読書感想文を書いてみた話
友人の誘いに乗って、久しぶりに自分の読書感想文を書いてみた。
仕事として、毎年小学生の読書感想文を手伝うことはあるが、自分の読書感想文となると、いつぶりだろう。最後に書いたのは、中学生だったか高校生だったか。
今回、感想文の題材にしたのは、彩瀬まるさんの『森があふれる』。
普段書いているような小説は、いくらでも読まれて構わない。
けれど、自分の考えていることを書いたものが友人たちに読まれるとなると、つい“ええかっこしい”な文章になってしまう。
もちろん嘘の感想を書いたわけではない。それでも、まあ、読み物としてちょっと面白いと思ってもらいたい、という下心が出てしまった。
そんな感想文をあえてここに載せてみるのも、やはり私の“ええかっこしい”なところだろうか。
あれはたしか、小学校低学年の夏休みだったと思う。
志村けんと加藤茶が出演していたコント番組で、大量の西瓜を種ごと食べた志村がその晩に腹痛とともに目を覚ますと、体内で種が発芽し、文字通りの植物人間になるというものを見た。
一応夢オチで終わったと記憶している。
しかし志村同様、飲むように西瓜を食べていた当時の私は、それ以来、切り分けられた西瓜を見るたびに腹のあたりでモゾモゾ動く蔓を想像してしまうようになった。
まさか三十年も経って、似たような描写に出会うと思わなかった。
彩瀬まるの『森があふれる』を読んだ。彩瀬氏のデビュー作もそうだが、本作も女性性やジェンダーにまつわるドロっとした部分を素手で掴んで白日に晒すような雰囲気がある。
作家・埜渡徹也(のわたりてつや)のひと回り年下の妻・琉生(るい)が、突然、大量の植物の種を飲み、倒れる。翌日、琉生の毛穴から皮膚を突き破って出てきた芽がやがて森となり街をも侵食しはじめる、というのが本作のあらすじだ。
長年徹也を担当してきた男性編集者、徹也の不倫相手、若い女性編集者、徹也、そして琉生へと視点人物が交代しながら物語は進む。
一見荒唐無稽に思える設定の中で、各登場人物がそれぞれのジェンダー観で身近な異性や自分を縛ったり縛られたりしている。
例えば、お嬢様として育った女性が「分かりやすく弱みが際立った女は、愛される」と気づいたり、男社会の枠組みで他人と競う人生を送る男性が「勝ち抜いたって、良いことなんてなにもない。ただの呪いだ」と言ったりという具合に。
人間が森になるという非日常。そこに肉薄した日常にジェンダー観が置かれていることで、私は不用意に自分の中にある剝き出しのジェンダー観を踏み抜いてしまう。正しくて、同時に正しくないからこそ、おぞましい。その居心地の悪さから目が離せなくなる。
自分を拒否して去った恋人が「変わらず存在し、なにかを思い、なにかを行っている」。冷静に考えれば、その通りだけれども、それは「複雑な焦燥を掻き立てた。それは話が違うのではないか、と騙されたような気分すらある」。ああ。
いつかの夏、私の上を通り過ぎていった恋人は、今も老いることなく記憶の中にいる。その不自然さを唐突に突き付けられた気分になった。
作中、「女というのは錘(おもり)なのだ。口を開けばいつも正しさしかないことを言って、人生だの生活だの愛情だの義無だの、人を簡単に殴り殺せそうな重苦しい概念を当然のように押し付けてくる」とある。
これを書いたのが、女性だという事実に私は戦慄する。
私は、時間の樹海を掻き分け、記憶の中の恋人に会いに行く。
年相応になった姿を想像してみる。
自由になった恋人は、木々の向こうの光の中に消えて見えなくなった。