【346/1096】断片化されたわたしたちを癒す(3)
346日目。自分の実力の無さを知り、自分はいまこのあたりにいるのかと知る。この程度、を知ることはとても大事だなと思う。自己卑下でも、自己否定でも、自己嫌悪でもなんでもなく、ただ、「自分の実力はこの程度」という事実をちゃんと見るだけ。
「断片化されたわたしたちを癒す」のつづき。
断片化は幼少期の虐待やネグレクト、トラウマ的体験により起きることを書いたが、虐待やネグレクト、トラウマ的体験という言葉を聞くと、ニュースで聞くようなものすごい暴力的な出来事が繰り返されているように思う人がいる。
虐待やネグレクトは明らかな暴力(暴力とは身体と心が力により脅かされ支配されること)であるが、トラウマ的体験は個人により、千差万別である。
虐待と言われるような体験はなかったという人も、不適切な養育をされている場合は多い。
たとえば、最近読んだこの記事
これなども、人によっては、トラウマ的体験に十分なりうる。
これがトラウマ的体験になるか、そうでないかはその人がどのような環境にいたか?が大きく左右されるので一概には言えないが。
今、40代、50代の人が中学生の頃は、体罰は当たり前だったし、もっと前の世代なら、しごきが当たり前だった。
上記の記事のような言葉がけをされて育っていない人のほうが少ないのじゃないか?と思うほどだ。(まあ、それは私の環境によるものであるが。)
とすれば、誰でも断片化したパーツを自分の中に抱えて生きていると言えるかもしれない。
自分が直接、体罰を受けていなくても、常態化した体罰を見続けているだけでトラウマ的体験となる。
その体験を「自分のもの」として扱わないために、断片化して生き延びるのである。
断片化したパーツは、どの子も必死で生き延びてくれたのである。
誰もが必死で命を助けるために働いてくれたパーツたちであり、誰も悪くない。
むしろ、断片化したパーツは、彼らの最善を尽くしてそこにいるのである。
そして、それを俯瞰して観ることが出来るのは、マインドフルな大人の自分である。だから、「身体がある」ことがめちゃめちゃ重要なのである。
断片化したパーツたちが自分の中にいるからと言って、誰もが生きづらいというわけではないし、誰もがセラピーをする必要があることではない。
大人の俯瞰した自分が常にいて、その俯瞰した大人の自分が日常生活を送っているのであれば、大きな問題にはならない。
断片化やトラウマの度合いが軽度であれば、パーツを対象にしたセラピーをしなくても、従来のカウンセリングなどの方法でうまくいく。
ただ、その断片化したパーツと大人の自分自身を一体化してしまい、乗っ取られた状態になると、さまざまな不都合が生じる。パーツを対象にするセラピーで対応するのは、そうした場合が多い。
断片化したパーツの子どもの強烈な感情に巻き込まれている場合、自分ではどうしようもない、どうすることもできない、自動的にそうなってしまう、というような自分のことをコントロールできない感じになってしまうので。
それは、感情的に大騒ぎするということばかりではない。
凍り付き、固まったまま動かない子どもや、服従し明け渡している子どもや、逃げ出す子ども、愛を渇望している子どもなどのパーツたちがいて、それが、自動的に切り替わって操作しているような感じである。
自分の身体を車に例えてみると、運転席で、常に運転しているのが大人の自分であることが望ましいが、大人の自分が不在だったり、眠っていたり、運転する気がなかったり、気を失ったりしていて、代わりに子どもがハンドルを握って運転していると考えるとわかりやすいかもしれない。
しかも、子どもたちはおもちゃの車を運転することはできるが、大人の大きな車を運転する技術は学んでいない。
その子どもたちに、不適切な声掛けをすると、さらに悪化する。
つまり、
「なにをしているの?」
「そんなことしていいと思ってるの?」
「もう知らないよ」
「ダメだって言ったよね」
「どうしてできないの?」
と言った、自分を責める声掛けである。
自分を責める言葉、自己否定が断片化を加速、もしくは強化してしまう。
まずはパーツの存在を認識して、そこに優しく温かい好奇心を向けて、見ることが癒しの始まりである。
繰り返すが、それができるのは大人の自分であり、その大人の自分がマインドフルに気づき続けていることが大切になる。
つづく。
では、またね。
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