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【344/1096】断片化されたわたしたちを癒す(1)

344日目。今日は食べたかったランチを食べて、駅前で、初めて!タピオカドリンクを買って飲む。満足♪満足♪


子どもの送迎から手をつないで帰る道で、
「死ぬとき、一番いいのは、眠って起きたら死んでるってことだよ」と言う。
それを聞いて、祖父はそのように死んだんだったと思い出した。私が生まれる前の話だが。
私もそのように死にたい。

生きているのがあんまりつらくて、どうにもならなかったとき、こんなにつらくて苦しいのに死なずに生きているのだから、きっと死ぬときは楽に死なせてくれるに違いないという考えが、私の支えだった。

私は幼少期、だいぶ複雑に解離して生き延びたので、自分の大部分が断片化している。

断片化(パーツ)というのは、比較的新しい考え方だと思うけども、40年くらい前からあるインナーチャイルドという言葉は聞いたことがある人もけっこういるのではなかろうか。

「身体はトラウマを記録する」というベッセル・ヴァン・デア・コーク氏の本が日本で出版されたのは、2016年である。

それまではトラウマの治療は、認知にアプローチする手法が多く使われてきた。(認知行動療法やカウンセリングなど。)
しかし、認知的な療法で、ものすごくうまく回復する人がいる一方で、共感によって癒す作業がさらにトラウマ化する人たちも多数いた。

トラウマを抱える人が、個人の人格やアイデンティティが断片化され、区画化されているという考え方は、まだあまり広く知られていない。
ヴァン・デア・コーク氏が、トラウマ関連の障がいは、出来事によるものではなく、身体、脳、神経系の症状なのだとした。

これより以前に、アントニオ・R・ダマジオ氏が「デカルトの誤り」を出していて、それまでの論理がひっくりかえった。
まさにパラダイムシフトである。
ダマジオ氏は、かの有名なデカルトの「我思う、故に我あり」は誤りであるとした。つまり、「身体無くして心はない」という論(ソマティック・マーカー論)である。

(ちなみに、このデカルトの誤りは、かなり難解で読むのに苦労した。)

特に、幼い時に継続して受けたトラウマ症状は、わたしたちを簡単に断片化する。
セラピストやカウンセラーとの関係性は良好なのに、一向によくならないと言う場合に、このパーツの存在を見ていないことが多い。
トラウマへの正常な反応として、この断片化は起きており、わたしたちは、安全でない世界を生き延びるために適応した結果、断片化するのである。
断片化したパーツは、幼い子どもの状態であることが多い。

自分の中にいる、幼い断片化されたパーツたちに、愛着を持ちつながると、心身は変容する。
私の提供するセラピーはこれをしている。

虐待やネグレクト、様々なトラウマを体験した人は、自分の内部で断片化し、パーツを区画化することで適応しているため、内側でトラウマに夜葛藤が常に存在する。
(左脳と右脳が脳梁でうまくつながっていない状態らしい)
自分の中に、これは「自分だ」と認めやすいパーツと、「自分でない」かのように無視され、否定されているパーツたちがいる。
そのため、常に「偽っているような」感覚を抱え続けることになるのである。(トラウマによる内なる葛藤は、「死にたいけど、生きたい」というようなものである。)

断片化されたパーツは、その数の分だけ、その神経回路を持っている。
防衛反応を引き起こす神経回路である。
断片化されていればいるほど、その回路の発露は複雑になる。
なぜ?なにが原因でそれが起きるか?の特定が非常に困難になる。
これをすべて言語化することは不可能である。
身体が自動で発動している(すでにそれは無意識下で作動しているので)ことを、すべて言語で説明することが不可能なように。

断片化しているパーツは、過去と現在の区別ができない。
トラウマの記憶は通常の記憶と違って、海馬と前頭前皮質を使えないため、感覚の中に浮遊している。
つまり、時系列や、物語として記憶することができない。
なので、過去の記憶から来るものであっても、常に今感じているような感覚となる。
そしてそれは圧倒的なのである。
(圧倒的とは、幼い子どもが感情をコントロールできずに爆発しているさまを思い浮かべるとよいかもしれない。)

つづく。

では、またね。


私のセラピーはこちらをどうぞ。


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Mayumi INABA
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