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映画「十一人の賊軍」と戊辰戦争

今日は、映画「十一人の賊軍」と戊辰戦争について書きます。書き始めると中盤以降は、戊辰戦争の歴史小説のようなものとなり、全部で10,507文字になり過去一番長いものとなりました。最後までお付き合いしていただければ、幸いです。

まずは、映画「十一人の賊軍」から。

映画「十一人の賊軍」

この映画は、戊辰戦争の新発田藩を舞台として描かれています。新政府軍と会津藩らの奥羽越列藩同盟の間(はざま)に立ち、新発田藩の存続のために砦を守る人々の戦いが中心となります。

この映画は、名優・山田孝之さん。そして、2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」で主役を演じる事となった仲野太賀さんのダブル主演となっています。特に仲野さんは、今までで一番の演技をしており、この演技を見る限りでは、大河ドラマも期待できるのではと感じさせてくれます。

しかし、この映画の面白いところは、「滅びの美学」ではなく、運命の大きな波に翻弄された人々の「不条理」が描かれているところです。この映画の「不条理」を説明するためには、どうしても、ストーリーの背景となった「戊辰戦争」について説明しなければなりません。

戊辰戦争勃発

「戊辰戦争」とは、1868年1月の鳥羽伏見の戦いから1869年5月の箱館戦争までの一連の戦争のことをいいます。薩長を中心とする新政府軍と江戸幕府や反新政府の諸藩が戦った内戦をいいます。

事の発端は、高杉晋作らが長州藩の中心となって幕府に歯向かったことです。これに怒った幕府は、長州征伐へと向かいますが、この時に薩長同盟により以前は幕府軍にいた薩摩藩が、長州藩と共に幕府軍と戦います。其の為に、幕府軍は、この薩長同盟により強化された長州軍に連戦連敗します。

これにより幕府は、その威信が失墜。さらに、薩摩藩は、大久保利通が中心となり、長州藩、公家の岩倉具視らと手を組み、「討幕の密勅」を得るべく朝廷工作を開始します。

大政奉還と王政復古の令

これを知った15代将軍の徳川慶喜は、「討幕の密勅」を無効にするために、前土佐藩主である山内容堂の提案により、権限を譲位し幕府を無くす「大政奉還」をおこないます。(この「大政奉還」には、同じく土佐藩の家老(大目付)である後藤象二郎が関与していることは明白ですが、最近では、後の明治政府の立憲君主制及び帝国議会制を提唱していた坂本龍馬が大きく関わっているのではとの仮説が囁かれています。)

ここで、少し余談ですが、最近、坂本龍馬の再評価がなされ、日本史から削除される状況となりました。これは、司馬遼太郎さんが書いた小説「竜馬がゆく」があまりに小説として完成されたものであり、史実と創作の境が曖昧となり、所謂(いわゆる)「司馬史観」により坂本龍馬が過大評価され、その反動として本来の坂本龍馬の功績が、十分検証されなかったことが原因となっています。

しかしながら、明治時代に取り入れられた「議会制」を提唱したこと、「薩長同盟会議」についての確認書(長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が坂本龍馬に宛てた尺牘(手紙))に坂本龍馬の裏書きが残っており、この「薩長同盟」の密約時に同席(薩長の仲介)していることを確認することができ、かつ、確固とした資料は残されていませんが、「大政奉還」という奇策は、真に坂本龍馬の発案であるとも言われています。この様に、坂本龍馬は日本史おける影響力が大であり、坂本龍馬の真の功績について再度検証するべきであると個人的には思っています。(幕府を無くすという考え方は、当時、幕府の支配階級であった元藩主である山内容堂や土佐藩家老である後藤象二郎が、考えたとは思えません。となると、被支配者階級(下級武士又は学者)の誰かのアイデアであるとした方が、納得できますし、これ(大政奉還)により坂本龍馬が、佐幕派により暗殺されたと考えるとスッキリとします。)

(動画の女性/坂本乙女:龍馬の姉、大浦慶:長崎の三大女傑で海援隊のパトロン、千葉さな子:北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女で龍馬の許嫁、 楢崎龍:龍馬の女房)

さて、話を戻します。

この「大政奉還」は、明治天皇がまだ数えで16歳と若いために政権担当能力がなく、やがて組織されるであろう会議で自ら(徳川慶喜)が議長又は有力な議員となることにより、政治的な影響力を行使できるであろうとの目論見によるものでした。

事実、薩摩藩や長州藩のような倒幕派は、勅命を出して諸藩に上京を命じるが、政局の激変に様子見をしている藩が多く、薩長の呼びかけに応じる藩は少なかったと言われています。11月13日、島津茂久(薩摩藩主)率いる薩摩軍3000人が上京し武力で威圧しますが、それでも状況を変えることができませんでした。

この閉塞的な状況を打開するために、薩摩藩の大久保利通と公家の岩倉具視は、クーデター計画を練ります。

12月8日夕方から深更にかけて行われた朝議で、長州藩の朝敵の解除及び連座して追放された岩倉具視ら倒幕派の公卿たちの復権を決定します。

翌9日未明、公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩・土佐藩・広島藩・尾張藩・福井藩の5藩の軍が御所9門を固め御所を武力封鎖します。これにより、佐幕派の公家を排除した状態で、「王政復古の大号令」を発して新政府樹立を宣言します。

そして、この「王政復古の大号令」により、将軍職の廃止、京都守護職と京都所司代の廃止、幕府の廃止、摂政と関白の廃止、新たに総裁と議定と参与の三職をおくといった五項目が決定されます。

これには、徳川慶喜の政治権力を剥奪し、京都守護職であった松平容保や松平定敬らを京都から追放し、一橋家と会津藩そして桑名藩の連携を壊し、幕府の組織の解体と新政府の運営形態を構築という意義が隠されていました。

この大号令を受けて早速、新設の三職を小御所に召集して12月9日18時頃から小御所会議が行なわれます。

この小御所会議では、倒幕派の薩摩藩主・島津茂久、薩摩藩士・大久保利通と佐幕派であり前土佐藩藩主の山内容堂が、激しい議論が交わしますが、武力によりプレッシャーをかけていた倒幕派が押し切り、その場で、徳川慶喜の辞官納地(官位と領地の朝廷への返還)が決定します。

鳥羽・伏見の戦いと幕府軍の敗走

しかしながら、このクーデターは実質的には失敗し、1月3日夜の西郷隆盛らによる鳥羽伏見の戦いをはじめとした戊辰戦争へと発展し、武力による幕府倒幕が始まります。

しかし、1月4日に天皇の旗である錦の御旗を新政府軍が掲げたことで、戦況は一変します。これは、大久保利通と岩倉具視が工作した「討幕の密勅」が成され、旧幕府側が朝敵となったことを意味します。旧幕府側は、これに激しく動揺し、多くの藩が新政府軍に寝返りました。これにより1月6日には幕府軍は京都・大阪から敗走します。

これを追撃するために、新政府軍は、東海道・中山道・北陸道の3つに分かれて進軍します。

東海道、中山道を通って、新政府軍は、江戸の手前まで快進撃を行います。軍の勢力は、新政府軍と幕府軍は互角でしたが、新政府軍と幕府軍では、その装備に大きな違いがありました。

これには、アメリカ南北戦争が大きく影響していると言われています。
アメリカでは、南北に分かれて内戦が勃発していましたが、1865年6月に北軍が勝利して、この内戦が終了します。内戦の後に残ったのが、不要な大量の最新式の武器と軍人でした。そして、これを受け入れたのが、新政府軍でした。(この時の状況は、トム・クルーズ主演の映画「ラストサムライ」で詳しく述べられています。)

一方、旧幕府軍は、火縄銃に毛の生えたような貧素な武器であり、かつ、その戦法も、戦国時代と変わらないもの(密集陣形で白兵戦)で、近代化に組織された歩兵(散兵戦)とはとても言えない状態であり、戦闘の趨勢はすでに決していた状態でした。

江戸城の開城

東海道・中山道を進軍してきた新政府軍は、旧幕府の中心地である江戸に迫ります。そして、江戸総攻撃の日は3月16日に決まりました。つまり、この日が江戸総攻撃を中止することができるタイムリミットです。

当時の江戸は、人口が100万人という、ロンドンやパリを凌ぐ大都市であり、この江戸で戦闘が始まれば、日本中が大混乱となります。もちろん新政府の中にも徳川家の家臣の中にも江戸を攻めたらまずいということを分かっている人はいました。

そんな中、江戸侵攻を止めるために立ち上がったのが、天璋院篤姫と和宮の二人の女性でした。

13代将軍・徳川家定正室として江戸城大奥の総責任者であった天璋院篤姫(近衛敬子)は、薩摩の出身で薩摩藩元藩主・島津斉彬の養女。また明治天皇の叔母にあたる14代将軍・徳川家茂正室の静寛院宮(和宮)も東征大総督有栖川宮とかつて婚約者であり、かつ東海道鎮撫総督の橋本実梁と従兄妹の間柄であったことから、それぞれ新政府軍要人との縁故でした。

二人は、江戸を戦火に巻き込まないように、新政府に説得を行います。特に、天璋院篤姫は、東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の遠征軍のトップ)である西郷隆盛に手紙を出し、江戸での戦闘を中止することを嘆願します。さらに3月11日には東征軍への使者として老女を遣わしており、天璋院篤姫の使者たちは13日に西郷隆盛と面会し、同19日には西郷から天璋院に嘆願を受け入れる旨の連絡があります。

この二人の女性の懇願は、直接的には効果があったとはいえませんが、下参謀西郷隆盛らに心理的影響を与え、結果として江戸を戦火から救った可能性は十分あったと思われます。(この状況についても、NHK大河ドラマ「篤姫」で詳しく述べられています。)

一方、新政府軍と幕府軍との間に立って奔走したのが、勝海舟と山岡鉄舟でした。

3月9日、静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟は、西郷隆盛と会見します。山岡鉄舟は、交渉が決裂した場合には江戸を自ら焼け野原にする覚悟で望みます。西郷隆盛は、山岡鉄舟の覚悟に応じる形で、江戸侵攻を止めるための条件である徳川処分案7ヶ条を示します。

将軍であった徳川慶喜の処遇を巡って意見の相違はあったものの、西郷隆盛と勝海舟・山岡鉄舟との交渉が、着々と進みますが、この間も新政府軍の侵攻は止むことがありませんでした。江戸が戦火に巻き込まれるのは時間の問題であると思われますが・・・。

ここで歴史が大きく動くキッカケが、起こります。なんと局外中立(内戦への不干渉)を宣言していたイギリスが、江戸総攻撃を中止しろと圧力をかけてきたのです。

当時のイギリス外交官だったパークスは、新政府に対して、

「もう降伏しますと言っているのに攻撃するのは国際法違反である。もし、それでも攻撃するのであればこれから二度と新政府に協力しない。」

と糾弾します。

新政府は、この時ようやく江戸を攻撃したら日本は逆にとんでもないことになるということに気づきます。

かくして、1868年3月13,14日、江戸の薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟が最後の交渉を行い、徳川慶喜は江戸城を明け渡して謹慎することが決まりました。こうして江戸が火の海になることは避けられました。

事実上、江戸城を明け渡した時点をもって江戸幕府体制は、終焉します。

とは言っても、すべての幕臣が江戸開城を受け入れたわけではありません。
その一部は、彰義隊を結成し、上野の寛永寺に立てこもりました。しかし、大村益次郎らの新政府軍は彰義隊をわずか1日で鎮圧されますが、その残党は、北へと逃れます。

新政府軍は、更に北上します。これは、彰義隊の残党狩り、そして、会津藩主である松平容保の追討が目的ではありましたが、これは単なる口実であり、真の狙いは、東北の反抗勢力を武力で屈服することでした。言うなれば、西と東の内戦であり、「東西戦争」がまさに勃発する危機を迎えます。

奥羽越列藩同盟

1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王を盟主とした、反維新政府的攻守同盟である「奥羽越列藩同盟」は、この新政府の動きに対して、東北の諸藩は恭順の意を表し、中心的な存在であった会津藩も嘆願書を提出し、当初は新政府側もこれを受け入れる姿勢でした。

しかし、皮肉なことに、この平和的な解決は、新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督の下参謀として赴任した長州藩・世良修蔵の「奥羽諸藩は、すべて敵である」という一言により潰えてしまいます。

世良修蔵は更に、「奥羽諸藩、ことごとく攻めるべし」と述べ、会津藩の嘆願書を握りつぶします。これが、東北の雄である仙台藩へ伝わります。

「薩長の奴らめ、会津のみならず我らも滅ぼそうとしておるのか!」

激昂した仙台藩士は、世良が宿泊する旅籠を襲撃。捕縛された世良は、旅籠の柱に半日縛り付けられた後に、阿武隈川の辺(ほとり)で、世良を斬首します。

これにより後に引けなくなった奥羽諸藩は、団結へと進んでいきます。
仙台、米沢、会津などの大きな藩が中心となり、その他の東北の小さい諸藩に号令をかけます。かくして、「奥羽越列藩同盟」は、新政府と戦闘を開始することとなります。

河井継之助と溝口半左衛門

しかし、「奥羽越列藩同盟」の各藩の思惑は、それぞれ異なり、小藩の中には、近隣の大藩に遠慮して同盟に参加せざを得なかった藩も多くありました。

参加せざを得なかった藩とは、越後の長岡藩と映画「十一人の賊軍」で登場する新発田藩でした。

そして、長岡藩では河井継之助。新発田藩では映画でも重要人物として登場する溝口半左衛門が、これ以降の話の中心となります。

河井継之助は、司馬遼太郎さんの長編時代小説『峠』で有名となった戊辰戦争の時の長岡藩の家老です。

河井継之助は、26歳の時に、江戸に行き佐久間象山の私塾に学び、勝海舟、橋本佐内、吉田松陰といった幕府や諸藩の逸材と切磋琢磨していました。

幕末の激変する時代になってきた時、先進的な継之助の存在は、長岡藩にとって必要不可欠なものとなり、やがて家老へと昇進します。継之助は軍備強化に力を入れ、当時最強の兵器と言われた「ガトリング砲」を購入し、長岡藩に近代軍備を整えます。(当時、ガトリング砲(機関銃)は、日本に3台しかありませんでしたが、その内の2台を所有していました。)

戊辰戦争が勃発すると、日本の諸藩は、新政府側につくかそれとも幕府側につくか迫られることになります。しかし、100年先の日本を見据えていた河井継之助は、第三の選択肢である「武装中立」の立場をとります。

北陸路を通り進軍してきた新政府軍は、遂に長岡藩の眼の前にせまります。
継之助は、新政府軍及び奥羽越列藩同盟の何方にも組しない姿勢を見せたうえで、小千谷の新政府軍本営に出向き、会談を申し入れました。

新政府軍は長州の山県有朋や薩摩の黒田清隆が率いていましたが、継之助と対面したのは、軍監の岩村精一郎という若者だったのです。

継之助は長岡藩の事情を説明し、「出兵には応じられないが、必ず会津藩を説得してみせるので、時間をいただきたい」と嘆願しますが、岩村精一郎は「時間稼ぎだ」と決めつけ継之助の言葉を頑として受け付けませんでした。

後に、日本帝国軍の生みの親となる山形有朋は、この話を聞き、岩村精一郎が宴に興じていた時に、土足で押し入り、岩村精一郎の前に置かれた膳を蹴って

「無用の戦(いくさ)を始めよって!」

と激怒したといわれています。

北越戦争

継之助は、なおも新政府軍に嘆願しましたが、結局受け入れてもらえませんでした。「ここに至っては開戦やむなし」と覚悟を決めた継之助は、長岡藩に戻り、徹底抗戦することを宣言するとともに、奥羽越列藩同盟に加わったのでした。

これが、北越戦争と呼ばれるのもで、新政府が初めて苦戦した戦いとなります。長岡藩は寡兵(かへい)ながら、継之助が作り上げた部隊はよく戦い、一時は主要な軍事拠点を押さえるなど、新政府軍に「戊辰戦争最大の苦戦」を強いることになったのです。

一方、長岡藩と隣接する新発田藩は、元は豊臣恩顧の外様大名で、5万石(幕末に10万石に高直し)の小藩でありながら、幕末まで生き残ってきた大名です。

要衝新潟港に接する位置にあり、奥羽越列藩同盟の補給点として非常に重要な藩でした。実際、長岡藩が、新政府軍に対して頑強な抵抗ができたのも、この新潟港からの補給によるものでした。

しかし、新発田藩は、他の奥羽越列藩同盟の諸藩とは違い、徳川への恩義はそれほどなく、むしろ勤王が盛んでした。故に、藩の伝統思想に則り、ごく自然に新政府軍に恭順を示したのです。

とはいっても、新発田藩は、小藩であり、周りは米沢、会津、長岡藩といった新政府軍との戦いの中心となる藩に囲まれています。かと言って、不用意に奥羽越列藩同盟に組みすれば、後々になって、新政府に咎めを受けるかもしれません。

まさに新発田藩は、時代の荒波の中で綱渡りのような難しい舵取りを強いられていました。そして、その舵取りをしていたのが、溝口半左衛門でした。

「新発田は、我らの味方か、それとも敵か」

事の次第に焦った会津藩家老・萱野 長修(かやの ながはる)は、溝口半左衛門に問い詰めますが、その後も、溝口半左衛門は、追求をのらりくらりとかわします。

しかし、5月15日、米沢藩と仙台藩から人が派遣され、溝口半左衛門に強談判します。

「新発田が同盟に組しないのであれば、事に及ばざるを得ない。」

これは、奥羽越列藩同盟からの最後通牒でした。応対した溝口半左衛門の表情には、深い陰影が浮かんでいます。

「事ここに至っては、やむを得ぬ。」

半左衛門の声は、苦悩に揺らいでいました。新発田藩は、遂に奥羽越列藩同盟への加盟を余儀なくされます。

一方で、江戸に密使を送り、新政府に対して弁明もしています。

「同盟への参加はやむを得ないものであり、勤王の志は変わりませぬ。」

新政府側も、大藩に囲まれた小藩のやむを得ぬ事情として、これを黙認します。

同時に、半左衛門は、京都の窪田平兵衛と連絡を取り、高田の新政府軍参謀に接触し、新発田藩が新政府軍に内応する交渉を秘密裏に進めます。新発田藩は、その後ものらりくらりとかわし続け、出兵そのものは回避します。

しかし、6月に入って長岡藩は、新政府との戦いのみだけではなく、世直し一揆が勃発して、一揆勢とも戦うこととなります。こうした、ぐだぐだとした状況に、米沢藩の鬱屈した怒りは、小藩である新発田藩へと向かっていきます。

米沢藩は、新発田藩の14歳の幼君・溝口直正を人質に差し出せと要求してきます。太平の世であれば、これほどの暴挙はありませんが、この要求が通用したのは、この時期の情勢が、混迷を極めていた証でした。

溝口半兵衛は、一計を案じてこれを阻止しますが、その2日後の6月9日に、米沢藩主・上杉斉憲が、自ら1000あまりの兵を引き連れて新発田城を取り囲みます。

「出兵するか、それとも藩主が城を去るか、どちらかを選ばれよ。」

そして、

「さもなければ、総攻撃に移る。」

と最後通告がなされます。

溝口半兵衛は、

「新発田の領民を苦しめることだけは避けなければならぬ・・・」

と呟き、出兵を決意し、200の兵を率いて戦いに向かうことになります。出陣前に、半左衛門は、息子と別れの盃をかわします。

「まもなく、官軍(新政府軍)が、新発田の浜に来る。それまでの辛抱だ。」

半左衛門は、そう言い残して、長岡に向かったのでした。

6月19日、半左衛門が率いる新発田の軍勢は、新政府軍と戦闘を開始します。米沢藩の監視下に置かれた新発田兵は、疑惑を払拭するために勇敢に戦う必要がありました。結果、この戦いで新発田兵は、4名の戦死者を出すこととなります。

皮肉なことに、この戦いは、米沢藩の疑惑を払うとともに、新政府軍の怒りを買うこととなります。

「新発田は官軍側ではなかったのか!?」

恭順を示し続けてきた新発田側からの攻撃は、新政府にとっては裏切りと映りました。半左衛門は、新政府軍と奥羽越列藩同盟に板挟みとなり苦悩します。

しかし、7月25日に、黒田清隆率いる6隻の新政府軍の軍艦が、新発田の浜に現れます。これは、かねてより新発田藩と新政府の間に示し合わせたものでした。

新発田藩は、最初の取り交わしどおりに、総指揮官である黒田清隆に帰順を伝え、新政府軍側であることをはっきりとさせます。

「遂に来たか。」

長岡で戦いを繰り広げていた溝口半兵衛は、微かな安堵の表情を浮かべます。

「我らは以降、どちらの敵でも味方でもない。」

と、一緒に戦っている長岡の兵に向かって静かな口調で告げます。そして、新発田へ落ちのびることを進めます。なぜなら、捕虜は、戦いの最前線に駆り立てられ、会津に加勢している長岡の兵と同士討ちになる可能性が高いからです。

新政府軍が近づくと、新発田の兵は、申し合わせた通り空砲を放ちます。新政府軍と合流すると、一転して、長岡城を守っていた長岡兵と米沢兵への射撃を開始します。

この日の前日である7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日に長岡城を辛くも奪還するも、この時に、河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまいます。

指揮官の負傷と新発田兵の裏切り、そして、補給点である新潟港を占拠されたことは、長岡城を守る長岡兵にとっては大きな痛手でした。結局、4日後の7月29日に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびることとなります。

重傷の継之助は1人で歩けず、会津へ向けて八十里峠を越える際、

「八十里 腰抜け武士の 越す峠」

という自嘲の句を詠むこととなります。

継之助の受けた傷は深く、八十里峠を超えて只見町に入るも、破傷風により死亡、享年42歳でした。

黒田は、長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが残念ながら、混乱する戦場においては、黒田の願いは、ついに届きませんでした。

一方、新発田藩の恭順を受け入れた参謀の黒田は、その時々で風を見て態度を決める変わり身の早い新発田藩に対して、あまり良い感情を持たず、徹底的に利用してやろうと考えていました。

もっとも、奥羽諸藩の仕置は、奥羽諸藩にやらせるというのが、当初からの新政府の方針でした。

従ってこの方針に基づき、新政府軍は、攻撃隊を会津口、米沢口、庄内口の三つに分け、新発田藩にはそれぞれの部隊で過酷な先鋒が命じます。

「新発田は、まことに卑怯で臆病である」

新発田兵が対峙した奥羽諸藩の兵の嘲笑と軽蔑は、汚名を雪ぐために新発田の兵を死地へと追いやります。

新発田を守るという正義が、正義たるを得ないという、どちら側についても過酷な運命、なんとも「不条理」な世界です。

まず、降伏したのは米沢でした。9月11日、米沢藩世子茂憲は新発田本営の総督宮に謝罪のため訪問し、米沢藩は新政府へ帰順します。つづいて仙台藩も降伏します。しかし、最後まで抗ったのは会津藩でした。

会津戦争

そして、この戊辰戦争で最も悲惨を極めたのも会津藩でした。
会津の最後は、まさに悲劇そのものです。戦場で散った者、残された婦女子は、戦いの足手まといになることを恥じて自刃した者、又は、薙刀をもって戦った婦女隊、そして、白虎隊の少年たちの悲痛な最後。

当時イギリスの外交官であるアーネスト・サトウは、書籍「一外交官の見た明治維新」に、この会津戦争が、いかに悲惨であったかが、友人であり従軍医師として働いていたウィリアム・ウィリスの証言を基にして記述しています。

因みに、NHK大河ドラマ「八重の桜」でモデルとなった新島八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として誕生し、この会津戦争では、砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪・男装して家芸であった砲術をもって戦いに参加し、鶴ケ城籠城戦では自らも最新式のスペンサー銃と刀を持って奮戦したと言われています。

また、八重は優秀な射手であり、薩摩藩二番砲兵隊長だった大山厳(後の、日清日露戦争時の陸軍参謀総長)を狙撃して戦線離脱の重傷を負わせたと言われています。

後に、新島八重は、クリスチャンである新島襄と結婚し、夫の襄とともに同志社大学を設立し、後世の教育に寄与します。

箱館戦争と戊辰戦争の終結そして日本のその後

一方、旧幕府軍の榎本武揚は、江戸開城の時にクーデターを起こし8艦の旧幕府艦隊を略奪、奥羽越列藩同盟に味方していましたが、仙台藩が新政府軍に敗れると、船団を率いて、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名と共に、北海道に落ち延び、かつて河井継之助の「武装中立」の意思を受け継ぎ、「蝦夷共和国」という名の独立国を宣言し、新政府軍と対峙します。

しかし、榎本は、箱館戦争で新政府軍に敗れ降伏します。これにより、戊辰戦争は終焉することとなりました。

因みに、この動画の表紙に写っている人物は、中島三郎助といい、幕末の始まりである黒船来航と、幕末の終わりである箱館戦争に深く関わった希有な人物として知られています。動画の最初の6人の集合写真で前列右側が、榎本武揚(えのもと たけあき)です。動画の中盤(1分30秒ごろ)に登場するのが、最後の新選組と言われた新選組副長の土方歳三(箱館戦争で戦死)、2分頃に登場する外国人が、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネであり、映画「ラストサムライ」のモデルと言われています。

「時代」というパラダイムシフトは、サムライの世を認めず、内戦という形で新しい体制を要求したのでした。そして、サムライの時代は終わり、これ以降、近代国家として日本は、帝国主義の荒海に漕ぎ出すこととなります。

この戊辰戦争が残したものは、多くの悲劇と、元は同じ幕府の武士たちが、敵味方となり戦うという不条理でした。

しかしながら、その中でも一筋の光明もありました。それは、旧幕府軍で戦った優秀な人物が、後に近代日本を築くうえで必要とされ、その能力を遺憾なく発揮し近代国家日本の礎となります。

しかし、戦いの悲劇は、これで終わりではありませんでした。日本は再び「帝国主義」という大きなパラダイムシフトに飲み込まれることとなるのですが・・・。






















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