境界線についての集団的独語
幼児は他者とのコミュニケーションのために外言(音声を伴う言語)を獲得したのちに自己とのコミュニケーションの道具として内言(音声を伴わない言語)が発生するが、その過程で自己中心的言語(集団的独語)というものがみられる。誰にともなく発せられる言葉。これから書くのはだいたいそれに近いような言葉たちだと思ってほしい。私が私と対話していく言語を得るためのリハビリとして、しかし他者の目に触れる場で独り言を書く。
いつからだったか、私は気持ちや思考を言葉にするのが苦手になった。とても憧れる行為なのだけれど。思いの丈や思いの程、どのような機微があってたどり着いた気持ちなのか、何と何が組み合わさって育まれた思考なのか、心や脳内の内容を取りこぼすことなく伝えたい、伝えなければならないという、網羅的であるべきという、完璧主義な性質に従ってずっと言葉を使っていた。それが出来なくなってからは何事も言葉にするのが怖かった。完璧に伝えなければ真には伝わらないと思ったし、中途な内容でそれが私の内部の全量であると勘違いされることを嫌った。私は、私が伝えることの出来た、またあなたが受け取ったその程度ではないのだと訴えたかった。(正直、この程度なのだと浅さや薄さを知られるのを恐れていた場合も多々あった。全くもって自意識過剰である。)ああ、言葉に全てを乗せることができればと、それができていたかつての自分に憧れていた。言葉にはその力があるが、私には使いこなせなくなってしまったと思った。自分の無力を思い知った私はそうして言葉にすることをやめるようになった。悲しきかな、気付けば浅いことばかり周りの人に垂れ流すようになっていった。本末転倒である。
私は、全てが伝わることが共生への唯一の道だと思っていたらしい。みんなと親しくありたい。みんなの気持ちを全部理解したい。言葉を尽くすことができさえすれば私の気持ちは残らず全部伝わるし、私がそうすれば相手も応えて言葉を尽くして気持ちを伝えてくれる。だから言葉を尽くしたい。そう思っていた。それさえ出来れば理解してもらえるし理解し合えるのに、と思った。理解できなかったとしても半分を互いに諦めて折り合いをつけることはできる、人には皆それを行えるだけの最低限の理性と知性と心が備わっているはずなのだから、それでこそ人間を名乗っているのだから。なぜだったか、本気でそう思っていた。(中3のとき、英語の弁論大会で熱心に訴えたのもこれに基づいた内容だったことを思い出した。カトリックの学校で代表に選ばれ、県大会でも絶賛され県代表となり、東京での中央大会で惨敗したのは今考えるとおもしろい。)それは結局のところ一致が正義だと思っていたのである。あくまで一致を指向していた、そんな私が鬱になってそのようなおぞましい程に健気な信念も持っていられなくなり、善はどこにと迷子になった。5年も迷子だった。そして去年やっと1年をかけて境界線の蓋然性をさとり、必要性に気付いた。
一致が正義と思っていた頃から迷子になり始めの頃までの間、自分と人との間に明確に線を引かれるとその引いた線を消去するようすがって懇願した。その人がそのような行為に至った経緯を考えに考えを巡らして考え、原因を内に外に探し求めて、それが解決すれば引かれた線は不要なものに帰すと信じて疑わなかった。適切な距離感が分からなかった、という言葉では済まされない。境界線の意識が欠如していた。人と人の間に境界線があることを分かっていなかった。知らなかった。線はもとからして存在し、近づいたことで重なり、そして交わり、しかし離れれば線はもとのように存在するのに、それが恣意的に引かれた、交わったものを切り離すための線だと錯覚していた。
冒頭でいつからだったかととぼけたが、私が言葉に不自由さを感じるようになったのは鬱になってからである。そして境界線を知ったのは鬱発症から5年経った去年。治療の一環として受けている認知行動療法の講義やミーティングを経て気づくことができた。
今の私にとって言葉は境界線を引くためのツールだ。言葉にしないことで混沌と混じり合ってしまっていた自分の思い、他人の思い、事実や認知を、言葉が穏やかに選り分け、それぞれに形を与え、その形の線が境界線となって整頓されていく。いや本来形はあるし、だから当然境界線もあるのだけれど、それは私には薄い線のようで見えにくかったところを、言葉がインクのように線を濃くなぞってはっきりと見えるようにしてくれる。まだ上手になぞれている気もしないけれど、線があることをいつも意識できるようになっただけ、途方に暮れる迷子ではなくなった。
言葉で境界線をなくしたかった少女は、言葉で境界線を自覚する平穏を知った。書きながら養老孟司の『バカの壁』を思い出していた。もっと昔からもっと本を読んでおけばこんなシンプルなことに気づくのに時間はかからなかったように思われるが、読んでなかったものはしょうがない。四半世紀生きる前に気づけて良かったじゃないかと思う。
さて書けた。他人が読めばつながりの怪しい浅い文章だろう。だがこれは独り言なので気にせず投稿してみようと思う。