すき焼き
おなかに小さな命が宿ってくれたそのときから、わたしは母になっていたのだが、実感として母親の自覚が芽生えたのはもっともっと、あとのことだ。
妊娠中はもはや、母親の自覚はなかったと言っても過言ではない。
もちろん、大切な愛おしい命を自分が守らなければ、という意識は強くあったけれど、わたしは「わたし」でしかなかった。
出産とは不思議なものだ。
妊娠中は一心同体でどんなときもわたしの中にあった命が、外界へと飛び出してくる。
母と娘という、2つの個になる。
個になったというのに、へその緒で繋がって1つだったときよりも強く固い関係性を築いていく、築いていかなければいけない。
これが本当に難しい。でも本当におもしろい。
初めてわたしが「母親になったんだなぁ」と実感したのは、入院中のことだった。
出産を終え、たしか入院3日目くらいだっただろうか。
その日の夜ごはんのメインはすき焼き。
部屋にごはんが運ばれてきた瞬間から、お肉とお出汁の香りが広がっていた。
薄緑色のトレーには生卵がのったお皿。
間違いない!これはわたしの大好きなすき焼きだ!
メインの器の蓋を開ける前に確信していた。
妊娠中は生卵も避けていたし、久しぶりのすき焼き。
蓋を開けると、ほんわりと湯気がたちこめ、脂ののった牛肉、焼き目がついた豆腐、くたくたに煮込まれたネギ、出汁を思いきり吸ったしらたき…
食べようとしたその瞬間。
読んでくださっている方は想像がつくかもしれない。
「ふぇ、ふぇ、ふぇーん」
そうだ。ここぞというときに赤ちゃんは泣くのだ。
ひとまずすき焼きの蓋を閉める。
抱っこしてゆらゆらしてみるが効果なし。
早めに授乳の時間が来てしまったらしい。
オムツを交換し、授乳タイム。
赤ちゃんを寝かせてから搾乳、洗浄。
まだ慣れないお世話に時間がかかる。トータルで50分ほどかかっただろうか。
ふぅ、と一息つきベッドに腰掛け、わたしの夕食開始だ。そうそう、今日のごはんはすき焼きだった。
蓋を開けるがもう湯気はたちこめてはくれない。
冷めきったすき焼き。ひとくち食べてみた。
なんだか達成感が湧いてくる。笑みがこぼれる。涙が出そうになる。
誇らしげに冷めきったすき焼きを食べているわたしは、ずいぶん変な人に見えただろう。
これがわたしが母になった瞬間だった。
赤ちゃんという生き物は偉大で、影響力がとても大きい。それまでの趣向や生活リズムなんてすぐに変えられてしまう。
寝不足でフラフラで、やっときたごはんが冷めきってしまったのに、嫌な気がしない。むしろ幸福感をもたらしてくれた。
わたしは母になったのだ。
母親は全てを犠牲にしながら子育てをするべきだ、と思っているわけではない。
しかし、なにかを犠牲にしていることを忘れるくらい、赤ちゃんのために何かしてあげたい、頑張りたいと思ったり、自然と体が動いたり、そんな自分ってなんかいいじゃん、と思うこと、その連続で子育てはなんとか成立するのではないかと思う。
もちろん、その途中で何度も自己嫌悪に陥り、自分は子育てに向いていないと感じる出来事が起こるのだけれど。
娘から逃げたいと思ってしまうそんなときには、あの日のすき焼きの味を思いだそう。
わたしはあのとき、たしかに母親になったのだ。
誇れるような育児ができなくて、
周りと比べて落ち込んで、
夫に当たり散らして、
もういやだと泣きわめいて。
それでも明日はやってくる。
早起きの娘は、6時には起きてくるだろう。
そんな娘のために、まだ冷え込んでいる台所で朝ごはんを準備するのだ。
母親という生き物は、みんなギリギリのところで戦っているのかもしれない。
子どもは愛おしくて、可愛くて。
だけど怒ってしまったり、嫌気がさしたり。
でもやっぱり何かをやってあげたくて。
自分の肌荒れなんて見て見ぬフリをするわたしだが、娘の太ももに少し湿疹ができただけで皮膚科に連れて行ってしまう。
可愛いがるだけでは成り立たない育児。
頭も体もフル回転の日々。
ないものねだりをしてしまう日もある。
それでもわたしは、あの子の母親なのだ。
娘は、おはなしできるようになったら、どんな言葉をわたしにかけてくれるのだろう。
ママ、たいへんなの?なんて言われないように、もう少し余裕のある母親になっておきたいものだ。
今回もまた、まとまらない文章になったなぁ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
p.s.
娘へ
わたしを母親にしてくれてありがとう。