「微笑みの木 ~ 実在したある1本の木に寄せて」(連載第5回最終回)
小学校に進学すると、幼稚園とは全く違う世界が待っていた。入学して間もない頃、こんなことがあった。
授業中、先生の質問に答えようと立ち上がったとき、最前列だった僕は、椅子を後ろに引かずに、そのまま立ち上がり、勉強机を前に倒してしまった。
― まずい! ―
ドジを踏んだことに対して、当然一斉に笑いが起こるだろうと思った。でもその予想ははずれ、誰かがポツリとつぶやいた。
「力持ちだがぁ」
― そうか! みんなイジメられていた僕のことを知らないんだ。―
そう思った瞬間、一切の呪縛から解放され、気持ちが軽くなるのを感じた。
入学時には、すでに全てのひらがなを読めるようになっていたし、一桁の足し算ぐらいならできるようになっていた。教科書は、パズル遊びのようで、先生の質問は簡単ななぞなぞ遊びみたいだった。
― なんでみんな答えないんだろう? ー
不思議に思いながら、手を上げて答えているうちに、次第に先生や周りの生徒から「できる子」として認められ始め、ストレスフリーの楽しい学校生活を送るようになっていた。そうしているうちに、親しんでいた梅の木も少しずつ意識から遠のいていった。
木を擬人化して捉えるような幼児特有の感性からも遠ざかり、かつてのように梅の木に強い思いを抱いて向き合うようなこともなくなっていた。
それでも、絵の題材として木を好む傾向があったのは確かで、学校に提出するような絵の他に、ノートの片すみや広告の裏などに、「木の絵」を描くことがよくあった。
だが、そういった「木への求心力」の根底に、かつて梅の木に対して抱いた愛着が脈打っていたのかどうかはわからない。この頃感じていたのは、かつての自己投影的な愛着とは無関係の、飽くまでも絵の題材としての興味であって、「幹の質感や形状、色合い、生い茂る葉の生命力などを、よりリアルに描き出すこと」へのこだわりだった。
そんな具合に、木を捉える視線は、時とともに変化していった。
異変が起きたのは6年生の時。梅の木は、花を咲かすことも葉も付けることもなくなってしまった。
枯れてしまったのか・・・。
そうは思いたくなかった。今年は開花のためのコンディションが整わなかっただけなのではないか・・・。枯れたように見えても必ず復活し花を咲かせる「永遠の生命を持つ木」、自分が知っているの梅の木はそういう木だ。
様々な場面が脳裏に浮かんでは消えた。長い間眠っていた梅の木への強い思いが、こうして揺り起こされた。
そんなある日、学校から帰ってみると、梅の木は無残にも切り倒され、切り株だけが残されていた。
目に入った瞬間、やり場のない怒りが込み上げてきた。それは自分でも予期していなかった激しいもので、木に対する愛着が並々ならぬものであったことに改めて気付かされた。
― 枯れたのなら仕方のないこと?
仕方のないこととして簡単に片づけて良いのか? ―
思考が停止し、あてどもなくさ迷った。現実を受け入れようとしても、それがなかなかできない。
怒りが静まってからも、その時生じた喪失感は、長きに亙って消えることが無かった。
自作の歌『微笑みの木』は、梅の木の姿を思い浮かべながら書いた鎮魂歌でもあるが、それを書いたのは、梅の木が立っていた常盤町から離れて5年、梅の木が枯死してからは、7年以上が経過してからのことだった。
『微笑みの木』
枝のうえに 闇が積み重なって
揺れ動く 揺れ動く 静かに
忘れられた 昔の歌の残骸が
空の高みから 渦巻き 降り注ぐ
微笑の木 微笑の実がなって
笑い出す 笑い出す ふわふわ
立ち止まるあなたは 私の声を聞く
姿無くした 私の歌声を
壁の中 呼びかける
子どもたち 遠ざかる
海の底に あなたが立っていても
愛の歌は 空の果てから 響く
壁の中 呼びかける
子どもたち 遠ざかる
微笑の木 微笑の実がなって
抽象的なイメージを盛り込んだつもりでいたが、1枚の写真がきっかけとなって、眠っていた様々な記憶が揺り起こされ、その歌が以前とは違って見えてきた。
一見抽象的に見える言葉たちの背後に、梅の木を失った喪失感と、幼児期の孤独感が漂っている。
怒りと悲しみの中で姿を消した木。その木は、かつていくつもの夜と様々な思いを重ねて、強く生きてきた。
忘れられた昔の 歌の残骸が
空の高みから 渦巻き降りそそぐ
その実は、希望を育む力を宿し、やがて微笑みとなって漂い始める。
様々な祈りの歌が、過ぎ去った過去から時空を超えて響き渡り、開花へと導く希望の光となって闇の中へと降り注ぐ。
微笑みの木 微笑みの実がなって
笑い出す 笑い出す ふわふわ
立ち止まるあなたは 私の声を聞く
姿無くした 私の歌声を
「木と微笑み」。それは復活への願い。そして成長と自己実現のシンボルだ。
― 微笑みの木 微笑みの実がなって・・・ ―
歌は完全終止せず、余韻を漂わせたまま終わる。
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