民喜と馬
基本的には大好きな競馬だが、ひとつだけ耐えられないことがある。
それは、ラストスパートの激しい鞭打ちだ。
「やめて!」
思わず叫びそうになり、目を伏せる。
もう充分すぎるほど頑張っている。
あんな美しい馬体に、容赦無く鞭を打ち込むなんて、鞭を手にする騎手が、鬼のように見えてくる。
騎手によっては、あまり鞭を打たない人もいるから、上手くやれば、鞭なんて打たなくて済むんじゃないかと、無知な私は思ってしまうのだが…
そもそも、何故馬は人間に乗られ、鞭打たれてまでも速く走らねばならないのだろうか。
こんな風に馬に肩入れしてしまうのは、原民喜による「ガリバー旅行記」の再話を読んだからだ。
民喜が死の直前まで、ズボンに穴が開くのも気がつかぬほど、机にかじりついて書いたという。
その本の出版を待たず、民喜はこの世を去った。
何故、ガリバー旅行記だったのか。
民喜は、この物語に何を託したかったのだろう。
ガリバー旅行記といえば、小人が住まう、リリパッド王国がよく知られているが、民喜が一番想いをよせていたのは、馬の国だ。
ガリバーは、様々な国を旅するが、どの国も嫌になって逃げ出してしまう。
そんな過酷な旅のなかで、たった一つ、ずっとここで暮したいと願ったのが、馬の国だった。
その国では、馬が最も理知的な存在であり、人間は野蛮な家畜として馬に飼われている存在だった。そこでガリバーは、自らの国について質問されたとき、人間の馬の扱いについて、思わず閉口してしまうのだった。馬の国で家畜として扱う人間が、彼らに鞭を打ち、労働力や賭け事に使っているなんて、とても言い出しにくかったのであろう。
馬の国での暮らしが気に入ったガリバーであったが、ついに見つけた居心地の良い国では、かなしいかな、馬たちから追放されてしまうのであった。
自国に戻ったガリバーは、一般的には、馬を唯一の友として暮らした、となっているが、原民喜版では、そこは描かれていない。
同じ本に収録されたエッセイを読むと、民喜が広島で被爆したときに見た、一頭の馬の目が、民喜の心に焼き付いているというエピソードを知ることができる。民喜が馬に寄せる想いには、特別なものがあったのだろう。
民喜にとって、
「理性をみがけ。理性によっておこなえ。」
という、たった一つの理念が国を律する馬の国は、理想郷として映ったのではないだろうか。
この再話を読んだあとだったので、私も馬に対する想いが異常に強くなってしまった。
馬の目を見ていると、私よりもずっと多くのことを知っているような気がする。
そしてそれは、あながち間違っていない。
あのとき、民喜を見つめた馬の目も、ペンを走らせ止まないほどに、多くのことを民喜に語ったのだろう。
麻佑子