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【SERTS】 scene.6 黄山炖鴿はどこで?

※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)



「ねえ、メッセージ届いてるよ」
 僕の指摘に、それまでぼんやりと窓の外を眺めていた王は、ゆっくりとスマホを手にして「そうですね」と眠たそうな相槌を打ち、それを再びテーブルの隅に置いた。
 この午後の穏やかな時間、どうやら王はこのホテルのラウンジに面した、硝子張りの中庭を眺めることに夢中らしい。手元の祁門キームン紅茶に口をつけることすら忘れて、淡い空のひかりを浴びる箱庭にその眼差しを向けている。揺れる緑をその透明な睛に映し、曇りなき窓硝子に斜めアングルのドッペルゲンガーを発生させた王のひっそりとうつくしい姿は、そのただならぬ白さのせいで却ってって他の旅客からは存在を認識されていないようだった。
 硝子を見ているのか、向こうの草木を見ているのか、はたまた何も見てはいないのか判別できない眼差しでいる王は、テーブル上のチャイニーズアフタヌーンティーと呼ぶには品数が少なく、ただのスイーツセットと呼ぶには賑やかな、小さな菓子や点心の並べられた盆が、その中庭の造りとリンクしていることに果たして気がついているのだろうか。そして、僕の焦燥にも。それは勿論、紅茶や点心が冷めてしまうことに対するものではなく、今しがたスマホの画面を点灯させた男に対してだ。
……ハリエット。
 つい先日、堂々と王の連絡先を手に入れた、いけ好かない狼野郎である。

「やだやだやだ! 絶対鏡の前で撮った上裸筋肉誇示自撮りとか送ってくるじゃん! 不潔!」
 叫んだ。嫌で叫んだ。
 全員の身体のどこかしらが血で汚れていたあの日、どこぞの馬の骨のどの部分かも知れぬ伊達男……もといハリエットは、僕と王に対するサポートの報酬として『王の連絡先』を要求した。
 一瞬、何かの陰謀に使うのではないかと勘繰ったが、彼の冷たい青の双眸が、愛おしげに王を捉えて離れなかったのを見て、これは単純に惚れてしまったのだと察することができたからこそ、僕の一存では拒絶し切れないことを悟ってしまった。しかし叫ぶことは止められなかった。
「背景はジムじゃん! それかやたらと黒いアイテムの散りばめられた自宅の洗面台じゃん! オーガニックのハンドソープとかが端っこに写ったやつ送るんだろ! 不潔!」
「送らねえよ! 送らねえしそれは別に不潔じゃないだろ」
 大声を出して言葉で殴り合う僕とハリエットを他所に、くぁ、と欠伸をして僕の手から押し付けたばかりのスマホを取り上げた王は、それを今度はハリエットに手渡した。僕の態度からして連絡先の交換作業を期待できないと察したのだろう。
「ん。どうも。画面ロック解除してくれるか」
「ええと、番号は……」
「それは教えちゃダメだろ。……今打ったの、誕生日か?」
「はい、そうです」
「ん。覚えとく」
「忘れろ! 今すぐにその国民の休日を忘れろ!」
「休日なんだな」
「みたいですよ。復権運動があったのだとか」
「そっか。……これ、キミの名前か?」
「ええ、まあそうです」
「可愛い名前だ。名前で呼んでいいかい」
「ええ、もちろ……」
「駄目! それは駄目! 本当にそれだけは勘弁して……!」
 聞き捨てならない提案と可決。そんな世界でふたりきりの議会のような雰囲気の間に全身で割って入ると、僕の剣幕に王はぱちくりと瞬きをして「どうしたのですか。なんだか妙ですよ」と悠長な声を上げた。この態度からして王はユーファンのときと同じように『お友だち』ができたのだと思っているようだが、この男は違う。明らかに獲物を見つけた目をしているのだ。
「僕ですら名前で呼んでないのにポッと出のアンタが名前で呼ぶのはおかしいでしょうが……!」
「なんで名前で呼ばねえんだよ。呼べよ」
 ハリエットはなぜそうしないのかわからない、とでも言いたげな目で僕をじっとりと見てきた。その指摘は真っ当ではあるものの、今の僕には解決できないものである。
「それは……呼べない理由が色々あるんだよこっちには」
「それ。呼べないなんて二度とお嬢ちゃんの前で言うなよ。痛がってるぞ」
 その言葉に振り返ると、王はスマホの画面を見るために深く俯いていた。しかし僕の視線に気付いたのか、すぐに「痛くないですよ。痛覚が鈍いので。ざくざくやられても平気です」と笑って顔を上げる。
「あなたのことはなんと呼べばいいですか? ここに書いてあるお名前?」
 そう言って、王は僕からは見えないスマホの画面を指差した。おそらくアカウント名に本名か、それに近いものが記してあるのだろう。
「……じゃあ、こうしよう。俺たちの関係が、もし今よりも一歩進んだら。名前で呼び合おう。それまでは俺のことはハリエットと呼んでくれ」
「わかりました。その一歩とは、どうやったら進むのですか? ケンケンパ、ですか?」
 王のその突拍子もない言葉に、ハリエットは声を上げて笑うと「ケンケンパでもいいさ」と言って、再び愛おしそうに王を見つめた。その視線に気づいた王は、はにかんで首を傾げる。心なしか、その夢みがちな垂れ目がキラキラとしている。距離も近い。さっきまで妙にエロティックな雰囲気だったくせ、今にもおずおずと手を繋いだり一瞬だけのキスでもしそうなその甘酸っぱくヘルシーな様子は、それはそれでなんともまあ絵になる。美男美女(ガワだけ)が並ぶと傍目にはこう映るのかという知見と嫉妬。眼鏡を掛けていても極度に眩しい。
 こっちが黙っていりゃあいい雰囲気になりやがって……と苦虫を噛み潰したような心地でステイしていると、王はスマホを僕が新しく買い与えたハンドバッグに戻し、それを僕の手に押し付けてきた。その「スマホをいつ見られてもいい」ような態度が却って心苦しく、絶対にプライバシーを守ってやらねば……と思ってしまうのは、庇護欲からだろうか。それとも、この一連の流れで僕が王の恋人に立候補する自信を喪失してしまったからだろうか。
「ほら、行くぞ」
 そう言ったハリエットの背中に続いて、死体まみれのロイヤルボックスシートから観客席に移動する。すると赤い布張りのシートが並んだ紅楼夢劇場の最前列に、見るからに上席であろう貫禄ある男が座っており、彼も、その背後で忙しくしている部下たちも、皆蛍光を発する青い腕章をつけているのが見てとれた。
「アンダーソン。戻ったぞ」
 どうやらハリエットに名を呼ばれたのはその上席の男らしい。彼は切れ長の垂れ目を幾らか和ませて立ち上がったと思えば、唐突にハリエットの肩を叩いた。その瞬間「痛えよ!」と負傷箇所を押さえてハリエットが凄んだのを見て、男は愉快そうに笑う。
「はは、怪我をしたのか。珍しい。……おい、誰かハティの手当をしてやれ」
「ハティ?」その可愛らしい響きの意味を、思わず問う。
 すると、アンダーソンと呼ばれた男は僕を認めて「おっ、噂にたがわぬ色男だねえ。耽美系?」と指で作ったピストルを僕に向けて茶化すと、今度は「こっちはオラオラ系」と言って無言で怒っているらしいハリエットの肩をもう一度叩いた。
「だから痛えんだって!」と、棘の塊のような声。「それにオラオラはしてねえだろ!」……納得できない箇所への指摘を忘れないところからして、この男は案外神経質な性分のようだ。
「側頭部を刈り上げてる奴がオラオラしてないわけがないだろう」
「同感ですね」
 思わず頷くと、アンダーソンは僕の目を見て飄々と眉を持ち上げ肩を竦めた。これだけで親しみやすさが売りの上官だということがわかるが、この態度にハリエットはどうやら普段から苛立ちを募らせているらしい。「なんなんだよアンタも刈り上げがそんなに嫌いかよ」と吐き捨て身を捩り、手当をしてくれている仲間に「どうどう」と宥められていた。
「随分と仲良しなチームみたいですね」
 そう感想を述べながら、僕も弊社のメンバーを思い出す。彼らもこれに近いかたちで賑やかにやっていて、普段ならその輪に僕と王も加わっているので、なんだか懐かしかった。
「遠征用に適当に組んだチームなんだがなあ。昔馴染みばっかりになっちまったからな」
 言いながら頭を掻いたアンダーソンは、さて、と僕に向き直ると、僕の背後にいた王にも視線を向けてから、ハリエットを掌で指した。
「では。紹介は俺がしよう。こいつは通称ハティ。『SGJ』ニューヨーク支部に所属する指揮官だ。うちについてはご存知だろう? ……民間軍事会社『DVS』代表取締役社長のラドレさん」
 どうやらこちらの素性については事前に調べられて筒抜けだったようだ。観念するつもりでこちらからも改めて挨拶をしようと一歩踏み出したその瞬間、王が僕の袖を引いて「ウォーウーラです」と切ない声を上げた。

「パンダさんのプリン、食べちゃおうかなあ」
 あのハティとかいう可愛らしいコードネームをした男と、それに纏わるエピソードを回想している間も、王はぼんやりと箱庭を見つめていた。痺れを切らした僕が、ココアパウダーで描かれたパンダの顔が可愛らしいジンジャーミルクプリンを盆から取り上げても、王は上の空で「ええ」と返事をするだけ。あとで怒っても取り合わないからな……と思いながらプリンを一気にかき込み、紅茶を啜る。
「……返事、しなくていいの」
 問うが、王はまた「ええ」と同じトーンで繰り返すだけ。王は普段から夢見心地の上の空でいることが多いので、気にするようなことではないとわかってはいても、どうしてもあの男の存在が引っ掛かり、僕の胸から焦慮を誘き出す。
 王の上の空の原因が、恋の病のせいだったら、と。
 恋の六秒ルールというものがある。初対面で六秒間見つめ合ったら互いに恋に落ちた証拠……だとかいう馬鹿げた俗説であるが、あのとき僕は無意識にカウントしてしまっていた。王とハリエットが見つめ合っていた秒数を。
 堪らずに横槍を入れたが、六秒は確実に経過していた。そのことが妙に気になって、ここのところ毎日悶々としながら過ごしていた。それに、時折鳴る王のスマホにも心掻き乱される。今までほぼ沈黙していたスマホが、鳴るようになったのだ。食事の最中。王が風呂に入っている最中。セックスの最中。頻繁にくるわけではないが、ずっと気になって仕方ないその着信音は、もしかしたら殆どが王の友人であるユーファンからのものかもしれない。しかしセックスのときに決まって届くのはハリエットからのものだった。遠くからでも、その通知のポップアップのカラーリングで察することができるその差出人の目に見えぬ姿に脅されて、最近は情事に集中できていない。昨晩も王に「そんなふうではいけないのですが」と叱られてしまった。単なる偶然なのかもしれないが、まるで邪魔をされているかのようなタイミングで届くものだから、なにかの虫の報せなんじゃないかと恐れてしまう。ふたりが恋人関係になる報せ、だとか。……考えたくもない。だが、ふたりがセックスをする姿は容易に想像ができる。
 プリンだけでは反応が貰えなかったので、今度は徽州月餅にも手を出す。胡麻のまぶされたそれは中秋節に食べられる伝統菓子で、これはそのミニチュア版だ。月餅の表面を覆う白胡麻のキャンバスには、黒胡麻で『花』と書いてある。そして小皿の上のもう一枚には『月』と。僕はどこなんだよ、と腹立たしく思いながら二枚纏めて口に押し込むと、二杯目の紅茶で流し込んだ。
「僕なら、好きな子からなかなか連絡が返ってこなかったら、不安になるかもな」
 水分を足したにもかかわわらず月餅が喉に詰まりそうになり、拳で胸を叩きながらそう言うと、王はようやく僕を見た。そしてもう冷めているであろう紅茶に口を付け唇を湿らせると「好きな子、に返信を貰えなくて切なくなった経験があるのですね」と言って慈愛の眼差しで微笑んだ。王は他人事の態度であるが、そんなのはバカンスの前から日常茶飯事だった。
「帰りにブルックフィールドに寄るけど欲しいものある?」「晩御飯は何を食べたい?」「洗濯機回しておいて貰える?」「どこにいるの?」「今帰るよ」「今日は遅くなるよ」
……王は、大抵返事をくれない。その虚しさを知っているからこそ、僕と王の仲を邪魔する男にも若干のシンパシーを感じてしまう。それと併発した僅かな苛立ちが、微雨のテンポで鳩尾あたりに水溜まりを形成して、さっきから僕の心は雨模様。これからもっと降るのかもしれないと想像すると、手足がしんと冷えていくような心地がしたが、きっとこの苛立ちは僕自身に対して向けられたものなのだ。
 自覚してしまった途端、抑鬱に歯止めが効かなくなりそうだったので、一念発起して自分のスマホを取り出すと、王に『愛してるよ』と送った。タイムラグなく王のスマホが鳴る。その瞬間、ハリエットのそれとは違う着信音をしていることに気が付いた。
「むん?」
 王は、その音と画面に表示された名前に少し戸惑っているようだった。それもそうだ。目の前の男からメッセージが送られてくるだなんて思いもしないだろう。そして王はスマホを手に取ると、拙い指先でアプリを操作して、僕のメッセージを読んだらしい。ちらりと上目遣いに僕を一瞥し、それから膝に置いたスマホを両手の人差し指で叩き始めた。何年観察しても機械類に触れるのに覚束無い手が、何度もメッセージを打ち込んだり消したりしているのを眺めながら、僕のスマホが震えるのを待つ。……来た。
『woaini』
 喉頭から、変な声が出た。
 文字表記するなら「ゴワ」に近い野太い音を発してしまったのを取り繕おうと、何度か神妙に咳払いをすると、黙ってスクリーンショットを撮り、それからできるだけ真顔を装って「宛先、間違ってないよね?」と問うた。間違っていたらそれはそれで大問題ではあるが、文脈からして十中八九僕宛てのものだろう……と喜びに打ち震えていると、ふと王が泣いていることに気が付いた。
「え……?」
 ニュアンスとしては泣いている、と言うよりは涙をこぼしている、という表現の方が正しいだろうか。俯き加減の面差しに、はらはらと真珠のような涙が散っている。一瞬の絶句。次の瞬間「わけがわからない」と無意味な感想が胸に浮かんで、また次の瞬間「どうしたの」と情けない声が出た。王が泣いているところなんて、見たことがない。慌てふためきながらハンカチを取り出して向かいの席の王に飛びつくと、光源氏のように美しく涙している王の頬に両手で触れた。初めて触れる王の涙は、その肌温度と比較すると、ひどく熱くて。
「どこか痛い? それとも僕、変なこと言っちゃった?」
 僕の問いに、王は首を横に振る。次は何をどう問おうかと考えていると、ふと親指の付け根辺りに触れる王の吐息が涙と同様に熱いことに気が付いた。もしや、とそのつるんとした前髪を掻き分け、丸い額に触れる。
「……部屋に戻ろう」
 すぐにそう判断し、ぼんやりとした睛でいる王を抱え上げる。肩口で王が「おやつ……」とちいさな声を発したので「包んで貰おうね」と宥めてその背中をさすって宥めると、それをホテルスタッフに伝えて急ぎ部屋に戻った。

 黄山の山頂付近にあるこのホテルを選んだ理由は、アクセスには些かの手間と時間が掛かるものの、そこからの各所観光スポットへのアクセスが良く、本格的な登山をしないまでものんびりと山歩きを楽しめると踏んでのことだったのだが、それが裏目に出るとは思わなかった。雲海たなびく厳かな山頂近くではあるものの、ホテル街一帯は観光客で栄えており、同時に観光業及び宿泊業従事者以外の人口が極端に少ない。外界から隔絶されたい願望のある者であれば、実に快適に休暇を過ごせるだろう。だがそれゆえ僕らの同族を診てくれる医者の駐在やその回診は望めそうにない。いたとしても王を診られるかどうか危ぶまれる。そもそも永いこと一緒にいる僕ですら王が体調を崩したところなど見たことがないし、他の王種の個体に関してもそんな事例は聞いたことがない。あの人だってそうだった。線が細いくせ、生き物としての強度は高くて。
「うー、代わってあげたい……」
 ベッドに寝かせた王が、うんうんと唸って薄く開いた睛を潤ませているその脇で、シーツに突っ伏してそう洩らす。これが音に聞きし『代わってあげたい』か……と、数々の創作作品での描写や、子を持つ個体の話に出てきた表現が、今初めて腑に落ちた。これは切実な感覚である。
「変なもの食べさせちゃったかなあ……でも同じもの食べてるしなあ……」
 わざわざ声に出して思い巡らせるのは、いつもは元気に突拍子もなく動き回っている王が大人しくてさみしいからだ。フロントで貰ってきた毛布からこぼれ落ちている王のちいさな手を僕の額に充てて、「はやく治りますように」と祈っていると、ふと王の手のひらから魔力の流動を感じた。
「ちょっ、ストップ! ダメです! ブブーッ!」
 慌てて辛そうな半目でいる王に制止をかける。今、王は僕に手のひらのパスを通して魔力を流しこもうとしたのだ。それは普段僕たちが主に粘膜接触で行っている魔力の供給方法のうちのひとつで、言ってしまえば僕の餌ではあるのだが、今それをされては王の身体に障る可能性がある。
「む……ん、性交渉、ができないかもしれないので……」
「そんなの気にしなくていいに決まってるでしょ。ばかだなあ」
「おまえ、すきなのでしょう。するのが」
「それはそうなんだけどね?」
 王の目に僕はとんだ色情狂に見えているらしいが、ある意味否定はできない。暇さえあればしたい男代表としてカウントされても差し支えないほどだと自負してはいるが、相手に無理をさせてまでしたくはない。
「僕、王との契約でだいぶ身体を強くして貰ったから、なにかあっても平気なんだよ。だからしばらくはなくても大丈夫」
 そう言いながらベッドに腰を下ろし、王の頬に触れる。段々と体温が上がってきているようで、先程までは比較的冷えていた頬や鼻までもが熱を帯びてきていた。
「なにかほしいものや、してほしいことはある?」
 問うと、王の眉根がきゅうと寄った。なにか躊躇うことがあるのだろう。「大丈夫、言って」と促せば、王は頬を撫でていた僕の手を控えめに掴んだ。
「ぎゅうと、していてほしいです」
 再び喉頭から「ゴワ」と変な声が出た。先程と同様に神妙な咳払いで誤魔化し「ぎゅうね、ぎゅうだね」と相槌を打つ。
「だめ、ですか」
「だめじゃないよ」
 ちょっと待ってねと声を掛け、羽織っていたカンフーシャツを脱ぐと、身につけていたアクセサリー類と腰のベルト、それから眼鏡を外してベッドに潜り込んだ。そして丁重に王のか細い玉体の位置を整え、お望み通りにぎゅうと抱いてやる。
「こんな感じでいい?」
 訊ねると、王は胸の中でこくりと頷いた。
「腰の辺りを、抱えてくれると、うれしいです」
「……こう?」
「はい。ありがとう……」
 王の熱い素肌が、まだ冷えた部分の残っている布団の中で、本能が欲するような心地好いぬくもりを演出する。普段は生き物として大丈夫なのかと心配になるほど低い体温をした王が、今は人肌だ。本人は辛いのだろうが、そのことに妙に安心してしまう自分もいる。
「普段からこれぐらい甘えてくれてもいいんですよ?」
 そう提案をしてみるが、王は既に眠りに落ちてしまっていた。
 そのままの体勢で王の旋毛にキスをしたり、手の平や甲でその熱い頬に触れたりしている最中に聞こえてくる、すぅすぅと隙間風のような寝息に手を翳してみると矢張り熱く、いてもたってもいられない。なぜか僕が苦悶に顔を歪ませながら、慎重にベッドから抜け出すと、眼鏡を掛けて『発熱 看病』で検索をかけた。ひとまずヒトの子供にするような対策をざっと把握し、冷蔵庫から取り出した飲み水をサイドテーブルに置き、洗面所で濡らしたタオルを王の額に乗せてみるが、未だに投薬を除いてこんなクラシカルな方法しかないのかとやきもきする。全人口の半数近くがBMI化している時代のくせ、もっと便利で手軽で効果のある方法が編み出されていないだなんて。
「冷却シートを探すか……」
 検索結果に出てきた商品のほうがタオルよりはマシだろうと、近くのコンビニや薬局の所在地を探すが、無い。勿論ロープウェイで街に下れば沢山あるが、それを入手する間に王をひとり置いていくのは流石に不安だ。先日の一件からしても、どうやら王は旧種の吸血鬼が率いるなんらかのグループに目を付けられているようで、それはあのアンダーソンとかいうコードネームの男も指摘していた。

「……ということで、奴らはリルファンちゃんの神性に目を付けた可能性がある。今やこの手の王種は残っていないからなぁ。取り敢えず一柱確保しておきたいというのは当然だろう」
 空腹を訴えた王に、どこからともなく運ばれてきた艾窩窩アイウォーウォーという雪玉のような見た目の菓子を与えたアンダーソンは、大きなひとくちでそれに齧り付く王を見て言った。昨今は旧種の破壊活動が活発化しているということをタブレット端末に表示したデータとともに説明してくれた直後のことだった。
「確かに、その視点を鑑みると謂れないとは言えませんが……ちょっと待って、リルファンちゃん?」
 主旨よりも先に耳慣れない呼称を指摘すると、彼は事も無げに頷いた。
「リトル・ファンディーちゃん。いやー、実際に見るととんでもなく可愛い顔をしているなぁ。するりと懐に入り込んでくるような可愛さだ。何歳でちゅか?」
 そもそも部外者である僕たちへの詳細な説明は濁すつもりでいるのか、はたまた王の可愛らしさにやられたのか、アンダーソンは王の前にしゃがみ込んで年齢を問うている。その背後で溜め息を吐いて肩を竦めているハリエットと目が合うと、彼は言った。
「このオッサン、孫がいるんだよ」
「ああ、それで」
 次代がいる個体は、自分より若く見える個体がみんな可愛く思える法則だ。
「むん!」
 口の周りをココナッツパウダー塗れにした王は、指を二本立ててなぜか得意げ。それを見て、アンダーソンは更に破顔する。
「にちゃいかあ」
「にちゃいじゃないねえ。……あと、さっき言ってた実際に見ると……ってどういう意味ですか。監視対象か何かになってる?」
 すると、彼はおやつを貰えてニコニコと笑顔でいる王の頭を撫でて言った。
「ああ、対象名『SERTS』……ニューヨークから出た時点で、キミたちふたりは監視及び保護対象なんだ」

……余計なことまで思い出してしまったが、彼らが遠征中の部隊であり、かつ僕たちを監視対象に含めているということは、僕たちが往く周辺地域の情報をいち早く入手している可能性がある。唸って横になったまま蹲り、タオルを落とした王の額にそれを再び戻しながら、「王、スマホ借りるよ」と控えめな声量で申し出ると「むん」といつもの相槌が聞こえた気がした。そしてなにか重大なブレイクスルーの予感に身震いをしながら、王のスマホを手に取り、ベランダに出る。
 霧を深く吸った緑の匂いが、どこか清涼感を肺にもたらすのを感じつつ、ロック画面に王とあの人の誕生日を入力してホーム画面へ。今まで通りデフォルトの壁紙を使っているのかと思いきや、想像に反して僕と王のツーショットの写真が設定されていた。そのことにどこか切なくなるのは、今僕が王のプライバシーを侵犯しているのだという後ろめたさがあるからだ。それからSNSアプリをタップして、友人一覧へ。三人しかいないその画面の一番上には先程の『woaini』が燦然と輝きを放ちながら鎮座している。小声で「ふへ」と喜びながら二番目の未読七件のパッチが付いている初期設定アイコンをタップし、相手のホームへ。そして通話マークを。
 悪いことはしていないが、悪いことをしている……その自覚からくる動悸に耳を澄ませていると、すぐに彼は通話に応じた。「お嬢ちゃん?」と、どこか甘い声がするのに、ジェラシーが突沸するのを感じながら、冷静になろうと鼻で息を吸った。
「そうわよ。お嬢ちゃんわよ」
「てめえ……!」瞬時に僕だと察したらしいハリエットが、怒気を帯びた声を上げた。「なんでお前がお嬢ちゃんのスマホ使ってんだよ」
「逆に僕がアンタと『お通話』したくて王のスマホ盗んだと思ってんの? 生憎だけど僕、男も女もイケるけどキミみたいなのはタイプじゃないんだ。ごめんね?」
「そうか、両想いだな?」
「きゃっ。うれしー。参考までに、どっちがタチ?」
「俺に決まってんだろうるせえな。そんなことより用件を言えよ」
「近くに同族を診られる医者がいるとかいう、耳より情報がないかなって」
 やっとのことで本題に到達すると、ハリエットは黙り込んでしまった。不審に思って「ハロー?」と呼びかけると、ごく真面目な声で「お嬢ちゃん、どこか悪いのか」と返された。
「……そうみたい。こんなの初めてだから、どうしたらいいか」
 すると、彼は僕らの現在地を問うてきた。ある程度は把握されているのではないかと怪訝に思いつつもホテルの住所を教えてやると、彼が恐らくその背後にいるらしい同僚に向かって「カイドウ先生今どこだ?」と呼び掛けているのが聞こえてくる。続けて知らない声で「どっちー?」と大声。「どっちでもいい」……「大カイドウはフランス。小カイドウはロサンゼルス」……チッ、とハリエットの舌打ち。
「黄山だろ? 待ってろ……」
 ストロークの浅そうなキーボードを叩く音に耳を澄ませていると、その沈黙を埋めようとしてくれているのか、彼は言った。
「ジャパーボエ?」
 耳慣れない言葉だ。
「なに?」
「メシ食ったか? って意味だ」
 咄嗟に検索すると、それは台湾語だった。
「パンダさんのミルクプリンとちっちゃい月餅を二枚食べたよ」
「足りねえな。ちゃんと食えよ。やっぱり料理ってのは精神衛生的にいいからな。持論だが」
「……同感」
 僕もかつて、料理というものに救われた身だ。その持論には大いに頷ける。
「どうせお嬢ちゃんのスマホ弄るのに罪悪感抱きながら嫌々俺に連絡してきたんだろ。ヤなこと率先してやるところには敬意を表するよ。偉いなお前」
 出し抜けにそんなことを言われて、僅かながらも彼への評価を改めたくなる。しかしホームディフェンスの恋敵という立場からしてそれを口にはできなくて。
「……は、もっと褒めろし」
 ぶっきらぼうにそう要請すると、彼は「ヤダし」と即答した。そして何か情報が手に入ったのか「ラドレ」と僕の名で呼び掛けてくる。
「……お前、仙境にいてよかったな。近くに神医と呼ばれた仙人がいるぞ」
「それってもしかして……」
「そうだ。中国三大ハイパージジイのうちのひとりだ」
 そんな不敬なことを言って、ハリエットは僕の連絡先を要求してきた。指先へのキスはなく、六秒間の見つめ合いもない、ただぶっきらぼうな態度で。

 幻想的な雲海の只中、ブーツに履き替えて来れば良かったな、とぼんやり考えながら心拍に従って息を切らす。革靴が踏み締めるのは花崗岩の固い肌。水気を帯びた空気が上着をしっとりと肌に張り付かせ、辺りに満ち満ちている濃い緑の香りが肺をざわめかせる仙境、黄山。
「黄山を見ずして、山を見たというなかれ」という言葉があるように、これこそが空に最も近い自然の頂だと云う説得力がある。
 詩にしたためたいような捻れ松。何度視界に入ろうと、都度新鮮に胸を打つ雲海。個性的に聳える花崗岩。時折近くに感じる生物の躍動は、この地に生きる人々にとっての貴重なタンパク源なのだと腑に落ちる。そういえばホテルの部屋に置いてあった観光者向けパンフレットには安徽料理の主な食材として、スッポン、カエル、キョン、ハクビシンなどが記されていた。是非ともハクビシンを食べてあのいけ好かないブックシーフに感想を伝えてやりたいところだが、今は後回しだ。
 こんな極地であるのに、人の手は深部にまで渡っている。舗装された道を存分に頼り、案内板を拝し、観光客の集団の脇をすり抜けていけば、事前にハリエットから指定されていた、枝に中国結ジョングオジエの掛かった捻れ松が見えてきた。辺りに人がいないか確認して、切り立った峰に生えているそれに向かって道を逸れて行く。そしてその松の落とす影に入った途端、肌に触れる空気の温度が変わった。暖かいが暑くはなく、多少動き回っても汗をかかないくらいの心地よい気温。風でも吹けば最高に気持ちが良いに違いない……と思った途端、涼風。その瞬間に足元で靡く雲を認め、はっと顔を上げると僕は雲海に立っていた。
 薄明の柔らかなオレンジ色の天。水平線には淡い太陽のかがよい。そして、凄味ある年輪の捻れ松。その下に、石造りの茶卓と人影が見えたので、近付いていく。脛の当たりに感じる雲海の流動は心地好く、つい足で遊びそうになるのを堪えて雲を踏み分け踏み分け歩いていくと、茶卓にいるのは老人だということが見て取れた。ヒトの年齢がよく分からない時代になったものの、仙人のイメージそのままの姿をしているのだから真っ当に老人なのだろう。どう声を掛けたらいいものか少し迷ったが「打擾了ダーラオラ(お邪魔します)」と呼び掛けてみる。すると老人は見た目通りに嗄れた、しかしよく通る声で「此方へ」と僕を彼の対面の席へと促してきた。それに従い、席に着く。
「こんな辺鄙な場所に客人とは珍しい。名は?」
「ラドレと申します」
「拉德蕾くんか。徳の蕾を引く……良い名だ」
 名前に何やら字を当て嵌められたことを察しながらも、指摘はせずに切り出す。
「失礼を承知でお訊ねしますが、貴方はかの有名な神医、華蛇……先生でいらっしゃいますか」
「如何にも。そう問うてきたということは、君は儂の医術を求めてやってきたということだな」
 まるで、古典のようなやり取りだ……そんなことを考えていると、目の前に置いてあったティーポット……茶壷が宙に浮いた。そして茶海とと呼ばれる注ぎ口のついた容器に、茶が注がれていく。そちらに意識を取られながらも「はい」と答えると、彼は掌で動き回る茶器を指した。
「君の顔色も悪いな。先ずは茶で身体を温めるといい」
 そう言われて、再び茶器に視線を戻す。殆ど黄色に近い淡緑の茶は、茶海から聞香杯へ注ぎ直され、そこに茶杯が被さり杯ごとひっくり返されたと思えば、目の前に移動してきた。まるで茶器が動いているのではなく、茶そのものに意思があるかのような挙動である。この国のお茶の作法は込み入っていて難しいからこそ、覚えておこうと練習をしていたことが幸いした。茶杯の上の聞香杯を取り上げ、その香りを鼻で吸い込むと、蘭のような香り。そして、茶杯に持ち替えてひとくち。すっきりとした口当たりだが、喉を通ると鼻腔でふくよかに香る。胃に落ちた熱が二の腕の裏辺りから全身に伝播していくのを感じながら「美味しいですね」と感想を伝えれば、仙人は「この土地の茶はいつの時代も美味い」と嬉しそうに微笑んだ。
「それで、患者のことを聞かせてくれるか。この山道を歩いてきたのなら君のことではないだろう」
 そう促され、どこから話すべきかと悩んだ末に、今朝のことから説明する。我が王が朝からぼんやりしていたこと。それは普段のことではあるが、数日前から妙に気になっていたこと。熱があること。初めて泣いたこと……。
「その、王種の子なので、こんな病気みたいなことは今までなくて……」
「王種か。それは珍しい。形態は?」
「ヤギです。成体なんですけど、まだちいさいというか、幼いところがあるというか」
「性別は?」
「女性体と聞いていますが、生殖ではオスに近い方法を取ります。外付けの槍に似た器官……蠍の終体のようなものが背中側から生えるかたちで」
 そこで、彼は茶杯に落としていた視線を上げた。
「……直接みせてくれないか。気になることがある」
「それは……ええ、勿論です」
「儂は準備をしてから向かう。……君には申し訳ないが、帰路でなにか彼女のために温かいスープ料理を買っていくのがいいだろう。そうさな……黄山炖鴿ファンシャンドゥングーなんかはどうだ」
 そう言って、彼は僕の額に手を翳した。すると途端に柔らかく崩壊していく視界。この感覚は、あの人のいる夢の中に似ている……と感じながら流れに身を任せていると、いつのまにか先程の捻れ松の根元に座り込んでいた。立ち上がって土を払い、来た道を戻る。

 ハリエットがホテル周辺の人の出入りを見ていてくれているらしいので、飲食店を探してひと思いに山を降った。麓の街の飲食店を何軒も覗き込み、薬膳料理らしきものがないことに何度も肩を落として疲弊した視界に、山麓で逞しく生きる人々の美しい生活が瑞々しく映る。軒先の笊に干された色とりどりの食材や生薬は、色彩に乏しい家々や山肌の中で、香るような彩りを見せる。その色彩の象徴するところが労働と生活だと気づいたとき、それはより一層目に鮮やかだ。王が元気になったらまた来よう……そう決めて、先を急ぐ。
「鳩……捕まえるか? 締めて煮込めばいけるか……?」
 まったくの空振りを繰り返しているうちに心折れそうになり、スマートグラスで『黄山炖鴿 レシピ』と検索をかけていると、頭の上に大きな笊を乗せて歩いている十代半ばと思しき少女が「どうしたの?」と声を掛けてきた。親切なその少女に合わせて中国語で「黄山炖鴿はどこで?」と訊ねてみると、彼女は少し考え込むような素振りを見せたあと「おばあちゃんなら作れるよ!」と僕に笑顔を向けた。
 懐っこくて強引なその少女に連れられて、古民家の軒先へと近付くと、玄関前の広い空間に、干した大量の茶葉の具合を見て回っている老婆の姿があった。日に焼けてしわくちゃの顔に、若かりし頃の美貌を覗かせたそのちいさな老婆は、僕を見上げると「美周郎みたいな男の子だねえ」と、孫と同じく警戒心のない声を上げた。彼女の前にしゃがみ込んで目線を合わせ、挨拶をする。
「へへ、かっこいいでしょ! このお兄さんね、黄山炖鴿が欲しいんだって。なんだか奥さんが具合悪いみたいで」
 道中『奥さん』とは説明しなかった筈だが、少女はそう捉えたらしい。特に否定せずにいると、老婆は「そうかいそうかい」と二度頷くと、孫に「裏庭の鳩を締めてきておくれ」と指示を出した。
「締め……、えっ……できるの?」
 慌てて少女に問うと、彼女は「できるよ!」と朗らかに返事をすると「待っててねー!」と走って行ってしまった。その無邪気で活発な様子に、王の姿が重なって、はやくよくしてやりたい気持ちが高まる。
「動物を締めることくらい、日常さ。あの子にも八つの歳からやらせてるよ。それが生きるってことだからねえ」
 そういえば、僕は食べるために自ら生き物を締めた経験がないような気がする。かつて王の前に生贄を運んだり引き摺ったりもしていたが、実際に殺すのは王だった。僕は食事のために手を汚したことがない。
 少しして、少女が動きのない鳩を手にぶら下げて戻ってきた。そして眩い笑顔を僕に向け「奥さんはやくよくなるといいね!」と言いながら雨水を溜めているであろう桶で手を洗うと、茶葉を移し替えて空になった笊を手に仕事に戻って行ってしまった。その背中に向かって「ありがとう!」と叫ぶ。
「よし。じゃあこれから作り始めるけど……煮込み料理だから時間が掛かるよ。待っているかい?」
 それはそうだ。この地域の煮込みはとろ火でじっくりと旨味を抽出するものが多いと聞いている。人間であれば待つのは無難だが、僕の足なら王の様子を見てくることもできる筈だ。
「ちょっと妻の様子を見てきます。必ず取りに来ますので……」
 そう断りを入れながら懐から財布を取り出すと、老婆はそれを手で制してきた。
「嫁さんの具合が悪いなら入り用だろう。兄さん、観光客だね? 帰りにでも茶葉を買って行ってくれればいいさ。さて、取り掛かろうかね」
 そんな優しい老婆の背中に心を込めて礼を言うと、彼女は長い袖を捲って力瘤を作るポーズを見せてくれた。元気なおばあちゃんだな……と気の緩んだ視界に、露わになったその両腕が映り、はっと息を飲む。金属でできた義肢だ。鈍い鉄の輝きを放ち、機械音を発して大いにやる気を漲らせたそれは、旧型だがまだまだ現役のようだった。
「えー、かっこいー……」
 思わずそう口にすると、彼女は「まだ若いモンには負けんよ」と快活に笑った。

 急ぎ山道を戻り、登り、息を切らす。最大限急いでいる僕の姿は、傍目には瞬間移動を繰り返しているようで、楽に見えるのかもしれないが、流石に山道の往復は辛い。しかもしばらく王からは魔力の供給を見込めないことを思うと、更に辛い。しかし克己心を燃え上がらせながら、ロープウェイから見えない場所を選び、人通りがゼロと言える斜面を、獣形態でぐんぐんと進む。ロングコートに絡まる枯葉。肉球と爪に痛い岩肌。山頂に近づくほど、疲労からバランスを崩すようになり、何度も急斜面を転がり落ちた。しかし痛くなんかない。僕は王の騎士だからだ。
 ぜえはあ。ひゅうひゅう。過酷だあー! と心の内で叫びながら聖山を登る、登る、登り終える。やっとの思いで人工の石畳の敷かれた区域に転がり出ると、人型形態に戻って身体の汚れを払いながらホテルを目指した。
 フロントにいた従業員らに不審な目で見られながらエレベーターで部屋に戻ると、扉を開けた先にはあの仙人がいた。助手なのか看護師なのか、目付きの鋭い美女も傍に控えている。
「おお、儂も今着いたところだ。……なんだ、ボロボロではないか」
「黄山炖鴿をさがして……三千里……いや、三千里は嘘ですけど、麓まで行きました」
 外とは打って変わって急激にあたたかい部屋の空気に咳き込みながら、そう答える。
「なんと。それは……本当に申し訳ない。あればいい、くらいに思っていたのだが……」
「いいんですよ。いい出会いがありましたし」
 すると、彼の隣に控えていた女が濡れたタオルを手渡してきてくれたので、手を拭きながら礼を言う。黒と白のツートンカラーの長髪を高く結った臉譜の鋭い彼女は、無言で僕の手に消毒液を吹き掛けてきた。それを両手に揉み込んでいると、仙人は言った。
「この子はコウノトリのセンランだ。今はカイドウ医師に師事している婦人科志望でな。急遽来てもらった」
「ああ、てっきり仙鶴の方かと……って、婦人科?」
 仙鶴であればヌンチャク・パンダ好きの王が喜ぶと思ったのだが、そんなことよりもまさかのプロフィールに目を剥いてしまう。
「儂も万が一……と思って呼んだのだが、この懸念は的中しているようだな」
 そう言って、彼はベッドの上でうんうんと唸っている王に近付くと「失礼」と声を掛けてから布団を剥いだ。
 王の下半身は、血に塗れていた。
 あまりにも訳が分からない状態に「イヤーッ!」と野太い声で叫んでしまう。すると傍らのコウノトリから「うるさい」と見事な平手打ちが入り、「すみません!」と頬を押さえながら咄嗟に謝る。僕は王の血なんて一二度ほどしか見たことがないのだ。激しく動揺もする。
「びょ、びょ、びょ、病気ですか……」
 笑えるほど震えた声が漏れたと思えば、再びコウノトリから「しっかりせえ!」と苛烈なビンタが入った。ただでさえ疲弊しているのに、どうして二度も打たれなくてはならないのか……理不尽に思いつつ、センランを宥めている仙人に縋り付く。もう半分くらい腰が抜けていた。
「安心しなさい、拉德蕾くん。病気ではない」
 王の下腹部に手を充てていた彼は、僕を振り返る。
「初潮だ。かなり遅かったようだな」
 その言葉に、頭の中が綺麗に真っ白になった。いや、宇宙になったのかもしれない。とにかくぽかんとしている僕の背中に「なんで念頭にないんだよ」とセンランが吐き捨てているのが聞こえる。
「まぁまぁセンラン……これにはきっと複雑な事情がある。……心当たりはあるかな? お嬢ちゃん」
 すると、いつの間にか目を覚ましていたらしい王が、口を開いた。
「……兄様を、喰らった、からですね?」
 今にも消えてしまいそうなほど、細い声だった。
「……双子か」
「はい。兄の権能は、いくつか引き継がれている実感はありました。男性体でありながら子を生むことのできる兄の機能が、女性体であるわたくしに発現した結果が『これ』なのでしょう……ちがいますか?」
 王の態度は、存外に冷静だった。
「双子でうまれるはずのなかったものが、ふたたびひとつになっただけのことです。少し遅かったようですが……予感はありましたし、受け容れましょう」
 そう言って王は呻きながら起き上がると、無理して笑ったようだ。その笑顔が辛くて、咄嗟にベッドに乗り上げそのちいさな頭を抱き締めると、王はすんと鼻を鳴らして「風と土の匂いがします」と、もごもご呟いた。

 僕はその存在を知らなかった。
 呑気な僕は、未来の王になる予定の、白い王子様と幸せに暮らしていた。僕の仕えるべき王はこの人だと、すべてを投げ打つほどの思慕を募らせ、燃え上がるような恋をした。幸せだった。死ぬほど幸せだった。しかし王子様はいつもさみしそうに笑っていて、それが唯一の気掛かりではあった。
 とある日、僕は偶然にも内々で『第二位』と呼ばれていた存在のことを知った。王位継承権第二位……それはちいさく痩せ細った、もうひとりの王子様だった。地下室に閉じ込められていたその少女体の王子は、ろくに栄養も摂らせて貰えず、今にも掻き消えそうなほど痩せ細っており、その状態で何年も何年も過ごしていたのだろう。つめたい床に横たわったまま、なにか星を見上げるような、すきとおった睛で僕を……。
「きれい」
 ちいさな声。
 少女は、名乗りはしなかった。
 でもそれだけで、僕の心を烈しく揺さぶった。
 その儚くうつくしい生き物は、即位を経て成体へと羽化する王子様を、完全体とするために捧げられる……生贄、だった。
 そしてのちに、この痩せ細った少女が玉座の前に引き摺り出されることになる。兄王子が、戴冠を目前に死んだのだ。

「……骨盤がかなりちいさいな。子供のままと言ってもいい」
 仙人の声で、我に帰った。
「成長しますか」と期待を口にする。王の身体は、傍目には怖いくらいに未熟なのだ。
「それは……望み薄だな。もうとっくに成体ではあるようだしな。しかしこれのせいで月の障りは重くなるだろう。周期も人間と同じではあるまい。経過観察が必要だ」
 確かにその通りである。僕にその知識がない時点で、もう経過観察をすることでしか王の玉体については測れない。それから、少し迷ったのち、口を開く。
「あの……その、つまり、王は子どもを胎で『も』作れるようになったということ、で合ってますよね? なら、ここぞというとき以外は避妊をすべきですよね?」
 真剣に訊ねたつもりだったが、またしてもセンランに後頭部を叩かれた。
「デリカシーがないな!」
「デリカシーはあるでしょ!」
 ぎゃいぎゃいと口論を開始する僕とセンランに向かって「どうどう」と笑顔で宥める素振りを見せた神医は、僕の問いには答えずに王になにか目配せをしたようだった。すると王は「必要はありませんよ」と言って僕から離れる。そして、
「おまえとのあいだに、子はできませんから」
 と、どこか冷たく言い放って、瞼を閉じた。
「……なんで? 僕、あの人と子ども作れたはずなんだし……王もあの人の機能が使えるようになったんならできるんじゃないの? 僕、王との子ども、欲しいよ……」
 縋るように王を見る。だが、王は目を瞑ったまま、僕の視線に応えてはくれない。それどころか、
「ふむ。この際説明してしまいましょう」
 と言って、僕を更に突き放すつもりなのか、平然とした態度で口をすらすらと動かしはじめた。
「わたくしが外付けの生殖器で交尾した相手を母体に書き換えるように、兄様は交尾をした相手を雌雄問わず雄役に固定できます。なので兄様と交尾をしたお前は、わたくしの生殖機能と絶望的に相性が悪く、子を成せません。これが一応、お前を花嫁に選べない大義名分です。勿論知っていますね。次に行きます」
 完全に他人事の風情。興味がないというよりは、どこか酷薄な色すら感じるその挙措に身を凍らせていると、なにかを覚悟するかのようなか細さで、すう、と息を吸う音がした。直後、閉じていた目を開けた王は、いっそグロテスクなほど美しく微笑んだ。ふっ、と空を切る冷笑の声が、薄暗く響く。
「さきほど説明したのが、前提条件です。重要なのはここから……王種と主従の契約をした従者は、形式上は貞操を捧げることになるため、基本的に主君と以外は子を成すことができなくなります。また、これを利用して外で安全に避妊ができます。便利ですね。やったね!」
 両手でコミカルにサムズアップをする王は、それでも言葉に心を乗せていない。目に感情がない。そこにはただ原稿を棒読みにしているかのような、不自然さと不気味さがある。
「これを踏まえて、おまえは兄様同様、わたくしとも子を成せる契約でありながらも、生殖機能の相性の問題で今まで子を成せない状態だと思っていた……そうですね? そうでしょう。わたくしも敢えて詳細を伝えませんでしたから、そう思っていて貰わないと困る」
 そこまでを無機質に言い切ると、次に王は「でも本質は……」と切り出しかけて、一瞬黙った。次に「そうではなくて」と繋いだ声は先程と打って変わって不安げに震えていて、言いたくないことを言おうとしているのだということが窺えた。
 言わなくていい、と言いたかった。辛いことなら言わなくていいと。しかし、きっとそれは僕が聞くべきことであるに違いなくて。
 王は覚悟を決めたのか、表情筋を僅かに持ち上げ始めた。この笑顔の予感は、嘘の笑顔の予告だ。
「……おまえは、兄様との契約が切れていないのです」
 そして企業の広告塔かののように麗しい笑顔で告げられたのは、僕でさえ知らなかった事実で。
「今はわたくしとのものも含めた二重契約になっていますが、主従の契約上、優先されるのは先に契約した兄様とのもの。よって、兄様とは子を成せても、わたくしとはできないのです。だからわたくしとは、かたちだけなのですよ。……おまえはいまでも、兄様のものなのです」
 つまり『王に子宮を使った妊娠能力がなかった』だとか『僕に前の主人の能力の名残りがあった』だとかは後付けの、わりとどうでもいい理由でしかなく、僕が王の花嫁になれないのは『二重契約』だったからなのだ。
 僕は勝手に、王に対して雄に近い能力を有したそういう生き物なのだと解釈していたし、二重契約については、そうなっている自覚もなかったため基本知識に準じて通常の契約として捉えていた。僕は王の花嫁になれない。でも生涯の伴侶になれればと。
 だから王が初潮を迎えたと、妊娠能力があると知った途端、浮き足立ってしまった。子宮が使えるなら僕との子どもも夢じゃないと、結果として最低のぬか喜びをした。それについてはこれから心底反省するつもりだ。しかし、それよりも重要な問題が、今ここにある。
 王が『かたちだけの契約であることについてなにも言わずにいてくれた』ことだ。
 王に名を呼んでほしいできごとが、今までにたくさんあった。主従の契約ならば繋がっているはずだと。しかし一度たりとも呼んで貰えておらず、ともすると僕が未熟ゆえに頼りにされていないのだと思い込んでいたのだが、もしかするとただ単に僕には聞こえていなかっただけなのかも知れない。……僕が、あの人のものだから。
 ただただ、愕然とする。あの人と王との能力差を知っていたはずなのに、その性や交わした契約について掘り下げて考察してこなかった、その浅はかさに。どこまでも王を都合よく捉えていたこの偏見に。真実を知ってから今までのこの数十秒で、何度も何度も、愕然とする。
「だから、わたくしとの子どもが欲しいだなんて、滅多なことは考えないでください。わたくしは、弁えています。割り切っています。おまえと兄様を、今でも……」
「……僕、ずっと王のこと傷つけてきたってこと?」
 割り込むように発してしまった言葉は、存外に響いた。
「王、さみしかったんじゃないの。だって、こんなの……僕もあの人も、王のそばにいなかったのと同じじゃん」
 王の喉が、くっ、と鳴ったのが聞こえた。
「あの人、夢のなかで言ってたよ。あの子はさみしがりやだって。さみしんぼのくせになんで我慢しちゃったの。もっと気持ち言いなよ。僕もさみしいよ。ちいさいとき、あの人を捜してぴーぴー泣いてたんでしょ。ぴーぴー泣きなよ。言ってくれないと、泣いてくれないと、わかんないよ。僕、王が可愛く笑ってると、笑ってるって、思っちゃうから……」
 堪えていた涙がこぼれそうになる。本当によく泣く従者だなぁ、と情けなく自覚しながら、ぎりぎりまでこぼすまいと洟をすする。王は、そんな僕を見あげる眼差しを星のように瞬かせると「言っていいですか」と唇の端で漏らした。
「……どうぞ」
「おなか、つらい、です」
 王は青い顔をしていた。
「わっ、わ、そうだよね! そうだよね! わーっ! 血が、血が出てるんだもんね! わーっ!」
 再びパニックに陥る僕の側頭部を「やかましい!」とどついたセンランが、脇から身を乗り出して王の身体を抱えた。そして「身体を洗って、それから生理用品について説明します」と言うので、ごく真面目に「そうだよね! お願いします! 野郎は大人しくしてます!」と答える。すると、
「アンタも来て勉強するんだよ!」
 言葉の礫で殴られた。まったくもって、正しいご指摘である。

 バスルームで王の身体を洗ってやり、それから新しい下着とネグリジェに着替えさせてやったあと、生理用品諸々の使用法や注意事項について説明を受ける。仙人が彼女を連れて来たのはこのためか……と思いながら床に正座をして聞いていると、ソファの上から王が両手を伸ばして来たので隣に座って抱き締めてやる。体温は、未だに高い。
「そこ! イチャイチャしてもいいけど真面目に聞きなさい!」
 センランに叱られ「はい先生」と返事をすると、彼女は途端に縮こまり「まだ……先生では、ないんですけど」としおらしくなった。この様子からして、順風満帆な医師見習い生活ではないらしい。
「もう少し態度が柔らかくなってくれると嬉しいんだがな」
 窓から外を眺めていた神医のアドバイスに、センランはかっと赤面し、上擦った声で「努力します」と呟くと、咳払いを挟み、レクチャーを再開してくれた。それを真面目に聞きながら、今まで出会ってきた女の子たちにも皆こんな体験をしているのだなあ、と感じ入る。もしかしたら僕は無意識に冷たいことをしてしまったり、言ってしまったりしていたのかもしれない。そのことを恥入りながらも、どこかで身に覚えがないと感じているうちは、反省しても無意味だと意識を切り替える。今度、もし、辛そうな子がいたら。助けを求められたら。そのときに手助けをしてあげることでしか、自覚なき過去の罪は償えないのだ。
 優しい神医と苛烈なコウノトリが帰ったあと、ひとまず王を僕の上着類で包んでソファに横にならせる。むんむんと小声で唸っているところからして、王のそれはほんとうに重そうだった。王は外傷に対してはケロッとしていることが多いが、どうやら内部の痛みにはそこまで強いわけではないらしい。そのことについては、王との初夜に実感してはいたのだが、今回で再確認する。僕は王の神経を波立たせないようそっと血塗れのシーツを剥ぐと、それを毛布と布団と一緒に抱えて「ちょっと取り換えてもらってくるね」と部屋を出た。
 そしてリネン室で作業をしていた女性清掃員に「すみません、その、汚してしまって……」と少しむずむずする心地で謝罪すると「あー、奥さん? こういうのは気にしないでいいのよ。そこ入れといてください」と空のランドリーバスケットを指されたので、言われた通りにする。なるほど、女性体はこんな恥ずかしさや、消え入りたいような心地になる可能性と日々隣り合わせなのか。少しだけ解像度の上がった世界は相変わらずの薄暗さだが、きっと明るいところに出れば明るいに違いない。
「どの部屋? ああ、角の。分かりました。替えは部屋の前に置いておきますよ」
「お願いします」
 リネン室を後にして向かったのは、ラウンジだ。半日前に王が座っていた席に腰を下ろして、ガラス張りの中庭を眺めながら、懐に入れていたスマホを取り出す。そして意を決し、今朝方手に入れたばかりの連絡先に発信した。表示名はオオカミの絵文字一字。可愛げがあるようなないような、そっけないアカウント名だ。そして、コールが一、二、三回……「なんだよ」と不機嫌な声。
「さっきはどうもありがとう」
 まずは素直に礼を言う。
「ん。お嬢ちゃんは?」
 ハリエットの声は穏やかだった。おそらくこの男は、じつのところかなり優しいに違いないが、それを素直に受け取るには、今の僕たちの関係性が邪魔をする。もっと別のかたちで出会って、友だちになれたらよかったのに……そんなことを思いながら、口を開く。
「……そのご報告に伴いお願いがありまして」
「ん。聞くだけ聞く」
「ドローン飛ばしてるでしょ」
 外にいる間、ずっと近くに感じていた違和感について口にすると、ハリエットは少しの沈黙のあと「そうだ」と肯定した。
「別にいいんだけどさ。……それを使って、麓の村からあるものを取ってきて欲しいんだ」
「なんだ?」
「黄山炖鴿。座標は今送る。めっちゃカッコいいおばあちゃんがいるから、括り付けて貰って。重いかもしれないけど、ヤワな機材使ってないんでしょ?」
「黄山炖鴿? ……ああ、今調べた。ハトの煮込みか。わかった。お嬢ちゃん、内臓でも悪いのか?」
 その問いには、別のお願いで答える。
「……あと、生理用ナプキンを……とりあえず三パックくらいお願いしたいんですけど……いい?」
 僕がそう言った瞬間、ハリエットが息を飲んだのが聞こえた。彼も彼で混乱しているらしいが、すぐに取り繕うような咳払いが聞こえて「わかった。用意する」となんでもないふうに装っていることが明らかな声がした。
「お前、祝うなよ? 絶対に」
「祝うわけないでしょ。僕、デリカシーあるし」
 そして、これは真剣なお願いなんだけど、と続ける。
「もし。……もし今後、アンタが王と……そういう、ことを……することになった場合、避妊はちゃんとして欲しい」
 ひとり苦虫を何匹も噛み潰したような顔になりながら、命からがらの心地でそう絞り出すと、スマホの向こうで狼は笑った。
「はっ。なんだそれ。当たり前だろ。デリカシーないな、お前」
「は? デリカシーある発言なんですけど?」
「ないだろどう考えても」
「少なくともアンタよりはあるよ。セックス中にピコンピコンスマホ鳴らしてくるアンタより」
「あ? それは着眼点が間違ってるだろ。お前が四六時中盛ってるからそう感じるんだ」
「王となにやりとりしてんの? エッチな写真?」
「スマホ見たなら知ってるだろ?」
「ならエッチな写真だ」
「そうだな、エッチな写真だな」
 お互い笑いながら、通話を切る。口の端に残った笑みを敢えて残したまま、もう一度中庭に視線を向けると、木斛もっこくの枝に遊ぶ鳩の姿。熟れはじめた実を啄みながら、丸々とした身体でバランスを取っている姿は、確かにずっと見ていたくなる。きっと王も、これを見ていたのだろう。

 部屋に戻ると、王はソファで寝こけていた。起こさないよう気をつけながら新しいリネン類をセットし、清潔な皺を西日に照りつかせているベッドに再び王を運ぶ。やっぱり腰が辛いのだろうかと薄い枕を骨盤の下にいれてやると、ふと聞こえてきた「にいさまあのね……」という幼気な寝言に胸を突かれ、むしゃくしゃするのに似た愛おしさを感じてそのちいさな頭を撫でた。シャワーはひとりで浴びた。
 あのね……と王はあの人になにを話したのだろう。具合が悪いことだろうか。それとも、身体が変わってしまったことだろうか。或いは、鳩の話かもしれない。どんな話でも、あの人は可愛い妹の目を見て「うん、うん」と優しく相槌を打つのだろう。
 着替えて王の隣に横になると、頬杖を突いてその寝顔を見つめる。初潮を迎えて大人になった、という表現は妥当ではなく、元々大人ではあったところに別途機能が追加されたというのがただしい。今までとなんら変わらない……と思いたいところだが、流石に痛くて辛い要素が発現したとなると、どうしても「労りたい」という身勝手な意欲が湧きもする。指の背でもごもごと動いている柔い頬を撫ぜれば、途端にぎゅっと眉根が寄って険しい顔。次いで「むん」といつもの鳴き声。可愛くて、声を堪えて笑っていると、ふと静音設計がされているであろうプロペラの音がして起き上がる。見れば黒くてシャープなデザインのドローンが、そのボディに似つかわしくない大荷物を括り付けられベランダに浮いている。
「早いな」
 呟きながらベッドから降り、窓を開けてやるとそれは滑らかな動きで室内に入ってきた。操縦はAIが担当しているのだろうか、テーブルの上に荷物を置くような体勢になり、「ピピッ」と電子音を発したので、近付いて荷を解いてやる。すると重荷から解放されたドローンは僕に見向きもせず、ベッドで眠る王の元に飛んでいき、じっと動かなくなった。
「……寝顔見てんじゃねーよ」
 おそらくハリエットがカメラ越しにモニタリングしているのだろう。思わずじっとりとした声で指摘すると、僕のスマホに「うるせえ」とポップアップ。「夜這いじゃん」と送り返す。そんな僕らのやりとりは無言のものであったはずだが、どうやらその内なる騒がしさで王を起こしてしまったらしい。「むあ」と甘ったるい声がしたと思ったら、上体を起こした王がぐんと伸びをしているところだった。そしてすぐに頭上をホバリングしているドローンを発見し「かっくいい飛行機です!」と目を輝かせて猫のように飛び付いた。
「ああー! ダメ! 王ちゃんダメだよ!」
 僕の叫びも虚しく、王は見事にドローンを捕獲すると、嬉しそうにその機体をぐるぐる回して検め始めた。スマホには「どうしたらいいんだこれ」とメッセージ。「任せて」と返して王に近付くと、ベッド脇で膝を折った。
「王、これはね、ハリエットのものなんだ」
 そう語り掛けると、王の狩猟モードで開いていた瞳孔が柔らかい動きで元に戻った。
「むん? ハリエットさんはどこにいるのですか?」
 ハリエット「さん」だと? ……そこに衝撃を受け、僅かに動揺を表に出してしまうが、顔面だけでも真面目に取り繕うと、王の腕の中で「ピーピー」と不安そうに鳴いているドローンの、カメラ部分を指差した。
「ここから見てる」
 そう教えながら、そのカメラが向いているのが王のネグリジェの胸元であることに気づいて、ちいさく「殺すぞ」と呟くと、そのたゆんだ胸元の布を引き上げて谷間を隠した。
「カメラ、ということですか?」
「そうだよ。ほら、挨拶してあげて」
 すると王はカメラに向かって「ニィハオ」ときらきら手を振った。そして少し考えるような素振りを見せて「シュエシュエ」「ハオチー」「ハオフー」「ワンシャンハオ」「ゲイウォーマイ」と、自慢のつもりなのか覚えた中国語を幾つか並べ立てると、最後に、
「ウォーアイニー」
 と、可愛らしく首を傾げた。
「はいいいい?」
 突沸するかのように、異議を唱える素っ頓狂な声が出た。王は僕の気など知ったこっちゃない呑気さで、ニコニコとカメラに向かってピースやらなんやらとポーズを決め続けている。カメラの向こうでニヤニヤ笑っているか、或いは勃起の予感に硬直しているであろうハリエットの姿を想像するだけで殺意がぶわりと巻き起こるが、王に悪気はないことはわかりきっているので、特になんの指摘もできない。
「王、僕は? 僕はウォーアイニー?」
「ウォアィニ」
「なんでちょっと適当なの?」
 縋り付いた王の反応が薄いことが不服で、その頬を両手で揉みくちゃにしていると、王の膝の上から呆れた様子でドローンが浮き上がった。そしてゆっくりと窓へ向かうその最新鋭のフォルムをした機体に王は、
「ザイジエン!」
 ときらきら手を振る。すると可動式のカメラが王に向き、ドローンから「ピッピッ」と鳴き声。僕は少し迷ったあと、「シュエシュエ」と手を振った。「ピピ」と軽い返事。
「なんでちょっと適当なんだよ」
 いそいそと飛び去ったドローンが墜落しないか、目に見える範囲で見送ったあと、腹にぎゅうと抱き着いてきた王を抱き上げてソファに下ろす。トランクから出した僕のカーディガンを王に羽織らせ、膝にブランケットを掛けて、それからテーブルの上の、底の深いポットを包んでいるであろう風呂敷を解くと、中からシンプルなデザインの土鍋が現れた。その上になにやら畳んだメモ用紙が置いてあったので開いてみると「奥さんが元気になりますように!」と可愛らしい字で一筆認めてある。その余白にはチャック付きの小さな保存袋が貼り付けられており、中に入っているのは押し花かと思いつつ灯りに透かしてみると、どうやら茶葉のようだった。
「それはなんですか?」
「……寝る前に話してあげるよ」
 畳んだ手紙は大事に取っておこうと、ひとまず財布の中に入れ、入れ違いで取り出したハンカチで土鍋の蓋を掴む。土鍋とは優秀なもので、長距離を移動してもまだ熱い。
「わぁ、スープですか?」
 まず王が嬉しそうな声を上げた。
 湯気に曇った眼鏡の弦をタップし、曇り取り機能を選択して視界を晴れさせると、そこには黄色い脂の美しいスープがたっぷりと入っていた。丸ごと鎮座する鳩は、ひっそりと目を閉じてはいるものの視覚的インパクトがある。大きめにスライスされて沈んでいる白い野菜は、先程レシピを検索した際に材料として出てきた山芋だろう。彩りの青菜とクコの実は、「怖くないよ、料理だよ」と主張する役割を担い、衝撃的な部分を中和する安心感を添えてくれている。
「鳥さんは誰ですか?」
「ハトさんだよ」
「ふむ。ハトさん……食べてもいいんですね?」
「そこらへんを飛んでるのを勝手に取るのはダメですよ? あと、生はダメ」
 王の認識を微調整しながら、ご丁寧にも付属していた夫婦椀にスープとほぐした鳩身を盛り付ける。それをレンゲとともに王の前に出してやると、王はのそのそとソファの座面を這って僕の腕の中に潜り込んできた。
「なになに、どうしたの」
 王は僕の肩に額を擦りつけると、僕を見上げて「あ」と口を開けた。食わせろと言いたいらしい。
「……今日は甘えん坊さんですね?」
 ついこの間の獣形態での散歩中に言われたのと同じ言葉を口にすると、王はその鋭い剣歯をきらめかせながら言い返してきた。
「あ、ってしないと、わからないのでしょう」
 確かに、さみしいなら泣くなり伝えるなりしてくれとは言ったが、それはそれだ。
「それはさぁ……そういう意味じゃないじゃん。そういう意味だけど」
「だって、今日は甘えたいのです。おまえも甘えていいと言いました。今はなんだかおなかがぐらぐらしていて、今日も、明日も、明後日も甘えたい感じがします」
 そんなことを訴えられて、椀とレンゲを手に取らないわけにはいかない。細く溜め息を吐きながら、更に細かくほぐした肉とスープを王の口元に運んでやると、こつん、とレンゲが牙に当たる音がした。
「どう?」
「きれいな味がします」
 きれいな味とは。雑味がないとかそういうことだろうか。ふたくち目を口に流し込んでやり、離乳食を食べる赤子のように口を三角に尖らせている王の頬をつついてから、自分もひとくち食べてみた。
「……確かに、きれいな味、かも」
 じっくりと抽出されたであろう黄色い鳩脂は、スープ表面に厚く浮かんでいて、こってりとしたイメージがあったが、存外にもすっきりとした口当たりだ。安徽料理は匂いと味付けが濃いと聞いていたものの、これは生姜の効いた塩味ベースでじんわりと滋味深い。優しい甘味には角がなく、おそらく氷砂糖を使っているのだろう。しかしただの塩味スープとは言いきれないこの野趣は、山鳩を丸ごと煮込んでいるパワフルさと『医食同源』の概念が合わさって溶け込んだもの。山に生きる民を癒す味だ。
「あー、です」
 次を急かしてくる王に大きめの肉を食わせてやる。もちもちと咀嚼音。てっきり野生の鳩の肉は硬そうだと思っていたが、絶妙な火加減のお陰か骨から綺麗に剥がれるくらいにはほろほろに仕上がっていた。手羽に残った僅かな肉を吸ってみると「ハトって美味いんだな」と率直な感想が浮かぶ。そして王の口元に山芋を運んでやると「葉っぱ……」と切ない声がしたので「葉っぱじゃないよ根っこだよ」と答えながら代わりに食べる。山芋なのでねっちりとした食感なのかと思えば、意外にもシャキシャキしている。これなら確かにスープの舌触りを邪魔しないだろう。
「チップスと同じ種類の野菜だよ」
 これも食育だと心を鬼にして王の好きな食べ物を例えに出し、山芋を王の口に押し込めば、かなしげな呻き声。しかし次第にそれも収まり「むんむん」と謎の声が聞こえてきた。悪くないと思ってくれたのだろう。

 ふたりして鍋一杯のスープを平らげたあと、食休みがてら僕の腕の中でスマホを弄っている王の手指や鼻を摘まみ、更に上がった体温がスープによるものだと確信する。普段はひんやりと冷えている末端までがあたたかく、無性にほっとする。生きている温度。生きている柔らかさ。生きている匂い。
「スプスプコトコトてりゃってりゃっ」
 生きている、歌。
「てりゃってりゃっ、てなに」
 鼻歌を歌っている王にそう問いかけると、王は視線をスマホに落としたまま答えた。
「ハトさんにごめんなさいする掛け声です」
 要は、屠殺の音を無邪気に擬音に落とし込んでいるのか。
「わたくしは、ごめんなさいされなかったなあ」
 ひそやかに呟かれるそれは、いつの話だろうか。屠殺を免れたときのことだろうか。それとも玉座から引き摺り下ろされたときのことだろうか。どちらにせよ王は誰からも「ごめんなさい」をされていない。
「……僕、謝るよ。今までさみしくさせててごめん」
 ぽつりと、謝罪というには情けない声が喉からあふれ、滴るように落ちた。それを瞼に浴びたのか、震えるような瞬きをした王は僕を見上げて、
「……気にしたこと、ないです」
 と、笑った。
「わたくしの感覚は、わたくしだけのものです。わたくしだけでどうにかするものです。だから、おまえのせいでさみしいとは、感じたことはありません。謝らないで」
 王なりの生き方がそれなのだろう。でもそれは、僕にとってはくるおしいほどさみしいことで。
「……誰かに救われてもいいんだよ」
 反論するでもなく、ただそれを伝える。すると、王はくっと首を伸ばすと、唇で僕のそれに触れてきた。相変わらず下手だな、と思いながら応じる。
 時間をかけて、生きている感触のすべてを詳らかにしていると、王の儚い身体が寄り掛かってきてソファの座面に押し倒された。それを両腕で受け止めながらも、勝手に自我を目覚めさせた腰の辺りが、そろそろ不味いな……と思考しているのを感じる。その推察のままに親指を王の歯列に挿し込んで小さな顎を引き剥がし、咄嗟に「これ以上は」と訴えると、僕を見下ろした王に「できないからですか?」と返された。
「そうです、ね。いや、それだけでは……」
「手……など、で。してさしあげましょうか?」
 ぐ、と喉が鳴った。是非とも『など』の部分を詳しくお伺いしたい。
 王に攻められるのは大好きだし、普段なら「よろしくお願いします!」と威勢よく頼み込んでいるところだが、この状況では流石に同意できなかった。裏返った声で「きょうは結構です……」と固辞すると、王は僕の下着の中に差し込んでいた指先を引き抜いた。
「僕と、お茶……しませんか」
 焦りと緊張できゅっと細くなった喉から、そうお誘い申し上げると、王は「お菓子はありますか?」と笑ってくれた。ほっと胸を撫で下ろし起き上がる。
「今朝包んでもらったのがあるよ」
「パンダさんのやつ食べます」
「……もうない、ね」
「む! 泥棒ですか!」
「いや、ちゃんと許可取ったから。苦情は受け付けないから」
 途端にわんわんと不満を口にしはじめた王を「はいはい」のワード一点で跳ね除けながら、冷蔵庫から菓子の入った紙箱を取り出すと、中国茶の作法もへったくれもなく部屋備え付けのティーポットと貰った茶葉で普通に茶を淹れる。仕上がったお茶はあの仙人の庵で飲んだものよりはいくらか劣るものの、充分に香り高く、王もすんと鼻を鳴らして香りに染み入っているようだ。
「月餅も、ない……」
「ないねえ」
 ぎゅっと険しい眉根になった王がちいさな桃まんをきゅっと噛むのを眺めながら、茶を口にして物思いに耽る。香りは記憶を呼び起こし、頼んでもいないのに親身になって僕の背中に記憶の毛布を被せてくる。それはしっとりと重たく温い感触で、いつまでも僕を離さないつもりなのか、よく懐いた動物のようにまとわりついてくるので、手を伸ばす。思い返す。広さやグレードがどうであれ、王と僕だけのホテルの部屋……という環境が、僕は嫌いじゃない。なぜなら王が目覚めるまでのあいだ、僕はニューヨークのとあるホテルで過ごしていたからだ。

 沢山の、今は割愛したい記憶がある。
 血塗れの玉座。笑顔で僕に「おまえに暇を与えます」と言った王。僕の身勝手な訴え。そして、最後の告白。その冷たくなった身体を抱えて、泣きそうになりながら歩いた雪のニューヨーク。他者のやさしさに触れて堪えきれず泣いたこと。凍えた身体にあたたかいスープが滲みたこと……そのワンシーンワンシーンを手元で細かく千切ると、それを宙に投げた。散ったそれらはちらちらと美しいが、いま思い出したいのは、あの静かな生活だ。いや、生活の中での静かなひとときか。
 コールドスリープとは聞こえの良い、強制シャットダウン状態。再起動もままならないほど損傷していた王が目を覚ますまで、僕たちは『モナド』と呼ばれるニューヨークのホテルに身を寄せていた。
 成体となった王種は不老不死だ。公僕時代は我ながら超がつく真面目くんだったためほぼ使わずにいた給金は、人間界の通貨……主にドルへ両替したらかなりの額にはなったし、人間界に遊学していた頃に簡単なアルバイトで稼いでいた分も投資に回してから帰国していたため、それもこの数百年で大きく膨らんでいた。だがそれでも不老不死の王を養っていくには心許ない。きっと将来いつまで経っても金勘定で不安になるに違いなく、そうなると長い目で見たときに勤め人をすることのリスクは高かった。僕は散々悩んだ末、手元の金を元手に自分の会社を興すことにした。
 正直なところ、かなりスムーズに軌道に乗ったように思う。競合相手がいなかったのだからそれは当然だった。僕たちが請け負うのは、同族向けの傭兵派遣サービス。僕が騎士時代に培ったノウハウを活かし、主に要人や上位種の警護を請け負った。表向きにはちいさな民間軍事会社のひとつだったが、予想通り同族からの需要は高く、それゆえ代表である僕は駆けずり回ることになった。
 エージェント集めに僕の魅了スキルは使わないと決めていたので、人手を集めるのには苦労したが、人間界で暮らしていても我らの多くは純粋に力を信奉するため、そのスカウト行為のほとんどを、僕は腕っ節でどうにかした。そして実際にどうにかなったことについては、奇跡だとは思う。少ないながらも人手が集まってきてからは、装備の拡充やそれに伴う各方面への交渉、営業、メディア露出なども全部僕がやった。勿論任務には僕自身も赴いた。剣ではなく銃を握った。盾ではなくタクティカルベストで武装した。その方が効率が良かったから、僕はプライドを捨てた。
 表向き……人類向けの仕事も幾つか請け負っていたことも功を奏し、会社の評判は鰻登りになり……それまで以上に、アホほど、忙しくなった。金勘定の不安に取り憑かれて無闇矢鱈に仕事を受けたせいで人員の数と受注数が釣り合わなくなってきた。クソだった。バカだった。常に目が回っていた。四六時中地面がグラグラしていた。「死ぬ……」と漏らしながら深夜遅くにホテルの部屋に戻る日々。しかし僕が壊れずにいられたのは、輝くほどに可愛い寝顔の王がいたからだ。
 毎日毎日、ただベッドにいてくれるだけで、心底癒された。羊のぬいぐるみを抱いて丸まって眠る、可愛い我が王。傷が治ってきて、すうすうと甘い寝息をたてて穏やかに眠り続けるその姿は、誇張なしに僕の星だった。王だった神だった宗教だった。この愛おしいものを守れるならどんな試煉でも乗り越えられると思った。見慣れてとっくに飽き飽きしていたホテルの一室も、王を視界に入れれば途端に大聖堂と化した。その手を握って頭を垂れ、何度も祈った。守りたかった。守れなかったから、守りたかった。
……ある日、王が起きた。春の初めの日だった。
 僕が目を覚ますと、王は窓辺に座って外を眺めていた。モナドには窓がない。窓と思しきものはすべて鏡で、心象風景や見たいものだけを映すことのできるそれが、王の目覚めとともに本物の窓になっていた。桜の花弁を孕んだ春風に髪を靡かせて、まるで至上の一枚絵のような美しさでそこにいた王は「わほほ」と気の抜けた声で笑った。死ぬほど可愛かった。わけがわからないくらい、愛おしかった。
「髪が伸びましたね」
 ベッドから転がり落ちるようにして即座に膝をついた僕の頭に触れてそう言った王は、ちいさく「わたくしは、そちらのほうがすきです」と呟いた。僕の苦労のすべてがペイされた瞬間。途端にじわりじわりと熱く赤面した感覚を、今でも覚えている。伸びっぱなしだった髪を幾らか整えるために、すぐにヘアサロンの予約を入れたことも。
 辛い思い出も不安に駆け回った日々も一心に祈り続けたこともそれらがぱっと嘘のように報われた瞬間も、すべてあのホテルの部屋で過ごした日々でのことだ。今、長期のバカンスを取れるようになってから過ごしているこの尊い毎夜を、僕はどこかあのホテルでの日々と重ね合わせている。住むことはできるが、定住所にはならない。ホームではないが、他人の家でもない。眠れずひとり起きていても、絶対にひとりじゃない。そんな場所。僕の、居場所だった場所。だから僕はすべてのホテルを愛したい。王にまつわるすべてを愛したいと思うように。

「これは、なぞあまずっぱ……!」
 煉瓦色をした、羊羹に似た長方形の塊を口にした王が、訝しげに残りの欠片を覗き込むのを、穏やかな心地で眺める。「サンザシケーキだよ」と教えてやれば「ほおん?」と緩い返事。
 ネグリジェで寛ぐ王は、僕の人生の象徴だ。下ろした髪。ノーメイク。胸元からくたびれていく布。気の抜けた挙措。王宮では僕に対しても気を張ってどこか怯えていた王が、いちばん無防備な姿でそこにいる。それを守ってきたのは間違いなく自分だという自負を駆り立てる平穏は、お茶の香りをさせて、もういつでもそこにある。それは同時に、守らなくては守れない儚いものでもあって。
「王、動き回れるようになったら、日の出を観に行かない? 雲海から覗く朝日が凄く綺麗なんだって」
「それは想像しただけでもすてきですね。ええと、お願いごとを三回言うのでしたね」
「それは流れ星ね。……王はなにかお願いしたいことでもあるの?」
 僕は、王が世界に立っているという事実を守ってゆきたい。僕と暮らしたり、僕と旅したり、僕と離れたりしながら大地を踏み締めるその足を支えて生きてゆきたい。日常を守るのを生業として、その隣に立っていたい。
「教えてほしいですか?」
 そう言って、王はすこし得意げな顔をした。宝物を後ろ手に隠して笑う子どものように。
「教えてほしいですね?」
「むふん。……それはですね」
 王は予行練習のつもりなのか、両手を口の脇に添えると、窓の外の月に向かって叫んだ。
「ごはん、ごはん、ごはん!」
 元気極まりないその願いに、つい堪え切れず笑ってしまう。可愛くて、腹が捩れる。どうして笑うのですか、とご立腹な王のちいさな拳の連打を胸に受けながら「その願いは叶うと思うよ」と仰向けに月を仰ぐ。十五夜の月が見える。きょうという日にまつわる人びと全員にも、見えていることを願う。


End.

落花情あれども流水意なし。
それでも窓の外を一緒に眺めようよ。


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