個人的『論語』まとめ
はじめに
先日、『論語』(岩波文庫)を読んでみました。
これは簡単に言えば孔子の教えの核心部分である仁(人を思いやり愛する心)と礼(仁が形式として現れた礼儀作法のこと)などについての孔子やその門人(弟子)たちの言行が綴られている書物になります。
内容を一言でまとめると「仁と礼が何よりも大事ですよ」みたいな感じなると思うんですが、そういった要約をしている本なりサイトなりはたくさんあると思うので今回はあくまで僕自身が個人的に印象に残った節とその現代語訳、そして考えたことや色々なエピソードなんかも一緒にまとめていきたいと思います。
『論語』に収録されているどの話をどんな順番で孔子が話したり門人たちが語ったりしたかは未だに不明なのでこの記事についても気になったところから読んでもらっても大丈夫です。
それから、勝手に副題的なものを付けたのでそれを見て気になった部分だけ読んでみるというのでも大丈夫です。
また、表記については(漢字をいちいち書くのが面倒なので)以下のように簡略化して記述していますのでご了承ください。
何巻の何章の何番かなどの詳細が気になる方は実際に『論語』を手に取ってみてください。
では始めていきましょう。
3-6-20 ~「楽しむ>好む>知っている」~
子の曰(のたま)わく、これを知る者はこれを楽しむ者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
訳:「知っているというのは好むのには及ばないし、好むというのは楽しむ
のには及ばない」と先生(孔子)は言われた。
この節の意味合いを「何事も楽しんでやっている人には勝てない」というように捉えられる場合が多いように思われますが、さらに踏み込めば、「何事も“自分が楽しみたいからやっている人”には勝てない」ということだと思います。
現代社会は「他人にどう思われるか」に重点が置かれがちな社会であるため、“自分の感情”というのを意識して持っている人は少ないでしょう。
「周りがみんなやってるしやらなきゃ仲間外れにされちゃうかも」
「流行ってるんだから面白いに違いない」
そんな風に思い立って始めたことは何でも、あなたが楽しみたくてやっているわけではありませんよね。
だから本当の意味では楽しめないのです。
何事も始める前には他人と比較せずに、自分の心にだけ聞いてみてから始めてみることが大切だと思います。
隣の芝生は青く見えるかもしれませんが、思ってるよりも青くなんかありません。
5-9-18 ~「美人>徳」な現状~
子の曰わく、吾れ未だ徳を好むこと色(美人)を好むが如く(愛するほどに)する者を見ざるなり(見たことがない)。
訳:「私は美人を愛するほどに道徳を愛する人を未だに見たことがない」と
先生は言われた。
これに似たような節が『論語』にもう一節収録されていたので(8-15-13)孔子が心の底から思っていたことなのかもしれません。
また、「美人=物質」、「道徳=非物質」と捉えれば、「今の時代(孔子の生きた時代)の人々は、モノ(物質的なもの。お金や美男美女、物など)には目がなく、目に見えないもの(非物質的なもの。地位、年齢の差による尊敬の念や友情、義理や人情など)は大切にしない」というような解釈もできます。
『星の王子さま』に登場するキツネの「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」という有名な台詞がありますが、これこそこの節の核心を突いているものではないでしょうか。
目に見えないからこそ、それらにより意識を向けなければなりません。
5-9-24 ~綺麗事に賛同するだけでは…~
子の曰わく、法語の言は、能(よ)く従うこと無からんや。これを改むるを貴しと為す。巽与(そんよ)の言は、能く説(よろこ)ぶこと無からんや。これを繹(たず)ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従いて改めずんば、吾れこれを如何(いかん)ともする末(な)きのみ。
訳:「正しい表立った言葉には従わずにはいられないが、それで自分を改め
ることが大切だ。優しい言葉には嬉しがらずにはいられないが、その真
意を探ることが大切だ。喜ぶだけで探らず、従うだけで改めないのでは
私にはどうしようもない」と先生は言われた。
現代はSNSなどで投稿された個人的な主張も、賛同者が多ければ正しいことのように見えてしまいますが、それは本当に正しいことなのでしょうか?
例えば「差別は良くないからするべきではない!」というSNS上の書き込みにたくさんのいいねがついていて、自分自身が賛同できたとしても、あなたもきっと誰かを差別しているし、その投稿に賛同している多くの人々も無意識のうちに誰かも差別しているかもしれません。
共感していいねを押しただけでは何も変わりません。
また、発信者側の視点に立って考えると、「差別は良くないからするべきではない!」と言っているだけで差別を是正するようなことを何もしていないのならその言葉はただの承認欲求を満たすための道具であるのみであり、それ以外何の意味も成しません。
大切なことは言葉の表面上の意味に共感や賛同することだけではなく、自覚して内省し、自身を改めることではないでしょうか?
また、真意のわかりづらいネット上の発言を言葉のままの意味で受け取ることすら間違っていると思います。
発言者の真意を探り、発言の本当の意味を考える必要もありそうです。
6-11-21 ~弁論だけで人は判断できない!~
子の曰わく、論の篤きに是れ与(くみ)すれば、君子者か、色荘者か。
訳:「弁論の篤実さのみで人を判断したら、君子なのか、それともうわべだ
けの人なのかはよく分からない」と先生は言われた。
一時期、相手を論破するというのがネット上などで流行ったり、「論理的思考こそ至高」というような宣伝文句のビジネス書なども登場したりしました。
しかし弁論が得意であったり、段階的に考えられることが必ずしもいい結果を生むわけではないと思います。
論理というのは理性に基づいた思考形式であり、感性(生理的な感覚や感情など)をできる限り排除したものではあるものの、その土台には必ず感性が存在します。
論理の構築に固執しすぎると、その土台には感性があるということを忘れてしまい、たとえ論理が完璧でも、他者が同意できないような論理が出来上がってしまいます。
感性による一定の非合理性の基に人間の論理があるため、その土台を無視して理性のみに頼って考えるということはできないのです。
会社の会議などで他者の意見を論破できたところで何も生まれませんよね。
大切なことは現状、実現可能性と感性を加味しながら論理を構築していくことです。
また、そもそも言葉だけで人間の本心や本音というものはわからないものです。
インターネットが発達し、SNSなどでのやりとりが今後も増加していくであろう現代であれば尚更心得ておきたい教えです。
7-13-26 ~孔子と老子~
子の曰わく、君子は泰(ゆたか)にして驕らず、小人は驕りて泰ならず。
訳:「君子は(常に)落ち着いており威張らないが、小人は(常に)威張っ
て落ち着きがない」と先生は言われた。
孔子より後年の思想家である老子の言行が綴られたとされる『老子』には「知る者は言わず言う者は知らず」という言葉があります。
「物事を深く知る者はみだりに口に出さず、やたらと色々言いたがる人ほど物事をよく知らない」という意味の言葉ですが、この節と似たようなことを指摘しているように思えます。
孔子も、老子も人間の本質を鋭く抉っていて感心させられます。
7-14-11 ~できるならやれ!~
子の曰わく、貧しくて怨むこと無きは難(かた)く、富みて驕ること無きは易し。
訳:「貧乏でいて怨まないでいるのは難しいことだが、金持ちでいていばら
ないでいるのは(前者に比べれば)容易なことだ」と先生は言われた。
要約すれば「優しくあれる人は優しくあるべき」というところでしょうか。
現代はどうしても他者と比較をせねばならない場面も多いですよね。
そして他人を見下し、また逆に見下されることも多くなりがちです。
しかし、見下し見下されというのを続けていては世界は今まで通り憎しみの連鎖が続いたままで何も変わりません。
そこで孔子はこの節で「優しくあれる人は優しくあるべき」という提案を訴えているのではないでしょうか。
事件の犯人に罵声を浴びせるよりも、そんな人を生まない方法を考えたりする方がよっぽど役に立つし、不祥事に乗じて悪口を言うよりも、自分がそうはならないように努めたりする方が自分のためになるなど、できる人ができることを少しずつでもやっていけば、優しい世界になれる日も来るかもしれません。
7-14-21 ~恥を知れ!~
子の曰わく、其の言にこれ怍(は)じざれば、則ちこれを為すこと難し。
訳:「自身の言葉に恥を知らないようではそれ(言ったこと)を実行するの
は難しい(言葉を慎んでこそそれを行えるのだ)」と先生は言われた。
この場合の「恥」はどういったものなのでしょうか。
「恥とは何か」と言われれば、「自分が何かをしでかしてしまったがために周囲から責められたり笑われたりするときに感じるもの」だというように感じるかもしれませんが、この節の場合の「恥」とは「周囲は何とも思っていないけれど、自分だけは内心何かしでかしてしまったと感じているもの」だと思います。
周囲から責められたり笑われたりしたわけでもないのに心の中で感じているもやもや。つまり内省することです。
さらに踏み込めば、「自分の言葉に責任を持つこと」だと思います。
例えば知識を「知っているもの」と「聞いたことしかないもの」、さらに「知らないもの」に意識的に区分して発言し、むやみやたらに断言しないことです。
「○○って知ってる?」と聞かれて「知らない」と答えれば知識をひけらかすような人はあなたの身近にいませんか?
そんな人にその事項(この場合○○)について様々な質問をしてみると、いかにそれについてその人が無知であり、また無知であるにも関わらず様々なことを断言しきっているのかがよくわかります。
彼らは自分の言葉に恥を感じていないのです。
「インターネットは嘘だらけだ」と人は言いますが、現実にも真実なんて滅多にないのだと思います。
だからこそ、この教えを知った我々は自身の言葉にできる限りの責任を負わねばならないのだと思います。
7-14-25 ~本当の修養とは?~
子の曰わく、古えの学者は己(おの)れの為(た)めにし、今の学者は人の為めにす。
訳:「昔の学んだ人は、自分の(修養の)ためにしたが、この頃の学ぶ人は
他人に知られたいためにする」と先生は言われた。
近頃はクイズ番組であったり、雑学系の書籍が人気を博しているように感じていますが、僕はあまり好きではありません。
というのも中学、高校の頃に、朝教室に着くと昨晩のクイズ番組の問題をあたかも自分が考えたかものであるかのように披露したり、知識をあたかも独学で習得したかのように豪語する人たちが多く、彼らの見栄っ張りみたいなものが嫌いでした。
そこで僕は彼らに「それは何故なのか?」などと初歩的なことについて純粋な質問を繰り返しました。
しかし僕の質問に答えられた人は誰一人としていませんでした。
つまり、彼らの知識は体系化しておらず、しかもそれは見栄を張るため、もっと言えば他人に自分をよく見せるために習得されたものだったのです。
(↓最初にこの質問責めを始めたときのエピソードはこちら)
ただ教わるだけでは本当の知識にはならないんです。
大切なことは内省し、実践し、思索して知識を体系化して自分のものにすることなのです。
7-14-35 ~孔子とソクラテス~
子の曰わく、驥(き、一日に千里を走るという優れた馬)は其の力を称せず、其の徳を称す。
訳:「名馬はその力を褒められるのではなく、その徳(性質の良さ)を褒め
られるのだ」と先生は言われた。
ソクラテスの主張した思想の一つに「徳(アレテ―)」という考え方があります。
『哲学用語図鑑』(プレジデント社)に示されている例を借りて説明すると、靴はファッション、つまり装飾品にも、犬のおもちゃにもなりえますが、そもそも靴は履けなければ靴とは呼べないため、「履きものとしての靴」という性質が一番重要なものになります。
つまり「靴の徳(アレテ―)は履くこと」ということになります。
この考え方に沿えば、この節で言われている驥(一日に千里を走るという優れた馬)の徳(アレテ―)は「力強いこと」でも「颯爽としていること」でもなければ「速いこと」でもなく、「走ること」なのではないでしょうか。
我々は荷車を引かせて運んだり、人を乗せて走ったり跳んだりなどの馬の「走る」という性質を様々なことに利用しています。
「我々は無意識に周囲の様々なものの本質に気づいているのではないか」と孔子とソクラテスが我々に向かって同時に訴えているような一節です。
7-14-45 ~孔子、激怒する~
原壌(孔子の幼馴染でろくでなし)、夷(い)して俟(ま)つ。子の曰わく、幼にして孫弟ならず、長じて述ぶること無く、老いて死せず。是れを賊と為す。杖を以て其の脛を打つ。
訳:原壌が膝を立てて座って待っていた。先生は(原壌から)「(お前は)
幼い頃はへりくだらず、大人になっても言うほどの名声や実績もなく、
年寄りになっても死なないで生きている。こういうのを(人に害を与え
る)賊というのだ」と言われるとその脛(すね)を杖で叩かれた。
いつも落ち着いていて礼儀正しい孔子がついにブチギレちゃいました。
本当にブチギレちゃったのか、それとも冗談で叩いただけなのかは正直わかりませんが、こんなに言われたら怒ってもしょうがないのかもしれませんね。
皆さんは誰かにからかわれても孔子のように手を出すなんてことはないようにしましょう()
8-15-9 ~何よりも大切にしたいもの~
子の曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。
訳:「志や仁のある人は命惜しさに仁や徳を害するようなことはしない。時
には命を捨てても仁や徳を成し遂げる」と先生は言われた。
先程も登場したソクラテスは「善く生きること(欲望のみに生きるのではなく、徳を知って正しさを見出し、それに従って生きること)」という目標のようなものを掲げていました。
ソクラテスの問答によって無知を暴かれてしまった当時の知識人たちは、ソクラテスが異教(国が勧めている信仰に背いた教え)を信仰し、さらには若者たちをたぶらかしているという2つの罪をでっちあげて訴訟を起こし、最終的には民衆の投票によってソクラテスには死刑が求刑されました。
死刑が行われるまでの間、ソクラテスは常に逃亡できる状態であったにも関わらず、また弟子たちに国外逃亡を勧められても逃げ出すことはなく、最期には「悪法もまた法なり(悪い法律であろうがそれが法律として定められている以上はそれに従わねばならない)」と言い残し毒が注がれた杯を仰いで死にました。
ソクラテスにとっては「自分が生きている国の法律に従う」ということが「善く生きること」の持つ意味合いの一つだったわけです。
そして彼はそれを最期まで貫いたのです。
彼のような態度、姿勢、志こそがこの節が言わんとしていることなのではないでしょうか。
8-15-15 ~人を責めるのなら自分を責めよう!~
子の曰わく、躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨みに遠ざかる。
訳:「我と我が身を深く責めて、人を責めるのを緩めていけば、怨みごとか
ら離れるものだ」と先生は言われた。
自分にも非があるのに他人のせいにしてしまうなんてことは誰しも一度は経験したことがありますよね。
誰の言葉かは忘れてしまいましたが「できない人はできない理由を、できる人はやれる手段や方法をまず考える」というのを聞いたことがあります。
前者は自分から外側に原因や問題点などを求めていますが、後者は自分自身に様々なことを問いかけています。
後者のようであれば成功者であり、孔子に言わせれば君子ということなのかもしれません。
ただ他人を責めるだけではなく、自分の責任として捉えることの大切さを訴えている節です。
また、岡田斗司夫さんは“正しい”人の見下し方というものを提案しています。
これも自分の責任として捉えるという点ではこの教えに似ているのかもしれません。
8-15-28 ~盲従するな!~
子の曰わく、衆これを悪(にく)むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す。
訳:「大勢の人々が憎むときも必ず(それについて)調べ、大勢の人々が好
むときも必ず(それについて)調べてみる(決して盲従はしない)」と
先生は言われた。
流行というものがありますが、それにただ盲目的に従っているという人は僕も含め多いのではないでしょうか。
何かについて盲目的になるということは迎合するということです。
迎合するということはその何かについての良し悪しや賛否の判断などの批評ができなくなるということです。
そうなってしまうと自分の考えというのが見えなくなり、いずれは自分さえも見失ってしまうでしょう。
そうなってしまっては「生きている」というよりも「死んでいないだけ」というような人生になってしまいかねません。
自分の人生を自分のものにするために、「盲従しない」ということを意識することが必要不可欠なのかもしれません。
最後に
いかがだったでしょうか。
今回はあくまで僕個人が気になった節をまとめただけなので、あなたが面白いと思えたり、感心させられる教えは他にもたくさんあるかもしれません。
この記事を読んで『論語』が気になった方は実際に是非手に取ってみてください。
加筆修正をしつつ、次回の記事はより皆さんに伝わる文章を心がけたいと思います。
最後までこのような駄文を読んでいただきありがとうございました。
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