ご自愛がだいじ
わたしは、呼吸シェアリストとして活動している。
伝える側の自分の自己修練がとてもだいじだと思っているし、自分の探求もまだまだ発見や気づきが多いのでもっと知りたいし続けたいという気持ちがあった。
この6月から、呼吸・整体のスクールに通っている。4期目のスクールで、1年かけて基礎をやる。1年後、続けたかったら2年目に進む。師匠の判断で進めない場合もある、という感じで、ガチで本気の人しかやってこないところだなと思った。
今まで約3年間ほど、コーチについてグループでやってきて、そのコーチの師匠に直接学べる貴重な機会である。
噂によると、師匠はかなり厳しい印象があったので、スクールの面談の時には緊張したのだが、話してみると、そんなこともなかった。そして、無事に通わせていただけることになったのである。
そして、先日、師匠に個人セッションしていただいた。
自分がシェアしながら湧いてきている疑問や、参加してくれた方からの指摘や質問などについて、教えてもらったり、動作を確認してもらおうと思っていた。
質問に答えていただきながら、いろんな話をしたのだけれど、その中で、すごく腹落ちしたことがたくさんあった。
なんかこの話は、きっと、わたし以外の人にもシェアしたらいいんじゃないか?と思って、書いてみる。
わたしの役割は、ガイドであるということ。
ガイドだから、正しい教え方があるというわけではなく、この人に教えてもらいたいな、という感覚で参加する人はくるということ。
例えば、同じ山を登るのでも、ガイドが違えば、違った山登りになるのと似ている。
だから、自分に合う人を見つける、ということがだいじで、わたしが変わろうとしなくていいっていうこと。
わたしが喜びから伝えるというのがだいじ。
ほんとその通り。
わたしがなぜ、シェアリストになったかって、このワークが本当に楽になるし、自分がこれを嬉しいという気持ちがあって、そして、これをもっとたくさんの人が知ってたらいいのに!と思ったからだ。そこにはわたしの喜びがあり、伝えられる喜びもある。
そして、そのあと、
「どこにもポジショニングを取らない人がいてもいい」
という話をいただいた。
「そこにいるだけでよい人」
という意味だった。
わたしのような人は、実務ができなかったり、数字に出ないことをやっている人で、だから目に見えての価値がわかりにくいこと。
でも、周りにいる人のクッションの役割をになっていて(特にポジションをとっている人の間で)、周りのとげを吸収していること。
こういう人はいるだけで、周りの不満を知らず知らずに吸収していて、こういう人がいないと喧嘩が始まる、つまり、分断や分離が始まるということ。
そして、残念ながら、価値がわかりにくいので、例えば会社組織だったら、真っ先にリストラ対象になったりするけど、いなくなった後に、ものすごくその価値を実感されるのもそういう人なんだと言われて、今までの自分のことが腹落ちしまくった。
会社員時代、部長がわたしに特に関係ない会議に一緒に出てと言ってきたりしたのは、そう言うことか、とか。
ただいるだけでクッションだから、クッションになろうとはしなくていい。
クッションになろうとしだすと、壊れる。
ということも言われたのだけど、本当にその通りで、クッションの役目を与えられてると思って、それを頑張ろうとすると、頑張っただけ空回りしたり、疲弊して疲れ切ってしまうということが起きた。
そして、できない自分を責め出すのだ。
わたしのような人に、師匠から何か助言するとしたら
「ご自愛ください、だけですね」
とのこと。
自分の心と相手の心の区別をすることがとてもだいじで、相手がダメと言おうが不機嫌になろうが、それは、自分とは関係がない、相手が解決することだという線引きをすること。影響を受けないこと。
自分の心と相手の心の区別をきちんとする。そして、その部分が通じ合える人をだいじにする方が、いいよねっていうことだ。
そして、ご自愛は、自分のための自分だけの時間をもつということで、ご自愛するのがお仕事だと思って、リフレッシュタイムを強制的に作るぐらいでちょうどいい、という話をしてくださった。
わたしはこれを言われて、ああ、だからわたしは呼吸をやってきたんだ、と思った。ようやくご自愛ツールを見つけた!ってことだったのだ!
呼吸・整体のワークや調整法をやっている時、自分の呼吸にひたすら集中して、ただ自分のためだけに使う時間だなと思っていた。やり始めた時、そんな時間を今までほとんど取ってなかったなと思ったのだった。
そして、その時間をとても貴重に思ったし、その時間が作れなかったりして自己嫌悪したりもした。それでも、やめずになんとかやってきたのは、きっとこれが自分に必要だとちゃんとわかっていたのだ!と気づいた。
そして、そういうクッション役の人には、「自分のモヤモヤを持っていたくないので、強制的に共有しようとする人」から苦言をもらうことがあるけど、それは、あなたが解決する必要がなく、相手の問題だから、そういう苦言はまったく聞く必要がないと言われて、ちょっと泣きそうになった。
価値としてわかりにくいけど、いるだけでよいその価値をわかってくれる人と一緒にいることがだいじだし、そういう人をだいじにするのがいいんだなと思う。
「わたしは息をしているだけで価値がある」
「そこにいるのがわたしの価値だ」
というのは、自己否定に塗れて、身動きできなくなっていた時に、自分自身を励ますために言っていた言葉だ。
それを信じることがなかなかできなかったけれど、このところ、
「ただいてくれればいい」
ということを、周りの人から少しずつ言ってもらえるようになっていて、なんかもう、そこなんだな〜、もうそこでいいんだな〜と思った。
そして、もう一つ、いただいた言葉ですごーーーく腹落ちしたことがあって、
「NOを言わなくてもいい」
ということ。
嫌なことがあっても、なかなかNOが言えない。
NOと言えない自分はよくないなと思っていて、嫌ならいやって言わないといけないとついつい、なりがちだった。
言えない自分に落ち込んだり。
しかし、師匠から言われたのは、
「でも、NOっていうの、あなたみたいな人はつらいでしょう。自分がつらいと思うことはしなくていいですよ」
と言う。そんなこと、初めて言われた。そうか。
NOと言わないで、NOを伝える方法はいくらでもあるから、そういうのを身につける方がよく、NOと言わないからと言って、我慢しなくてもいいってことで。
やっぱりね、道を極めて探求している人は、ほんとすごいですよね。
なんでそんなにわかるんだろう??と思う。
気づくエリアが違うんだろうな。
会話の中で、ピントがずれているものは一つもなく、まったく違和感がなく、ただわたしはそこに居た。わたしを傷つけることは一切なく、ただそこに居続けて、わたしにぴったりの言葉を置いてくれると言う感じだった。
一致感が半端ない。
そのうち、言う言葉も息が教えてくれる、という域があるらしい。
自分の感覚が完全に信頼できるものとなったら、訪れる境地なんだろうなあと思うけど、呼吸はやればやっただけ、必ず自分に返ってくるから、やればやっただけ自分を信じることに繋がっている。
人間やってる以上は、からだ無くして生きることができないので、身体のメンテナンスをすることは、生きることに繋がってるなあと思う。
そして、身体やったら、やっぱり意識も調ってくるし、考え方も価値観も書き変わってくる。
そこにもう本当に信頼しかないな、とつくづく思った。