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梅雨の土曜日、扇風機のノイズ、水溜まりとひび割れた雨樋から零れるポリリズム(または上品について考えたこと)

一日中家にいて、寝て起きてまたまどろんで、美容室に予約を入れていたはずだけどリマインドメールが来ないなと思って確認したら私の入れた予約はどう見ても来週と書いてあるので、もう二度と、酔って予約といった類いの行為はしないぞと、心に誓うのだった。

本当は今日は、滋賀県まで田植えの手伝いをしに行って夕涼みにはUFOを呼ぶとかいう、怪しげだがなんとも楽しそうなイベントになる予定で、しかしそれが雨で中止になり美容室も予約を間違えて今日ではなくなり、降り続く雨の音と梅雨入りした京都の気温・湿度・気圧は、美容室に行きそびれたショックでじゃあもう衝動的に尼になってやろうかというくらいの勢いあるアンニュイを私に与えて来るのだった。

土曜日の休みという、飲食店勤務にとっては貴重な休みを楽しむつもりでいた私はすっかりしょげて、暑くなって換毛がはげしい藤太君を一日中暇があればブラッシングし、ずっとPCでセーラームーンRを観て、借りているご本(内田百閒の「御馳走帖」)を読み進めたりしていた。

どんどんレディになっていくうさぎちゃんを観ながら、”上品”とはなんだろうと思っていた。上品さは、私に足りないことは間違いなく、しかしまったく、どうすれば上品に近づけるのかわからなかった。上品とは、ある種「素養」とか「育ち」とかを基にした概念のような気がして、私には到底たどり着けない種類の色気であると考えていたし、実際私はそんなに上品ではないと思っていた。声は大きいし、しゃしゃり出るし、大酒飲みだし食いしん坊だし。でもそういった部分に共通を感じる友人たちでも、私が持たない上品さがあるし、つまりは私の仮定は覆される。でも決して私は私のことを、まったく下品だともまったく上品だとも言い切れるほどでもなく、ただただ、あの上品な人たちはどうしてあんなにも何をしても上品で居続けられるのかしらと、うーん…と、上品に関する考察が行き詰っていたところに、永井均の言葉を見つけてこれだと思った。

「根が明るいっていうのは…自分自身で満ちたりてるってことなんだ。なんにも意味のあることをしていなくても、他の誰にも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ。それが上品ってことでもあるんだ。」(永井均「子どものための哲学対話」)

この永井均が言う「ネアカ・ネクラ論」で、ネクラ(下品な人)は価値基準が他人にあって、道徳を気にする。ネアカ(上品な人)は、目標ではなく過程を楽しみ、ずるをせず自分自身で満ち足りていてる。とも書いてある。

ああ、これだ。自分自身で満ち足りている、ということ。わたしが思う上品なひとに抱く感覚としてものすごく近くて腑に落ちた。

半分は気づいていたし半分は気づいていなかったけど私はまだ揺らぎの地点にいる。ひとりで立っているうちは、自分自身で満ち足りているという感覚に近づけるようになった。と思う。なのに、その重心に何者かが干渉してくる気配がとたんに耐えられないのは、そういうことなのだと思う。わたしはわたしの重心を私の丹田の中心に根差さなければならないと思った。今夜も、瞑想をして眠る。

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