山我浩著「原爆裁判〜アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子」(2522字)
朝ドラ「虎に翼」が明日で最終回を迎えますね。
朝ドラで描かれた主人公に関する書籍を読むのは、私の楽しみのひとつです。実在した人物像を一歩踏み込んで知る事ができるので。
今回はこの本を読んでみました。
死の商人・エドガー・サンジェ
ベルギー最大の財閥系鉱山会社ユニオン・ミニエールの幹部エドガー・サンジェは、原子爆弾が開発される20年以上前に、赴任したコンゴで異常に純度の高い「ウラン」に目をつけた。
その後ドイツの化学者がウランの核分裂反応を発見。
マンハッタン計画が始動していたアメリカは、サンジェを通して大量のウランを得たことで、世界の覇権を握れると確信。コンゴの鉱山から採掘される全てのウランの専売権を得る画策をした。
サンジェがアメリカに売り渡したウランから広島長崎に投下された原子爆弾が生まれ、広島14万人、長崎7万人の命が奪われた。生者も子孫も死の苦しみに襲われ続けている。
原爆投下は早期に戦争を終わらせる為だったとアメリカは一貫して主張しているが、核を独占しその威力を見せつけることが目論見だったと識者は語る。
サンジェは戦争終結に多大な貢献をしたとして外国人として初めてアメリカ合衆国功労賞を授与された。
戦時中、彼がウラン取引で会社にもたらした収益は、当時のベルギーの国家予算を上回る膨大な額になった。
核の扉を開けたサンジェの罪は果てしなく重いが、
アメリカの軍人の多くは、自国を擁護するのではなく、警告なしの民間人大量殺戮を非難しているのも事実。
投下第一候補は京都だった
最初の投下目標は、
京都→広島→横浜→小倉
京都人口、軍需工場の数、破壊力を測定するのに効果的な広さ、などの理由で最適な候補地だったが、スティムソンという陸軍長官が、
文化財が多く点在している京都を壊滅させたら、戦後世界中から反感を買う という理由で外され(京都が素晴らしいからではなく。)
その後も二転三転。結果的に、広島、新潟、小倉、長崎が候補となったが、小倉は悪天候のため長崎へ変更となった。
マンハッタン計画の総責任者レスリー・グローブスの、原子力特別委員会での発言。↓
「一握りの、あるいは何千人という日本国民が放射能被害に遭うか、それともその10倍もの人数のアメリカ人の生命を救うか。これに対して私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます」
委員長は「あなたは繰り返し放射能による被害はなかったと強調するが、むやみに強調するとなると、放射能被害を認めると倫理的に間違いを犯したことになるという思いがあったのではないですか」と質問。
グローブスは、「何であれ、今回の戦争を一日でも早く終わらせる手段として使用した事について何の迷いもございません」と答えた。
さらにグローブスは、その後も何度も、残留放射能による犠牲者は非常に少なかったと、真っ赤な嘘を繰り返した。
これに対し、残留放射線と、人体に与える影響を調査したコリンズ大尉は、軍を退役し原爆に反対する団体のメンバーとして活動してした。科学者の良心を忘れず初志を貫いた人もいた。
第三の被爆
1954年、南太平洋で「第五福竜丸」が、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験により「死の灰」を浴びた。アメリカ政府は、このことを過小に見せようとし、放射能よりもサンゴの塵の影響などと虚偽の内容を発表、また、第五福竜丸は危険区域の奥深くまで侵入しておりソ連のスパイ船だとも主張した。(操業は、危険区域外で行われていた)
原爆の話に戻ります。
原爆投下を指示したトルーマンは、米キリスト教会連盟による非難の抗議電報に対して、
「けだものと接する時はそれをけだものとして扱わなければならない」と返信した。
トルーマンは、人種的に劣っているはずの日本人が真珠湾攻撃で米艦隊を壊滅状態にしたことが許せなかった。その復讐が原爆投下だったと思われる。(真珠湾攻撃に関しては、様々な説がありますがその点には触れられていませんでした。)
フランク・レポート
1945年6月、マンハッタン計画に協力した7人の科学者によって、警告なしにこの危険な核兵器を使うことに対する懸念が出されたが、大統領はこれを却下した。
東京裁判
においてインド代表パール判事は、「いったいあの場合、アメリカには原爆を投下する何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏する用意ができていた。投下したアメリカから真実味のある心からの懺悔の言葉を今だに聞いたことがない」「幾千人かの白人を犠牲にしないためを言い分にしているようだが、その代償として罪のない老人や子供や女性をあるいは一般の市民を幾千万人殺してもいいのだろうか」と、ナチスドイツのホロコーストに匹敵するものだと断罪した。
1945年、戦いに敗れた日本はアメリカ軍に占領された。占領軍は日本人が原爆投下に疑問を持たぬよう、メディアにはプレス・コードという報道管制が敷かれ、トルーマンと米軍が犯した非人道的行為は闇に葬られた、かに見えた。
ところが、日本が名目上独立を回復した翌年、長崎の五人の被爆者が国を相手取って訴訟を起こした。これがいわゆる原爆裁判である。
原爆裁判
1955年、広島と長崎の被爆者五人が大阪地裁、東京地裁で訴えを起こす。1960年2月〜1963年3月まで9回の口頭弁論が開かれたが、この裁判の全てに、三淵嘉子は携わった。
審理は8年に及んだが、1963年
本害賠償請求権は棄却された。
しかし、原爆投下の国際法上の評価については原爆の違法性を指摘。判決文末尾で「政治の貧困を嘆かずにはいられない」と批判した。
以上要点を抜書きしましたが、
朝ドラもそうでしたが、三淵嘉子さんが関わった原爆裁判の詳細についてはよくわからなかったという印象です。(判決文は載っていましたが。)
三淵さんは、普段雄弁であるのに、この裁判に関してはあまり言葉を発する事はなかったそうです。
モヤモヤします。
三淵さんのエピソードを読みたくて手に取りましたが、ほとんどが原爆に関する経緯でそこは少し残念でしたが、
当時のアメリカ軍がいかに日本人を下等動物扱いしていたかがよくわかり悲しい気持ちになりました。
長文を最後までお読み頂き
ありがとうございました。
コメントはどうぞお気になさらず😉