【482/1096】相手を感じる
今、目の前にいる相手、今、その相手との間に起きていることを感じることができないと、映像を見ているのと同じに処理される。
「相手がいる」ことを、感じているかどうか?
感じることを麻痺させてしまうと、これも麻痺する。
相手がいるのに、相手を感じることができないで、ただ表面的にいることを知っているだけになる。
そうすると、自分が相手の言葉や態度から感じることができるのは、不快が強くなる。
あの人のここがイヤだ、みたいなことが強調されて感じる。
これで、人間関係がうまくいったら、ちょっとおかしいよなと思う。
そりゃうまくいかないでしょーよと納得の結果である。
相手には相手の人生があり、喜怒哀楽があり、事情があり、それぞれに精いっぱい生きてきましたね、そして、今、会いましたね、な状態である。
それを、ただ知識として知っているか、自分の身体を通して体感しているかでは、雲泥の差であることは明白だ。
数年以上のつきあいがあって、相手を感じ切ってなかったなあと思う相手と向き合い、相手を感じ切ってから話をしだしたら、今までしたことのなかった話ができた。
世間話や誰かの話や子どもの話で埋まっていたのが、私と相手の話になって、すごく面白かった。
話しながら、「なんだ、これは!」と思ったけど、そう思いながらも目の前にいる相手に集中して感じながら話をした。
相手の存在もすごく感じるが、相手も私の存在を感じてくれているのだなというのが体感でわかるので、お互いにつながっているのだと実感できる。
知識や情報として知っていて、言葉にできていたとしても、この体感を通して感じるがないと、相手と交流が起きない。
感じるを麻痺させてきた人にとっては、体感を通して感じるのは、最初、相当こわい。
(感じないように生きてきているから)
こわいので、逃げる。反射的に。
この反射をやめるのは、自然には起きない。
やめると決めて、選択を変えると言うことをする必要がある。
逃げる方が楽だ。
そっちのほうが慣れているし。
傷つかない方法でもあるし。
でも、息はあがる。
なぜなら、自然の道理ではないから。
人間は感じながら生きるようにできている。
感じないようにしているのは、自然の道理からは外れている。
息を完全に止めてフリーズしていなくても、小さく小さく息を止めている。
苦しくないくらいに。
苦しいと感じないくらいに。
でも、本当は息があがるのは苦しいのである。
(ただし、あがってるのに気づいてないから苦しいとも感じないかもしれない。)
そこに気づける身体になっているか?は、日々の自分にどう向き合っているかである。
息が止まるのは、生きものとしてNoをつきつけられている。
自分の身体のNoを選択しない。
そこからが始まりである。
体験とは、いつも生身である。
生身の自分で感じられるか。
映像を見て感じるのとは別の次元の話。
そここそが、人間として生きてる醍醐味ではないだろうか。
呼吸のお稽古では、そのあたりを再現可能な技術としてお伝えしている。
再現可能な技術になっているところが、本当にすごいと思う。
安全に自分の身体で練習できる。
やれば、必ずそうなるという希望。
では、またね。