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【SERTS】scene.1 春、刀削麺

「自分以外全員雌」……そんな生態の上位存在である『王』と、その従者である『僕』が、長期バカンスで婚活しつつメシを食う!
食文化を通して人の営みを学び、その心の機微を知り、「人外でないもの」への理解を深めてふたりが辿り着く先とは。そして『かわいくてつよいおよめさん』は見つかるのか?
近未来を舞台としたのんびりグルメ旅ジャーナルがここに発刊。アジア大陸編。

あらすじ


※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)




 ふうふうと麺に息を吹きかけている我が王のちいさな耳に、垂れてきた長い髪をかけてやる。冷まさなくても食べられるだろうに、王はまじめな様子で僕が教えた通りにふうふうと。
 包丁で削られた不揃いなかたちの麺を摘む箸は、麺と同じくまとまりがない。どういった原理で動いているのかわからないような、どう考えても指が疲れるであろうそのフォームをみかねて、手を出して持ち方を整えてやれば、小麦の麺を噛み締めながら王は可憐に微笑んだ。
「美味しいかい」
 問うと、王は口にしていたぶんをゆっくりと飲み込んでから、辣油で真っ赤に濡れた唇で「おそらくは」と答えて頷いた。汚れを拭いてやりたかったが、まだ食べ始めたばかりなので何度拭こうが無意味だろう。そして今度は正しい箸の持ち方でふたくちめを食べ進める王の姿に、幾らか安堵しながら僕もその麺料理に向きなおった。これほど麺に特徴があるのだから、まずはスープではなく麺から手をつけるのが筋というものだろう。辣油の浮いたスープから引き出したそれをレンゲに乗せ、ぱくりとひとくち。かなりコシが強く、削っているからか舌触りが独特だ。しかし麺一本一本の質量にほぼ差はなく、作り手の卓越した技術が窺えた。スープは麻辣を注文していたのでいくらか身構えたものの、旨辛といった風情で安心して箸が進む。なるほどこれが本場の刀削麺ダオシャオミェンか。悪くない。
 家屋に隣接しているものの、殆ど屋台といった風情のちいさな店は、雨風でボロボロになったビニール屋根の下にイートインスペースを設けており、申し訳程度に舗装された通りに面した、ある意味開放的な造りだ。車がぎりぎり擦れ違えるかどうかといった幅の通りを挟んで向こう側には巨大な箱型をした生鮮市場への入口があり、その色褪せた案内板の下から野良か飼い犬か判別のできない大きな狼犬がこちらをじっと見つめている。スープに紛れていた羊の骨を投げてやりたかったが、香辛料が入っているのでやめておく。このあたりをうろつく犬ならば胃袋は強そうではあるが、念のため。
「ねえおまえ。これの骨は食べないのがふつうですか」
 ふと傍らの王が脛肉を箸で捕まえて問うてくる。もう既に箸の持ち方が崩れているが、今日のところは矯正を諦めることにして、そうだね、と頷いてみせる。すると王はぱくり、と可愛らしい所作で肉に噛み付くと、それを獰猛な剣歯で骨から剥ぎとりはじめた。そんな王に向かって、おしとやかにね、と申し訳程度の注意をしていると、ふと近くの席で昼間から酒盛りをしている老人たちや、往来の何人かが王を見て拝むような素振りをしていることに気がついた。
「神様みたいなお嬢ちゃんだからねえ、皆気になるのさ」
 ふと、そんな声がして振り返ると、ピークタイムを終えたらしいこの店の女将がレジの置かれたテーブルに頬杖を突いてこちらを見つめていた。彼女の隣で不可解な液晶表記のまま固まっているレジスターは、その年季の入り具合から順当にその機能を失っているようで、殆ど金庫代わりに使われているのだと見受けられるが、入出金口の留め金すら壊れているらしく、入店したときからだらしなく口が開いてくるのを女将が何度も押し戻している音が聞こえていた。
「生まれつきなんですよ、白いのは」
 予め眼鏡型のウェアラブルデバイスを通して脳内にインストールしてあったスタンダードな中国語でそう返すと「流暢だね」と言葉を褒められた。しかし地域ごとの細かい訛りや方言には対応できないプランなので、彼女の言葉を注意して聞き取り、都度不明な部分を検索しないと対応できない。拡張パックの購入を検討したいところだが、彼女は僕のような外国人に対して自分なりに聞き取りやすいように大きくゆっくりと発音してくれているため、今のところはその好意に乗っかってコミュニケーションを試みようと思う。
「ビジネスかい」
「まぁそんなところです」
「地図にない街にもご苦労なことだね」
「おや、それは初耳です」
「ウェブ上だとここら辺は白抜きになってる……と、孫がね」
 孫。次代の次代。どうにもヒトの外見年齢はよく分からない。若い、老けている、の違いはなんとなく解るが、次代がいるいないについては外見からの判別が難しい。
「それだけ治安が悪いのさ。アンタたち、綺麗な服を着ているし、特にそのお嬢ちゃんは人攫いに遭いそうだからちゃんと付いててあげなね」
「なるほど。貴重な情報に感謝します、レディ」
 礼を言うと、女将は僅かに動揺したような素振りを見せて店の奥に引っ込んだと思えば、少しして非常に辛そうな匂いを漂わせた皿を持って戻って来た。蒸気からしてカプサイシンの肌刺激があり、僕が掛けている丸眼鏡のレンズの隙間に浸透して涙を滲ませる。
「サービスだよ、色男。お嬢ちゃんも辛いのが大丈夫なら食べなね」
「これはどうも。いただきます」
 女将に礼を言い、目配せをすると王も教えた通りに「シュエシュエ」と言って青唐辛子がたっぷりと入った豚肉炒めを不格好な手付きで口に運び始めた。見かねた女将がスプーンを持ってきたのを受け取って、王は礼代わりに「ハオチー」と微笑む。そんな王の姿に女将はどこかしんみりとした声音で「可愛いねぇ。天女様のような女の子だ」と呟くと、僕に視線を向けた。
「奥さんかい」
 奥さん。妻。伴侶(雌)。一般的に雌雄の判別は子を産む機能の有無を指し、生殖器の外観だけでは判断が難しいとされる。
「いや、どうでしょう」
 曖昧な返事をしながら、傍らの王を見る。王は会話の内容をざっくりと把握しているはずだ。詳細な内容や表現の持つ意味合いを意識するだけの意欲がないだけで、母語でない言葉でも大方理解できる。ただ今は、青唐辛子と豚肉を食べることに忙しいからか、こちらに一瞥もくれない。そんな普段通りの食欲ファーストな王を見る僕の眼差しのなにを勘違いしたのか、女将は気の毒そうに口を開いた。
「……駆け落ちかい?」

「駆け落ち、ねぇ……」
 オリエンタルなイメージを凝縮したような雰囲気の生鮮市場を歩きながら、そわそわと辺りを見渡している王の肩を抱く。防犯上、余所者だと思われたくはないが、先程の感じからしてひと目で外国人だとわかるようなので、王に幾ら目立たぬようにと注意をしても無駄だろう。今しがた漏らした僕の呟きはこの窮屈な雑踏に吸収され微塵も響きはしないが、王には確実に聞こえているはずで、届いていることを承知の上で「天女と駆け落ちならロマンチックなんだけどな」呟いてみる。
「駆け落ち……ツガイで逃げることですか? どうして逃げるのでしょう」
 そんな風情の欠片もないことを言って、王は足元をすり抜けていくネズミのような、そうでないような生き物を目で追っている。何にでも適度に興味を持ち、適度に興味を持たないのが王の性分だ。今も僕と歩きながら、その意識はネズミや屋台の串焼き、香料の山に向いていて、それでも一応は会話できている。話を聞いていないわけではない、ということは王と暫く付き合ってみないとわからないことであり、そんな分析をしている僕は、その『話を聞いていなさそう』なところにはとうに慣れた。
「無視できない存在から交際を否定されたり、逃れられない障壁にぶつかったりしたら逃げることも有りうるんじゃないかな」
「フクロノネズミ、ということですか」
「袋でも袋小路でも、壊せば出られないこともないしね」
 そんな雑談の最中、不意に視線を感じてその方向を確認する。物陰から僕らを覗くのは、スーツと人民服を掛け合わせたような黒服の男たちだ。僕も王も、矢鱈と見られること自体は日常茶飯事であるが、視線には質というものがある。たとえば僕はご婦人から視線を向けられがちだし、王はお顔立ちが素晴らしいことよりもまず先に立派な胸部の脂肪に視線を注がれがちだ。まったく不敬極まりないが、王の胸部にのみ視線を向けて会話をしていく男も後を絶たない。そういった視線はある意味で致し方ないものの、それ以外の──敵意や殺意、と形容すべきか──にははっとするような不愉快さがあり、特に僕はそれらに対して敏感だ。そう教育されているというのもあるが、これはある程度……生死の駆け引きが身近な者には共通した感覚なのではないだろうか。
「ねえ、おまえ。これはなんですか」
 僕の腰をつんと突いた王のほうを見ると、一見して保存の効く乾物や冷凍食品などを扱う店の商品が気になるらしく、足を止めて一緒に見てくれと促してくる。物陰からの視線は気になるが、王の要望は極力叶えてやりたいので、その狭っ苦しい肩越しに王の視線を辿ると、そこにはいくつかの缶詰が種類ごとに並べられていた。
「これはどういう仕組みの食べ物なのですか」
 そう言って王は、黄桃の断面図がプリントされたラベルの缶を手に取った。特に桃が好きだとか果物が好きだとかいう話はまだ聞いたことがないので、きまぐれの選出だろう。
「えーと、保存食だね。殺菌したうえで密封しているから長いこと持つんだ」
「どのくらい持つのですか」
「果物なら二、三年かな」
「一瞬ですね」
「一瞬だねえ」
「ねえ、おまえ。これを買ってください」
「食べたいの? いいけど……」
 店員を呼び電子マネーで決済をしていると、王は機嫌が良くなったのか缶を袋に入れて貰ったり、僕に預けたりせずに、そのままそれを鷲掴みにしてニコニコと微笑みながらひとり歩いていってしまう。その背中を素早く捕まえて手を繋ぐと、その頃にはもう外部からの視線の不快さは消えていたが、念のため「ひとりで行かないの」と王を軽く戒めた。駄目押しとして顰め面を作り「人攫いがいるんだってさ」と、おどけながら脅してやるが、王はただ真面目な顔で「わたくしはヒトではありませんよ」と首を傾げるだけで、まったく危機管理がなっていない様子である。
 窮屈な市場を抜けると、搬入のためか幅のある車道の向こうに、歓楽街と思しき通りが拓けた。まだ盛りの時間帯ではなく、今は開店準備中といった雰囲気をした辺り一帯は、ある意味でこの時代のこの国『らしい』景観であるものの、電飾看板の殆どは凝ったネオン管ではなく、看板に貼り付けた派手な色のシートの内側から光を当てる方式の簡素なものばかりで、この地域全体の貧しさが窺える。しかしそこかしこに肥えた猫がいるので人情という点ではいくらかの希望は持てそうだ。
「そろそろ宿を探そうか」
 歓楽街に用事はないので斜め後ろにいる王を振り返ると、王は手にした桃缶を手でくるくると回転させて観察していた。どうやら開け口を探しているようで、一緒に缶を覗き込んでみるものの、プルタブが付いている仕様のものではないらしい。開け口がないことが不満なのか、王は困った眉をしながら缶の表面をすべすべと撫でる。
「これは缶切りというものを使って開けるんだよ。さっきの市場に金物屋さんはあったかな……」
 来た道を戻って缶切りを探すか、宿のある一帯で商店かコンビニを探すかを迷っていると、不意に「ベギョ」と不可解な音がした。遠くを見ていた視界が反射的に歪むのは、やらかしやがったな、ということを察したからである。
「……王?」
 視線を落とすと、無理矢理に『引き裂かれた』という表現がぴったりな惨状の缶を手に、怒られることを察したらしい王がちらりと僕を見上げたところだった。まったく反省している素振りも怖がる素振りも見せないが、くるぞ、と身構えていることはわかる。
「……カンキリ、なくてもあきました」
 あたかも「いいことですよ。やったね!」とでも言いたげに、王は無惨にひしゃげた缶と僕の顔を交互に見ている。しかしそのいじらしさに折れてやれるほど、僕は甘やかし一辺倒な従者ではない。
「開きました、ではなく開けました、ですよね? たまたま人がいなかったから良いものを」
「あけるところがなかったのであけました。フクロノネズミ、です」
「その表現は違うね?」
「フクロノネズミを逃がしてあげました」
「桃に意思はないからネズミとは違うね?」
「もうたべていい?」
「……人前ではそれをやらないこと。次からは缶切りを使うこと。以上二点を守れるならどうぞ」
 従者が王を叱らなければいけない場面というのはおおまかにふたつ存在する。ひとつは悪政を敷いたとき。もうひとつは本性がばれそうになったときだ。しかし王は僕如きが叱ったところで響く相手ではないので、ここではきっちりと交換条件を出して要求を飲ませることが肝要だ。王は「わかった」と適当な返事をすると、縁がギザギザに尖って危険な状態の缶に躊躇なく手を突っ込んで、中身の黄桃を食べ始めた。
「美味しいかい」
 問うと、王は微笑んで「ハオチー」と答える。
 この国を訪れるにあたって、まず王に教えたのは「シュエシュエ」と「ハオチー」とあともうひとつ。王が現地人とのコミュニケーションに積極的になるとも思えないので、取り敢えずそれだけ覚えていてさえくれれば円滑に進むだろうと見込んでのことだ。しかしいま目の前で桃缶のシロップを豪快に飲んでいる王は、やはり常人が簡単にコミュニケーションを取れるような相手ではないという思いが強まる。これは今までも感じてきたことだが、この王には自分がいないとだめなのだということを再確認させられる。
「ハオチー」
 もう一度そう言う王に「飲み物の場合は、ハオフーだよ」と教えてやる。すると王は「ハオフー」と復唱してニコニコと嬉しそうだ。
「この缶詰にはハオチーとハオフーが両方あって、にぎやかですね」
 そうだ、僕が王に見せてあげたいものはハオチーとハオフーが存在する世界であり、それは至上の人生と称したりもできるひかりのようなひとときだ。今この瞬間も王の肌に触れている空気や光、色、匂い、その他すべてのことを「悪くない」と感じてほしくて、僕は王を……。
「……缶切りと桃缶を買いに行こう」
 物思いに耽っていたのを切り上げ、王の手から空の缶を取り上げると、そのシロップでベタつく手を取って歩き出す。八角と香草と、なにか甘ったるいお香の匂いに包まれながら見上げる遠くの雲を染める紫と橙が、濃紺に融和しきってしまう前に、当座の宿を確保したいところだ。

 夜更かしをしない鳥たちが家に帰るころ、駅前の宿を取った。低層ではあるものの、年頃の少女がいると念を押して確保した最上階の角部屋は見晴らしがよく、多少の設備の古めかしさはレトロと称して目を瞑ってもいい。格安と言っていい宿泊価格ではあるが存外に内装は凝っていて、青い墨絵の描かれたタイルが並んだウォールデコが可愛らしく、そこに色調を合わせたストリングカーテンが涼しげでいい雰囲気だ。
 僕が背負っていたトランクを開いて荷解きをしている最中に王は眠ってしまったらしく、気付いた頃にはダブルベッドの隅っこで丸くなって寝息を立てていた。人間式の食事から栄養素を抽出するとなるとどうしても諸々が不足するようで、そればかりを続けていると王はよく眠るようになる。省エネ設計なのだろうが、そこに胡坐をかいていると大変な事態を招きかねないので、早いところ『食事』をさせてやらなくてはならない。
 備え付けのテレビでなにやらヌンチャクを操るパンダのアニメを流しながら、上着のポケットに入れていたスマホを二台、チャージャーに繋いでネットに接続してみる。昨今は極端な標高や地底海底でも無い限りどこにいてもネットに繋がるのだから、地図に無い街だとどうなるのかと試してみたわけだが、予想通りにあっさりと繋がった。そうなると白抜きの件は霊脈だとかのオカルト由来ではなく、人為的なものだろう。大方、あの黒服の連中の政治絡みではないだろうか。
 王に買い与えたほうのスマホを閉じ、伏せて置いておく。王には友人がいないのでアドレス帳には僕しか登録されていないし、プライバシーに配慮する必要も特にないのだが、不可侵のポーズは大切だ。そもそも王自身はスマホを携帯すること自体を忘れがちで、持っていてもいつの間にか僕のポケットにねじ込まれているので所持させること自体が殆ど無意味ではあるものの、王は人間の幼児よろしくボタンやタップ操作が好きなので、玩具代わりにしているというわけだ。それに万が一の場合、迷子札にでもなってくれれば御の字である。
 そのまましばらく位置情報やマップアプリを弄り回してみるが、あの女将の言った通り、地図上ではこの地域の一部が不自然に白抜きになっているものの、地名の検索結果は普通に出てくる。──山西省大同市某区。それは当然で、僕もウェブで検索をしてここを旅の目的地を設定したのだし、ここまでは飛行機と電車を使ってやってきたのだから乗換案内やチケット購入は問題なく行えている。文字化けもしていない。であればただの利権問題のややこしい土地でしかなく、心ときめく冒険譚なんてものは期待できず、最初から期待してもいないのだから僕がこれからやるべきことと言えばガイドブックでグルメ情報をチェックすることだけだ。
 猫耳朶マオアールドゥオなる可愛らしいのか物騒なのかよく分からない名前の麺料理が気になり店を調べていると、ふと辺りがだいぶ暗くなっていることに気がついた。窓を開け外を見てみると、歓楽街の方面が賑やかに明るくなっており、もういい時間なのだと察する。ネオンの原色が遠目にも眩しく、経済だなあ……と感じ入りながら、部屋の角にある間接照明を付け、丸眼鏡の縁をタップして青から透明なレンズへと切り替えておく。別に夜に色眼鏡を掛けていても、仮に辺りが真っ暗でも僕の目はよく見えるのだが、人間らしい振る舞いを考えてのことだ。僕はマフィアでも胡散臭い商人でもないし、そう見られては困る。
 気分転換にシャワーを浴びて洗面所から部屋に戻ると、王が起きていた。そのか細い玉体に掛けてやっていたブランケットにくるまったまま、テーブルの上に置いていたピンクの三徳缶切りの、ワインオープナー部分をカチカチと閉じたり開いたりして遊んでいるようだ。
「あとで使い方を教えてあげる。そしたらいつでも桃缶食べられるよ」
 そう声を掛けると、王は僕をじっと見つめて「わたくしが開けるのですか?」と首を傾げる。王の首の傾げ方は愛くるしいというよりは梟のそれであり、僕は可愛いとは思うが、人間目線では若干不気味であろう絶妙な動きをする。
「自分で開けられたら好きなときに使えるでしょう」
「どうしておまえが開けないのですか?」
「……僕に開けて欲しいってこと?」
「おまえはそういう存在ではないのですか」
 王の発言の意図はわかっている。これはいつも一緒にいる男に甘えたいとか自分で開けられないとか、そういうあざとい怠慢や外見のか弱さ由来の話ではなく、本当に自分がやる意味がわからないという存在のスケールの話だ。さっきも缶を開けるプルタブを見つけたのなら僕に渡して開けさせていたはずであり、缶を物騒にこじ開けていたのは食べてみたさあまりに痺れを切らしたか、はたまた力加減が上手くいかなかったか、或いはその両方が理由だろう。
「はいはい。僕が開けるよ。その缶切り壊さないでね」
 今回はこちらが折れることにして二三度頷くと、王は従者が納得した素振りを見せたことが嬉しいのか、僕を呼び寄せ頭を垂れさせると、頭頂部付近をゆるゆると撫でてきた。王がそれを褒美になると考えている時点で、僕が王に勝てないことは確定しているようなもので、なんだかなあと嘆息しながらも密かに照れてしまう。
「腹の中がカラなので、もちもちの麺が食べたいです」
 そう言いながら、王はまだ僕の頭を撫でている。
「もちもちかはわからないけれど、面白そうな麺料理があったよ。食べに行こっか」
 僕の提案に王は立ち上がると、いそいそとスカートのポケットに缶切りを押し込んだようだった。どうやらそのピンクの缶切りも桃缶と同様に気に入ったらしく、携帯していたいらしい。好きにさせてやるつもりで指摘はせず、「スマホも持ってね」と促すと、ネックストラップを引っ掛けたスマホを王に手渡した。

 猫耳朶なる麺を炒めで注文すると、王は露骨に辺りに屯する野良猫のことを注視しはじめたので、慌てて小麦粉やそば粉からできている麺だと説明する。王が本物の猫の耳を食べても良いのだと認識してしまったら大惨事になりかねない。
「要は猫の耳のような形をしていますよ、ってこと」
 一瞬、自分が動物好きなことにつられて無意識に屋外席に座ってしまったことを悔いるが、席変更をするほどのミスでもないと気を取り直す。そんな僕の気も知らないで、王は「効率が悪いと思いました」とひとり頷いて、なにか納得した様子だ。絶対に恐ろしいことを考えていたに違いないので、そこは追求はせずに話題を逸らす。
「気になった場所とか物はない?」
「あれが気になります」
 珍しく速めの反応があったのでブルーのネイルの指さすほうを目で辿ると、今いる駅前の繁華街の終点を突き抜け、日中に通り掛かった生鮮市場や歓楽街より更に奥に、不自然に聳える建造物が見えた。一見してマンモス団地のようだが、今いる国を思うとどうしても城砦という言葉が過ぎる。様々な建物を継ぎ接ぎしたようなそれは、僕たちの視力を以てすると鮮やかなほど不気味に映り、殆ど闇に溶けるように色味が暗いのに、明らかな警告色を発しているように思えた。あれほどに目立つのに僕がそれを初めて視認したように感じられるのは、他に注目すべき主君の仕草や辺りの景色、そして出来事があったからだろう。それに加え、城砦のずっと向こう、市街中心部の方角では大規模な摩天楼群が夜空を穿っているのだから、いざ能動的に視認したとしてもそちらを目立たせるための絵画技法や舞台装置として脳があっさりと受け流してしまうかもしれない。
「わー、すごくよくない感じがするねー」
 絶対に行かないことを暗に仄めかすと、王は無垢な色をした睛だけを僕の方に差し向けた。有蹄類を思わせるマイナス記号型の瞳孔は、それだけで威圧感と得体の知れなさを演出するが、大抵の者はそこまで見ていない。着目するのはせいぜいその睛が殆ど透明に近いプレシャスオパールの色だということくらいで、おそらくそれより奥の深淵を見ることを本能が拒んでいるのだ。
「よくないかどうかは、知見のないままに決めてよいものではありませんよ」
 要は「絶対に行きますよ」と主張している王にどう反論するか考えていると、店員が料理を運んできた。湯気を立てる大皿には、野菜や肉と一緒に炒められた無数の白い猫耳朶が乗っており、パスタを彷彿とさせるそれは宝貝に似た形をして、猫の耳で言うならばスコティッシュフォールドのそれに近い。「猫……」と呟きながら皿を覗き込んでいる王に猫耳を取り分けてやり、同時に届いた白菜の黒酢炒めも小皿で添えてやる。すると今度は「葉っぱ……」と口をへの字に曲げている王に、いいから食べなさい、と促せば、その手に取った箸はやはり不格好だった。どういう原理で両方の箸が動いているのかわからないが、現に鋏のようにチョキチョキと動いているのがすこし可笑しくて、ニヤニヤと笑いながら実演と訂正を挟み、食べ始める。
「うん、もちもちなんじゃないですか?」
 ある意味想像通りでありつつも、物珍しさから新鮮とも受け取れる食感をありきたりな表現で述べると、王はこくりと頷いて「もちもち」と呟いた。どうやら満足している様子である。
 昼間の店もそうだったが、全体的に塩気が強めである。おそらくは労働者向けの味付けなのだろう。ここの主産業は炭鉱や農業だと聞く。観光業も発達しているらしいので明日以降は寺院や旧都、石窟などを見て回ろうかと提案しながら、いまだに人間式の食事作法に明るくない王の世話を焼いていると、唐突にその手から箸が吹き飛んだ。変な持ち方をしていたせいで何かの弾みを受けたのだろう。
「わほほ」
 そんなふざけた笑い声を上げながら、王がテーブルから少し離れた位置に落下した箸を拾いに行こうとするのを「僕が」と制するが、王は野良猫が間近に寄ってきたのを見て、それを迎えにいこうとする。そして「おまえたちの耳をたべましたよ」と物騒なことを言う王が、左手で箸、右手に猫に触れようとした次の瞬間、その玉体が僕の目の前から掻き消えた。
「……へ?」腹奥ではなく、口腔から素っ頓狂な声が洩れる。
 土煙となんらかのエンジン駆動音が夜に舞い上がる。飛び退いた形のまま固まった猫とともにその場に残された僕は、ワンテンポ遅れてバイクが王を攫ったのだと気が付いた。人攫いだ。王はヒトじゃないけれど。
「ご馳走さま!」
 店内に向かって声を張り上げ、ポケットから予備として持っていた紙幣を抜いて碌に数えないままテーブルに置くと、バイクの走り抜けて行った方向へ僕は駆け出した。夜になり人通りが増えてきたので、人間以上の速さで走ることができない。正体がばれたら事だからだ。やきもきしているうちになぜか詰まった喉から息が上がってきて、碁盤目状の街であるがゆえに上手いことコーナリングが取れなかった角でバイクを見失ってしまう。失態だ。大失態だ。しかし人を攫うのにバイクを使ったということは長距離移動を想定していないはずで、そうであれば目的地はそう遠くはない。それなら位置情報共有アプリで王を探し出して助けにゆけばいいのだ、と悔悟の思考を前向きに切り替えてポケットに手を突っ込むと、スマホが二台出てきた。片方からはネックストラップが垂れていて。
「もー! 王ってばー!」
 夜空に向かって叫んだ反動で、がっくりと肩を落とす。いまさら文句を言っても仕方がないので、王の甘い瘴気のする方へととぼとぼ歩き出すと「王が余計なことをしませんように」と力なく祈った。

 髪も肌も白くて、背が高くて、ガリガリに痩せていて、それでいて胸の大きな女の子、見ませんでしたか?
 口に出すと馬鹿馬鹿しいことを繰り返し通行人に訊ねながら、不意に浴びた「アニメキャラか?」という返事に、二次元なら扱いが楽そうでいいなぁと感じ入る。萌えのキャラなら主人公である僕のことを好きになってくれるだろうし、ある程度操縦も効くことだろう。……ジャンルにもよるが。
 聞き込みを始めてしばらく。気付くと昼間に訪れた食堂のある辺りまでやって来てしまったようだ。正直、王であれば囚われの身程度の状況は自力でどうにかする可能性が高く、それよりも離れ離れになってしまったという現状が目下の厄介事だ。あちらからであれば僕を補足することなど造作もないだろうが、王は正直なところ、起きていないのだ。意識が明瞭であることのほうが少なく、簡単に言ってしまえば常に夢見心地で地に足が着いていない。そしてこれは封印や呪いといった外的要因からではなく、本人の気質の問題だからこそ厄介なのだ。要は、おっとりのんびりのほほんとしている。だから逃げ出して僕のもとに向かうとか、僕に位置を知らせるとか、そういった現状の打開策に意識が到達するのに時間がかかるし、下手をしたらそこまで考えが及ばない可能性が高い。
 僕のことを呼んでくれ。王が僕の名を呼んでくれればどんなに離れていたって絶対にわかるのに……そう強く祈るのに、これが届いているのかいないのかすら、僕にはわからない。
 とぼとぼ歩いていると、ふと視界の端で昼間に寄ったの店の女将が手を振っているのが見えた。後ろを振り返ってみるが、どうやら合図を送っているのは僕に対してらしく、女将は昼間より繁盛している店内から出て来ると「色男!」と僕を指しているらしい名称を口にして朗らかに笑う。
「どうしたんだい、暗い顔して……あら、お嬢ちゃんは?」
 僕の腕の辺りをぱんと叩いた女将は、僕の傍らに真っ白な少女の外観をした存在がいないことに気が付いたらしく、辺りを見渡し、それから僕を見上げた。人攫い。でも人ではなくて……と余計な考えが脳内を回っていて言葉を発せずにいると、彼女は急に真面目な表情をして「攫われたのかい」と目付きに反した優しい声を発した。
「おそらく……。バイクに攫われてしまって、見失って……」
 要領を得ない僕の説明に、女将は「そうかいそうかい」と何度も頷きながら、それと同じ数だけ僕の腕を擦る。それから彼女は再び辺りを見渡すと、一歩距離を詰め、潜めた声で言った。
「攫われた人間はあの城砦に連れて行かれるって噂だ。探しに行ったものは殆どが戻ってこないし、運良く帰って来られても成果がなかったりで散々さ。人喰い城砦なんて呼ばれててね」
 思わぬ有力情報に目を剥くと、女将は僕の肩や胸、上腕の辺りを品定めするかのように手指と目で確認しはじめる。どうやら僕が戦える肉体をしているかを見てくれているらしい。
「背丈の割に細身だね、アンタ。肉切り包丁なら研いでやれるんだが……要るかい?」
「つまりただの城砦ではないと?」
「あそこを牙城にしているのはここいらがシマのマフィアでね。ほら、最近の若いモンは手足が機械だったり頭の中に何か入ってたりするんだろう……そういう兵隊は何人か見掛けたことがある。でも全部が機械って訳じゃないんだから筋切りの要領で行けば……ああ、アンタは? アンタはどこか機械だったりするのかい?」
 問われて、僕は正直に答える。
「いや、僕は生身ですね」
「そうかい……待ってな、包丁を持ってきてやるよ」
 彼女が僕を武装させたがるということは、警察や自治組織があの城砦に対して機能しないことを指しているに違いない。背を向けた女将を呼び止め、武装は必要ないことを告げると、彼女は驚いた顔で「武道の達人か何かかい?」とこちらを振り返った。
「ああ、ええと、あれです、カンフーを嗜んでおります」
 嘘だ。カンフーなんて映画やホテルのテレビで流れていたパンダのアニメで観ていただけだ。よくわからないなりに「ホワチャ」と叫ぶことは知っている。

 人喰い城砦なるアトラクションエリアのすぐそばまでやってくると、近くにあった路上喫煙所を利用する振りをして、今しがたすれ違った通行人からくすねた紙煙草に火を点けた。不味いなぁ……と滲み入る煙を目で追うようにして見上げるその継ぎ接ぎの巨大建築には、その外周を掘削するようにして無数のちいさな商店が張り付いて灯りをともしている。これがシノギのひとつなのだろうか。今はなき某有名城砦の半分程度の大きさであろうそれは、直感だがスラム街ではなさそうで、衛生状態は中を見ていないのでなんとも言えないが、戸籍のないような痩せ細った人間の子どもがいるだとかの心配はないだろう。危ない薬物は売られていそうな雰囲気ではあるが、ピンクライトの下で女が売られているような気配も匂いもしないのが不思議だ。その点でいうならば向こうの歓楽街のほうがその色が濃い。
「あのう……お兄さん、眼鏡のお兄さん」
 どこから侵入したものかと考えていると、ふと僕に向けられているであろう女の声がして振り返る。そこには長い黒髪の、言ってしまえば陰気な印象の女が立っていた。てっきり火でも欲しいのかと懐に手を差し込むと、女は首を振って「違うんです」と消え入りそうな声を発した。
「そのう……お兄さんはもしかして白い女の子を探しに来たのですか」
 その言葉に、周囲を素早くチェックする。誰もいない。
「……そうですけど、なにかご存知ですか」
「やっぱり……! さっきすごく綺麗な白い女の子が入ってきて、可哀想だなあと思っていたら同じ匂いのするお兄さんが近寄ってきたので、これはカップルかしらと思ってつい……」
 陰気そうだが声が可愛らしい女は、途端に早口になり、そして途中でその早口を恥じ始めたのか両手を顔の前で小刻みに振る。落ち着いて、と声を掛けると、女はすみませんすみませんと慌てふためく。どうやらコミュニケーションが苦手なタイプのようだ。
「ももも、申し遅れました……私、鬼打牆きだしょうのファーファといいます。これは、私です」
 そう名乗って、女は目の前の城砦を指差した。長い前髪を掻き分けた下の素顔は可憐で、その恥じらって染まる頬はなるほど、花の絵のようだ。
「……お兄さんも、人間じゃ……ない、ですよね?」
「なるほど。まさかここで同族に出逢うとは」
 一般的に、我らが使う同族という括りは彼女の言う通りに『人間でないもの』を指し、それはあまりにも広義ではあるが、いま現在この星の覇者は人間であるために、便宜上この表現が用いられる。
「よかった、合ってた……! あの女の子もですか?」
「そうですね。あれは我が王です」
「あ、失礼しました……。位の高い種の方なんですね……? すごいなぁ……道理でお腹が凄く熱いんだ……」
 腹を擦ったファーファは、またすぐにはっとした様子で顔の前で手を振った。
「たっ、食べてないです! 食べてないですよ! 私の中に入ってもべつに消化されたりとかはなくて、ひ、人喰い城砦っていうのは風評被害というか……!」
 そんな、焦る彼女の手を捕まえて握る。落ち着いて、と囁くように言って聞かせると、彼女は耳の先まで真っ赤になって固まってしまった。勿論これは小出しではあるが僕に生来身に付いている魅了スキルを用いたもので、これで大抵の者(特に女性体)は僕の言うことを聞くようになる。
「鬼打牆というと……人類のデータベースを確認した結果で申し訳ありませんが、『袋小路』とか『堂々巡り』を作り出す妖怪さん……で合ってますか?」
 できるだけ優しく問いかけると、彼女は蚊の鳴くような声で「合ってます……」と言って頷いた。そしてこのままでは話が進まないと克己心を燃やしたのか、唐突に両手でその薄い両頬を勢いよく叩くと、幾らか気持ちに芯が通ったらしく、胸の前で手を握り締めながら「私の話を」と語り始めた。

 *

 私自体の生まれはもう三千年ほど前になります。
 最初、私は城壁でした。私一人が城壁を成していたというよりは、周りの仲間と繋ぎあって城壁を成していたと言った方がいいかもしれません。当時は意識もなく、ただ存在しているだけの壁でしたが、この国の度重なる戦乱を越え、徐々に壊され剥がされ削られ、残った部分に意識が宿りました。それがこの地域の鬼打牆である私です。この頃については、ただ世界を見ていただけで、自我と呼べるものは無いに等しかったので割愛します。
 私は、徐々に徐々に意識を大きくしていきました。壁とは人類の発展の証です。国と国、地域と地域、家と家、人と人のパーソナルスペースを作り、守るためのもの。その発展のエネルギーを糧に大きくなった私は、付喪神に近いのかも知れません。あ、ちょっと烏滸がましかったかな。
 自我が生まれたのは最近のことです。もうほんの小さな、塀とも呼べるほど小さく削れた私に、人間の子供が絵を描いたのです。遊び尽くして小さくなったチョークで、そのちいさな女の子は花の絵を描きました。丸がいくつか重なっただけの、拙く簡素な花の絵です。母と思しき女性に「なにを描いているの」と問われたその子は、殆ど喃語に近い発声で「ファーファ」と答えました。……花画。その瞬間、私に自我が生まれました。人々を守るために囲い、敵を惑わす城壁。その在り方から、私は鬼打牆となったのです。この姿もその際に得ました。
 私は人間の子供たちが好きです。しかし全ての子供が幸せに暮らしていけるわけではありません。貧しい地域では戸籍のない子供や身寄りのない子供、なにかから逃げ惑う子供たちがたくさんいます。私は彼らを守りたかった。なので私は彼らの仮住まいとして大きくなりました。雨風を凌げるだけ大きくなりました。私を拠り所として、徐々に子供たちは集まってきました。彼らの継ぎ接いでくれた建材とその願いの分だけ私は大きくなり、やがて砦と呼べる大きさになりました。ちょっと暗くてジメジメしてるかもしれないけれど、私は活気溢れる生活の場となったのです。
 かつて子供だった子供たちも、次代を産み親になりました。私は彼らの家として存在し、とても幸せでした。時折、ミステリアスなお姉さんとして顕現しては子供たちと遊んだり、自治会の運営委員となったかつての子供たちのことを見守ったりして過ごしていました。しかしある日、アイツらがやって来たのです。
 その男が人間でないことはわかっていました。どうやらどこかから逃げおおせてきた男とその従者たちは、私に目を付け踏み入ってきました。ひと目でカタギさんではないとわかるようなその連中は、彼らを追い出そうとする人たちを傷付け、時には命を奪い、子供たちを怯えさせ始めたのです。
 当然、私は黙っていられません。妖怪として彼らを封じ込め、排除しようとしたのですが、残念ながら男は私よりも強かったのです。あっという間に私の城砦としての身体は捕らえられ、支配下に置かれてしまい、私はせめてもの抵抗として、子供たちを吐き出しました。我が子たちは家を奪われても生きていけると信じて。
 こうして私は、この黒い城砦になってしまいました。私の上に腰を据えたあの男は、徐々に組織を大きくしていき、街の人たちを力で威圧するようになりました。そして街の見目麗しい少女たちを攫って連れ込むようになり、その子たちは……最後にはあの男に食べられてしまうのです。文字通りの餌です。私の中で何人もの少女たちが死にました。その度にお腹が痛むのです。でも傍目には、私が人喰い城砦なんですよね。悔しいです。苦しいです。だから。

 *

「あの男を倒してくれませんか」
 悔悟でも憎悪でもないフラットな声で、女は言った。
 その睛には清廉な炎が宿っているようで、目を合わせているだけで貫かれそうだ。いつの間にか彼女側から握られていた手には痛いくらいの圧力を加えられており、しかしそれに込められていたのは憤怒ではなく祈りだった。
「同族が来てくれたのは初めてなんです。……だから、私より強いであろうあなたなら」
「……わかりました。請け負いましょう。悪性固体の討伐は業務内ですし」
 彼女の熱意に負けたというのが本音ではあるが、彼女を通して砦に侵入するほうがスムーズでサポートも得られるだろうと見込んだ部分もある。とっくに短くなって消えていた煙草を灰皿に放り込み、行きましょうか、と声をかけると、ファーファは再び気弱な状態に戻ったのか「あのう……」と伺いを立てる声を上げ、もじもじと手遊びを始めた。
「そ、その……私にお小水を掛けたら、壊れるとか、そういうのが人間のあいだには伝わっているようなんですけど……ち、違いますから。あれは普通に嫌だからです」
 なるほど、僕が先程確認したデータベースに書かれていたことを、彼女は認識していて恥じらっているのだろう。
「そりゃそうだ。でも安心してください、僕はそういうのが出ないから」
 安心させてやるためにそう言ってやると、彼女は再び顔を真っ赤にしてぶるぶると震え始めた。なにやら小声でごめんなさいだの失礼しましただの、謝罪の言葉を連呼している。よく分からないが、挙動不審な性質というのは大変そうだ。

 当然ながら城砦の正門とも呼べる一帯には警備兵が配置されており、しばらく様子を窺っていると、傍らのファーファの「任せてください」の声と共に外壁に飲み込まれた。なにやらつるりとした、硬めのスライムのような感触が身体を包んだかと思えば、次の瞬間には暗い浴室と思しき部屋に転移している。なるほど、便利だ。立っていた空の浴槽を跨いで出ると、ファーファに向かってあまり離れないようにと注意を促す。
「端っこにしか転移できなくてすみません……中央棟は完全に私の言うことを聞かなくて……あちらに察知されないのがここら辺がぎりぎりかなと」
「ありがとう。充分です」
 物音を立てないように息を潜めながら、経年と放棄により荒廃した内部を進む。明かりは少ないものの、人間に擬態した素振りをする必要がないぶん、幾らか気楽だ。ファーファの案内に従って進めば進んだぶんだけ王の瘴気が濃くなってくるので、彼女に騙されているという心配もない。
「なんだか不思議な花の香りがしますね……」
 ざっくりと隔てられた棟と棟のあいだに橋渡された、鋼板製の不安定な足場を歩いていると、ふとファーファがそんなことを呟いた。どうやら一般的な同族が王の瘴気に気付くのは、僕よりも随分と遅れてのことらしい。
「ああ、うちの王ですねこれ。元気してそうです」
 この足場ならば手を繋いでエスコートすべきだったかと、今更ながら気付いて手を差し出すと、ファーファは「これ私ですから怖くないですよ」とはにかみつつも僕の手を取った。
「王……さん、怖がってないですかね」
「あの子に怖いものは、ないと思うなあ……」
 王になにか怖いものがあるのなら、生活指導が随分と楽になるに違いない。そんな夢想に気を取られていると、俄に足が何かを破いて空を切った。足場が、ない。いや、錆びて脆くなった部分を踏み抜いたのだ。
「ふ、古くてすみませえええん!」
 地上二十メートルほどの高さから落下しながら、半泣きで叫ぶファーファの身体を空中で捕まえ、抱きかかえるような体勢で着地する。舞い上がった埃が落ち着くのを待ってから彼女を下ろして立ち上がると、丁度騒音を聞き付けて黒服たちが集まってきたところらしく、彼らの反応の速さに関心しながらファーファを振り返った。
「人間じゃないのはやっちゃっても?」
「は、はい!」
「じゃあ皆殺しかな。骨が折れるな」
 手始めに、飛び掛ってきたひとりの頭を拳でかち割る。しかし飛び散ったのは血でも脳漿でもなく無数のコードと漏電のスパークで、脳の位置に詰まっていたのは侵襲式のブレイン・マシン・インタフェースだということが窺えた。しかし手応えからして電脳化した人間というわけでもなさそうで、ともすると改造されたファミリアの類いだろうか。ある意味毒気の抜かれた兵隊たちを哀れに思いながらも、着実に一体一体、丁寧に脳を潰していく。拳で。脚で。拾った銃で。ヘッドショットは得意な方だ。たまに王とFPSゲームで遊んだりもする。脳内で王が「ないすー」と間伸びした褒めをくれるのを想像しながらSMGを撃っていると、斜め後ろの物陰から一体飛び出してきた。咄嗟に振り返ってナイフの一撃をバレルで受け、数秒鍔競り合うが、不意に鈍い殴打音とともに目の前の男が体勢を崩す。その隙に頭部に拳を叩き込んで破壊し、倒れたのを見届けて顔を上げると、薄汚れたヌンチャクの片一方の棒部を両手で持ったファーファが、きつく目を閉じたまま数拍遅れて「ホワチャ!」と叫んだところだった。
「ナイスー」
 礼の意味も込めて彼女を褒めると、目を開けたファーファは短い悲鳴を上げて死体の前から飛び退く。その手にしたヌンチャクはゴム製の玩具、或いは子供の練習用のようで、日に焼けて薄くはなっているものの見覚えのあるパンダが印刷されていた。
「やっぱりホワチャって言うんだ」
 少し嬉しくなりながら戦闘を続行する。この街にも本格的なヌンチャクが売っているのであれば、是非とも購入を検討したいところだ。
「言いますよ。パンダ師父が言いますから。小さい子供は皆真似するんです」
 どうやらその辺りで拾ったらしいその玩具のヌンチャクを、彼女は持って帰ることにしたようだ。白いワンピースの裾で汚れを綺麗にしようと磨いている。
「ホワチャって叫んで敵を倒したらカンフー修めたことになったりします?」
「しません。パンダ師父の元で修行しないと」
 いま彼女と僕の共通認識として浮かび上がっているであろう『ヌンチャク・パンダ』は、基本的には勧善懲悪のわかりやすいストーリーでありながらも、善と悪が表裏一体であることや人間関係のやり切れなさを描くハードボイルドな世界観で幅広い年齢層に爆発的にヒットし、今でも国内では頻繁に再放送されているレトロアニメである……と、ホテルで検索したウェブページには書いてあった。動画配信サブスクリプションサービスのレビューには、今でもなお熱心でヤバめの長文が投稿されている。それに加え、検索結果に表示されていたセルロイド人形のプレミアム価格に目を剥いたことは記憶に新しいというか、今日の出来事だ。
「ホワチャー!」
 最後の一体を掛け声と共に潰し、拍手喝采……と思いきや、振り返った先では首を傾けて物言いたげなファーファがこちらを見つめていた。死屍累々を踏み越えて彼女に近づくと、「なーんか筋が甘いんですよねえ」と妙に上から目線だ。
「ファーファさんはカンフーの達人なんですか? そうは見えませんでしたけど」
「いえ、ヌンチャク・パンダの熱心な視聴者です」
 先程までの挙動不審な態度が幾らかほぐれているので、この感じが彼女本来の性格のようだ。子供たちから好かれるのもこちらだろう。僅かながらも顔に浴びた返り血をハンカチで拭きながら、先を征く。

 ようやく標的のいるという中央棟へと辿り着くと、最上階に入った途端に強烈な血の匂いが鼻を突いた。この血の匂いは人間のものではない。傍らを見遣るとファーファも鼻を摘んで顔を青くしており、鼻声で「いまさっき違和感があったんです」と言ってすぐに軽く嘔吐えずきはじめた。
「違和感?」
 訊きながら、二枚持ち歩いているうちの綺麗な方のハンカチを取り出して彼女に渡してやる。
「あっ、すごい金木犀の香り……、じゃなくて。違和感というか、ちょっとお腹がすっきりしたんです。あ、変な意味じゃないですよ」
 その言葉に、瞬時に足先から頭の天辺までをぞわぞわと嫌な予感が這い上がった。これはもう手遅れかもしれない。……そう覚悟しながら慎重に進んで行くと『会議室』と書かれたプレートのあるドアが半開きになっているのが見えた。近付き、念の為指先でドアを開いて素早く身を引くと、ドアに寄りかかっていたと思しき男の死体がずるりと床に引き倒れた。見れば額に直径一センチに満たない穴が空いている。
「……ここで待ってます?」
「ここで!? い、いえ、行きます。ヌンチャクもありますし」
 ファーファの合意も取れたので、そろりと内に踏み入ると、そこは赤黒い部屋だった。そして先程よりもずっと死屍累々として歩きにくい室内の中央に、王はいた。華奢で狭い後ろ姿。真珠色の長い髪。月明かりを浴びて淡く発光する玉体は、生物としての白さを超えて、ホワイトという概念そのものだ。清廉な白に明瞭なコントラストを刻むのは右手の赤で、見れば王はその手に血に塗れた缶切りを握っていた。そして僕を振り返る。隣でファーファが悲鳴に近い音で息を飲むのが聞こえた。……あまりにも、美しい。そう、ただ外観が。
 王はゆっくりとこちらに身体を向け、僕と、その隣にいるファーファの姿を認めて「春ですか?」としずかな声で言ってくるんと首を傾げた。
「はい?」
「発情期、ですか?」
「いや、そこはわかってるから訂正しなくていいし、違うから」
 王に近づくほど、血溜まりは深度を増していく。その理由はその肩越しに見えた死体から察した。吸血鬼だ。旧種の。その美丈夫とも言っていい長身の男は、未だ辛うじて生きているようだが、その開いた股の間から脳天までを一気に貫かれたような、明らかに『ブチ込まれた』致命傷を負っており、ぴくぴくと痙攣している。観察を終え、一旦天井を仰ぎ、ゆっくりと息を吸い、そして吐き、王に問う。
「なにしたの?」
「ニー、ユェンイー、ズゥォ、ウォ、デァ、ラオポオ、マー? と、言いました」
 覚束無いなりにゆっくりと、はっきりとした発音で王は答えた。你愿意做我的老婆嗎……王の言い方に訳すなら『わたくしの妻になってくれませんか?』である。
 これはいつも僕が「性的合意を取れ」と口を酸っぱくして王に言い聞かせているがゆえに、今回の旅の最初に教えた言葉のひとつである。しかし男はただ「結婚して!」という単純な意味で受け取ったことだろう。哀れな。
「……で?」
「これは嬉しそうだったので、交尾をする運びとなり、そして交尾が失敗しました」
 そう、男は勘違いしていたことだろう。我が王の花のかんばせや魅惑的な玉体に惑わされたのかも知れないが、王は『孕ませる側』である。これは雄であるということでも、雌でないということでもなく、王なのだから当然であるという、ただそれだけのことなのだ。
「そっ、かぁー……うん。相変わらずキミは下手だねぇ」
 男に近づき、しゃがんでその息を確認する。やはり上級種であるからかしぶとい造りになっているらしく、絶望に固着した表情のまま潰れた息を漏らしていた。可哀そうに、泣いている。端から人間式の交尾を要求していれば、王も幾らか理解を示してくれただろうに、人を見かけで判断するからこうなるのだ。いや、ヒトではないが。
「旧種の吸血鬼でも耐えられぬのならわたくしはどうしたらよいのでしょうか」
 残念そうと言うよりは、ただただ疑問に思っているような、そんな声音でそう漏らした王は、しかしもう眼下の男や周囲の惨状に対しての興味を失ったのか、血塗れた缶切りのワインオープナー部分をカチカチ出し入れして遊びはじめた。どうやら退屈でいらっしゃるらしい。
「まあまあ、まだまだ旅は続くということです。そのうち陛下のド下手な……失礼。神聖な種付けに耐え得る種や個体が見つかるかも知れませんよ」
 まったくの適当を返しながら王の側に戻ると、露出した小さな肩に手を乗せて、その薄い耳朶に唇を寄せた。
「資源は無駄にしちゃいけませんよ」
 そう囁いて、王の手から缶切りを取り上げる。そしてゆっくりと怯え固まっているファーファに近づいて、「見ない方がいいですよ」と後ろを向かせた。似た音で言えば、フードプロセッサーだろうか。そんな心地良さの欠片も無いASMRを聴きながら、壁に掛かった集合写真を見上げる。城砦運営委員会との刻印が入った額縁に収まったその人間たちの並びの後方には、物陰から彼らを覗く陰気そうな黒髪の女。
「死体諸々については今夜のうちに腹を空かせた掃除屋がくると思います」
 家族写真を眺めながら、家主にアフターサポートについて語る。僕の騎士道は杜撰なことで定評があるが、ビジネスの話ならば別だ。なにかあれば連絡するようにと彼女に名刺を渡し、「まぁ僕たちはバカンス中なんですけどね」と付け加える。
「依頼を達成したのは僕ではなく王ですが、目的は完遂したということで。報酬については……そうですね、美味い飯屋を教えてください。今でなくてもSNS経由で結構です」
 彼女が名刺に書かれたコードをスマホに打ち込み終えるのを待っていると、ふとあの地獄のような音が止んでいることに気が付いた。振り返ると、食事を終えた王が僕に向かって手招きをしている。
「おいで、ラドレ」
 いまさら名前を呼ばれても……と少しいじけた気持ちにもなるが、それよりも嬉しさのほうが勝り、王に駆け寄った。すると王は僕を屈ませて頭を一頻り撫でたあと「眠いので寝ます」と宣言して肩に寄り掛かってきた。
「えー、色々お叱り申し上げたいんだけど……」
 そんな僕の申し出はもう聞こえていないらしい。腹が減っても寝るし、満腹でも寝る。それが我が王である。
「仕方ないなぁもう」
 痩せた身体を抱き上げて、戻ってファーファにもう帰ることを告げると、彼女は僕の肩口に頬を押し付けている王を名残惜しそうに見上げた。
「まだ王さんにお礼を言えていないのに……でも仕方ないですよね、疲れちゃってるはずだから。後でお礼を伝えてください」
 数分前の初対面こそ怯えていたものの、今の彼女の睛には長年の呪縛から開放された清々しさと、それを成した王への敬愛の念が宿っている。
「まぁ、この子はただ普段通りのテクニック皆無のパワースタイル交尾をやってしまっただけなので……見つけて貰ったお礼を言うのは王のほうといいますか。ほら、王、まだ起きられるでしょ、ありがとは?」
 抱いた身体を揺さぶって起こしてやると、王は手を振っているつもりなのかきらきらと手を捻り、半目で「シュエシュエ」と眠たい声で礼を言った。それにファーファは「こちらこそありがとうございます」と笑顔で手を振ると、僕に対しては「楽しかったです」と手を握って 涙を浮かべた。
 すると次の瞬間、ここを訪れたときと同じ生暖かい空間に包まれたと思えば、その数秒後には砦の外へと吐き出されている。一気に鮮度を増した夜風が月の光を吸い込んで熱を得たのか、腹の辺りが仄かにじわりと熱を持った気がした。そして王を片腕に抱き直すと『彼女』に背を向け、歩き出す。足元に野良猫たちが寄ってきて纏わりつくのを踏み越え踏み越えやっていると、静かにしていた王は再び僕に「春ですか?」と問うてきた。この目の開き具合や声の調子からすると、王は眠いのではなく、ひょっとすると自力で歩きたくないだけなのかも知れない。
「春じゃないよ」
 春。恋の季節。発情期の喩え。
「なら夏?」
「夏でも秋でも冬でもないよ」
 そう答えていると、頬に触れる王のやわらかな胸元から花の香りが一層強く香っていることに気付いた。王の瘴気は単一の花というよりは花束のような香りなのだが、普段のそれとはすこし違うその春めいた違和感を嗅げば、すぐに桃缶のシロップが垂れたのだと感づく。
「……やっぱり春かもねえ」
 訂正してやると、王はふふ、と花のように笑った。

 ふうふうと麺に息を吹きかけている我が王のちいさな耳に、垂れてきた長い髪をかけてやる。冷まさなくても食べられるだろうに、王はまじめな様子で僕が教えた通りにふうふうと。
「だから上の箸はお兄さん指でこう」
 レンゲにとった麺を口に収めて咀嚼している王の手を取り、不格好な箸の持ち方を訂正すると、お兄さん指という表現が気に入ったのか王は「兄様の指」と呟きながら箸を大きくパカパカと動かしはじめた。途端に崩れていく持ち方に、呆れて盛大に溜め息を吐く。
 結局、ファーファが教えてくれたのはあの市場近くの大衆食堂だった。『刀削麺がオススメです!』とヌンチャク・パンダのヒロインである仙鶴大姐がウインクをしているスタンプとともに送られてきた位置情報が示していたのはこの店で、アドレスをタップした先のウェブマップにはなんとこの街の地図が表示されていた。そうなるとこの街が白抜きになっていたのは利権問題が理由ではなく、ファーファの仕業だったのだろうと説明がつく。確かに自分の身体に裏社会の人間が住み込んでいたという事実、その外観や区画の詳細が全世界に発信されるかもしれないとなれば、あの恥じらいの乙女には耐え切れない屈辱だろう。
「すみません、フォークってあります?」
 何度訂正しても一向に箸の持ち方が上達しないどころかやる気すらもない王に痺れを切らして厨房に向かって声を張ると、ひょっこりと顔を覗かせた女将が「ないよ! 食べさせてやんな!」と僕以上の大声を張り上げた。このままでは日本に遊びに行けないぞ……と頭を抱えながらテーブルに向き直ると、王が口を開けて待っている。
「キミさぁ……まぁいいや」
 椅子を動かして王の傍に寄ると、刀削麺をレンゲにとり、その小さな口に流し込んでやる。こうされて当然といった顔で王はすぐにひと口目を飲み込むと、再び雛のように口を開けた。その厚顔さに一言二言文句も言ってやりたくなるが、王が「ハオチー」と笑って僕を見上げるものだから、強くは出られなくなってしまう。
「ふふ、猫が睦みあっていますね」
 そんな消化不良の僕の気を知ってか知らないでか、王は通りを歩く二匹の猫を眺めて目を細めている。猫たちは立てた尻尾を絡めてまあ熱愛のようだ。春だから仕方がないのかもしれない。
「そう言えばアンタたちみたいな外国人がどうしてウチの店に?」
 降ってきた声に顔を上げると、女将がまたしてもサービス品と思しき大皿をテーブルに置いたところだった。確かに英語を始めとしたその他言語が併記されているわけでも、フォークがあるわけでもない店に僕たちのような外来者が来るのは珍しいことなのだろう。もっと快適に食事をしたいのなら駅前や繁華街の店を使えば良いのだから。
「レビューを見たんですよ。熱心なレビュアーがいたもので」
 僕がここに来る前、最初に目にしたネットのレビューはパンダアイコンの地元民のものだった。熱心で少しヤバめの、しかし愛情だけは伝わってくる長文のレビューだ。サブスクと同一のアカウント名で身バレしているリテラシーの低さは気になるものの、まああの性格ならば仕方ない。しかし店の名前が自分の本名と同じというところまでは書かなくたっていいんじゃないか。
「最近のハイテクについてはよくわからないね」
 僕の返答に、女将は老個体らしく首を振るが、彼女だってBMIネイティブ世代の筈だ。電脳化していなかったとしても店の会計や経理だって今やアプリひとつで管理できる筈なのにそれをしていないのはなぜなのだろう……と考えながら、ふと気になって立ち上がり、レジに吸い寄せられるように近づくと、カウンターの内側からしか見えないレジスターの本体部には、べたべたと大量のキャラクターシールが貼られていた。なるほど、貼られたものの年季からして次代やそのまた次代の仕業か。こういったものを剥がせない、買い替えられないと思うことが親になる弊害ということなのだろう。納得しながらレジに手を翳すと、すぐにそれは明るい起動音を発した。
「直ったのかい?」
 そう言って駆け寄ってくる女将に「単純な接触不良ですよ」と適当を言って、彼女の嬉しそうにふためく声を聞きながら席に戻る。その喜びが意味する情けなさにも近い感情は僕にも幾らか理解できる部分はあって、それはたとえばいま僕が目を離した隙にすっかりテーブルの上のものを平らげた王に、僕の分はどうしたのかと問う語気がどうしても強くはならないところになどリンクする。まったく、どうしようもない。僕の感情も、王の食欲も。
 僕の猫撫で声に王はばつが悪くなったのか「ハオチーとハオフーでしたよ」と言って野良猫を触りに行ってしまった。その背中に「耳を食べちゃ駄目ですよ」と声を張る。


End.

私を愛してくれる人は、私の猫も愛してくれる。
しかし私の愛する猫は、
どうやら桃缶と缶切りが好きらしい。



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