日記 おばあちゃんと踊る
今日は残業がない日。朝から天使のような妻に「たまには一人で飲んできたら?」と言っていただき、そうさせていただくことにした。自宅に三人の天使がいるので心苦しいが、一人の時間も楽しめてこそかっこいい大人というものであろう。
わしわしと仕事を定時で終わらせ、電車に乗って目的のお店に向かう。最近朝晩がめっきり涼しくなってきたので、あったかいおでんが食べたいなあと思い調べたら会社と自宅の間に良さそうな立ち飲み屋さんを見つけたのだ。
お店に入ってみると、カウンターの向こうから女将さんの「いらっしゃい」という優しい声が聞こえてくる。店内はカウンターとその背中合わせにもカウンターがあるだけのシンプルな感じ。なかなか古いけどきちんと掃除されていて、そのお店が長く愛されている歴史が見える。お店に入った瞬間にもう居心地が良くて「あ、当たりのお店だ」と思った。
とりあえずビールとおでんを適当に頼む。福岡のおでんには餃子を魚のすり身で巻いた「餃子巻き」というのがあると知って楽しみだったが、このお店にそんなものはなかった。でもごぼう巻きがあったのでうれしい。
「はーいおでんね」と私の前に皿が置かれた時、優しい出汁の湿気がもわーんと顔にかかる。このはじめのときめきがなんともいえない。おでんはもう湿気からおいしいんだな。おいしさが食べる前から始まっている。
私が煮崩れ寸前のごぼう巻きをはふはふ齧っていると、隣から「あんた立ち飲み屋ではおしゃべりば楽しまんばいかんよ」と知らないおじいちゃんが話しかけてきた。お店の常連さんという雰囲気で、先ほどから他のお客さんと話していたんだけど、私が見慣れないので話しかけるタイミングを伺っていたんだろう。
おじいちゃんは「あんた出身はどこね?」「学校はどこばでたと?」「今はどこに住んどっとね?」「仕事は?」と矢継ぎ早に私の個人情報を聞いてくる。まあ悪い人ではなさそうなので正直に答えると、なにが面白いのかいちいちとてもうれしそうに頷いてくれた。でも履歴書1枚分くらいの情報を話したので、もしかすると明日にはどこかの闇バイトに申し込まれているかもしれない。
おじいちゃんはたまに後ろの方を振り返り「お兄さん長崎の出身だって!」とか大きな声で話している。なにかと思ったら、おじいちゃんの体に隠れて小さいおばあちゃんが奥にいた。この人もこのお店の常連さんという雰囲気だった。
おばあちゃんは私に全国のいろんな温泉に行った話を聞かせてくれ、「私はそこで芝居を見るのが好きと。私も踊るけんね」と言ったかと思うと、「こ〜んな感じよ」とその場でゆらゆらと踊ってみせた。それは民謡にもフラダンスにも見えるなんとも言えない不思議な動きだった。音楽もないのでジャンルがわからない。
陽気なおばあちゃんだなあと思って楽しく見ていると、おばあちゃんから急に「ほら、お兄さんも一緒に」と言われた。ええ、一緒にもなにもこの踊りを?と思ったけど、でもおばあちゃんがあまりにも楽しそうだったので私も見よう見まねで適当に腰を振ってみた。狭い店内の真ん中で謎のダンスを踊る二人。ここはもはや立ち飲み屋ではなくクラブであった。
おばあちゃんは少し顔が赤くなっていた。ケタケタと笑い、それから「お兄さんいいねえ。私のパートナーになってくれんね。ほらこれあげるけん」となぜか朝の定食に出てきそうな海苔を私にくれた。まさかおばあちゃんからナンパされる日がくるとは。ノリではなく、海苔で。
その後も私の机には頼んでもない焼鳥などが来て、これは?と聞くとおばあちゃんがご馳走してくれたのだった。会計をするとびっくりするくらい安かったので、それも少し出してくれたのかもしれない。
帰り道、あれはなんという踊りだったんだろうと考えたけどやっぱりわからなかった。楽しい夜だった。