【58/1096】ちゃんと泣けてよかった
58日目。久しぶりに子どものお迎え要請の電話をもらう。自宅で仕事をしていると、調整が早くできてお迎えも早く行けるので助かるなあと、会社員時代と比べてすごく恵まれていることに感謝。いろんな人に助けられて、いろんな人に見守られて、今があるのだなーと思います。
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子どもの習い事に送っていって、いつもなら教室の前まで送るのだけど、その日は急いでいたので、教室の入り口が見えるところで自転車から降ろして、「いってらっしゃい」と送り、そのままダッシュで戻っていった。
自宅に戻って、携帯を見ると子どもから着信があり、折り返すと、
「ママ、今日、お教室おやすみだった。シャッター閉まってた。(泣)」
と、ちょっとしゃくりあげて泣いた。
ああ、急いでいて確認していなかった、そして今日に限って、教室の前まで行かなかったのは失敗したーと思ったけど、後の祭り。
教室の前まで迎えにいくよ、というと、もう歩き出しているという。
途中で待ち合わせして、慌てて下の子を連れて迎えに行く。
私の顔を見たら、顔をくしゃっとして泣き出した。
赤ちゃんの時と同じ顔をして泣くなあと思う。
安心したのか、大泣きだった。
ちゃんと泣ける子になってよかった、と思う。
そして、こういう時は、盛大に泣きたいだけ泣いてもらうことにしている。泣いている途中で「もういいでしょ」とか、「わかったから泣き止んで」とか、なんとか泣き止ませようと邪魔することはしないで、ひとりになって怖かった気持ちや、ママが教室の前まで来てくれたらこんなことにならなかったという責めたい気持ちや、お休みを確認しておけばよかったと後悔する気持ちや、そういういろいろな気持ちを全部出し切って、もういいやとなるくらい泣けるといいと思っている。
過呼吸になりそうなときだけ、
「ゆっくり息を吐こうね」
と誘導するけど、あとは泣かせっぱなしにした。
泣かせっぱなしで放置したのではなくて、抱っこしたり頭をなでたり、慰めたりしながら。
途中で子が
「なかなか落ち着けなくてごめんね」
というので、驚いた。
ちょっと落ち着いて話し始めると感情が高ぶってきて、また泣いてしまうのを気にしたようだ。
「早く落ち着こうとして、泣きたい気持ちを我慢すると、〇〇ちゃんの身体にずっと残ってしまうから、ぜんぶなくなるまで泣いていいよ。」
と言ったら、安心して泣いていた。
私は、この子にとって、安心できる存在になれている。
いろいろ未熟で至らないところは多々あるが、これができていればOKだなと思った。
そういう存在になれてよかった。
そのようにしてくれた子に感謝が湧く。
私の子ども時代、親を見てホッとして安心して泣いた、という記憶はない。
たとえば今回みたいに、親とはぐれて一人になってしまって、途方に暮れたあとに、親と会うのは恐怖であった。
必ず最初に罵倒されたので。
子どもが何かしてしまって、心配が過ぎてホッとしたとき、大人が「なにやってるの!」と怒り出すのを良く見かける。
自分の心配、恐怖、それらが昇華するまで怒る。
それはその人には必要なことだと思うかもしれないが、子どもにいらぬ恐怖を植え付けていることを忘れてはいけない。
私は、あれはやりたくなかった。長年それが本当に苦痛だったので。
でも、それ以外に何をするのか知らなかったのも事実。
それで、こんな本を読んだ(5年前くらいに読んで、何度か繰り返し読んでいる。大河原先生の本は温かくて好き)。
とても良い本です。おススメ。
子どもがまだ言葉を話せないときは、ずっと泣かれているのはつらかった。
内心「なんで泣くの?」と思っていたし、泣く子にイライラした。
自分が泣かせてもらえなかった人は、自分の子どもが泣いて甘えることに憎しみを覚えるということを聞いて、なんと自分はやっかいなのだろう・・・と途方にくれたものだ。
自分の中の泣かせてもらえなかった、甘えられなかった子どもが暴れてるのだろう、とその子の話を聴くワークをやったり、自分の気持ちをカウンセリングで聴いてもらったりした。
それでもなかなかうまくそれを扱えなくて、子どもに怒鳴ってしまったり、自分が泣き叫んだりしたことも何度もある。
自分が育てられたように子どもを育てたくない、と思っていたけど、そんなときは、育てられたようにしか育てられないのだろうかと自分を責めた。
親がととのって、余裕・スペースがないと、子どもを泣かせてあげられないから、なんとか自分をととのえておきたいと思っていた。
感情をなんとかしようとしていたときには、うまくいったりいかなかったりしたのだが、呼吸整体で身体をととのえたらうまくいくようになったと思う。
つくづく、身体と心はつながっていると思う。
身体のことをやっている、と思っていたが、いつのまにやら精神的なものも変わっていったので。
自分のスペースを確保してから子どもとかかわれるようになってきたし、自分の感情、自分の中の小さな子どもたちに振り回されなくなった。
大人の自分がきちんと存在して、俯瞰して観察することができるようになり、スペースがあいた。
泣きたいだけ泣いて、安心した子どもは、夜、ぐっすり眠って、次の日の朝にはけろっとしていた。
「ママ、もう怖いの残ってないよ!」
とにっこり笑っていた。
よかった!
なにかあったら、ママのところに行って好きなだけ泣いて、元気になったらまた出ていく、というのは今のところ、実行されている。
このまま、子どもにもうそれが必要なくなるまで、そのような存在でいられるように、日々ととのえておこう。
では、またね。