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般若心経と内観と恋愛依存の私

私が恋愛依存症を卒業できた決定的なきっかけは、“内観”でした。

この“内観”によって、苦しい恋愛という現実を映し出してしまう原因となっていた、“思い込み”を手放せたことで、私の人生は180度変わりました。

とはいえ、現実は自分が創造していることを学ぶまでは、外の現実ばかりに意識が向き、自分の内側なんぞ目を向けたこともなかった私。

ですので、初めから“内観”が上手くできたわけではありません。

ある日、「内観もして、思い込みも見つけたはずなのに、なかなか現実が変わりません。」というご相談をいただきました。

確かに、私自身もこの方と同じように悩んでいたことがあったなということを、思い出しました。

じゃあ、恋愛依存の自分から脱却できた時の“内観”と、なかなか現実が動かなかった時のそれと、何か違ったんだろうと改めて考えてみたところ、とっても大切なポイントがあることに氣づきました。

ということで、今回のブログは、この“内観のポイント”について綴りたいと思います。


前置きが長くなりますが。

ある時、友人のちーちゃんから、「まゆこさんにとって、“愛”ってなぁに?」と、突拍子のない質問を受けた時、真っ先に頭に浮かんだのが“無”という漢字でした。

自分でも、なぜ“無”なのか全く検討もつきませんでした。

だから、正直に「私にとって“愛”とは“無”みたいなんだけどね、説明ができない。」と答えたのを覚えています。

その数日後、一人で瞑想をしていた時、また突拍子もなく“般若心経”というワードが頭に浮かびました。

なぜに、“般若心経”なのだろうか?と疑問に思いましたが、これについて、すぐさま検索してみました。

そして、私は驚きました。初めて目に触れた“般若心経”の全文。そこには、それはそれは沢山の“無”の文字が。

「あっ、“愛”=“無”と感じた直感は、この“般若心経”に繋がってるんだ。」とわかりました。

そして、それまで縁もゆかりもないと思っていた“般若心経”の和訳に目を通して、私は再び驚きました。

てっきり、夏の肝試しに使われるような、おどろおどろしいものだと思っていたのですが、この世界(宇宙)の真理を、すごく端的にあらわしている経典だったのです。

恋愛依存症という在り方をやめられずに、生きづらささえ覚えていた私が、一念発起して学び始めたこと。

それは、「私たちが見ている世界は、自分の意識の反映であり、幻(イリュージョン)なのだということ。だからこそ、自分の意識次第で、いかようにも現実は映し出すことができるんだ。」という現実創造の仕組みでしたが、“般若心経”に書かれているそれも、まさしく同じことだったのです。

これを知った時、いつも私をサポートしてくれている目に見えない存在とか、自分の内なる神とか、言い方はよくわからないけど、そういった存在が、一つのギフトとして、“般若心経”を私に授けてくれたんだなと感じました。



それから、かれこれ3か月ほどたった頃、ちーちゃんと共に仁平さんのオンラインサロンで、心の仕組みについて学び始めました。そこで、取り上げられていたのが“内観”でした。

そして、ここでも再び“般若心経”が登場。
内観する際にとても重要なポイントとして、私たちが普段から、「これが“私”である。」と認識している、“私”というものは、どこにも存在しないということを忘れずに、客観性をもって内観していくことがポイントなのだということだったのです。

正直なところ、この時点では、その本当の意味が、頭では理解できるような出来ないような、そんなあやふやな感覚でした。



その学びの後、間もなくして、「当時はまっていたドロドロ執着恋愛や、それだけではなく、恋愛に依存する生き方そのものを、本氣で終わらせるんだ!」と、決意が固まる出来事を自ら引き起こし、私は静かに“内観”を始めました。

大人になった恋愛依存症の私が常に感じていた、“いつも悲しい、寂しいという感覚”をヒントに、幼少期に同じような感情を味わった出来事がなかったかを、再び振り返りました。

これまでも、何度か内観をやってみて、「このことが原因かな?」と思う出来事を思い出すことは出来ていたものの、この“いつも悲しい、寂しいという感覚”そのものを手放すことができずに、結局のところ、ずっと握りしめ続けていた状態でした。

でも、この時の“恋愛依存を卒業する内観”は、これまでと全く違いました。「私が認識している“私”というものは、どこにも存在していない。だから、この感覚や感情ですら、“私”のものではないんだ。」そう、頭に置きながら内観を続けました。
こうやって、絶対的な客観的視点で内観ができたのです。

自分を客観的に見れるということは、本当に“氣が楽”で。

例えるならば、何かの犯罪に巻き込まれた当事者であれば、「つらかった、怖かった、悔しかった」などという感情にさいなまれながら、それを一生懸命に訴えると思うのだけど。

かたや、もしも自分が相談を受けている警察官の立場だすると、その被害者の感情にある程度の共感は示すものの、そこに飲み込まれることはなく、ひたすらに状況把握のために、耳を傾けると思うのです。

私の場合、“内観”がうまくいかなかった時は、過去の出来事を思い出すたびに、「ああああ涙。そうだった、そうだった涙。悲しかった、つらかった涙。私って本当にかわいそう涙。」みたいに、まるで被害者意識を手放せずにいました。

でも、初めて“内観”がうまくいった時は、「ほほう。そうか、この人は、こういう出来事をきっかけに、悲しい・つらいなどの感情を引き起こし、それを元にして『私は愛されていない』という観念・概念をつくったのか。」という風に、まるで他人事のように捉えることができたのです。

被害者の立場に立つのか、話を聞く側に立つのか。この違いは、とても大きかった。
“私”というものには実体がないからこそ、徹底的に客観性を持って内観していく。
このことが、とても大切だったのです。

この時初めて、「なーんだ。じゃあ、この思い込みでつらい現実を創っていくことを、もう止めればいいだけじゃないか。」ということを、抵抗なく受け入れられました。

その瞬間、“恋愛依存症”という在り方を、存分に映し出してくれた思い込みや、それによって味わい続けてきたネガティブな感情が、すとーんと自分から外れていったのです。

それは、まるで、重かった鎧を脱いで、生まれたての赤ちゃんに戻ったかのような感覚でした。
そして、この純粋でまっさらな感覚こそが、本来の“私”なんだと思い出したとき、これまでに流したことのないような、喜びの涙が溢れ出たのを覚えています。

それと同時に、それまでは、“愛”というものを外に探し続けていたけれど、本来の、この一点の曇りも欠けもない“私”こそが、“愛”そのものだったんだと思い出すことができたのでした。

だから、その後は、“愛”に満ち溢れる現実が映し出されるようになったのは、当然のことでした。

私は、このことをきっかけに、私たちが無意識に持っている、たくさんの思い込み、観念、概念をひっくるめて“意識”というならば、私たちはその“意識”をフィルムとして、現実という映像を見ているに過ぎないということが、本当の意味でよく分かりました。

確固たる“私”も、確固たる“現実”も、この世にはどこにも存在しない。私たちがどんな“意識”で世の中を見ているかによって、“変化”し続けるものなのだと。

“無”というキーワードから“般若心経”につながり、“内観”をとおして“恋愛依存症”を卒業し、まっさらな意識の自分が本来の“私”であり、私自身が“愛”そのものなのだと、再び氣づかせてもらえたこと。
これは、本当に喜ばしく、素晴らしい体験でした。

もし、これを読んでくださっている方の中に、今、つらい現実を映し出している方がいらしたら、本来の私たちは、純粋で完璧な“意識”であることを忘れずに、心の奥にしまっている、ご自分にとって、もう必要のない思い込みを、ぜひ絶対的な客観的視点で見てみてあげてください。

それでは、お読みくださりありがとうございました。


※恋愛依存症を克服した“内観”について綴った過去の時のブログです↓

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