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「書く習慣 Day5 昔はどんな子供だったのか?」

今まであまり自分が小さい時の話は書いてきたことがありませんでした。 
なので、こんやお題はとても嬉しいです。少し照れ臭いけれど。 

私は、茨城県の日立市生まれ。

日立製作所(Hitachi)が至る所に工場を構えている町で産まれました。

母が育った家に、お祖母ちゃんも一緒に住む家で育ちました。10歳までそこで育ち、そこから車で30分ほどの家に引越します。 

今まで人材紹介会社を経営、今もキャリアコーチとして、日々、人に

会って、会って、会って

という仕事をしているし、

本当に人と会話、対話することが大好きなのです。 

こんな私しか知らない方は、私の幼少期は別人のようだったと聞いたらびっくりすると思います。 

母が言うには、通りで近所の人に話しかけられても、母の後ろに直ぐ隠れてしまうような本当にシャイな子でした。 

これは間違いない。シャイなのか、大人しいのか。暗いのか。 

家では、2歳下、4歳下、6歳下と次々に弟、妹、弟が産まれ、長女として育ちます。 

弟妹たちと。愛犬ハッピー

産まれた家の近所には同じくらいの年の子たちが結構いたので、近所の今思えばあの通り一本だけが私の世界でした。 

近所では一つくらいしか違わないけど私が一番上で、そこで結構下に指示出していたのは覚えています。笑。大人しいのは大人の前だけだったのかも。内弁慶だったのでしょうね。

余談ですが、弟妹達。あまり私をお姉ちゃん扱いしていない。お姉ちゃんと呼ぶのは辛うじて、妹くらいで、他は私を、「まみちゃん」と呼びます。昔は、「まゆげ」とも呼ばれていました。笑。


芸事が好きだった祖母と。祖母は町の婦人会の会長や呉服屋さんのモデルとかしていました

5歳になると習い事(芸事)を結構やっていた祖母の勧めもあり、日本舞踊とバレエを同時にスタート。 

バレエは、あの華やかな衣装と化粧とプリマドンナに憧れて習ったものの、一度リサイタルもあったりして、大人しい子供ながらも、華やかな世界には興味を持っていたと思います。 

最初で最後のバレエのリサイタル

バレエはトーシューズで練習をさせられたせいで、つま先から血が出て辞めてしまい、

選んだのは日本舞踊。

これは5歳から15歳まで10年やりました。

ここで舞台に立つ華やかな世界を満喫。

自分で言うのもなんですが中々筋は良かったと思います。

親は相当お金はかかったかと。

「日本舞踊なんて何の役に立つの?」とは思いますが、私的には忘れられない思い出です。


これは「櫓のお七」の発表会 今でもこれは踊れると思います

間違いなく舞台に立つ”勇気や度胸”はついたと思います。

 
そんな外では静かな、シャイな私も小学校5年の時に引っ越しをし、5,6年の時の担任の先生が私の性格を180度変えてくれました。 

とても厳しい先生で、朝から校庭を毎朝10週走らされ、給食も食べ終わるまで教室の隅で授業中も食べ続けなければいけない。

好き嫌いの多かった私は、ナプキンに包んで隠して捨てたこともあったくらいです。笑。 

それでも、厳しいながらも授業は楽しいし、モチベーションを上げるような施策を沢山用意しているし。

とにかく毎日学校に行くのが苦ではなく、私の日本舞踊のリサイタルにも来てくれたり、週末も友達と一緒に自転車で先生の家にお邪魔して、奥様がおいしい手料理を作ってくれたり。とっても濃い2年間でした。

コロナ前に先生のお宅になんと35年ぶりくらいにお邪魔しました。残念ながら先生は全盲になってしまいましたが、あの頃のことはよく覚えているようで、母と娘を連れていったのですが、楽しい、こそばゆいようなひと時を過ごさせていただきました。 

この先生のおかげで、あれ以来、ものおじせず、友達とも沢山遊んで、明るい元気なティーンになっていったのです。 



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