「沙羅 ~ 恋のエピソード」(その12)“キーワードはキース・エマーソン”
夜遅く電話のコール音が鳴った。
受話器から聞こえてきたのは沙羅の声だった。
「元気?」
「普通に元気だよ」
「えっと…、ひとつ頼みたいことがあるの」
「なに、どうしたの?」
「電子オルガンの生徒のことなんだけど…」
「電子オルガン?」
「そう。あたしの生徒じゃなくて、音大卒業した先輩の生徒でね、コンクールに出る子がいるの」
「コンクール?」
自分とは無縁の単語が、次から次へと聞こえてきた。
「自由曲で参加するから選曲とかアレンジとかがいつも悩みのタネなんだって」
「そう…」
「作曲科の知り合いがいたら紹介してって頼まれたの」
「あ、そ…」
「うん。お願い」
「ごめん。なんか気が乗らないんだけど…、電子オルガンって、興味無いから扱い方とか全然わかんないよ」
突然の申し出に、ちょっとイラついていた。
卒業作品のことで頭を悩ましている自分とは、縁遠いことだ。そうでなくても、国産の電子オルガンの音は安っぽいというイメージがあった。音楽教室の発表会で奏でられるお子様ランチのように体良くまとめられた箱庭みたいな音楽。電子オルガンとは、そんなものだと思っていた。
ぶっきらぼうな言い方になっていたかも知れない。
「そんなの、めどうならすぐ解るって・・・。キース・エマーソンとか好きでしょ? あたしからこうして頼んでるんだから、そんなに簡単に突っぱねないで!」
沙羅の口調も強くなっていた。…
「うん、まあ……、いいけど…、でも電子オルガンでキース・エマーソンって…」
「電話じゃ説明しにくいから、一度新宿の教室に来て現物見てほしい」
「え…? うん……。わかったよ」
混乱していた。
沙羅の申し出を受け入れながらも、気持ちは付いていかない。ただ、拒否しなければならない理由が、即座に口から出てこなかった。
当時住んでいたアパートの最寄り駅は西武立川。西武拝島線の終点拝島の一つ手前。米軍横田基地が近く、航空機のエンジンテストが繰り返され、そのたびに爆音が響き渡った。
畑地が広がり、家畜の臭いが漂うのどかな田舎町で、都心へ出向く機会も減っていた。
新宿までの1時間。長距離移動からしばらく遠ざかっていたので、退屈を避けるために、倉橋由美子の作品集の中の1冊をショルダーバッグに入れて、自転車で駅に向かい、そして新宿行きの電車に乗り込んだ。
車窓から見える風景が次第に変化してゆき、やがて、密集したビルや都会の喧騒、肌にねばりつくような空気を少しだけ懐かしく感じているうちに、電車は新宿駅に到着した。
久しぶりに見る沙羅の姿は、田舎町で悶々としていた僕の目には、少し眩しく映った。改札付近で待ち合わせ、新宿教室に向かって歩きながらも、頭の中は、ピンぼけの写真のようにどんよりとしていた。
かつて一世を風靡したプログレもヒットチャートから姿を消し、音楽情報誌にも取り上げられなくなると、気配を感じることさえ困難になっていた。インターネットが普及する遥か以前のことだ。
そんな流行遅れになってしまった音楽と電子オルガンのコンクール。片や圧倒的な音圧を誇る暴力的とも言える荒々しいサウンド、もう片方は甘ったるいデコレーションケーキみたいな響き。
僕にとって、そのふたつは簡単に結びつくものではなかった。バラバラに混ざり合って散乱している2種類のジグソーパズルのカケラ。手を付ける気にもなれず、ただそのまま眺めているだけ。そんな気分だった。
目的地に辿り着くと、先輩先生が、写真撮影用みたいな笑顔で迎えてくれた。その頃の僕は、他人に対して、乾いた見方をする癖がついていた。
ストレートのロングヘア、スレンダーなボディにシンプルなファッション、控えめなメイクなど、“美少女”沙希とはちょっとタイプの女性に対し、軽く会釈しながら、ファッション・カタログでも見るような視線を向けていた。
「沙羅ちゃんからちゃんから聞いてご存じだと思いますけど、コンクールの課題曲では、いつも苦労してるんです。優秀な生徒を抱えてて、コンクールでいつもいいところまで行くんですけど、あと一歩というところで優勝までには届かなくて」
沙羅の2年先輩、つまりは僕と同い年のその女性。僕が戸惑っているのを察知したのかもしれない。一瞬視線を自分の足元に向け、ちょっと意外なことを口にした。
「いつもはジーンズ履いてるんですよ。でも、レッスン時はジーンズ禁止なんです。だから似合わないのに無理してスカート履いてるんですよ」
そう言って、彼女は笑った。
そこで、ようやく気付いた。そのとき自分は、心を閉ざし精気が抜けたような表情をしていたに違いない。ふと目覚めたような気分だった。
「え? そんなことないですよ。そう思っているのはご本人だけでしょう」
張りのあるアルトボイス。サバサバした感じの闊達な話し方。言われてみると確かにジーンズが似合いそうだ。
瞳の奥に光る若い女性特有の自意識がふわりと胸をくすぐり、先輩先生の明るいオーラに、ようやく気付き始めていた。
意識に変化が起こったのは、楽器が置かれた個人レッスン用の小ぢんまりとしたレッスン室に案内されたときだった。
そこに置かれていたのは、ハモンド・オルガンにそっくりのドローバーが装備されたオルガン。そのルックスがC3を模したものだということは明らかで、スイッチを入れ鍵盤に触れると、聞こえてきた音は、ハモンド・トーンにそっくりだった。電子オルガンという楽器、知らぬ間に驚くほど進化していたのだ。
C3・・・、かつて憧れたキース・エマーソンがステージでメイン楽器として使用していた機種。その魅力に肉薄するほとの進化を遂げた国産の電子オルガンが、準備を整えて、僕を「待っていた」ように思えた。
コンクールの参加要項にを見せてもらった時には、さらなる高揚感が訪れた。前年度の優勝曲、グランプリ部門が「ピアノ協奏曲第1番:キース・エマーソン作曲」、そしてジュニア部門が、「ホウダウン:コープランド作曲キース・エマーソン編曲」。
― 今まで知らずにいた世界で、エマーソンの存在が生きていた ―
ぼんやりとしか見えていなかったピンボケ画像が、突然鮮明な風景として浮かびあがってきた。
これだったら協力できる。チャレンジするだけの価値はありそうだ。
ふと我に返って何気なく左を振り返ると、部屋の隅に佇む紗羅の姿があった。それまで全く気づいていなかったが、ずっと僕の挙動を注視していたようだった。
電話で話をもらったときから、乗り気じゃなかった。それを半ば強引に説き伏せて話を進めたのは、ここに立っている紗羅なのだ。
そうか…、なぜ紗羅が僕に電話してきたのか、やっとわかった。
目が合った瞬間、僕はちょっとだけ気恥ずかしさを感じながら、小さく頷いた。
(つづく)
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