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白血病患者の家族として思っていた事①

私が小学生だった頃、兄が白血病を患った。

この頃、noteで闘病者や闘病中のご家族の記事を読むようになり、何か、自分に出来ることがないかな、と思い、こうして書いている。

さて、読み進める前に、御断りを一言。この話は約20年前の話。ああ、そんなに昔?びっくり。なので、今とは医療、治療方法、考え方、等異なることと思う。

私の話は、「ああ、小学生の妹はそんな事を思うんだな」「自分の子どもにはこうしてあげたいな」「周りに闘病中の家族がいるから、こんな事手伝ってあげようかな」程度に読んで頂きたい。

また、昔、私のように闘病家族だった方や、今、治療中の家族の方に「分かるな」と胸をそっとなでおろしてもらえたらと、思う。

病気発覚から入院まで

入院当時、私は小4。兄は中二であった。彼はテニス部に入って、全身真っ黒に日焼けしていたスポーツ大好き児だった。

ある日の日中、中学校で体調不良を訴えた兄。早退し、フルタイム母業をしていた母と市立病院に行ったそう。そして、そのまま子ども癌専門病院に救急車で運ばれた。

実は、彼、その一年前ほどに盲腸を患い、入院・手術をした。当時、お隣さんの奥様は看護師。

彼の受診について、二回とも彼女は的確なアドバイスをうちの母にしてくれ、感謝している。彼女のプロフェッショナルさには本当に脱帽する。

その日、学校から帰ると、私は待ち構えていた友達の母親に「お母さんとお兄ちゃん病院に行ったそうだから、今日うちにおいで」といった感じで受け入れて貰えた。その昔、携帯電話も無かったので、母が出掛け間際、もしくは病院先で彼女に連絡したのだと思う。

そして、夜、兄が1年程、入院する事を告げられた。子どもにとっての一年は長い。大人にとってもだろうか。「一年も?」とかなり怪訝な心境になったのを覚えている。

兄は、家から電車で二時間ほどの病院に入院。

母は毎日、面会に出向き、夕方に帰宅した。もう、通勤といって良いだろう、母は定期券を買っていた。

私の父は比較的忙しい人だったが、土日は家族で病院に向かった。

と、いっても、無菌病棟にいるため、私は病棟内に入れず、

病院内の広場でローラーブレードをしたり、だいたいいつも、病棟入り口前の廊下に一台、置かれたベンチでお絵かきをしたり、音楽を聴いたり、本を読んだりして過ごした。

本には困らなかった。

長期入院患者の為の、図書室があり、私は特別にそこから何冊か借りて読んだりもしていた。

あまり知られていないと思うが、病院内には学校もある。

普段は数名で授業形態もあるらしいのだが、彼の場合、治療の為に体調が優れない事も多かったらしいく、ほとんど個別授業をしてもらっていた、という。

彼はその頃を思い出し、いい先生に恵まれたと、よく話している。

長期入院を経て、一般入試で高校受験も果たしたので、先生方に感謝。そして彼自身、本当に努力したのだと思う。

ちなみに、中学校の修学旅行には行けず、受験当時も体調が元通り!といった訳ではなかった。偉いぞ、兄。

入院中 初めての一時退院まで

うちの父母は、白血病やその他の難病家族との交流会に、よく参加していた。私も一度だけ参加したが(参加といっても、ただ傍に座っていただけ)なんとも子どもはアンウェルカムな雰囲気だったし、知らない事ばかり、知らない世界、という感じで二回目は誘われても断った。

今、思うと、そういった会にもっと参加すれば良かったと思う。

子どもだけの会があってもいいかも。あるのかしら。

今は、SNSの時代だから、個が交わる機会は昔より増えて、気軽かもしれない。

それから、入院したばかりの頃、母は私によく「あの苦しくて辛い治療を、代われるものなら、代わってあげたい」と伝えて来た。

子を思う母として、大変ノーマルだと大人になった今、思えるが、当時はなんとも複雑だった。

そもそもあんまり治療の大変さを分かっていないし、「薬のせいでずっと気持ち悪いし、普通に喋れ無い、注射が痛い」などと聞いて、「じゃあ、そんな薬、飲まなければいいのに」なんて思っていた。勉強不足である。

今は変わって来ている事を望むが、当時、患者家族の中の(主にここでは)”子ども”に対するサポートがあまり無かったように思う。

両親は病気の話題を私にしてくれる事はあったが、なんというか、患者の兄弟の心のサポートは、親次第、親任せだったと思う。

例えば、母は当時を振り返り「あなたが家で待っている、と思うから正気を保てた部分が大きい。二人産んで良かった。

電車に乗って家に帰る時、私は、お兄ちゃんのお母さんから、家で待つあなたのお母さんにシフトチェンジしてた。」なんて話す。

両親も一杯一杯なのである。そういう家族が多いんじゃないかな。

幸いにも、私の家族は経済的に困窮はしていなかったので、私がご飯だけ炊いておいて、夕食はスーパーのお惣菜を買って済ます、なんて事も多くあった。

看病で家事に手が回らない両親と、ご飯もままならない子ども、なんて事もあり得る。

私の家族は、兄の病気について割とオープンで、隣に住む家族や、兄や私の友達家族の家でお風呂に入ったり、夕食をご馳走になった事もあった。

雷が鳴り始めると私を心配した近所の女性が電話をくれて、「怖くない?お母さんにメモだけ書いておいて。今から迎えに行くから」なんていう事もあった。

都会に住んでいながらも、そうした優しさに大変助けられた。

交換ノート

最近、noteを読んでいて知ったのだが、今どきの入院はビデオ通話と共にあるようだ。

ちょっと、うらやましい。いや、大分うらやましい。

昔は、(なんていうとすごい昔話のようだが)そうした文明の機器は発明されておらず、初めての一時退院まで兄の姿は見た事がなかった。

でも、私達は当時、交換ノートをやっていた。

交換ノートと言えども、相手は思春期真っ只中の男子。大抵は少年のよくある落書きがドーン。という感じだった。それでも私は毎日、とても楽しみにしていた。

具合が悪すぎてノートが返って来ない日もあったし、筆圧が弱すぎたり、ペンの運びがほわほわ過ぎて、読めない日もあった。

私はノートを通じて、兄と一緒に生きていた。

今は、敢えてする意味もないかもしれないが、私達は時々見返しては面白がっている。

ノートはパート6くらいまであって、二人の成長が目に見えて分かる。

兄の病棟仲間に、途中で亡くなってしまった子どももいた。

そうした話を、仲の良い患者には(年齢が若ければ若いほど)真実を伝えないこともあったそうだ。「△△ちゃん、他院に転院したんだよ」とお話したりもしていたそうだ。

私はそういう話を聞いて、兄が亡くなってしまうかもしれない恐ろしさ、と悲しみを感じていたが

もし、そういった事があったら、あの日記たちは私達の宝物になったに違いない。

もともとお兄ちゃんっ子だったので、ノートをこっそり抱いて眠る日もあった。

大人の涙

よく、こういう時に、「大人がしっかりしていないといけない」という言葉を見るが、私としては、私の両親が「こんな風に悲しい」「こんな所が苦しい」といった様に、具体的に子どもの私に話してくれたことは良かった、と思っている。

人にもよると思うが、私はなんというか、「お父さんとお母さんも悲しいんだな、良かった」と安心していた。

小4の当時、仲良しの友達は知っていたが、私自身は特に兄の病気を人に話さず過ごしていた。そんな中、やっぱり時々、ふと悲しくなる時があって、それを家族内で共有出来た。

ずっと気高い、強い、泣かない(と頑張っている)両親だったら、私も自分の思いを隠そうとして、辛かったんじゃないかな、と思う。

土曜日の習い事

「病気発覚から入院まで」の欄で書いたのだが、土日は家族で病院に足を運んでいた。そんな中、私の退屈さを察した母が地域のお便りで「ミュージカルの習い事」の広告を見つけた。

私は目立ちたがり屋の歌やダンス好きであった為、二つ返事でやりたい!と申し出た。

大抵、レッスンは週末のどちらか一日で、それが終わると私は病院から帰って来た両親と待ち合わせした。

習い事自体、楽しかったし、とても良かった。

何かしら手のかかる小学生を預けられて、両親も少しは楽だったかと思う。

初めての一時退院

この日の事はいまだに鮮明に覚えている。

突然の入院から数カ月、久々に兄に会える、待ち遠しい日であった。

私はその日、学校の後にスイミングスクールがあり、前日までに何度も「休んでもいい?」と聞いてみたものの空しく「あなたがやりたくて始めたんでしょ、月謝払ってるのよ、行きなさい」と一喝されいたので、しぶしぶスクールへ。

たしか6時頃、レッスンを終え、バスに飛び乗り、帰宅。

母が「お帰りなさい」と言い終わるまでに「お兄ちゃんいる?!」とリビングに駆け込んでいた。

そして、リビングの椅子に腰かけていた兄を見て、絶句した。

「髪の毛が無くなって来ている」「薬のせいで顔がふっくらしている」「手足は棒のように細い」こういった事を、父母からも兄の交換ノートでも散々聞いて来た。でも、ちょっとあの様子は想像出来ていなかったのだ。

兄は「よっ」と私に言ったが、その瞬間に私は自分の部屋に駆け込み泣いた。

すぐに母がやって来て、抱きしめながら、「ちょっとびっくりしちゃったんだよね、大丈夫よ、大丈夫」と諭すように言った。

それから、リビングに母と一緒に戻り、「泣いちゃってごめんね」と伝えた。

数分したら、というか喋りだしたら、兄は兄のままだったので、すぐにその姿にも慣れた。

父も早く帰宅し、皆で晩御飯を食べた。何を食べたかはもう忘れてしまったが、すごく幸せな時間だった。

今思うと、患者と初めて会う前に写真や絵などで、その様子を具体的にイメージ出来たら良かった、と思う。交換ノートにて、自画像を描いてくれてはいたんだけど。

現代は、前述したようにビデオ通話をする事が主流だろうから、そんな心配もないのかな。

席を譲ってあげたことありますか?

母が兄の面会に通っている頃、彼女は渋谷から始発列車で大体座って帰っていたという。でも、たまに遅くなってしまったり、丁度、急行が出発間際だったりで駆け込み、立って帰ったこともあったそう。

ある日、彼女は病院で辛い事があり、心身ともに疲れていた日に、「大丈夫ですか?どうぞ」と席を譲ってもらった経験があるそうだ。

優先席でない席だったそうで、母は大変有難く思ったそう。

見た目は健康そうでも、とても疲れていたり、立っているのもやっとな精神状態の時ってある。そういう時に、ふと気付いてあげられて、さっと席を譲れる余裕のある人間でいたいな、と思う。

近年はヘルプマークというものもあるそうだ。私はこちらのnoteで学んだ。

こんな話を思い出す。

私の友人のパートナーは水泳やフットサルをするガタイの良い男性なのだが、ある日、骨折をして松葉杖で毎日電車通勤していたが、ギブスが外れるまで席を譲ってくれたのは、後にも先にも、一回。一回きりだったそうだ。

首都圏で働く皆さんはお疲れなんだね…と皆でなんとも言えない気持ちになった思い出。

ちなみに、足腰が不自由なご高齢の方の中には、座ったり立ったりするのが苦痛なので、ドア付近のポールに掴まり立っていたい、という方もいらっしゃる。そうした方は大抵、「ここがいいから、でもありがとう」などと断ってくださるが、特別な理由がない場合は譲られた側は素直に「ありがとう」と受け入れ、腰かけてあげて欲しい。

中には、「席を譲ろうとしたら、説教を受けた」なんて事を聞いたりもする。そんな経験をしたら、もう次は絶対声かけたくない、って思っちゃう。

うちの母も、高齢になり、席を譲ってもらう事が増えたというが、「最初はなんだか恥ずかしいのよ。まだおばあちゃんじゃない!って思っちゃうし。でもその優しさをで無下にしてはいけないな、と思って、本当に数駅で降りたりしない限りは有難く座るようにしてる」という。

毎日ジム通いするスーパーWomanなのだが、そういう葛藤もあるようだ。

ちなみに私は、中腰で「お掛けになりますか?」と声を掛けるようにしている。(なんだ、その宣言)

ちょっと長くなってしまったので、これから先は後編に持ち越し。

後編はもう少し、実用的な話もしています。



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