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「介護日記」その6

2012年 6月16日 土曜日
 母80歳の誕生日を我が家で迎えることができた。インスリンを打っている身なので、バースデイケーキではなく小さな和菓子で、父と共にささやかに祝った。

 「ありがとうねぇ。あんたのおかげだよ、何から何まで」

 昨年の誕生日は、市立病院の緊急病棟で、意識朦朧としていた。それを思うと、こうして穏やかな時が流れている今は、本当に幸せだと思う。

  6月18日 月曜日
  今月6日、近所を車で走行中、桜島の噴煙が見えた。

  グレイの噴煙の中に、部分的に純白の箇所があって、
  そんなの珍しいから、車を路肩に停めて、シャッターを切った。
  
  その写真をあとで見てみたら
  白い2つの目を持つドラゴンの頭みたいに見えた。

    周りの雲の様子も
    「火の鳥」が翔んでいるかのように
    まぶしく見えた。

    ***  ***  ***

  2013年3月9日 土曜日
 両親の介護に追われ、日記もほとんど書いてないし、撮った写真もハードディスクの中に埋もれた状態。
 でもまあ、元気です。

 撮り溜めた写真も少しずつ整理して、公開できるようにしようかな…。

       ***  ***  ***

  7月11日 木曜日
 5月末から1人暮らしが続いている。
 きっかけは両親の入院。

 88才の父、2月7日、胸に水が溜まり呼吸困難に陥り緊急搬送。入院。
 81才の母、誤嚥性肺炎で5月23日に病院受診、そのまま入院。

 その後、二人とも退院したのだが、身体機能が低下したため、在宅生活は難しく、病院併設の老人保健施設に入所中。

 入院前は歩いていた父も、臥床生活を続けているうちに自力で歩行できなくなった。
 母も身体機能が低下し、一人での介助が不可能になった。

 10年前の秋、親の衰えに備えるために帰ってきた際、玄関で迎えたくれた母の笑顔が思い出される。
 父の認知症を心配して帰ってきたのだが、母は完全に自立しており、父の介助をしていた。

 人はいつか老いるもの。でも、ここ数年の極度の衰えようを見ていると、なんだか切ないよなぁ…。

 今、施設から持ち帰った2人の洗濯物が洗濯機の中で回っている。

  ***  ***  ***

 2014年1月29日 水曜日
 今月21日午前1時20分、病気療養中だった父が、その生涯を閉じた。享年91歳(満89歳)。

 長生きしたとは思う。よく頑張ってくれたとも思う。しかし、病没という最期に対しては、どこか無念さも残る。

 翌22日通夜、翌々日23日告別式が執り行われた。

 喪主は母名義になっていたが、脳梗塞後遺症のため式には参加できず、僕が喪主代理を務めた。

 香典返しに添える挨拶文作成のためのスタッフが常勤していることを初めて知った。

 式の進行を取り仕切るスタッフからその旨を伝えられ、その後電話連絡があり、父の人となりや息子からの思いをインタビューされ、それを元に文章を作成し、校正のためのPCメールを送ってくれた。

 それを見た途端に、泣けて泣けて仕方が無かった。

 僕から見た父のイメージや、父に対する思いがそのまま再現されており、その周辺に広がる様々な記憶までが鮮明に蘇ってきた。

 追憶

 「去り行く父へ 感謝を寄せて」

 子供の頃から夢中になっていた相撲では、若き教員時代に国体に出場した経験もある父。相撲の選手としては決して大柄ではなかったものの、筋肉質な身体で当時は大将を務めていたそうです。文武両道と申しましょうか、頭も良く、若い頃は高校の体育教師として仕事に励み、やがて保健体育課長や校長を任されるようになりました。長きにわたり力を尽くしてきた父の思いは生徒に伝わっていたのでしょう、卒業生が家を訪ねて来られるほど慕われていたものです。「大好きな先生でした」そう言って下さるのを耳にしたときには、我が父ながら大変誇らしく思いました。人をまとめるのが上手で、普段から自信に満ちあふれていて… 心から頼りになる存在だったと、身に染みて感じます。
 晩年はデイサービスで囲碁を打ち穏やかに過ごしておりましたので、向かう先でも好きなことを楽しみ笑顔の笑顔の時を紡いでほしいと願ってやみません。幼い時から追いかけてきた大きな背中を、私はずっと忘れないでしょう。今は別れ淋しさより、感謝の気持ちで見送ろうと思います。
                       ~ 息子より

   ***  ***  ***

 2月11日 火曜日
 父の告別式、名目上の喪主は母にしてあったため、母の姿を探した人もいて、メモ用紙にメッセージを残してくれた方もいらっしゃった。

 後日電話してみたところ、僕の姿を見て、「○○○さんの息子さんなんだなぁ」と思ったそうだ。雰囲気がよく似ているとのこと。
 昔はよくそう言われたものだが、最近は言われなくなっていたし、現在の老いた母は風貌も変わり、実際あまり似ていないと思う。
 それでもなかには「似ている」と感じる人もいるんだな…、なんて思いながら話をしていると、その方は養護教員時代の知り合いだとおっしゃった。

 母が現役の教師だったのは、もう30年以上前のこと。その頃の母を思い浮かべていたとすれば、似ているかも知れない。
 古いアルバムを捲り返しながら話しているみたいなちょっと不思議な気分になった。

 10年以上前、長野県で暮らしていた頃、妹と僕を「似ている」と言った人がいたが、子供の頃から「3人兄妹、3人3様で全然似ていない」と思っていたので意外だった。それに関しては、妹も同意見だった。

 でも、大きく括れば人によっては似ていると思うのかも知れないな、と認識を新たにしたことを今になって思い出した。

   ***  ***  ***

  2014年3月29日 土曜日
 父のルーツを訪ねた。
 銀行口座の相続手続きに、「除籍謄本」が必要で、出生時から没年までの全てを提出する必要があったため。

 まずは、近くの鹿児島市役所の支所を訪ねたところ、本籍地が鹿児島市に移籍されて以降のものしか保存されておらず、それ以前のものは、当地に行かなければ発行できないという。
 そんなわけで、父が生まれてから結婚するまでの本籍地だった加世田市(現在の南さつま市)の市役所を訪ねることとなった。

 今日(っていうか、書いてるうちに日付変わったから昨日)は天気が良かったので、燃費節約のために原付で行くことにした。これまでで最も長距離の原付による移動である。

 経験して初めて判ったのが、長距離を、市内で移動するようなつもりで何気なく運転していると、お尻や腰が痛くなるということ。

 1時間ほど経った頃、道の駅を見つけて休憩することにした。バイクに乗っての移動というのは、それまで自分が思っていたより筋力や神経を使うものらしく、猛烈に腹が減ってしまい、小さな弁当とお茶を買い、1人ベンチで食べた。

 再出発してからは、他の人がどんな格好でバイクに乗っているかを観察。交差点で目の前を原付に乗ってスーッと横切っていった若者が、大型のバイクと同じように、両足を前方に突き出し前傾姿勢だったのが印象に残り、以後それを真似てみるとお尻が痛くならないことに気づいた。これはちょいと勉強になったね。

 さて、無事に南さつま市役所に着いて戸籍担当の窓口を訪ねると、そこで全てが解決すると思っていたのだが、そうではなかった。

 父は、確かに加世田市で生まれているのだが、その時点での本籍は加世田ではなく、知覧だったことが判った。本籍を加世田に移したのは、父が生まれてから後の、昭和2年のことだったのだ。

 「これから知覧まで行かなきゃならんのかい」

 一瞬そう思ったが、現在では広域合併で「南九州市」に含まれており、隣町の川辺に支所があるということで、15分ほどバイクを走らせるだけで済んだ。

 そこで思い出したことがある。知覧の武家屋敷群の中の1軒が我が家のルーツであるということ。これは父ではなく母から聞いたことで、

 「へえ!」

 と思う反面、

 「ほんまかいな?」

 とも思っていたのだが、
 今回のルーツ訪問と辻褄が合い、どうやら本当だったらしいと思えるようになった。

 お昼が近くなっていたので、加世田に引き返し、前から食べたいと思っていたいわゆるご当地ラーメンの「かぼちゃラーメン」を食べた。
 何軒かでメニューに加わっているらしいが、今日は「時代屋」が見つかったので、そこにした。

 見た目はパッとしなかったけど、味は上々。

 ちなみに、加世田はカボチャの産地で、鹿児島県のブランドに指定されている。


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