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第2回:その表現は体験からしか生まれない

本を読んでいて、すごい表現(というとありきたりだけれども)に出逢うことは少なくない。
表現が絶妙で、それがそのまま実体験のように思える、あるいは、そのひとの感情がそのまま伝わってくる、そんな感覚だ。表現で読者の感情を揺さぶる作家さん(時代は問わない)は挙げればキリがない。
ただ、私が最初に衝撃を受けた表現は、そういった類のものではなかった。

学級通信みたいなものに、同級生の作文が掲載されていた。小学生のころだった、持久走マラソンの話だった。
彼女の文章に、私はとんでもない衝撃を受けた。今となっては完全にうろ覚えだが、できるだけ再現してみたい。
彼女は、おおよそだが、こう書いていた。
「とてもつかれて、持久走が終わる時間までもう少しだから、あとは歩くこともできたけど、走らなきゃいけないと思った。そのとき、木を数えようと思った。次の木にたどりつけたら、その次の木まで。そう思って最後まで歩かずに走った」
持久走なんか絶対やりたくもないという私にとって、とんでもない衝撃だった。同じ風景を見ていたはずだ。同級生なのだから。だが彼女の感想文にある、「木を数えようと思った」という表現が、あまりにリアルだったのだ。
その衝撃は、運動が嫌いな自分を卑下するものでもなければ、だらだら歩いて持久走の時間を終えた私を否定するものでもない。ただ、あのときの彼女の気持ちはこうだったんだ、ということを本人から熱く語られたような気分になったことは、はっきりと覚えている。

自分がどれだけリアリティのあるものを書いたつもりとして、それが思ったように伝わっているかなどわからない。
幸いなことに、趣味で書いたものにご感想をいただけることもあるため、もしかしたら伝わっていると思えるくらいでしかない。それは「書く」ことを職業にしていても変わらない。
ただ、彼女の作文は確実に同級生を射抜いたのだ。少なくとも、私を。

繰り返しになるが、私は運動が嫌いだ。
それでも、一度だけ運動会の競技で一位になったことがある。これも小学生のころだ。
なにしろへんな競技で、途中にくじ引きが用意されている。中身は「これを持ってこい」だの、「だれかと二人三脚しろ」だの、だったと思う。とにかく面倒な内容だ。だが、私が引いたくじに書かれていたことばは「そのまま走れ」だった。要するに、ほかのみんなが面倒なことをしているあいだに歩いてでもゴールできたわけだ。(一応、走った。念のため)
当然のように、運動会についての感想の作文を書かされる授業があった。
小学生だった私はまだまだ純粋で、興奮冷めやらぬまま「パァン、とピストルが鳴った」と冒頭に書いた。すると、まだ書きはじめたばかりだというのに、担任がそれを読みあげて、いいですね、と言った。
持久走のときとは違う担任であったから、そういうことで鼓舞するタイプのひとなのかもしれないと思ったが、どうやら読みあげられたせいで、何人かの同級生に真似されたらしい。
しかし、真似にどんな意味があるのだろう。そう思うと、担任が読みあげたことも、真似されたことも、どうでもよかった。

謎の競技で「そのまま走れ」を引いたのは、ほかのだれでもない。
冒頭を真似たところで、だれもそれを引くことができない。
GOサインが出たピストルの音、それが染みついているのは私だけだ。運動音痴であるのに、はじめて一位になれた、私だけだ。

真似をすることは簡単だ、コピー&ペーストでいい。
けれども、実体験は伴わない。事実、私は「木を数えようと思った」同級生がいるなかで、だるくて歩いていたのだ。
だからこそ、表現によってだれかに衝撃を与えることはできるのではないか。
「木を数えようと思った」同級生に私が教わったように。あるいは、「パァン、とピストルが鳴った」という表現を真似た同級生のなかにも、なにかを感じたひとはいるかもしれない。

そんなエピソードが頻繁にあるのか、そんな印象に残るフレーズを頻繁に目にするのか、と思われるかもしれないが、実は無意識のうちに触れている。
それはなにか。
広告にある「お客さまの声」だ。
私は以前、某社の広報としてメディア向け広告を作っていたことがあるが、やはり使う手段のひとつであったし、今でもよく目にする。それはなぜかといえば、その声がだれかに響くからだ。
たとえば、健康サプリの広告を考えてみよう。
サプリメントを作った会社が「この商品は、ナントカカントカという成分によってドウノコウノという作用によって健康を促進します!」と言うよりも、お客さまの声に「始めてから二週間くらいで、朝起きられなかったのに自然に目が覚めるようになりました。身体を動かす習慣もできて、健康的な生活を送れています」とあるほうが、ずっとわかりやすい。
会社が成分だの作用だのをいくら平易に説明しようとも、実体験に近い声のほうがずっとイメージしやすいし、そこに性別や年齢などの情報が加わっていれば、なおさらリアルになる。広告は、全員に刺さる必要はなく、そんなことは不可能だ。それでも、それを刺さりやすくするための方法として、リアルな実体験は貴重な表現になりうる。そうでなければ、この手法は宣伝広告にとっくに採用されなくなっているだろう。現代でも目にすることがあるのは、リアルな声が有効だからにほかならない。

体験から生まれる表現というのは唯一無二だと、私は思う。
それが特別なものか、日常的なものなのか、そんなことはどうでもいい。日々をつないでいくなかで、なにかを進めてゆくなかで、そういったことはあるはずなのだ。たとえば(これは事実だが)通学中に横断歩道で待っていたら頭上から鳩のフンが降ってきた、なんかでもいい。もちろん、最悪の一日になったが。

これはたんに私の癖なのだろうが、ふとしたときに、今の状況を文章化するとしたらどう表現するだろう、と考えることがある。受験科目のような意味での記憶力にはまるで自信がないが、体験の記憶が濃い(とよく言われる)のはそのせいかもしれない。
今やスマートフォンで写真も動画も残すことができる時代だし、それ以前の時代でもメモや日記を書くことはできた。記憶の残しかたは個々人による。
ただ、ぼうっとすぎてゆく時間というのは、なんだかもったいない気がする。温泉旅行でぼうっとすごす、という意味ではなく、たんに消費されてゆくだけの時間、という意味での「ぼうっと」だ。
ひとには休息が必要だし、だからこそがんばれるときもある。その休息と、がんばる、を切りわけてしまうと、どちらかの記憶ばかりが濃くなりがちのような気がする。すごくよかったなあと思うことも、めちゃくちゃきつくて泣きそうなことも、私は平等に記憶としての生存権を与えておきたい。そのほうが、ふとしたときに、なにかいい表現が生まれるかもしれないからだ。
もちろん、表現が思いつかないことのほうが圧倒的に多い。文字を書いて生きている以上、それもまた、体験のひとつになるのだから、あまり悪いようには受けとらないけれど。

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