいだろ」
「殻は食べちゃダメって教えたばっかりなんですー!」
若干奇抜なチョイスで気を引こうとしている俺たちが、互いのセンスに文句をつけ始めたところで、徐ろにお嬢ちゃんがこちらを振り返った。
「あの……」
「はい」「どうぞ」アテンションの声に、俺とラドレがほぼ同時に返事をする。
「腰が痛いので……座りたいです」
その申し出にラドレが「最低!」と叫んだ声と俺が勢いよく「ごめん!」と謝った声が重なって、かなりの声量になる。それに驚いたらしいお嬢ちゃんは目をまん丸くして、それからくすくすと笑い始めた。その笑い方が、あのパーティーのあとのそれと重なって、俺はひとり赤面しそうだ。
「王……抱っこしてあげる。おいで」
おいで、と言いながらもラドレはお嬢ちゃんに自ら寄っていき、その身体を片腕で抱き上げた。すると人波の中でも遠目が利くことが嬉しいのか、彼女は「わほほ」といつもの調子で笑ってくれる。
「あ、あっちに座れそうな店がたくさんありますよ」
「あっちね、オッケー」
「落とすなよ?」
「落としたことはないよ。逃げられたことは沢山あるけど」
お嬢ちゃんが操縦するラドレに付いて移動すると、路面との境を透明なビニールカーテンで仕切った店が何軒も連なるエリアへと出た。どこも繁盛しているようで、とりあえず空席のある店を目視で探していると、ちょうど団体客が出てきた店があり、入口から中の店員に声をかける。すると片付けるまで待てと言われたので外で待機していると、ラドレの腕から降ろされた彼女に、ヌンチャク・パンダを何話まで見たかと期待に満ちた目で問われた。試聴ペースが遅いことを申し訳なく思いながら、正直に「十話」と答える。
「む。まだ黒狼は出てきていませんね……」
残念そうにしながら、お嬢ちゃんはポシェットにぶら下がっている狼のぬいぐるみを揉む。ぬいぐるみはぐにゃりと顔を歪めながらも、その鋭い目付きを崩さず俺を見ていた。
「いつ出てくるんだ?」
「ええと……まだずっと先……」
「第二章じゃない?」
「ワンシーズン何話だ?」
「えっと、五十二話だったかな」
「なっが……」
俺が驚嘆の声を発すると、お嬢ちゃんが心做しかしょんぼりと肩を落としたので、咄嗟に「観るよ」と頭を撫でる。すると彼女は途端にニコニコ笑顔。つられて俺も笑ったところで、店員に呼ばれて店内に入る。
湖北は古来より九省通衢と呼ばれ、九つの省へと繋がるジャンクションとされてきた。歴史的には南方民族が建国し、のちに北西から南下してきた秦に吸収されたという経緯もあり、様々な地域の特色が多様にあらわれたきわめて分類の難しい食文化をしており、おなじ省内ですらその地域差は激しい。また、長江が貫流し、湖も多いことから淡水魚が食材として多く採用されているが、それだけでなく山岳地域も広大なため山の幸やジビエにも恵まれているという特徴があった。
だからか、その店のメニューの種類は豊富だった。お嬢ちゃんに並んで座れと命令されたのでラドレと肩を並べ、テーブル幅に対しぎちぎちになりながら注文に関する意見交換をしているうちに、向かいの席に座っていたお嬢ちゃんはうとうとと舟を漕ぎ始めてしまったので、急いですぐに出てきそうな鮮肉湯包を注文する。大概、この手の蒸し物は常にストックがあるので、予想通り数分と経たないうちに運ばれてきた。そして同時に注文していた瓶ビールをグラスに注ぐ前に湯包をお嬢ちゃんの皿に取り分けてやる。
湯包は、簡単に言えば汁の多い小籠包のようなものだ。「熱いうちに食べな」とラドレがレンゲに乗せてやったのをふわふわと覚束ない手で受け取ったお嬢ちゃんは、眠そうな目を険しく細めてじっとそれを見つめると、少ししてぱくりとそれを口にした。その瞬間、俺の肩は安堵に急降下し、ラドレはロングブレスの溜め息を吐く。眠そうな顔はそのままに、お嬢ちゃんは十個入りのそれをぱくぱくと平らげると、壁と一体化した椅子に凭れて満足気に眠り始めた。 どうやら魔力不足とはまた別に、かなり疲れていたらしい。
「まあ……いいでしょう。ツッコミどころにはこれから突っ込むし」
「はいはい。ほら、俺たちも飯食うぞ」
小瓶のビールを分け合いながら、メニュー表に目を落としてさっきの意見交換会の続きをする。ラドレが武漢名物の武昌魚の蒸し物を食べたいと言うのを「骨が多い」と突っぱると、「一人で食べるもん」と訴えるので許可し、彼が熱乾麺、俺が三鮮豆皮を食べたいと言うのにお互いが「昨日それ食べた」と嫌がるが、候補に入れる。後は欠かせない名物として排骨藕湯(蓮根とスペアリブのスープ)を注文した。そしてテーブルの上がいかにも観光客然としていることにふたり笑いながら、軽く温められた紹興酒で乾杯する。
「美味しいよ、武昌魚。食べてみなって。はい、あーん」
「やめろ気色悪い。ほぐして骨抜いてこの皿に入れとけ」
「うわ、我儘だなあ。あと僕に蓮根しか寄越さないのやめて」
「こちとら貧血なんだよ。肉を食わせろ」
核心に迫らない会話が、続く。旅費の話。熱乾麺とアンダーソンの話。仕事の話。三鮮豆皮の話。林区の話。本当は三峡ダムにも行きたかったという話。……追加注文。
「……お前、最近電話多いな」
僅かに、迫る。
「別に……そこまで見てんの? 変態じゃん」
躱される。
「お嬢ちゃん、知ってるぞ」
追突する。
「……なにを?」
僅かに刺さる。
「……なんだろうな。お前ら、恋人同士じゃないもんな」
捉える。
「それは……キミもでしょ」
反撃。しかし、どうってことはない。
「かもな。でも話し合いの結果、避妊しないことにした」
刺す。
「……は……?」
刺さった。
「子どもを作ることにしたんだ。彼女の胎で」
これは戦術の基本。接近戦なら、銃よりナイフの方が速い。
ラドレの手から、箸が落ちる。床に跳ねて、転がって。誰も拾わないので、俺が拾う。
「彼女はずっと子どもを欲しがってただろ。今までと変わりないじゃないか。使う部位が違うだけで」
箸を落としたまま固まっていた手が、俺の胸倉を掴んだ。甘んじてその発憤を受けながら真っ直ぐに見据えた彼の睛は、いつも通りの、お嬢ちゃんから我が儘を言われたときのような情けない顔で。俺まで言葉を失って、ふたり動けずにいると、店員の中年女性が大きな音を立ててテーブルに皿と紹興酒の瓶を置いた。
「店の中で喧嘩すんじゃないわよ。やるなら外行きな」
その、武漢特有の語気は強いが特段怒っているふうでもない声に、ふたり同時にクールダウンして、「すんません」と居住まいを正す。すると彼女は「上着も貸してやらんで……ダメ男たちだね」とそこそこの声量で言いながら、レジ後ろの棚からブランケットを持ってくると、眠っているお嬢ちゃんの身体に掛けてくれた。見ず知らずの人間に優しいのも、この土地の人間の特徴である。
「ダメ男たちだって」
ラドレが笑う。
「巻き添え食らってるのは解せないが……俺もお前も、ありふれたダメ男なのには間違いないな」
運ばれてきた鴨脖子に手を伸ばして、そのぶつ切りにされたチューブのようなピースをひとつ摘んで齧る。これは麻辣で辛く煮込んだ鴨の頸を適度に乾かしたもので、これが身肉よりも柔らかく美味い。味も濃いめで、とにかく酒が進むのだ。そして手に残った骨を皿に放って、汚れていない方の手で常温の紹興酒の蓋を開けてグラスに注いでいると、ラドレがぶっきらぼうに「ん」とウェットティッシュを差し出してきた。どうやらポケットから取り出した私物らしい。俺も「ん」とだけ応えてそれを受け取り、汚れた手を拭く。
「……かっら!」
俺を真似て恐る恐るその『頸』でしかないものに齧り付いたラドレが、その数秒後にそんな声を発した。「これ、王は怖がるやつかも」と続けて「寝ててよかったー」と苦笑する。その横顔は子供が寝付いたあとの親のようで、アンダーソンもたまにこんな顔をするなとぼんやりとその情景を思い返す。
「あのさ、その子作り……妊活……? は、王が言い出したんだよね?」
グラスを一気に空にして、ラドレは問うてきた。こいつは酒に弱かった筈だと一瞬だけ躊躇ったが、まあいいかと次を注いでやる。
「そうだ。俺が産んでもいいとは伝えた。でも彼女は……」
「なに?」
躊躇う。しかし、これもまあいいかと思い直す。酒を注ぐようなよどみなさを意識して、言う。
「胎を使わせるのはお前と俺だけなんだと」
それは、さっきソファからベッドに移動するときに彼女が言っていたことだ。もうとっくに俺は理性の殆どを失っていたが、それでもラドレへの義理立てのために手を止めて、その一言一句を聞き逃すまいと意識を研ぎ澄ませていた。そのあとすぐに「はやく脱がせて?」と小首を傾げられてからは曖昧にしか覚えていないが。
「ほっ、ほおーん……?」
ラドレは俺のレポートに、満更でもなさそうな声を上げたものの、しかし一拍後にはじっとりとした目付きで俺を見た。
「僕はわかるんですよ。僕はね。王とずっと一緒だし、契約してるし、初めての男だし、美形だし背が高いし優しいしお金持ってるしちんこデカいしセックス上手いし。なにより寵愛を受けてるし? ……キミは? キミはなんなの?」
勢いよくそう並べ立てたラドレは、最後にぽっと出のくせに……と憎々しげに漏らしながら、また新たな鴨脖子にかぶりついた。このままでは全部コイツに食われかねないと、負けじと俺ももうひとつ手に取る。その途端、猥談が加速するスイッチが入ったような気がした。
「さあ。ただ相性がよかったんじゃないか? リピートされるってのはそういうことだろ」「まさか。床上手では負ける気がしないね」「言ってろ。声がデカい奴ほど独り善がりなことしてんだよ」「は? 相互見学会する?」「しない。面白くない」「……キミさ、僕に嫉妬してる?」「全然。契約してんならヤってるのなんて当たり前だろ。お前のメシなんだし。それともお前はぽっと出の俺なんかに嫉妬してんのか?」「いや? ぶっちゃけ興奮するよね。僕が仕込んだ子が他の男とどんなふうにするんだろうって。どう? マイフェアレディはエッチですか? 答えろ」「……聞きてえか?」「聞きてえです」「……どえろい」「だよね。うん。だよねえ……うんうん」「体位のおねだりしてくるし」「……はあ? ちょっと待ってそんなのされたことないんだけど……」「病むな病むな。訊いてみりゃいいだろ。もしくは選ばせればいいだろ。幾らでも絞り込めるんだから。お前くらいのカサノヴァなら反応でわかるんじゃないのか? なにが好きかなんて」「……ロールス……」「なるほど? 覚えておく」「ちょっとー。誘導尋問しましたね?」
皿が空になった。さっきの女性店員に、もう一皿とジェスチャーで伝える。「あ、あと紹興酒ね!」……厨房から、中華包丁で鴨脖子をぶつ切りにする鈍い音が響いて、すぐに骨の山と新しい頸が取り替えられた。ラドレは結構酔っ払っているらしく、いつの間にかグズグズと泣いているようだった。デカい男の泣き上戸は想像以上にきしょいな……と思いながらも、面白いのでグラスにどんどん酒を注ぐ。
「だって王は、初めてキミを見たときから……なんか、目が、きらきらしてて……」「はは。じゃあ運命なんだよ。結ばれる運命」「運命って言葉さらっと使う奴、初めて見たよ。まあ僕は認めませんけどね。世の中そう甘くないですから」「俺はお前の存在認めてるのに悲しいこと言うなよ」「認知と納得って別じゃない? 理解と支持が違うように」「それはそうだな」「でも、王の子って絶対に可愛くない? きっとぽやぽやしてるんだろうなあ……」「俺に似たらどうすんだよ。そもそも隔世遺伝でもしない限りは狼だって確定してるんだから」「うーわ。可愛くない……と言いたいとこだけど、可愛いんだろうなあ……うう……」「飲みながら泣くのはまだいいが、食いながら泣くな。きっしょい」「きしょくもなるでしょ。隣に好きな子に中出ししてる奴いるのに」「どうせお前も不必要な中出ししてんだろうが。自分を棚に上げるなカス」「まっ、待って……不必要って言わないでよ必要なんだよ僕の心の安寧のため……」「ちょ、それ以上泣くな。迷惑だから」「ひー……僕だってちゃんと考えようとしてるのになぜかいっつも真っ暗で深海にいるみたいなのに全方向が壁でどこからともなく父上の声が……って、いったぁ!」「馬鹿野郎、辛いもん触った手で目を擦るアホがいるかよ……ほら、目と手洗ってこい。あと吐くなよ、辛いもん食って吐くのも地獄だからな」
流石にここまでにしてやろうと、目を真っ赤にして苦しんでいるラドレにトイレの方向を指差して教えてやると、彼はべそべそと泣きながら覚束ない足取りで観葉植物の陰に消えて行った。俺もウェットティッシュで念入りに手を拭いてから、伝票を持ってレジに向かう。結局鴨脖子は俺の方が一個多く食べた。
「……あの長髪の兄ちゃん、大丈夫かい」
タブレット端末を操作して合計金額を出しながらも、この優しい女性店員は、やはり泣きながらトイレに消えていったラドレのことが気になるらしい。
「ああ、大丈夫だ。感情的なタイプなんだ」
毎回そうかは知らないが、念の為「いつもだ」と付け足す。それからスマホでコードを読み取って決済をした。
「じゃあ大丈夫だね。感情的なタイプなら。明日にはケロッとしてるだろうね」
「そーそー。気が済むまで泣かしとけばいいからな」
美味しかったよ、と彼女に告げて、帰り支度をしようと席に戻る。まだ眠ったままのお嬢ちゃんの胸の上から掛かっていたブランケットを畳み、脇に丸めてあったオーバーサイズのジャケットを着せてやる。それから小さなショルダーバッグにちゃんとブラック・ウルフがついていることを確認してから、首に提げてやった。この眠り姫は俺が抱えて帰ればいいのだが、問題はアイツだ。中々戻ってこない。
「はあ……手が掛かる奴」
そう口の端から洩らしつつ、男子トイレへと向かう。すると手洗い場のシンクの前に、しゃがみ込んで泣いている大男がいた。ちいさくなっているのにちいさくないのが可笑しくて、ムービーカメラを回す。
「……ラドレくん。帰りますよー」
「やだー……帰らないー……」
一応個室を確認するが、吐いてはいないらしい。
「おてて洗いましたかー?」
「んん? おて……おてて……お手、する……?」
笑う。これはもうダメだ。スマホをしまって、その肩を叩く。なかなか動かないので、軽く蹴る。
「ほら、立て。……って顔ビッシャビシャじゃねえか。もう一回洗えよ」
「ええーん……王、僕のこと愛してる……?」
「はいはいどうだろうなー?」
「帰ったらエッチする? しよ?」
なるほど、コイツはこういうタイプなのか……と鳥肌とともに感心しながら、後ろから抱えあげて眼鏡を外してやり、シンクに顔を突っ込ませると、蛇口から出した水流を手のひらで屈折させてぶっ掛ける。なにやら喚いてごぼごぼ言っているが、気にせずその両手も突っ込ませて泡のハンドーソープを塗りたくった。
「ちくしょう、なんで俺がこんなこと……」と、漏らしつつも、半分くらいは俺のせいなので、仕方なしに世話をする。襟首を掴んでその長身を壁に立て掛け、彼の尻ポケットからハンカチを抜き取って顔をガシガシと拭いてやると、顔は綺麗になったものの未だに意識は覚醒していないようだった。
「もう泣くなよ。明日目が腫れるぞ」
その顔面に指を突きつけてそう言ってやるが、相変わらず「明日じゃやだ」などとほざいてるので、仕方なしに肩を貸してやる。そうしてその大きいのにどこか細い身体を引き摺って席に戻ると、お嬢ちゃんが起きていた。俺たちの姿を認めて「あらあら」と甘い声を上げた彼女は「とりあえず外に出しましょう」と言って、ビニールのカーテンを開けてくれたので、その隙間をラドレと共に潜る。
外に出た途端、夜風が薫った。冬の匂いだ。
「すみません、ふたりして迷惑をかけてしまって。その子、預かりますよ」
その口調はラドレの意識が若干残っていることを考慮したもので、聡いなと思いながら彼女に彼の眼鏡だけ預けた。
「いや。流石にお嬢ちゃんが抱えて帰るにはヒトの目が厳しいから、俺が運ぶよ」
「そうですよね。お願いします」
「吐いたら殺すからな。……よい、しょっと」
体勢を整え、一息に彼を背負う。一〇〇キログラム程度ならどうということはないが、動かないイキモノを運ぶとなると、重い。
「わあ、いいなあ、おんぶ……」
そう呟いて、彼女は楽しそうにカメラを向けてきた。シャッター音が数回。インカメラで三人一緒に、数枚。
「今度してやろうか、おんぶ」
「今度じゃいや」
「……似たもの同士だな? キミたちは」
「似たもの同士って?」
「さっき『帰ったらエッチする? 明日じゃいや』って甘ったれたこと言ってたぞ。キミ宛てだったが」
さっきのラドレの寝言のような発音を真似て言ってやると、彼女は、
「ねえ、もしこの子が起きなかったら、しよ?」
と唐突にそんなことを言って、凶悪とも言えるほど可愛い笑顔を俺に向けた。にこりと音のこぼれそうなその口角は、血を啜るとは思えないほど可憐で、一度血を吸われたからこそ、そのアンバランスさに胸の奥がむず痒くなってしまう。
「……キミはまたそういう……あー、もう」
絶対に起きるなよ……と彼に向かって念じながら、帰路をゆっくりと進む。不夜の街にヨーロッパ風のクラシカルな建物の優美な外装が浮き上がり、しかし赤く塗られた古典的なチャイニーズ・アーキテクチャも入り交じり、そして超高層ビル群が天を穿つ。そして川風。まるであの遊歩道を彼女と並んで歩いているかのような、もしかして今までも並んで歩いてきたのではないかと錯覚する、そんな切実なトリップを数秒得て、俺は背中の重みを再発見する。彼がいなければ、俺は彼女と再会することもなかったのだ。一緒にハニーミルクラテを飲むこともなかった。
もう戻らない。と、呟く。絶対にゼロ地点には戻らない。ここのところ、毎日自分に言い聞かせている。過去は、泣くほど飲んでもケロッとは忘れられない。それはきっといま俺の背中にいるこの男もそうに違いなく、酒に酔っては失態を犯したり、鬱に引き摺られては失敗したり、舌戦の先に己に失望したりして、繰り返し繰り返し、じわじわと患部の瀉血を続けるほかない。心は血を流す。それは、生きていればかならず生じる自己救済のための代謝なのだ。
だから呟く。己に、お前に、言い聞かせる。
「もう戻らない」「絶対にゼロ地点には戻らない」「彼女は俺たちのものにはならない」……「なぜなら、彼女はひとりで歩き始めたから」
大丈夫だ。たとえ俺たちがライヘンバッハったとしても、彼女はきっと歩き続ける。だからお前も、安心して一度死ね。再誕のために。そしてお前も俺を看破してくれ。
自己の再発見とは、推理である。この戦場で、三人小隊を組んでそれぞれのミステリと戦おうじゃないか。
まずは僭越ながら俺から第一問を。
〝俺〟が誰であったかを解き明かしてくれ。
End.
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