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【DDtheS】File.3 星空と氷雨/TEMPURA AND ICE CREAM


※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)


※この話には特にショッキングな描写が含まれています。ご注意ください。




「ねえ、ごはん」
 薄目を開いて第一声。このわたしが訴えたというのに、彼はわたしの肩に額を擦りつけてちいさく呻くだけで、その瞼を下ろしたままだ。仕方がないのでヘッドボードに手を伸ばし、そこに置かれていたスコッチが僅かに残ったグラスをちょいちょいと動かして「ねえ落とすよ。いーの? 落とすよ」と眠い声で脅迫する。すると彼は「だめです……」と掠れた声で言って、わたしの乳房を鷲掴みにしていた贅沢な手で手首を掴んできた。「じゃあごはん」と交換条件を突きつけると、彼は無言で自らの下半身にわたしの手を誘う。
「どうすか……」
「朝の力を借りるな。しかも生かしきれてないじゃん。天体に謝れ、童貞」
 およそ出力三〇パーセント程度であろうそれを握らされたわたしは、当然の権利として軽くキレると、彼の手とフニャッているそれを振りほどき、なぜか枕の下から顔を覗かせていたショーツを引っこ抜いた。そして横臥したままそれを穿き、床に落ちていたもうひとつの下着を手を伸ばして拾うと、彼の頭の上に落として「穿け」と促す。しかし彼は「もう一回」とわたしが穿いたばかりのショーツを脱がせようとしてきたので、その手の甲をグーで殴りつけて剥がした。
「なんのカウントだよ。出もしないくせに」
 しかも『もう』と頭につけている時点で昨晩からそのカウントは引き継がれているらしい。
「ダリュちゃんの回数」
「それはアンタが気軽に使っていいカウントじゃないの」
 なおもしがみついてくる腕から逃れようと藻掻くが、彼は「もう少しだけ」と言って力を込めてくる。仕方がないので「少しだけだよ」と答えて力を抜き、わたしはショーツと一緒に枕の下から出てきたスマホを弄ることにした。するとハティは再びわたしの肩に額を擦りつけて、すうすうと呑気に寝息を立てはじめる。
 わかっている。彼はセックスしたいとか、性的な接触をしたいとか、恋愛をしたいとか、そういうことを心から願っているわけではなく、たださみしいだけなのだ。そうでなければ今現在射精が伴っていない無駄な行為に男が執心するわけがない。わたしだって彼の抱えているものを計り知れないどころか、知ったとてどうしようもないのだから、ある感情の意味釣り合いは取れていた。自ら言い出したくせに、最初のほうは彼に対する性的接触のコーチングが嫌で嫌で仕方がなかったが、近ごろはもうそのどこか必死な姿……というか眼差しに根負けしてしまったのか、わたしは少なくとも週に一度は彼に付き合ってあげている。添い寝がしたいだけならそう言ってくれればいいのに、と思いながら。
 スマホを弄っているとどんどんうつらうつらしてきて、わたしは先生に無理矢理やらされていたソシャゲを中断してそのまま目を閉じた。彼の身体はあたたかいから、くっついていると眠たくなる。しかしこのぬくもりはわたしのものではない。今も昔もずっと、あの子のものだ。


「ねえ、ダリュ。アンタ兄さんとなにかあった?」
 ハティと時間をずらして出勤し、とりあえず喫煙所に入ると、先客のハーフムーンからそう問われた。わたしは「さっすがハーフムーン!」とは言えずに、しかしその第六感に対して特段の驚きもなく、「信じてくれる?」と問い返しながらタバコに火を点ける。
「……聞かないとわかんない」
 ハーフムーンはふっと煙を上方向に吹きながら、そんな正論をわたしにぶつけた。
「まーそーよね」
「話してくれんの?」
 わたしは周囲をちらりと気にして、誰も入ってきそうにないことを確認しながら、「わたしアンタの兄さんと」と切り出した。呼吸を整えるために煙を吸って、吐く。
「……添い寝、してる」これは、事実だ。
 すると彼は目を丸くして「添い寝」と繰り返した。
「そう、添い寝」
「つまり……ファックはしてないってこと?」
 ペッティングはしているが、ファックはしていない。これもまた、事実だ。だから頷く。
「そう、してない。てかできないの……知ってる、でしょ」
 わたしが探りを入れると、彼は、「……なんとなく?」と語尾をにゅっと上げて首を傾げた。なんとなく今までにも思うところがあったのだろう。彼はその大きなグリーンアイズを天井へ向けてぱちくりと瞬きすると、そのまま、「……付き合ってんの?」と続けて唇を尖らせた。まったく、動揺したときの仕草が兄によく似ている。
「まさか」
「じゃあソフレ、ってやつ……?」
「なに言ってんの。フレもなにも、友だちですらないのに」
「そうなの?」
「そうだよ。個人的な連絡先知らないし」
 まだ少ししか吸っていないが、わたしはタバコを灰皿に押しつけて揉み消すと、「お先」と告げて喫煙所を出た。すると自動で閉じる寸前のドアから頭だけ出したのだろう。ハーフムーンが「飲み物買ってあげるー!」と声を張ったのが聞こえたので「エナドリ! よろしく!」と振り返らずに答えた。
 それからオフィスに戻って先生とネットで新居の家具を選んでいると、ハティがオフィスにやってきた。タブレットを手にした彼は、なにやら先生と話したがっている様子だったので場所を譲ってやり、わたしは自分のデスクに着いてタブレットPCを開いた。するとチャットにアンダーソンからの火急の仕事依頼があったので目を通し、先に貰っている仕事と日程が被っていないことを確認していると、唐突に目の前にエナドリの缶が置かれた。わたしの好きなエナドリ『ゴリゴリフライハイ』(通称ゴリフラ)の、ピンキッシュキューカンバー味である。
「おっ、サンキュー」
 顔を上げると、デスクの縁に寄りかかっていたハーフムーンが、こちらにウインクを投げかけてきたかと思えば、すぐにひらりと背を向けた。そうして彼は先生とハティにも同様に買ってきたコーヒーを配ったらしい。口々に礼を言われた彼は、「こういうのでお礼を言われるのってなにげなくて最高」と腰に手を当てて得意げだ。それまでの彼の人生からしてみたらその感想は当然で、わたしは笑いながら「ランチもお願いしまーす」と茶々を入れる。
「図々しっ。でも明日の夜ならいいよ」
「え、やった。タダ飯って認識でオーケー?」
「しょーがないなあ」
「いえーい。じゃあ明日しごおわしたらメッセちょうだい」
 その大声でのやり取りに、先生とハティが同時に加わりたさそうな反応を見せたが、ハーフムーンが「私以外の男子禁制ですよー」と切り捨ててくれたおかげでふたりは素直に引っ込んだ。直後ハティが意味ありげな視線を送ってきたが、意図が不明だったので無視してエナドリのプルタブを開ける。
 その後、資料室へ行った帰りにアンダーソンのオフィスに寄り、任務にハティを帯同してもいいかどうかを確認すると、可能とのことだったのでそのまま依頼を受理する。ついでに奥にあるガラス棚からバーボンを取り出して勝手に飲むと、彼は「おじちゃんにもちょうだい」と言ってきたので、新しく取り出したグラスにワンフィンガー注いでやる。それをふたりで窓枠に寄りかかって舐めつつ、わたしは彼からの「元気か?」「メシ食ってるか?」などの地味にウゼー質問に付き合った。こういうパパみ男性からのコミュニケーションには、たまには付き合ってあげたほうがいいというのが自論である。
「なあ、ハティとはなにかあったのか?」
 またそれだ。本日二回目の同じ質問に、わたしは、
「なにかあるふうに見えんの?」
 と、呆れた声を出し、肩を竦めた。事実として『なにか』はあるが、そう見えると言われるのは不服である。
「いや、ハティのほうがな……」
「なに」
「……ダリュちゃんを、目で追いすぎてる?」
「……なんで? わたしが可愛いから?」
 思わぬ言葉だが、それは当然だと腕を組むと、アンダーソンは「なんと言うかなあ……」と頭を捻った。
「ハティがあまり人付き合いが得意じゃないってのは、周知の事実だろ? そんな奴がいきなりひとりの女の子を目で追いはじめたとなると、結構目立つんだよな……」
 流石は妻子持ちだ。しかも子どもは娘なだけあって、家庭では気を遣うのか鈍感ではない。
「え、わたし牛皮ガムの匂いでもする?」
 サイドの髪を掴んで嗅いでみる。今日はピオニーとパチュリの香りのヘアミストを使っていたはずだ。ふわりとスモーキーな甘い香りがして、自分の可愛さがブーストされたような心地にさせてくれる逸品である。
「そうじゃなくてだな……ああ、おじちゃんはどこまで話したら越権になるのか……」
「越権したら死ぬの?」
「場合によっちゃな」
 彼は言葉を迷うだけ迷ってなにも言えずにいるらしく、わたしが「もう行っていい?」と切り出すと、却って安心した様子で「今度ヤキトリ食べような」と笑った。
 それからハティに今日の任務の共有をした。昼食後に駐車場に集合しようと約束して、所用を片づけたあと食堂へ。シェフが最近開発を頑張っていると喧伝している『期間限定メニュー』は今日のところ刀削麺で、箸を使う麺はだるいけど辛そうだからそれにした。受け取り口で麺鉢の乗ったトレーを受け取り、それを持って窓際の席に陣取ると、腰にぶら下げているポーチから取り出した『クレイジー罰ゲームホットソース・天地ブチ抜き地獄辛』を振りかける。そろそろ新しいのを買わないとな……と思いながらシェイカーを振るかのようにソースの瓶を上下に細かく動かしていると、唐突に目の前に誰かが座った。いい度胸してんな……と顔を上げると、そこにいたのは脇高寄せ寄せ女・オリエで、わたしは彼女がわたしと相席をする意味がわからなくて思わず周囲を見渡した。席数にはまだ余裕はあるのに、これはおかしい。オリエに視線を戻し、それからもう一度ぐるりと辺りを見渡す。このようにして、こちらがわかりやすいように「不愉快ですが?」という態度を前面に押し出してやっているというのに、彼女は微塵も気にした様子なく椅子を引くと、鳥の餌みたいな量のサラダとヨーグルトにライスボールといった、誰に媚びてんだよと言ってやりたくなるようなメニューに手をつけはじめた。わたしは内心、彼女の行動をおおいに不審に思いながらも、無言でレンゲを手に取り、ソースをスープに溶いていく。
「……あのさ」
 ちびちびしたキヌアとトマトをフォークの腹に寄せながら、オリエは口を開いた。薄ピンクのリップにオリーブオイルが照っていて、確かにザコなら変にときめくだろうなとぼんやり分析しながら「へあ」と適当に返事をする。
「ハティとなにかあった?」
 沈黙。気づけば彼女は眼鏡の下のうるちゅるメイクの眼差しを、きんと冷やしてわたしに向けていた。その質問に、わたしは一瞬キレそうになって、でもぐっと飲み込んで、アンガーをマネジメントしようと息を吸って、堪えて、でもダメだった。
「なにかってなんなんだよ! 今日それ三回目だよ! どのあたりをどう思ってどういう推測してんのか詳細に説明してくんねえかなあ!」
 弾けるように口から飛び出したわたしのどら声に、瞬時に周囲から視線が集まったが、睨みを効かせるとそれらはさっと引いていく。しかしオリエは怯えた様子なく、ゆっくりとライスボールを齧った。海苔がぎゅっとそのちいさな歯に反発して踏ん張っている様子すらわたしをじわじわとイラつかせる。
「だってハティ、あなたのこと目で追ってるんだもん」
 アンダーソンとまったく同じコメントだ。もしかしたらわたしの与り知らぬところでそういうわたしを馬鹿にするゲームが流行っているのではないかと思われるほど、その『理由』は的確にわたしの心を逆撫でし、不穏で曖昧な悪い予感をもたらした。出勤してからまだ数時間なのに、この時点でマジのバッドデー判定が入る。
「あ? ならアイツに訊けよ。ネズミじゃなくて猫に訊けよチェイスの理由は。わたしも猫だけど」
「だってハティ、怖いんだもん」
 そう言って彼女は片頬を膨らませた。錐かなにかをぶっ刺して当該箇所を割りたい気持ちになるが、それよりも強烈にふざけんな判定がキマったのは、その表現に対してである。あの男が怖いだあ? お前はその怖いハティに夜這いをカマした女だろ……とは言えず、ぐっと飲み込んで、わたしはただ「デカいだけだろ」と吐き捨てた。
「えっ、やっぱり大きいの……?」
 途端にひそひそと声を潜める彼女に、わたしはなんなんだと眉を寄せる。
「どのくらい……? 先生とくらべてどう……?」
 そう言われて、わたしは主語を察したが、ナメてんのかこの女は……という感想しか出てこない。不愉快さを込めて睨みつけるが、彼女は「教えて」と顔を寄せてくる。清楚ぶってやっぱり肉食系というか、下品の塊だ。しかしそういう話題を振ってくるということは、わたしも同類だと思われているのだろう。
「……教えたらどっか行ってくれる?」
 とか言いつつ、わたしも出力一〇〇パーセントは拝んでいない。膨張率はそれぞれであるし、現時点でフルパワーを引き出せていないわたしに訊くのはマジのお門違いだ。彼女は「行く行く」と笑顔で頷き、不愉快さのあまり箸をグーで掴んでいたわたしの手首を掴む。まったく、性欲の旺盛なヘテロ女の気持ちはわからない。なにがいいと言うんだ、アレの。どこが。どう考えても戦うときに邪魔なのに。
「先生が黙るくらい」
 仕方がないのであっさりと回答する。溜めても仕方がないし、真実などこの頭には記録されていないのだ。適当を言って、私はレンゲで真っ赤なスープを啜る。ヒツジ味だ。
「えっ……そんなに……?」
「あとはプライバシー。じゃあね? バイバイ?」
 その手を振りほどき、圧を込めて顎で他の席を指すと、彼女は口を手で押さえながらトレイを持ってどこかへ行ってしまった。これでようやくゆっくり食事ができる……と箸を持ち直したそのとき、わたしは今の返答だと既セクだと思われるのではないかと察した。これはかなり不味い。黙らせたさ過ぎて最短距離を行ってしまった。さっと血の気が引くのを感じたが、清楚系で通っている彼女がこのことを他人にバラすとも思えない。せいぜいオナネタになる程度だろう。ごめんねハティ……と内心反省したが、まああとで詰めるから謝っても謝らなくても同じだと気を取り直して麺を食べる。なかなか美味しい。『クレイジー罰ゲームホットソース・天地ブチ抜き地獄辛』のお陰で。


「見んな!」
 地下駐車場で合流したハティに開口一番にそう伝えると、彼はぽかんとして頭上に疑問符を浮かべているようだった。
「あと谷間も見んな! アンタはわたしの乳と会話してんのか? そこに意志はねえよ」
 ついでに今現在の彼が行っているバッドコミュニケーションも指摘すると、彼は身体をびくりと震わせ、「わかるのか」と漏らして顔色を悪くした。わかるもなにも、真面目な顔でガン見しておいて誤魔化せるとでも思っているのだろうか。
「乳見てるのはわかるよ? たとえどんなにチラチラしててもわかるからやめな。わたしはいつやめてくれるのかとアンタの紳士性に期待してましたがもうずっとやめないので痺れを切らしました」
「ごめん、ダリュちゃん……つい」
「アンタの部屋にいるときとかふたりっきりのときは乳を見ようが乳と会話しようがどうでもいい。でも外ではやめて。乳じゃなくてもやめて。今日だけで三回も『ハティとなにかあったのか』って訊かれてるの。ホント勘弁してほしい」
 わたしの剣幕に、彼はぽろぽろと何度も「ごめん」と繰り返していたが、最後のひと言を聞くとはっと顔を上げてわたしの肩を掴んできた。わたしは「なに」と言いつつ数歩後退し、その手を振りほどこうとするが彼はずんずんと一歩一歩詰めてくる。そしてあっという間にバイクの隣から壁際に追い詰められてしまい、わたしは僅かに怯えた。手が大きい。力が強い。それがちょっと怖い。息を飲んで、媚びも突き放しもしない声音を作って「なあに……」と漏らすと、
「……嫌なのか」
 と不可解な返事があった。
「なにが」
「俺となにかあるんじゃないかって思われるのが」
 そりゃ嫌だよ。と、言いたかったのになぜか気持ちが喉につっかえる。そりゃ嫌だよ。……それを言ってしまったら、この男が明日も元気で五体満足で息をつづける保証がないかもしれないというモヤモヤが、ぬるりと胃の中に発生した。わたしもしかして、彼を傷つけることに怯えてる? ……そんな焦慮が更に胃を痛くして、肩甲骨にまで痛みを伝播させた。その真剣な眼差しとさっきの一瞬の怯えと現在進行形のつらみが合体して、それはもう、瞬時に。本能的に。これは、激痛に近い。
「いや、だから乳見ながら言ってんじゃねーよ」
 なんとか事実陳列という名のはぐらかしの呪文を唱えて、彼の手を強めに振りほどくと、わたしはその顎にネコパンチを食らわせてやった。手心がある拳のことをわたしはネコパンチと呼んでいて、それは彼の唇の横の辺りに軽くぶつかると、想定通りに「いてっ」という短い委縮を引き出すことに成功する。その隙に彼の前からするりと抜け出したわたしは、「もう後ろに乗らないから」と言って駆け足で駐車場の出口へと向かった。
「待てよ、どうすんだよ任務!」
「現地集合!」
 振り返らずにそう伝えて、わたしは獣形態になって駆けだす。街へ飛び出す。
 わたしが彼を導いて上へ押し上げてやらなくてはならないのに。その役目自体には不満もないし、むしろ幸福だと思っているはずなのに。どうしていまだにわたしはこんなに納得できない気持ちになってしまうのだろう。落ち着きたいという願いを込めて、わたしは頭の中で事実を陳列する。彼から可愛いって言われた。キスをされた。裸も見せたし触ったし触られたし舐めたし舐められたけれど、でもそんなのは、「それがどうした」という範囲の一時的なエラーだ。周囲の人間から誰かとの性的な関係の揶揄をされる程度のことは今までだってあった。痴情とやらが縺れた経験もある。ていうか、わたしという女は友だちとセックスくらいはする。
……そこではたと違和感の正体に気がついた。そうだわたしは、彼の友だちじゃないのだ。
「なんだ……てか、まあそうか」風を受け走りながら、わたしは息だけで呟く。当然、掻き消される。
 今朝ハーフムーンに言ったように、自分で自然に言葉にできるほど身に染みていた感覚なのに、どこか脳がその知覚を避けていたようだ。深いところで拒絶していたその関係性。いや、『関係性がないということ』……どうやらわたしにはまだ、『自分』というものが世界に存在していると信じたい自意識が残っていたようだ。これでは童貞バレをしたくないらしいあの男のことを可哀想だと憐れむことはできない。彼が欲しいのは、得るべきなのは友だちであって、わたしはそうじゃない。わたしは個人じゃない。わたしは女というか女体だ。彼の瑕疵なき人生を穢した欠点だ。だからこうして罰を受けている。だからせめてあなたを革命してあげたかった、のに。
「しかたない、しかたない、しかたない」呟く。唇を噛む。理想を捨てろと念じて、あと数分後に顔を合わせる彼の前ではフツウにするのだと決起する。
──そうだわたしは、ずっとただの女体だった。それは今でも、ぜんぜんそうじゃん。
 これはトラジックな運命ではない。わたしは最初からヒロインではないという当然。それでもわたしはヒーローになりたかった。だけどなれない。いいとこ、魔女だ。
 思考が悪い方向へ傾いていくのを感じながらも、目的地へと到着したのでヒト型形態へと戻る。猫の姿だと市街地をうろついていても不自然じゃなくて便利だが、スマホは使えない。そのビルの屋上の給水塔の影に身体を丸めて、スマホを取り出し任務の概略をもう一度確認する。あのボロビルで生け捕りにしたホシを通称ルーム9と呼ばれる拷問部屋へ送ったところ、対象は五秒で『大規模な殲滅戦』を行う予定があることをゲロったらしい。恋に落ちるより早く露呈したその計画の詳細を語るより先に彼は死んでしまった……と昼食前に訪ねたその担当者は語っていた。死の直前になんとか聞き出せたのは地名だけ。当然、そこになにかあると踏んだアンダーソン直属の斥侯部隊が調査をし、そのブロック内にあるフードデリバリーサービスの事務職および配達員詰所に目をつけたのだ。そもそも、このニューチャイナタウンの飲食店のほぼすべてには配達ロボがいる。これは都市計画上そうなっており、チャイナタウンの宣伝活動を行うに適したデザインの配達ロボットが自治体から各店に配布されているのだ。商品提供の際に人の手が必要な場合には、完全自動運転式電動スクーターに可変し、従業員を乗せて出前に行けるので、この街に外部のデリバリーサービスが必要であることは稀なのだ。しかも従業員には人外族が多いという情報もあり、アンダーソンはここが特に怪しいと判断したという。以上の経緯があり、隠密行動と戦闘の両方に特化しているわたしが捜査員として選ばれたということだ。ここでわたしがなんらかの情報を掴んで帰れば、のちに決行されるであろう制圧作戦にはわたしと一緒に行動していたと記録される予定のハティが選ばれるに違いない。これはかなり大きなヤマだ。彼の功績におおいに貢献できる。
 わたしがひとりでビルの見取り図と、斥侯部隊が張り込みをして作成した従業員のシフト表を元に作戦を練っていると、背後に慣れた気配がしたので躊躇いなく振り返った。そこには予想通りに一頭のハスキー犬がいて、わたしはフツウの態度で「遅かったね」と声をかける。するとヒト型形態に戻ったハティが「途中でバイク置いてきたからな」と言って、わたしのスマホ画面を覗き込んできたので、そのまま彼に『わたしが単独で』行う作戦を説明する。彼は身体が大きいので、わたしに万が一のことが起こったときのために周囲の哨戒をしつつ待機してもらうことにした。サインを確認しながらも彼はしきりに「ひとりで大丈夫か」と心配してきたが、わたしは「大丈夫すぎ」と答えて拳を合わせる。
「なにかあったら絶対に呼んでくれ」
「はいはい。アンタこそ怪しまれないでよ」
 ふたりともきちんと任務モードだ。病んだり情けなさを表に出したりなどしない。
 それからわたしは再度獣型形態になって、ビルの屋上から各フロアへ伸びている排気ダクトの中にするりと入り込んだ。そして垂直に下方向へ。肉球で途中途中踏ん張って慎重に、かつ素早く、なにより静かに降りていくと、目的のフロアの天井裏へと到達した。それからヒト型形態に戻り仰向けになると、隠し持っていた小型レーザーナイフで、そのアルミ素材のダクトホースに小さな穴を開けた。それからまた猫になって、その穴から室内へと抜け出す。それから排気口隠しのための飾り天井の上に降り立って、眼下に広がる事務所フロアの様子を窺う。ここに来るまでに自慢のロングコートが汚れてしまって最悪だが、任務だし仕方がない。軽く毛繕いをしながら部屋の時計を確認すると、昼食時のピークタイムを越えて二時間程度。彼らはその辺りもそれらしく就業設定を練っているらしく、シフト表によればこのくらいの時間にランチ休憩となるらしい。ツナギ型の制服を着た屈強な男たちが「コンビニ行く人ー?」「俺今日ラーメン」「俺カツドンがいいなー」と和気藹々としながら部屋を出てゆく。わたしは息をひそめて首を伸ばし、全員がいなくなったことを確認すると、身に着けていた先生特製のハーネスベストの胸元のスイッチを押し、光学迷彩を起動させてひらりと天井から飛び降り床へと着地した。それから警戒を緩めないまま責任者用と思しきデスクに近づき、その足元に収納されているナンバーロック付きのワゴンキャビネットの隣に滑り込む。当然、この位置はデスクチェアの背側の防犯カメラに映る位置だ。わたしはデスクの下の奥の奥の死角へばりつくようにしてベストの操作パネルをに触れた。これは肉球でも簡単にタッチできるように設定してあるパネルで、今おこなった操作だとハティの通信機器に繋がる。それをワン切りするように呼び出し音の途中でキャンセルすると、十数秒後に辺りが一気に暗くなった。どうやら事前の打ち合わせ通りにハティがビル全体のブレーカーを落としてくれたようだ。この隙に事前に入手していた防犯カメラ映像から先生が推測したという暗証番号を打ち込む。勿論指紋の残らない肉球で。そしてかちゃりと静かな音がしたと思えば、ロックが開いた。あとは暗闇でもよく見えるわたしの目で中に入っている資料を確認すれば、ご丁寧にもペライチで透明ファイルに収められた資料を発見することができた。どの時代も保存という面でデータファイルよりも信用できるのが紙の資料である。巧みに事業報告書として偽装しているそれらの細かい分析は解析班の仕事であってわたしの仕事ではないので、関係のありそうな資料をなるべく多く集めることに集中した。その約一分後に目途をつけ、わたしはデスクの奥に挟まりながら、一瞬だけヒト型形態に戻ってその透明ファイルの他にも疑わしい書類をいくつかスマホでスキャンした。その気になればもっと細かく探れるが、任務で重要なのは引き際を弁えることだ。早ければそろそろ『コンビニ組』が戻ってくるかもしれない……。わたしはワゴンキャビネット内の物色をやめて、すべてを元通りにすると、そのデスクの下からカメラの死角を選んで這い出た。それからさきほど通った棚の上を経由し、下から見ると天井から一段せり出しているようには見えない飾り天井の上に再度跳び乗って、来たルートへ戻った。そして外壁のあるあたりから垂直方向に延びるダクトの中を一気に跳び上がって、屋上へと転がり出る。
 やっと息ができたような心地になりながら、転落防止の手摺の下をぐるりと周回してハティの姿を探せば、ビルの斜め向かいにあるタバコ屋の出窓に寄りかかっている後ろ姿を見つけることができた。どうやら店のおばちゃんと会話しているらしい。わたしは当初の予定通りに街中に偏在する防犯カメラの死角を選んで大きく迂回し、アドリブでタバコ屋近くの裏路地にあるタピオカミルクティー屋で適当に二杯買うと、ハティに近づいて「おまたせー。なかなか見つかんなかったよタピオカ屋さん」と、あたかも待ち合わせをしていたかのように顔を出す。するとおばちゃんは、「あら、この子がそう?」と意味深な反応を見せたが、それに対しハティは「まあな」とだけしか返事をしないので、どういう話題に上がったのかはわからない。ただ彼は、「ほら、タバコ」と普段通りの態度で、わたしが普段吸っている銘柄のボックスを手渡してくるだけで、他にはなんのヒントも与えてはくれなかった。
「え、いいの。ありがとう……」
 そのピンクのボックスを受け取ると、彼は「ほら」と言って手を差し出してきたので、わたしは瞬時にこの通りには近隣住民以外ほぼ行き来しないという情報を思い出して彼の手を取った。「これなかなか売ってないから助かったよ」と続けて。万が一ホシたちに侵入がバレて、周囲をうろついていた人物の聞き込みでも始まろうことがあれば、この格好の立地に店を構えるおばちゃんにもその手は及ぶだろう。であれば悪目立ちは避けたい。歩きながら「合ってる?」と小声でハティに問うと、「ああ、スマホ片手にうろつくフリしてた。他にも色々聞き込みもしたぞ」と返ってくる。つまり、ハティは珍しい銘柄を吸う彼女のためにわざわざタバコ屋を探して待ち合わせを取りつけつつも、可哀想なことに待ち惚けを食らったコンシデレイトな恋人役として、わたしを待っていたのだ。この偽装により、万が一奴らが防犯カメラをチェックしたとしても、昨今何度目かもわからぬブームを迎えたタピオカを片手に歩いているカップルが映りこんだ程度であればなかなか疑わないというわけだ。ナイスアドリブだぞわたし……とハティの画ではなく自画を自賛しながら、買ったタピオカを袋から取り出して片方を彼に手渡してやる。受け取った彼はマーモットみたいな色をしたクリアカップを矯めつ眇めつしたのち、怪訝そうに「何味だ……?」と問うてきた。
「え、抹茶紫芋金時」
「ワッツ……?」
 眉間に深い皺を刻んで、ハティはわたしを見た。もしかしたら慣れない名前で内容に想像が及ばなかった可能性があるので、「日本風のフレーバーを扱ってる店だったんだよね」と説明してやる。「あ、渋柿メロンパン甘納豆のほうがいい?」
「いや、こっちでいい……」
「え、甘納豆ってナットウじゃないよ? 臭くないよ?」
「そういう問題じゃなくて……」
 そんな会話をしながら、防犯カメラがないとマップに記載してあった路地へと入る。そこで手を離そうとすると、前方からあのツナギの制服を着た男がひとり歩いてくるのが見えて、咄嗟にハティの手を握り直した。そしてそのまま何気ないふうを装って、お湯を入れたカップラーメンとコンビニのレジ袋を持ったその男と擦れ違おうとした瞬間、
「お? あれ、お前、末っ子ダリュか?」
 と、どこかから声がした。いや、どこかではない。目の前のツナギの男からだ。わたしは「えっ……?」と、カップルの女を装ったいくらか高い声のままそう漏らすと、そのまま「俺だよ俺」と言いながら一歩詰めてくる男のキャップの下の顔を……見てしまった。
 嘘でしょ、と思ったのかそうでないのかですらわからない。気がつくとわたしはまだひとくちも飲んでいないタピオカを地面に落として、過呼吸の予感に震えていた。やばい、吐きそうだ。ほんとにゲロ出るかも……と身体を折るわたしの前に、影が進み出る。たぶんハティだ。顔を上げられないから、前方で起きていることのなにもかもがわからない。「ひっ」とバカみたいに細い声がわたしの喉奥、いや、胃の奥から漏れた。
「なんすか、アンタ」
 ハティの声。わたしの手を握ったままのおおきな手。
「お、ダリュお前、カレシできたのか? ……よく作れたモンだぜ。いやはや、まったく、おめでとう」
 堪えきれずに吐いた。それはもうシームレスに吐いた。二の腕の裏から耳の裏までの一体がざわざわとつめたくて、恐ろしくて、全身の触覚のすべてがそこに集まったみたいで、未知の感覚に怯えた視界がブレる。いや、既知か。どうだったか。いや考えてはダメだ。絶えず足許に胃液をぶちまけながら、わたしは震える手をハティから離そうとするのに、彼はわたしの手を固く握り込んで離してくれない。いや、わたしも彼の手を握っているのだろうか。触れあった皮膚が熱くて境目がわからない。
「カレシさん、コイツなあ」
「やめて」「言わないで」「おねがい」……たぶんどれかを、あるいはどれもを、言った。自分の鼓動でなにも聞こえない。聞こえないのが怖いのに聞きたくない。「ハティ」「聞かないで」「おねがい」……たぶん懇願したけど、自分の声量も舌が回っているのかすらもわからない。水の中にいるかのような閉塞感が全身を、特に耳を覆っていて、懐かしい絶望感が目の前を青色に染める。息ができない。
 突如、銃声がした。
「……え?」
 一瞬で通った耳。緊急事態を察した本能が筋肉と骨を動かして、わたしは自分の意識ではないものに促されて顔を上げる。するとあの男が仰向けに斃れていた。身体にカップラーメンを被っている。湯気。タピオカ。ゲロ。見上げると、ハティが銃を真っ直ぐに構えていた。
 彼はすぐに銃を背中のホルスターにしまい込むと、無言でこちらを振り返った。そしてそのままわたしの頭を片腕で胸に抱え込むと、耳の通信機器イヤカフでどこかに連絡をしはじめたようだった。
「ん。ハーフムーン。……うん、終わった。だがちょっと必要に迫られて一匹殺っちまってさ……そうだ。だから超特急で掃除屋を寄越してほしい。座標は現在地。……ん? ちょっとな。じゃあ、頼む」
 その低い声を聞きながら、わたしはただぼろぼろと涙をこぼして立ち尽くす。目の前は彼の青いシャツで他にはなにも色は見えない。クチナシの香りがきらめくみたいに熱い。
「なあ、ダリュちゃん」
 そこでようやく話しかけられて、わたしはうまく返事ができない代わりに彼の背中に手を回した。身体が厚いせいで背中が遠くて、ぜんぶぎゅっとしてしがみつきたいのに、ちょっとしか掴めない。
「やっぱり、バイクの後ろ、乗ってくれよ」
 これにはちゃんと返事をしたいのに、喉が「いっいっ」としゃくり上げて止まらなかった。どうにかこうにか、なんとか苦心してやっと声が出たと思えば、「泣いてない」というちぐはぐな怒りが飛び出す。「わたし、泣いてない」……意図していないのに、頑固な自意識がわたしをカッコ悪く焦がす。
「知ってるよ。キミ、俺より強いんだろ。泣くわけがねえ」
 そう言って彼はわたしの頭を軽く叩くと、「よし、逃げるぞ!」とわたしを抱き上げてその場から駆け出した。これやだ、と訴えるが聞き届けては貰えない。しかたなく涙を隠すためその首にしがみつくと、わたしは動悸に揺れる視界を閉じた。ぎゅっとぎゅっと。あの水の中から引きあげてもらえた日のように。


   *


 ハティから連絡があり仕事を中断して自宅へ戻ると、寝室にはベッドに横になっているダリュと、床に座り込んでその様子を見守っているハティの姿があった。引っ越し準備中でほとんどの家財が梱包されているため、仕方なくそこに座っていたのだろう。ベッドに座るなり、ダイニングに行くなりすればいいのに、律儀なものだ。彼のその静かな背中に、「ハティ」と呼びかけると、彼は「お邪魔してます」と言って立ち上がった。その隣に並び、ふたりで眠っているダリュを見下ろして数秒を沈黙のなか過ごす。ああここは私から言葉を発するべき状況なのかと「なにがあった?」と前方を見たまま口にした。
「……なんか、パニックを起こしちまったみたいで。しんどそうだったんでここまで運びました」
 パニック。ダリュが人前でそのような状態になるなど、尋常ではない。
「任務は?」
「ちゃんと終えてます。これから戻って報告書を作るつもりです」
「そうか。その作業は明日にしなさい。私も確認したいことがある。……キミも今日は帰るんだ。勤怠処理は私がしておく」
「了解。じゃあ、お邪魔しました」
 平熱でそう言って、ハティは踵を返して寝室のドアに手をかけたようだった。私がその背中に向けて「ありがとう」と礼を言うと、彼は「うーす。お疲れっす」と普段通りの返事をした。
 彼が玄関を出て行ったのを気配で察して、私は着ていたコートを脱いで適当に放ると、ダリュの枕元に腰を下ろす。サイドテーブルに丁寧に置かれたダンスウィッグに、揃えられた厚底ブーツ。コンフォーターを軽く捲ってみると、彼女は私が朝に脱いでそのままにしていたガウンを着ていた。おそらく、ランドリールームには今日彼女が着ていたものが丁寧に畳んで置いてあるのだろう。軽く笑ってしまいながら、私はサイドテーブルの抽斗からメイク落としシートを取り出し、それでダリュの乱れたメイクを落としてやる。まったく、世話の焼ける猫だ。最近はリップを黒にしてやたらと強気な様子でいたが、やはりまだ幼いところ……誰かがいないとままならない部分がある。しかし手がかかる子ほど可愛いという言説にはある程度信憑性があって、私はとっくの昔に彼女にまつわるすべてのことが苦ではなくなっていた。
「……先生?」
 ふと、私を呼ぶ声がしてその顔を覗き込むと、彼女は薄目を開けて私を見上げていた。それに答えるようにしてそのちいさな耳を撫でると、「抱っこして」と細い声がした。それは甘えるようなものではなく、切羽詰まったような色を帯びていたので、私は「勿論だとも」と返事をして彼女の隣に潜り込んだ。それから向かい合うようにしてその頭を抱く。すると彼女の柔らかな髪からは微かにクチナシと血の匂いがした。
「先生」
「うん?」
「いる?」
「いるな。バリバリ健全健康体でここにいるぞ。今年の健康診断もオールAだ」
「ずっと、いる?」
「当然だ。お前の尻尾が二本になってもいるぞ」
「へへ……二本は、いらない、かな」
「馬鹿め。生やせ。一本はリボン、もう一本は花で飾ってやる」
 初めてこの腕に抱いたときよりずっと大きくなったその身体は、それでも心許ないくらいに細い。力を込めて抱き締めると、いつもの「くるしい」とか「やめて」などではなく、しずかな寝息が返ってきた。
 そんな穏やかな時間も束の間、ダリュは夜中に酷く苦しんだ。
 私が別室で持ち帰ってきた仕事を処理していたところ、突如寝室から呻き声が聞こえてきた。私は即座に飛んで行って彼女を宥めたが、結局鎮静剤を使うことになり、私は何度も引っ掻かれながら注射を施した。それも三度だ。今までもフラッシュバックに苦しむことはあったが、最近はその頻度は減ってきていたのに、一体どうしたというのだろう。三度投与しても都度覚醒してはぶるぶると震えて呻いてを繰り返していたが、最後はずっと泣いているだけになり、私も流石にいたたまれなくなったので最終的に限界量ギリギリの鎮静剤を打った。これで丸一日は眠ったままになるだろう。私としては何時間だって何日だって、何年だってその発作に付き合うつもりではいるのだが、ダリュが苦しい思いをするのは一秒でも短いほうがいい。
 仕事をする気になれなくなったので、シャワーを浴びた。ダリュに引っ掻かれたり噛まれたりした傷が沁みるが、彼女の苦痛に較べればどうということはない。ダリュは自分をストレイだと思って自分の気持ちを無視して成功や生存の一点のみに注力する傾向があるが、実際は私が生んで私が育てたイエネコなのだ。私はその気高さをいくらでも讃えるが、弱い部分も大切にしてほしいと私は思っている。なのに、なかなかどうして手を尽くし心を尽くしても伝わらない。


 出勤すると、まずハーフムーンが「うわ、どうしたんですかその怪我」と言って駆け寄ってきた。どうやら私が顔面や手指の至る所にバンデージをしていることを不可解に思ったのだろう。「キミの兄のコスプレだよ」と適当に返してやると、彼は椅子に腰を下ろした私の背後に回り込んで、髪に触れてきた。
「髪も結ってないじゃないですか。やってあげまーす」
「ふむ。それは助かるな」
 彼が髪留めを要求してきたので、差し出された手のひらの上にポケットから取り出したそれを転がしてやると、彼の私物らしい櫛が通される感覚があった。私はその快い感覚に目を細めながら、仕事用のタブレットPCを立ち上げる。それから責任者用管理アプリを開いてみると、確かにきのうダリュとハティが請け負った任務の項目には『任務完了・報告書記入中』というパッチがついていた。
「画面は見るなよ、ハーフムーン」
「見ませんよー。てかスクリーンにしたらいいじゃないですか」
 当該任務を選択して、一定の権限がある者だけが閲覧可能なページに網膜認証で飛ぶ。そして任務の詳細を確認していると、アンダーソンの部下が撮影したというフードデリバリーサービスの配達員たちの隠し撮り写真がずらりと並んだファイルを発見した。そのまま一杯一枚手早く確認していくと、とある写真の前で手が止まった。無意識に、しかし、確信があって。手指の静止と同時に止まった息を、ゆっくりと吐く。これだ。ダリュのフラッシュバックの原因は。こっちだったのか。……目を閉じて、三十秒を数える。開く。すると、予想通りのタイミングでハティがオフィスに入ってきた。
「おはざっす……って、眦哩ジリ先生、どうしたんすかその怪我」
 彼もいの一番にハーフムーンと同じような反応をする。
「キミのコスプレだよ」
 適当に返事をすると、彼は周囲をぐるりと見渡して「あれ、ダリュちゃんは?」と、普段より若干控えめなトーンで問うてきた。
「休ませた。調子が戻らなくてな」
「え、具合悪いんですか?」
 今度は仕上げの櫛入れをしているハーフムーンが問うてくる。それと対照的にハティは「そっすか」とだけコメントして、デスクで勤怠登録を始めたようだった。
「まあ、インフルだとか伝染るものではないから安心しなさい」
「そっかあ……じゃあ夜行く予定の店はキャンセルしようかな」
「まあ、まだ待ちなさい。私が帰宅したら様子を確認する。ダリュが行けそうになかったら私とデートしてくれるかい、ハーフムーン」
「えー、どうしよっかなー」
 ハーフムーンは特段に落胆した様子は見せず、明るい声で「はい、できたっ」と言ってデスクの前に回り込んでくると、「うーん、似合いますねえ」とアンダーソンがよくやるような仕草で顎を揉んだ。首の後ろがすうすうするので、纏め髪にでも編み込まれたのだろう。「美形はなんでも似合うのだよ、はっはっはー」と自分を鼓舞するように笑って意気を腰に据えると、私はハティを手招きした。すると彼は素直に私のデスクの前までやってきて、ハーフムーンと並んだ。そして私は意を決し、
「この男に見覚えは?」
 と、PCを彼らの側に回転させた。努めて平静に、極めてフツウに。するとその瞬間、ハティの目が曇ったのがわかった。
「昨日、ダリュはこの男と対面したのか」
 そう続けると、ハティは数秒の沈黙ののちに、「そうです」と短く答えた。予想と事実が重なり、大きな溜め息が漏れる。はてさてどうしてくれようか……と私が指を組むと、ハティは「でも俺が殺しました」と、そっけなく、何事もなかったかのように告げた。その傍らから身を乗り出してきて、画面を確認したハーフムーンが、唇だけで「マジじゃん」と呟き、兄を振り返る。
「俺の独断です。処分は受けます」
 ハティは平静で、フツウだ。私とは違う。
「ちょっ、え、まだ情報足りなくない? なんで兄さんが謝るの? 確かにこっちからの攻撃はNGな任務だったけど、別によくあることじゃん。てか死体処理を受理したの私だし。誰を殺しちゃダメってマークもなかったでしょ」
 ハーフムーンが私とハティの前に割り入ってきて、慌てた様子で兄を庇う。私はなによりその兄想いの弟を落ち着かせてやるために「責める気はない。むしろ礼を言いたいくらいだ」と、彼らに手のひらを向けた。するとハーフムーンは肩を下げて「よかった!」と言って兄の肩を叩く。確かによかった。私と、彼らにとっては。もちろんダリュにとっても。しかし、そんな『事件』が起こってしまったこと自体がやるせなく、私はどうにも溜め息が止まらない。吐かずに留めようと思っても、不甲斐なさがしつこく胸を膨らませる。
「……ふたりとも、悪いがひとりに……いや、多数決だな。少し、外の空気を吸ってくる」
 そんなふうに、私は要領を得ないことを言いながら立ち上がると、そのままオフィスを出た。エレベーターではなく階段を使い、最上階から屋上へ。欄干に寄りかかり、屋上は禁煙と知りながら懐から取り出したタバコに火を点けた。ああ、ダリュの匂いがする。



 それはそれは暗い夜だった。その日、私は勤務後にとある書類を記入していた。研究所の主要エリアにですら人気はなく、灯りの殆どが落とされた時間帯で、窓の外には八芒星。その灯りを頼りにしたためたこの書類を上長に提出したあと、私は広くなった被検体待機室でいつものように本を読んでいるか勉学に励んでいるか……あるいはお気に入りのパンダのアニメを観ているであろうダリュを迎えに行こうと予定していた。
 その頃には、あんなに小さかった私の最後の被検体も、すっかり可憐に成長してくれていた。そんな彼女の成長を祝し、外へ出して服を買い与え、食事に連れて行ってやろうという、そういう記念の意味も込めるつもりだった特別な夜。我が末娘とも呼ぶべき彼女に、きっと世界を見せてやろう。己の可能性を期待して貰おう。ああここまで生き残ってくれてよかった……。そんなほぼ現実となった夢想に、私は今日一日中逆立っていた精神を癒し、気もそぞろに書類を記入し終えると、直筆でなくてはならないという馬鹿げた慣習のあるその書類を手に、大司祭室を訪れた。既に上長はいなかったが、デスクの上にでも置いておけばいいだろうと暗い部屋を進み、目立つ位置にそれを置くと、私はダリュの元へと向かった。
「あとで部屋に迎えに行くから寝ずに待っていなさい」と教えていたのをきっちり守って、ダリュは私を待っていることだろう。引っ込み思案ではあるが、根は真面目な子である。きっといつものようにふたりきりだからと抱っこを強請って甘えてくるだろう。先ずはそれを叶えてやって、それから……。駈け足になりながら、パンドラの箱をひっくり返したあとにも残ってくれた私の最高傑作への思いを募らせる。きっとあの子は私が幸せにするのだ。
 異変にはすぐに気づいた。
 ドアランプの色で部屋のロックが解除されていることを察して、開閉センサーに翳しかけた手が止まった。これは外からだと管理責任者にしか開けられないロックシステムである。それが開いているということは、ダリュが鍵をかけ忘れたということだろうか。いやしかし、生真面目で少し神経質なところのある彼女が今までそんなミスを犯したことなどなかったはずだ。
「……ダリュ?」
 外から内へ作用するドアホンに向かって呼びかける。返事はない。では眠ってしまっているに違いないと再びセンサーに手を翳そうとしたそのとき。
「やべえ、ジリ先生だ!」
 部屋の中から、数人の男子被検体が飛び出してきた。五人ほどの彼らは私に代わる代わるぶつかりながら廊下へ飛び出し、脱兎のごとく逃げてゆく。彼らは私の担当ではないはずなのにどうしてこの部屋に……。そこで意識が一瞬、眩めいた。彼らを目で追った体勢のまま、私は数秒動けなかった。最悪の予感がよぎったのだ。そして最悪を上回る惨状が、部屋の中に広がっていた。
「ダリュ」その名を呼ぶ。
 読書灯の明かり。ダリュがお気に入りのシールを貼っていた、読書灯の明かり。に、照らされた、我が娘の。……。…………。からだ。
「ダリュ」娘を呼ぶ。
 まだ子どもだまだ子どもだまだ子どもだまだ子どもだまだ子どもなんだまだずっと私の。
「ダリュ」
 私はお前の未来を約束するために。
……吐息の一片も漏らせないままその場に膝を突いて、薄目を開いたまま身動ぎもしない彼女の頬に触れる。なのに瞬きをしていることがなによりも惨く、もう一度呼びかけると「せんせい」と細い声がした。希望だとは思えなかった。視認したくないと、知覚したくないと思ったがそれらは私の義務だった。半分潰された顔面。白くて青くて紫で赤い裸身。関節が不可解に捻じ曲がっている手指腕膝。どうしたらそうなるんだと叫びたくなるほど夥しい量の血を、股から、流して。私の‪。私の。………………こんなの、もう死なせてやるしかない。それが私の責任だ。そっとその頸に手を伸ばす。でも。でも。
「ダリュ。外へ行こう」
 永遠の数秒。その後に、私は笑うことしかできなかった。なのに、涙が私の権利を考慮せずに流れた。
 とうとうその頸を絞められなかった手で脈を確認する。弱い。でも、あるのだ。
 白衣を脱ぎ、彼女を包んでゆっくりと抱き起こす。「せんせ、せんせの、おにんぎょう……」ダリュは私を模したくせなにもできなかった人形を求めて、ほぼ息だけの声でそう訴えるが、私は心を鬼にしてそれを無視すると、部屋を出た。そうして現在に至るまで二度とあそこには戻らなかったが、それについては予定通りだった。
 人間界へ降りた。微熱のせいで夜風が嬉しかった、ような、気がする。『門』を抜けるとゲートキーパーが待ち構えていて、『ホテル・モナド』の部屋を既に用意してくれていた。ミッドガルドのコンシェルジュはなにも言わずに私を部屋まで送り届けると、「なにかあればフロントまで」と言って扉を閉めた。
 私はまず眠ってしまったダリュをベッドに降ろして、濡らしたタオルでその身体を拭った。そのとき白衣は捨てた。……到底耐えられなかったが、私情は捨てて触診した。彼女の胎はズタズタになっていて、出血が酷かったこともあり、私はこのままだと死んでしまうと判断した。しかし今この時点で粘膜接触からの魔力の補給をしても、身体が回復しきる前に体力が尽きてしまう。この方法はギバー体質の魔力パスと対象のパスを繋げ魔力を注ぎ込むことで、自己回復能力を刺激して高めるものだ。その際に発生する超速的な代謝は健康体であればなんの影響もないが、ここまで弱っていては息の根を止めることになりかねない。今夜が山ならまだしも、もう一時間も持たない対象にそんな行為はできなかった。……私は『粘膜接触』をせずに済んだことを心の底で喜びながら、躊躇いなく自身の左目を抉り出して彼女の口に押し込んだ。『私を食わせる』……もうこれしかなかった。彼女の中で私の魔力自体を作用させ、直接修復する。これは薬物を投与して回復を図るというより、縫ったりボルトで留めたり接着剤を用いたりする行為に近い。しかし、まず命を繋ぐにはこれが現状最善だった。食って補い、強くなる。これは人外族の摂理でもある。……反射的に吐き戻そうとする彼女の口を、手で塞いだ。頼む、飲んでくれ。ダリュが鼻から血を噴く。私の眼球に纏っていた血だろう。私はもはやほとんど悪鬼になっていた。しかしこの身は既に堕ちているのだから、そんなことは些事だ。
「頼む、ダリュ……食うんだ、生きろ!」
 叫びながら瀕死の娘の口を塞ぐ、そんな猟奇的な一幕。でも、一幕は一幕だ。絶対に終わる。そう信じて必死になっているうち、手のひらに喉が鳴る感覚があった。咄嗟に彼女の口を塞いでいた手を離し、観察する。先ずは外傷が薄くなり、それからひしゃげた関節が。そして胎も……。
 安堵したのも束の間。そのとき、私は気づいた。文字通り目の前が真っ暗になった。ダリュを起こそうと文字通り身体を叩いた。彼女が薄目を開けるか開けまいかといったところで、叫んだ。
「初潮はもうきているのか」と。
「股から血が出るようにはなったのか」と。
 記録にはない。しかし私は実際、己の手で女性体を育てるのは初めてだった。もし彼女が恥らって報告していなかったら? 世話役のシスターたちが男の私に隠していたら? 最悪だそんなの。そもそも次代が極めてできにくい我々の世界に現状ではアフターピルなんてものはない。でもそんなのは万が一だ。その万が一が起こってから、彼女の胎に……いや、死んでもそんなことはできない。彼女は私の娘だ。私の大切な、私が育てた……。だから。つまり。結論……。
 もうダリュを娘として扱えないという事実だけがその場でむごたらしいほどあざやかに照っていた。
「……」「…………」「………………」「……………………」「……其の瞑目を彼方に焦がし」「済い度すは遠行の果て」「我が理を三つに分ち」「銀盆星洞金杯に託す」「…………」「此の肉叢三つに裂きて」「汝に施し贖う喝采」「及べ」「キミは、希望だ」「……」「…………」「ダリュ」「ごめんな」
 私が人間みたいな理由で怪物になるとは思わなかった。私が人間みたいな理由でこの子を生かすとは思ってもみなかった。
 契約するしかなかった。
 祝詞を唱え終えると、私は泣きながら彼女のかがやかしい未来を奪った。
 あの仔ヤギが兄とケッコンするのだと言って聞かなかったとき、私の元へやってきて「わたし、先生とケッコンする」とこっそり耳打ちしてきたあの子の。
 お星さまのずっとむこうに行ってきたと秘密をつくったくせ、罪悪感でうんうん唸って熱を出したあの子の。
 泣き虫なくせして私の前でしか泣かないという自己ルールを設けて、それでも泣くこと自体が難しくて難しくてたまらないといった様子で日々嗚咽していたあの子の。
 まだ恋もしらないあの子の。
 私の、娘の。
 その人生の選択肢を、可能性を、私は奪ったのだ。
 使い魔を得た神魔は地獄に落ちるというが、まさしく今ここが地獄だと思った。臓腑が焼けるように痛むなか、苦心して私は契約の儀を成し遂げると、虚脱状態に陥りしばらく動けなかった。希望が成ったはずなのにそれらは翠雨ではなく氷雨のように私の今目の前の世界に降り頻り、モナドの鏡は霧にけぶった。この世に済度などない。
 翌日キトゥンブルーが晴れた。光のない黒い睛に私を罰するかのような印を携えて、ダリュは変生したかえってきた


 でもそれだけだった。彼女は私を見て、笑うし泣くし我が儘を言う。しかしもう娘ではなくなった。私が間に合わなかったせいで。私が呑気に書類なんて書いていたせいで。私が「迎えに行く」と言ってしまったせいで。私の決断が遅かったせいで。私があの決闘を見てしまったせいで。私が、あの子たちを生んだせいで。私が私であったせいで。ぜんぶ不可逆なのがちゃんちゃら可笑しい。ひとつくらい取り戻せるものがあってもいいはずなのに、皆無だった。私は私の宿業に無辜の仔猫を巻き込んだのだ。
 以来、なんとか嫌われてみようと努力しているが、ダリュはもう娘じゃないから、もうパパでもない男のことは嫌ってくれないらしい。優しくて困る。可愛くて困る。だから絶えず祈っている。私以外の『いてくれる人』を見つけてほしいと。
「きゃー! 先生! 飛び降りないでえ! まだ保険金かけてないのお!」
「先生、はやまるな、両手を挙げろ。崖に追い詰められたら日本のドラマじゃ終わりらしいぞ」
 ふと、背後からそんな笑いを含んだ声がして、私は手にしていたタバコがとっくに消えていることに気がついた。そして笑いながら両手を挙げて振り返ると、「はっはっは。バレちゃしょうがない」と笑う。しかし刑事ドラマの体で私を迎えにきたらしい彼らは、神妙な面持ちで顔を見合わせると、次の瞬間「確保ー!」と叫んで私に向かって突っ込んできた。二人同時は流石に対処に迷う。左右の腕をそれぞれ掴まれ、私はふたりと反対方向を向いたまま、欄干に縫いつけられてしまった。
「アルカトラズとアバシリは勘弁してくれ。あと取り調べのときは天丼で頼む」
 なぜかハティのハンカチで目元をごしごしと拭われながら、私はそう訴えて身を捩るが、男性体ふたりの力は強すぎて敵わない。ハーフムーンに至っては私の口角を指でぐいぐいと押し上げてくる。
「あ、いいねえテンプラ。先生今度テンプラ食べさせてー」
「いいぞ。具材はなにが好きだ?」
「んー、フグと舞茸。あとカボチャ!」
「野菜も食べて偉いぞ」
「俺はデカいエビ」
「ふっ、子どもだな」
「じゃあアンタは?」
「春菊とシソだな」
「ジジイじゃねえか」
「はっはっは。パパの丼からなんでも持っていくがいい」
 私がそう言って威厳を示すと、彼らはちいさく溜め息を吐き、私の頭をそれぞれの側頭部で挟んできた。固くて少し痛いし暑苦しいが、私はがっちりとホールドされているから振りほどくことができない。途方に暮れて笑ってしまっていると、ハティが勝手に私の懐を漁って許可なくタバコを抜き取った。そして弟に「うい」と一本渡し、私に「おらっ」と咥えさせ、それから己でも「うーい」と漏らして咥えたようだ。そしてハーフムーンが「しぇい」「よっしゃ」「そらきた」などと言いながらジッポの火を回す。なんだこのハイスクールの運動部のようなノリは……と思いながらも、大人しくピンクのタバコを吸っていると、ハティが口を開いた。
「で。あと何人だ?」
「何人、とは」
「何人殺したらダリュちゃんと先生は安心するのか、の、何人」
 なるほど、敏い。しかし、それを遂げたとてその先にはなにもないことを予感している私は返事ができず、ただ煙を吐くのみだ。すると、ハティは「覚えてんすか、それとも記録してるんすか」と私のこめかみを指でつついた。確かに私はBMIを入れており、いま私を挟んでいる彼らのカタログスペックなんかもすぐに検索可能ではあるが、それは私の息子たちだからだ。
『少年たち』は私が関わった作品ではなく、私を妬んでいた女の作品である。私がいくら幼児教育の重要性や、獲得可能時期を過ぎてからでは取り戻せない社会性について説いても、彼女は頑として量産を重視し、基礎教育の要らない齢(正確には年恰好だ)の個体を量産し、数でものをいわせた。それでは他害の怪物になってしまうと言ってもダメだった。しまいには「私たちの子を殺し合わせればより純度の高い個体が残るでしょう」と言って、本当に稟議を通した。私はわけがわからなかった。……私の子たちは強かった。自分の信じる理論を元に思考ができるからだ。しかし『暴力』という面では向こうが上だった。社会性に乏しいせいで本来備わっているはずのリミッターが作用しないのだ。マトモに付き合うのは無意味だと、私はまず成長の早かった騎士シリーズのプロトタイプを「優秀だから」という理由をつけて無理に謦咳府に送った。次にあの女の作品に殺されかけた騎士シリーズの最新個体の死を偽装し、人間界に降ろした。そうして少しずつ私はあの女に対する敗北を演じながら子どもたちを逃がしていった。王種の双子は運命が拗れた。しかしどうにかするつもりだった。責任を全うするつもりだった。だがそれよりも先にダリュがルール外の場所で犠牲になってしまった。私は逃げた。……だからあの日の彼らの記録は、あの私の存在を察知し逃げ出しぶつかってきたときの記録しかない。そう、視覚情報からBMIに送られた『記録』だ。しかしあれを開くと、直後のダリュの惨状まで引き出すことになる。今朝確認した写真にピンと来たのは、真っ先に飛び出してきた個体だからだ。つまり他の四人の外見情報を抽出するには、私という存在の底の底に沈めたあのファイルを開かなくてはならない。
「……確か、四人だ」
 なんとかそれだけ吐き出すと、ハーフムーンは「記録はないってこと?」と、私が「確か」という主観的表現を使ったことを目敏く掬って言った。こうなってはもうお手上げである。正直に、
「記録はあるが、可能ならば開きたくない。勿論確認するが、心の準備が必要でな。そういう性質のものなんだ、私にとっては」
 と、告白した。
「じゃあ俺たちが確認しようか」
 ハティがそう提案してくるが、反射的に断る。
「それはダメだ。あんなものは共有するべきじゃない」
 あんなおぞましいものを我が子には見せられない。公私混同という自覚はあるが、こればかりは譲れなかった。
「でも先生、それでまた苦しくなるんだろ」
「またとはなんだまたとは……しかしそれは仕方のないことだからキミたちが気にすることではない」
「共倒れしないために仲間がいるんだろ。俺は平気だぞ、多分な」
 彼はそう言うと、唐突に私の腕を解放して今度は私と同じ方向を向いた。するとハーフムーンもそれに倣って、「愛じゃん」なんて笑う。「星の王子様だ」
 三人向かい風を受けて立つサボり時間。このまま無言で彼らからの、まだ愛と呼ぶには青い気持ちを無視して仕事に戻ってもよかったが、最後に一点訊ねるべきことがあった。
「ハティ。どうして撃った」
 任務は完了していた。後は帰還するだけという段階にもかかわらず、彼は不必要な殺しをやった。不要な戦闘を避けられるだけの技量が彼にはあっただろうに。
「ん? そんなん、ダリュちゃんを泣かせたからに決まってるだろ」
 ハティはそうさらりと言って、私の魂をまるっと黙らせる。目を見開いて固まっている私の前で、彼は突として慌てた素振りを見せると、
「あっ。やべえ、今の聞かなかったことにしてくれ。泣いてないって言ってたんだった……」
 と、漏らして頭を抱えた。それを責めるようにハーフムーンが「そのトチりだいぶヤバいよ」と、呆れた声を出すが、顔は笑っているようだ。「聞かなかったことにしまーす。この優しさに免じて来月の新作コスメ買って?」だなんて続けて、彼は兄のほうへ移動して腕を組む。
「……なら私はコンビニで豪遊させてもらおう」やっと動きを取り戻した私も、彼の腕を掴む。
「はあ? アンタ、コンビニ使うのか……? 意外だな……」
「悪いか? 最近近所にハッピーライライという中華系チェーンが進出してきてな。五ドルくじの景品にあるクマのぬいぐるみがかわいいのだ……」
 そんな会話をしながらサボりを続行していると、不意に屋上への出入り口が開いた。そこから姿を現したのはアンダーソンで、ハティが「やべっ」と漏らしながらその手にタバコを握り込んだのを見て、私とハーフムーンもそれに倣った。そうして案の定、「ここは禁煙だサボり魔ども!」とこちらに気づいたアンダーソンが、私たち現行犯を確保しに駆け寄ってこようとしたので、「散れ!」とふたりに命じて私は屋上から飛び降りる。規則違反は捕まらなければなかったのと同じだ。開いていたフロアの窓から屋内に飛び込み、自分のオフィスのある階に戻ると、ほぼ同時にハティとハーフムーンも戻ってきた。私の取り出した携帯灰皿に三人順に吸い殻を放り込み、何事もなかったかのようにそれぞれのデスクに着席する。廊下の向こうからアンダーソンが駆けてくるのが見えるが、もう誰も平静を崩さない。
「ハーフムーン、扉に鍵を」
「もうかけたよ」
「スモークもかけるぞ」
 まったくふたりとも、私に似ている。ハティの手で、廊下に面したグラスウォールが外側からの視認不能状態に変化する。そして地団駄を踏むアンダーソンの姿を一方的に三人でニヤニヤと眺めながら、業務を開始した。


 帰宅して寝室を覗くと、ダリュはまだベッドの中で丸まっているようだった。出る前に枕元に置いておいた水も減っていないが、隣に寝かせておいた『先生人形(最新版)』は姿を消していて、きっと彼女が抱いているのだと窺える。書斎は既に全ての荷物を纏めてしまっているので、リビングに荷物を置いてからバスルームへ行って湯を張った。それから寝室へと戻り、そっとコンフォーターを捲り上げてみると、予想通りに人形をきつく抱き締めて彼女は丸まっていた。その頭をそっと撫でてみるとぴくりと微かに反応があって、徐に彼女は起き上がる。そうして掠れた声で「フム、怒ってないかなあ」と友人との約束の心配をした。
「まだ約束まで時間があるだろう。今から風呂に入って、お前の思う一番可愛い服を着て行きなさい」
 冷えたままの頬に触れながらそう言ってやると、ダリュは「うん」と頷いて瞼を擦った。それから私の胸に抱きついてきて、「先生もお風呂はいる?」と問うてきたので、「一緒に入りたいのか?」とその頬をつつく。すると「べっつに」というご機嫌斜めな声とともに彼女はベッドを降りた。私は笑いながらその背に続く。
 それからダリュを送り出したあと、私は近くで待機しているらしいハティに連絡をし、部屋に招き入れた。「バイクか?」と問い、「いや、歩き」という答えを引き出すと「なら付き合え」とまだ梱包を始めていないバーカウンターに彼を案内した。そして余った酒を消費するために適当な分量で作ったビトウィーン・ザ・シーツを、シェイカーからグラスに注いで渡す。
「うわ、強……」
 ちびりと舐めて顔を顰めたハティは、腰をかけていたカウンターチェアをぐるりと回すと、それから「ああなるほど、痛いのか」と言って、私物のPCを開いていた私の手の甲を指した。風呂に入るためにバンデージや止血パッドを剥がしていたので、痛みを感じてはいたものの傷が剥き出しになっていたことを忘れていた。
「使い魔から受けた傷って、なかなか治らない……んだっけか」
「……ダリュがやったのではない」
「はいはい。バンド巻いてやるよ。救急セットは?」
「……いい。後で自分でやる」
「俺のコスプレなんだろ? 手本見せてやるよ」
 そう言われてしまっては断れない。私が「あそこだ」と指した先、纏めた荷物の上に置いてあった救急セットを持ってくると、ハティはざっと中身を確認したようだった。それから私の手を取って、手際よく薬を塗っては適切な種類の手当をしてくれる。なんだかこそばゆいひとときだ。胸の傷は自分でやると言ったのに、彼は私が羽織っていたガウンを無理に剥くと、傷を見て「ひっでえな」と呟いて薬を塗りつけはじめた。その呟きに返答は求められていないことを知りつつ、なにも言ってほしくはなくてその口にタバコを押し込んで火を点ける。すると彼はタバコを噛んで落とさないようにしながら、
「ほら、髪上げててくれ」
 と私に指示をした。それに従って下ろしていた髪を持ち上げると、座っていた椅子の座面ををぐるぐると回される。「目が回るー」「回れ回れ」……そうして胸元への包帯の巻きつけが完了し、彼と向き合うかたちになったその瞬間に私は口を開いた。
「やはりキミにはあの記録を見せられない」
 いま私は、一生分の孝行をしてもらったのだ。そんな彼に、私はこの世のありとあらゆる悪意を浴びてほしくないと思うし、それらを防ぐ魔法があるのなら今すぐにでもかけてやりたいくらいなのだ。だから、見せられない。
「……なんだよ、いきなり」
「傍にいてくれ。それでいい」
 ガウンを羽織り直しながら私はそう返す。カウンターテーブルに向き合おうと椅子を捻ろうとしたが、それは彼の手によって阻まれた。そして「こっち向いたままでいろよ。顔が終わってねえ」と顎を掴まれたので、私は苦笑しながら目を閉じた。これなら適度に気が紛れていいかもしれない、と曖昧な希望に縋りながらBMI内へ意識を深く深く落とし込んでいく。
 しかし生きている右目にも死んでいる左目にもこびりついているあの光景は、やはりただただ惨たらしいだけだった。視覚情報から自動で組まれた俯瞰の映像の中、私はなにもできなかった男の隣に立ってただただ黙っていた。今こそ私情は不要だった。堪えて必要な情報だけを集めた。あの五人のホログラムにも私は無反応であることを心がけた。
 子どもの無邪気さは本来悪には向かない。彼らは大人と同じでやろうと思ったこと、やりたいと思ったことを実践しているに過ぎないのだ。無邪気でグロいと解釈する大人の目。無邪気で可愛いと解釈する大人の目。子どものやることなすことのおかしみというのは、大人目線でのエンタメ的解釈でしかないというのが私の自論である。だから彼らを責めたくはなかったし、十中八九あの女がけしかけたのだということも理解はしていた。私はこれまで「彼らはあのあと結局生き残りはしなかっただろう」という浅い推測で怒りを鎮めていたのだがが、今日ハティが「ダリュを泣かせたから撃った」と言ったことで、彼らの中で悪が芽吹いたことを知った。ハティは昔から明敏だ。深読みしがちな部分もあるが、違和感を察することには長けている。そんな彼が、「ダリュが突然泣き出した」というふうな表現を使わずに、加えて「ダリュを泣かせたから殺そう」と判断したことに、私は全幅の信頼を置くべきだと感じる。当時の彼らに悪意があったのかどうかは知らないし、そこは私の領分ではない。しかし、泣かせたということは、彼は当時のことを揶揄しようとしたに違いなく、これは万死に値する。あのとき親心を捨てた私はもう親ではない。だがダリュのマスターとして、そう結論づける。
 目を開ける。するとハティがグラスを片手にカウンターに頬杖をついて私を見ていた。その膝の上にさりげなくハンカチが用意してあるのを見て、私はふっと笑ってしまう。それから涙が出ていないかそっと確かめる指の動きを、そのまま前髪を掻き上げることで隠した。
「PCを確認してくれ」
「はいよ。パスワードを入力してくれ」
 今さっき、BMIからPCにデータを共有したので既に奴らの顔を切り取った画像は確認可能な状態になっていることだろう。以降の操作は彼に任せることにして、私も酒の入ったグラスを手に取った。「ナンバーキーならキミの誕生日と同じだ」と言って、ビトウィーン・ザ・シーツを舐める。甘くて熱く、酸っぱくて冷たい。
「冗談はいい加減に……ってマジかよ。開いたぞ。つか今どき四桁って」
「はっはっは、奇遇だなあ」
 キミの誕生日そのままだからな……とは言えずに、彼に操作の指示をする。先ずは共有したファイルを開き、次に切り取った顔の画像を、今朝確認した顔写真を元に、AIで現在の年齢にまで『成長』させる。それが終わった後ハティに「どうだ」とダブルチェックを促すと「ああ、この顔だったな」と些か暗い声が返ってきた。
「よし。では今後の任務ではホシの顔とこれら画像を逐一照合するよう、のちほどプログラムを組んでおくことにする。しかし思わぬエンカウントもあるだろうから、こいつらの顔は頭に叩き込んで置いてくれ。まあ、何人残っているかはわからないが」
「ダリュちゃんには共有するのか?」
「……どう思う?」
「……アンタがまた怪我しそうだから、やめておこう」
 そう言って彼は画像ファイルを自分のアカウントと、それから弟のアカウントに共有したようだった。そして操作を終えたPCを私の前に寄越して、「デスクトップ可愛いな」とちいさく漏らした。このPCのデスクトップ画像には、その昔ダリュの髪を結っているところを子どもたちの世話役のシスターが密かに撮影した写真を採用している。人一倍おしゃれをすることに興味があった幼い彼女は、よく私に髪を結ってくれるよう頼んできた。あのやんちゃな仔ヤギにくちゃくちゃにされるとわかっていても、その身繕いは彼女にとって欠かすことのできないルーティンだったのだろう。
「ふふ。可愛いだろう、私の……」PCを閉じる。「使い魔は」
 彼は「そうだな」と私のほうを見ずに答えると、椅子から降りてカウンターの隅に丸めて置いてあった私のコートを持ってきて、それを肩に掛けてきた。意図がわからず首を傾げると、
「ラーメン行こうぜ。腹減った」
 と短い提案があった。ラーメン。行こう。つまり、私と。……言葉の意味はわかるのに飲み込めずに沈黙していると、今度は彼が家に来たときに身につけていたマフラーを、私の首にグルグル巻きにされる。その手付きは丁寧なのに巻き方は雑で、私は笑ってしまいながらきつい部分を緩めて言った。
「アンダーソンは随分とキミを気遣い上手に育てたらしいな」
 すると彼は唇を尖らせると、
「いや、元から気遣い上手だぞ。つかなんでアンダーソンが出てくるんだよ」
 と、ごにょごにょと漏らして私を肩で煽って促す。老いては子に従えという場面だな、と自分なりに解釈した途端に喉が詰まるような感覚がしたが、それを振り払って彼に続いた。


   *


 待ち合わせの店に到着すると、ハーフムーンはなにも注文せずにわたしを待っていてくれたようだが、顔を見た途端になんの許可もなくタップのクラフトビールを二杯注文したようだった。
「お、お仕事サボり魔じゃん。おはよー」
 そう言って彼は私をその窓に面したカウンター席の隣に座るよう促して、それから私の身体からいそいそと上着を剥ぐ手伝いをしてくれる。一応「サボり魔じゃないし」と訴えはしたが、彼はそれを無視して「可愛いじゃん、服が」と『服が』の部分を強調して笑った。
「なにをー。他は? 他の部分は?」
「髪?」
「ああ、これはさっき先生がやってくれて……って、そうじゃなくて」
「はいはい頭のてっぺんからつま先まで可愛いですよー。カンパーイ」
 なんとも雑な対応である。彼は店員の手からハーフパイントのグラスをふたつ受け取ると、自分でグラスをぶつけ合わせてひとりで乾杯を済ませ、最初にひとくち飲んだ飲みさしをわたしに寄越した。「うわ、ないわ」受け取ったスタウトを飲む。苦くて目が醒める。「いや、あとでひとくちちょうだい合戦するよかいいじゃん?」「合戦ってなんだよ。わたしからは言わないよ」「こっち飲む人ー?」「ひとくちだけ貰う」「ほらー」彼から受け取ったアンバーに口をつけるとそれはぱっと華やかで、ちょっと小洒落たディナーっぽい雰囲気というか、そんな気持ちになる。そのままなんとなく辺りを見渡してみると英国風のシックな雰囲気の店内は、大量のカップルでごちゃついていた。うわやだなー、とぼんやり思いながら、
「ねえ、もしかしてアンタがデートで使う店?」
 と問うと、彼は眼球だけを上に向け、人差し指を口許に当てて首を傾げた。これはLA支部の男たちのあいだで可愛いと評判の彼の仕草だ。まあ、確かにオリエのようなよからぬ算段がないぶん、ナチュラルで可愛い。彼のようなド派手な美人が行うからこそ映える癖だ。
「んー、あー、二回ほど……?」
「誰よ」
「一回目は兄さん。二回目は……内緒?」
「一回目はカウントしなくていいんじゃん?」
「ふふー。兄さんともデートったらデートなの」
「はいはい。仲いいね」
「んで、これが三回目。ちゃんとカウントしてあげる」
「シュエシュエー」
 一緒にタブレット端末に表示されたメニュー表を覗き込んで、さほど悩まずに注文を決める。注文確定の文字をタップして、「おなかすいたー」と漏らしながら傍らの彼を見上げると、ハーフムーンは眉根をぎゅっと寄せてなんだか切なそうな顔をした。「え、なに」「いや……」彼はグラスを傾ける。
「元気そうでよかったなと。……やっぱサボり?」
「実はそう。サブスクでドラマ観てた」
「あはは、悪い女だ」
「今更。どっからどう見ても悪い女でしょうが」
 追加のビールを一気に飲み干し、その腹具合で胃が平常運転に戻ったことを感じる。よしよしわたしはいつだってだいじょうぶなのだ……と己の強さや図太さを再確認する。腹の奥のほうが腑に落ちていないと嘆いたような気もするが、「同じのもう一杯」と近くにいた店員に声をかけて揉み消した。
 運ばれてきたフィッシュ・アンド・チップスにはモルトビネガーをどばどばかけた。バンガーズ・アンド・マッシュはケチャップとタバスコで真っ赤にした。わたしは悪い女だ。友だちに嘘まで吐く。
「辛いのが好きなの」とハーフムーンが聞いてきたので、「うん。あと酸っぱいのと激甘いのも」と答える。マッシュポテトに染みているはずのグレイビーソースの味がわからないほど辛いが、そもそもわたしはグレイビーソース本来の味を知らない。
「美味しい?」
 わたしの頬を指でつつきながら、ハーフムーンは問うてくる。口にものが入っていたので「うん」と音だけを発して答えると、彼は「ああそう。ならよかった」と言ってビールを追加注文した。そしてすぐに運ばれてきた塩キャラメルの香りのするブラウンエールを飲みながら、わたしの頭を指先で撫でてくる。なに、と返すと、わしっと彼の手のひらが頭頂部を包んできて、わたしは髪型の心配をしたがそれについては黙っておくことにした。
「アンタが元気ないの、私はやなの」
 すこし照れたようにそう漏らした彼は、軽い溜め息とともにテーブルに肘を突いてそっぽを向く。手元でグラスを弄んで、大袈裟につんとしてみせながら。
「元気だけど?」わたしは首を傾げる。
「いきなり休んだから心配してんの。アンタっていつも別に元気そうには見えないけど、いきなり休んだりはしなかったじゃん。まったく、今度サボるときは呼んでよ。たっくさんデリ買ってさ、家でドラマ観よ。お酒飲みながら、ぶっつづけで」
「お、いいねー。ジャンルは?」
「恋愛に決まってんでしょ」
「え、ヤダ。ヒトが死ぬやつがいい」
「それをジャンルとしてカウントするのは広大すぎて無理あるよ? 恋愛系で死ぬやつもあるでしょ」
「うげえー。恋愛ドラマで死ぬ奴とか最低。ほぼ勝ち逃げじゃん」
 乾いた笑いを発してグラスを手に取ろうとすると、徐にハーフムーンはわたしの前に一枚のメモを突き出してきた。そっぽを向いたままの彼と、そのメモを交互に見つめながら、わたしは「なんなの?」と疑問を抱いたままそれを受け取る。開いてみるとそこには、「心配だから」という右肩上がりの一筆と共にメッセージアプリのIDが書かれていて、わたしは首を九十度以上曲げてこの謎を解こうとする。これは誰からのものだろうか。そしてその意図は……。メモを矯めつ眇めつしてから、鼻に近づけて嗅覚情報を得ようとしていると、ようやくこちらに向き直ったハーフムーンが、
「ばか。兄さんからに決まってるでしょうが」
 と指摘して僅かに頬を赤くした。なぜそこで赤くなるんだ……と思いながらも、一瞬でハティの行動の意外性に感心する気持ちと、面倒臭さの両方が湧き上がって、わたしはたちまちこんがらがる。
「……これ、登録しないと角が立つやつ?」
 カオティックな脳内の様相が表情に出るのを感じながらそう訊ねると、ハーフムーンは顎でわたしの鞄を指した。これが「スマホ出せ」の圧であることくらい、わたしにもわかる。
「当ったり前でしょ。アンタってばずーっと兄さんが連絡先聞きたそうにしてるのスルーしてるんだから。可哀想になっちゃって郵便屋さんしてあげたっていうのに、アンタって子は……」
 連絡先を、聞きたそうにしていた? ……どのタイミングかまったくわからないところが自分でも恐ろしいが、本人の弟が言うのだからおそらくそうなのだろう。
「バリお節介なんだけど」
 そう言った直後頬を抓られるが、大人しくスマホを取り出し降参の姿勢を示すと解放してもらえた。「うぜー。お姉ちゃんかよ」と漏らしながら、メッセージアプリを開く。
「お兄ちゃんですう。つか、妹ならもっと素直で大人しくてニコニコしてる子のほうがいいわ」
「は。うっざ。せいぜい兄貴のお相手に期待しな」
 ハーフムーンの小言を聞きながら、大変不服ではあるもののIDを入力する。ていうかなんなんだ「心配だから」って。不明瞭な一言に若干イラつきながら申請ボタンをタップする。そしてそのままメッセージ入力欄に遷移して、最初の一言を入力した。
「面と向かって『お嬢さん、もし嫌じゃなければ連絡先を教えてくれませんか(薔薇の絵文字)』くらい言ってみせてくれる? モジモジすんな」
 送信。「はいはい申請しました」と言って顔を上げると、ハーフムーンは満足そうに頷いて、それから「ミッションコンプリート! んふふFMのハイライター買ってもらおー!」とひとり夢見がちなぶりっこポーズをする。その顎の下に整列した拳を手で無理矢理ほどきながら、「マジふざけんなし」と食ってかかると、「やんのかコラ」と超低音で凄まれたが、「じゃあ表出ろよ」と額を合わせて応戦した。
「こちとら鼻折られとんねん。きっちりやり返したるわ」
「あ? こっちはアバラやられとんじゃボケえ。イヴ一人分の重さとその鼻較べんな。プロテでも入れとけや」
 周囲のキラキラカップルたちの視線が集まってきたので、ふたり同時に離れて居住まいを正す。それからハーフムーンが、「うちで極道ドラマでも観る?」と提案してきたので、「いいね。恋愛ドラマよりマシ」と乗り気な姿勢を見せてやる。
「だいたい同じでしょ」
「解釈によってはまあそうか」
「アンタも解釈によっては、ねえ……?」
 そんな会話の合間に彼はタブレット端末で支払いを済ませてくれたらしい。それから「まずラーメン食べ行こ」と、椅子の背凭れに掛けていたコートを羽織った。わたしもグラスに残ったビールを飲み切ってからそれに続く。
「お洒落なお店よりラーメンデートのほうがいいよねー」
 上着を抱えてテーブル席の合間を縫って歩きながらそう言うと、彼は「それは年季入ってからでしょ」とまだまだロマンティックを諦めていない返事をした。彼はいま恋をしているのだろうか。気になるような、そうでないような。適度にどうでもいいなと結論づけて、わたしは外に出てから上着を羽織る。するとハーフムーンがぎゅっと腕を組んできたので、カッコいい彼氏にでもなったつもりで胸を張って歩く。わたしは可愛くて強くて泣かないダリュだ。スーパーダーリンといって差し支えない。……と、ひとり得意顔。ニューチャイナタウン目指してぐんぐん歩く。ほろ酔いの胃袋と皮膚感覚が冷えた風を切り裂いてゆく感覚が、わたしはいつだって大丈夫だという自信を補強してくれる気がした。
「ラーメン何味派?」
 なんにも入らなさそうな小さなバッグを振り回して、ハーフムーンは問うてくる。
「うーん、激辛麻婆魚介豚骨生姜醤油チーズマシマシアブラ少なめカラメ」
「逆にそれどこで食べれんの」
 丁寧に回答した正式名称に、彼はなにやら怪訝そうな顔をして再度質問をぶつけてきた。わたしは自信満々に、
「ヤン&パンダキャットで顔パス」
 と、チャイナタウンの裏路地にある店の名を挙げる。深夜の仕事終わりにたまに食べに行くラーメン屋で、店主と書いてある服を着せられたパンダ柄の猫がいるのだ。
「あそこそんなことやってくれんの? 逆に見たいわ」
「今から見せてやるぜ、最高の景色をな!」
「地獄の間違いでなくて?」
「地獄でも解釈によっては最高なこともあるじゃん?」
 コツコツとふたりぶんのヒールの音が往来に響き渡る。私の厚底ヒールよりも、ハーフムーンの音は高くて可愛い音だ。可愛いのが隣にいると、なんだか元気が出てくる。このわたしが守らなきゃという気持ちは、きっと本能に近い。……そう分析した瞬間、ふっと先ほど目にした右肩上がりの文字のことが思い出されて、一瞬立ち止まりそうになる。それを躓いたふりをしてぽんと忘れたのに、追い打ちをかけるように、
「私はアンタの味方だよ、ダリュ」
 と、傍らから囁くような声がした。
「なに、いきなり」わたしは立ち止まる。歩みをやめたのではなく、その言葉の真意を掴みたくて。
「私は、アンタの味方だよ」
 今度はふつうの、平熱の声で、ハーフムーンは繰り返す。
「もし今後マジないってことがあって絶交したとしても、私はアンタの味方。覚えといて。それで、できれば笑っていてほしい。それは、私がそうだと、嬉しいから」
 そう言って彼は、「ああ早くラーメン食べたい」と言って身体を優雅に伸ばした。その唐突な味方宣言に、わたしは疑問や反論よりも先に、「そっか」というほんの少しの感嘆が湧いて、それでなぜだか腑に落ちる。ハーフムーンは味方。きっと、友だちになるのは難しくても、みんなわたしの味方なのだ。……だってみんな可愛いって言ってくれるから。可愛いという言葉は、抱く側にパワーを与えてくれる。わたしのネイルは可愛い。わたしのメイクは可愛い。わたしの服は可愛い。ぜんぶ対象を褒めているというより、自分アゲだ。
 ああダレス、アンタもしかしてわたしといると、元気が出るの?
 爆裂恥ずかしい分析に自ら絶句していると。ハーフムーンは「なに、赤くなって」とつめたい手でわたしの両頬を挟んできた。「酔っ払ってる」と辛うじて答えると、
「好きなテンプラの具は?」という支離滅裂な質問が飛んできた。
 わたしは、「え、アイス」と答えてハーフムーンの手を握る。華奢で可愛い手だ。なるほど、やっぱり元気が出る。



End.


手放せない

シーツのあいだにでも隠しておけたはずだという、
妄念



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