見出し画像

何も考えないで本を読みたいときがある

わたしは太宰治や江戸川乱歩が好き。でも、彼らの作品を四六時中読めるわけではない。ちょっとした移動時間のときは、ライトな作風のエッセイを持っていったりするし、長い待ち時間があるときは、ミステリ小説を持っていくこともある。翌日何の予定もない、静かな夜のときに、温かい飲み物と一緒に読むのが、太いハードカバーの海外作家の本や、太宰や乱歩といった作品だったりする。

でも、そうじゃなくて何も考えないで本を読みたいときがある。「あー、これはもうダメな本だな」って言いながら、そしてそれを分かっていて、そういう作品を読みたいときがある。


実はわたしの家には、(最近はあまり更新されていないけれど)「ダメな本」だけが入っている段ボール箱がある。読み終えたあと、また読んでいる途中で「こりゃダメだ」と思ったものは、のちに売る(または捨てる)ために、この段ボール箱に入れておくのだ。ダメだと思う理由は、下品さがウェイトを占めて中身がなかったり、自意識が先走っている何が言いたいか分からない物語であったり、ただただ文体が自分にあわなかったり、単純につまらなかったり、などなど。

本当にたまに、この「ダメな本をもう一度読んでみるか?」という思いの湧く日がある。大体は、読んだときのあの”やめときゃよかった”とか”時間を返せ”を味わう羽目になるから、手を出さないんだけど、先日ついにその段ボールに手を伸ばしてしまった。それほど「何も考えないでダメな本を読みたい欲」が強かったのだろう。

ホコリを被ったその段ボール箱を半ばドキドキしながら漁ってみると、自分が読もうと思っていた作品はどこにもなかった。前回この段ボールに入れた「ダメ本」はすでに売ったか、捨てたかしていたようで、今この段ボールに入っているのは、比較的最近になって投入された「ダメ本」だけが入っていたのだ。


なぜだか少しだけガッカリする。今その段ボール箱に入っているダメ本は正直読む気にならないから、大人しくその場を離れた。と同時に、随分早い段階で前回のダメ本を手放したんだなあとビックリする。確かに、前回読んだ作品たちはあまりのダメさ加減に、さっさと捨てちまえ!と珍しくプリプリしていた気がする。(もう一度読み返す機会なんて、二度と来ないだろうという強い思いさえあった)

とにかく、そんな必要ないのに、ガッカリ気分の自分が情けないので、絶対にいい本!と確信を持ちつつも、まだ読んでいない本棚の作品たちを再び物色した。何も考えないで読める作品ではないが、まずはこれらを読む方が先ではないか、と思えてきたし、そこに並ぶ乱歩の作品などを見て、「やっぱり乱歩先生の作品がベスト オブ ミステリーだよな…」と感慨にふけながら、数冊の本を手に取るのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?