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ショートエッセイ「転落事故に遭遇した話」

 長野県上田市での21年間、住んだ場所が計5か所。その中でも、異色なのは、千曲川と川沿いの道路の間の土地にあった、使わなくなったつけば小屋。
 「つけば」という言葉が何を意味するのか、長野県にゆかりのある人以外は分からないだろうと思うが、川魚料理の一種だ。つけばとは種付け場の意味で、河床に集まるハヤの習性を利用し、その環境に似せた仕掛けを作ってエサを使わずに漁をする。餌を使わない千曲川の河川敷には、このつけば小屋が多数ある。その中の休漁中の一軒を借りて住んだことがあった。
 夜ベッドに横たわっていると、毎夜毎夜ザーザーという瀬音が聴こえてくるわけで、最初はなかなか慣れなかった。
 その「つけば小屋」で、休漁期の半年ほど生活したのだが、その間いろいろなことを体験した。
 10月頃だったろうか、日が暮れた後、外から男性の声が聞こえた。小さな声だったので、最初は空耳かと思ったが、2度繰り返された時にそうでないことを確信。外に出てみると、薄暗がりの中に50前後の背広姿のサラリーマン風の男性の姿。
「ちょっと川に落ちてしまって」
 すぐに事情が呑み込めず、次の言葉を待った。
「ここまで泳いで来たんです」
 暗くてよく分からなかったが、良く見ると全身ずぶ濡れで、ガタガタ震えている。また、なんで、そんなに派手に落ちてしまったんだろう? そう思っていると…。
「運転を誤って、車ごと落ちたんです。流れが急で、あそこまで流されました」
 腕を差し伸べた方をみると、薄暗くなった川の中ほどに、何か、黒い物体が見える。
 これには驚いた。現実の出来事とは思えないような光景だ。
 「方向転換しようとして、バックギアに入れたまま、前進のつもりで、後ろから川に飛び込んでしまったんです。」
 川の渕から車らしき物体が見えるところまで、約50メートルはあった。水量が多く、流れも急なところだ。真冬だったら、命を落していたかもしれない。
 長野県では比較的温暖な上田だが、10月ともなると、気温も下がり肌寒くなってくる。奥からバスタオルを持ってきて渡し、携帯電話を貸した。
 迎えの車から見えやすいように、県道沿いまでその人と並んで歩いて移動し、そのまま一緒に待った。
 彼にしてみれば、幸せな我が家を目指していた平穏な夜が、一瞬にして凶暴な重力の餌食となったのだ。視界は乱雑に乱れ、あっという間に冷水の中。急流に流される車から命がけの脱出。そして季節外れの着衣の水泳・・・。泳ぎの達者な人であったとしても、着衣のままではかなり泳ぎづらはずだ。
 生きた心地はしなかったろう。

 しばらくして奥さんの運転する車が到着。
「あとで、改めてお礼に来ますので」
 と男性は恐縮の体。
「いえいえ、結構ですよ、特に何もしてませんから」
 そう答えて、走り去る車を見送った。

 なお、彼は私の申し出を真摯に受け止め、本当にお礼に来なかった。
                    (2023年 9月)


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