マルチおばSの混沌!『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(ネタバレ有感想)
SFやアメコミ原作の映画をほとんど観ない。
そんな私が、マルチバース云々みたいな映画を観ようと思い立ったのは、ひとえにポスタービジュアルの“カオスな強さ”のせいだった。
ポメラニアン、何か目のついた石、よくわからない人々、そしてカンフーポーズのミシェル・ヨーさん。
映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(原題:Everything Everywhere All at Once 以下エブエブ)』。
公開前からちらほら映画の存在に関する情報を得てはいたものの
「アメコミ原作のアクション映画がジェンダーフリーな世の中がきっかけで、にわかにおばさん主人公が注目されて実写化したとかだろうな」
くらいにしか思っていなかった(ちなみにアメコミ原作ではない。ここは完全に思い込みというかイメージ)。
そもそもマルチバースと聞いても“キャラものが本筋やりつくしたら色々スピンオフするための設定に使われる概念”くらいのイメージで、乱暴に言ってしまえばオタク文化圏の質感しか抱いていなかった(反射的にアメコミ原作かな、と思ったのは多分このせい)。
かつ、基本的にホラー映画ばかり観がちなので、3月に観る映画は『デスNS(SNSでいいね!稼がないと死ぬ話)』くらいしか決めていなかった。
だが仕事の移動中、フライヤー物色に立ち寄ったショッピングモールの映画館で例のポスターを巨大サイズで見てしまい、突如として『エブエブ』の雰囲気に引き込まれてしまったのだ。
その時受けた印象はそう、
「何が起きる映画なのかまるで分からねえ」
だ。
※以下、キャラクターや展開に触れての感想となります。ネタバレ注意!!
□“上手くいかないおばさん”の日常から“別の自分になれるおばさん”の戦いへ!能力バトルへのワクワクと「その方法」へのザワザワが止まらない
主人公エブリンは既婚の中年女性。
優しいが頼りない夫、言うことを聞かない年頃の同性愛者の娘、故郷の中国から呼び寄せた父の間でくたびれつつ、赤字のクリーニング店を切り盛りしている。更にこの度、店の経営に関する税金の手続きでも思うように行かず、窓口の女係員からズバズバと容赦ない指摘を食らう……これが物語の冒頭だ。
私から見れば、このエブリンの生活はそこまで「不幸」とは思えなかった。家族がおり、結構デカめの店を持ち客もそこそこいて(経営が上手くいかないんだろうけど)、家族も自身も健康っぽい。
移住した土地(しかも外国)であれば言葉や手続きの苦労はつきものだろうし……と。
しかし、当のエブリンには苦悩がある。思うようにいかない家族にも状況にも不満なのだ。
店はボロで赤字なのに夫はマイペース、娘は自由奔放で「気苦労を負っているのは自分だけだ」という孤独感と疲労なのだろう。
が、突如としてこの「八方塞がりな上手くいかないおばさん」の日常は、別の宇宙からやってきたウェイモンド(この宇宙ではエブリンの夫である男性)により、カオスが大爆発するように変容する。
確かこのウェイモンドはたくさんある宇宙(マルチバース)のうち、他の宇宙を観測できる宇宙(便宜上)「アルファ・バース」のウェイモンド。彼は“上手くいかないバースのくたびれたおばさんエブリン”に、数多の宇宙を破壊してまわる恐るべき敵「ジョブ・トゥバキ」の存在と、それに立ち向かうため“他の宇宙の自分の力を宿す”技術である「バース・ジャンプ」の方法を授ける。
エブリンは、宇宙を超えてやってくる刺客に応戦しながら、ジョブ・トゥバキとの戦いに身を投じていく……ーー
というのがストーリーの導入と、『エブエブ』のマルチバース関連の設定。
「バース・ジャンプ」に関してはよく分からないところがあるんだけど、あれはこの宇宙Aのエブリンが別の宇宙Bのエブリンの能力を得ている間、(記憶はそのままに)宇宙AとBのエブリンの中身が入れ替わってる、という事でOKなのかな。
で、この入れ替え方式じゃなく切り替え方式で別宇宙の自分の力を使えるのがジョブ・トゥバキって感じか。そいつは強えわ。
何故って、バース・ジャンプの条件である「馬鹿な事をする」をしなくていいわけだもの。
この「馬鹿な事をすればするほど、この宇宙の自分とはかけ離れた自分の能力を借りられる」というルールは面白かった。
マルチバース=「こんな自分がいる宇宙もある」という別の可能性を生きている自分、だから「今の自分がやりっこない、やる可能性の低い事をすればするほど別の可能性の自分と接続できる」というシステム。めちゃくちゃ説得力がある(ように感じてしまう)!
様々な宇宙が入り乱れるだけでも画面の中は大騒ぎが続くのに、更にバース・ジャンプに際しての「馬鹿な事」という見せ場が、シーンを締めるようでいて更に散らかしていく面白さ。
個性的でちょっと難しい設定を、誰もが笑ってしまう変なルールにする事で
馬鹿な面白い事をしてるな!→てことは次はどんなパワーが出るのかな!?
と、マルチバースの世界観を理解しきっていなくてもコメディとバトルに引き込む作りになってる感じがする。
更に、“置物を肛門に入れるか阻止するか対決”みたいな子供でも笑えるお下品なギャグシーンから、お前そのウインナーな指でモ◯リスに触れたのかよ!なシーンを筆頭に各種映画へのパロディまで、色んなタイプの笑いが詰め込まれていて楽しかった。
□テーマは普遍的。だからこそ好き嫌いや評価は分かれそうな印象
私は『エブエブ』の最も強烈なテーマは“家族愛”だと感じた。
様々な宇宙、様々な可能性があるーー出会わなかった可能性さえあるーーこの世界で、今この宇宙で家族になれた事を愛おしく思う……というような。
映画のテーマとしてはありふれていて、普遍的である。
それを奇抜な世界観設定や強烈なギャグ、ナンセンスなビジュアルで包んだのが『エブエブ』の個性だと私は感じている。
だからこそ、観る人によって好き嫌いや評価は分かれそうだな、とも。
「奇抜なパッケージングだったけどいい話だった!感動した!」
「どこにでもあるテーマをこんなに個性的な見せ方をしてて面白かった!」
という人もいれば、
「変な世界観とか奇抜な演出やるだけやって、結局は家族愛とか普通なオチか~」
「単なる家族愛を奇抜な見せ方してるだけで中身がそこまで無いな」
という人もいるだろう事は想像にかたくない。というか、好きか嫌いかが真っ二つに分かれそうだなこれ……という印象が、観終わって二時間くらいした時フワッと頭を過った。
面白かった所や笑えた所はいくらでも話せる。けれど、それら単発単発のギャグや凝った演出の手数の行き着いた先が「家族愛」という普遍的なもの……という内容。この奇抜な手数とありふれた落としどころのギャップが、私は楽しいと感じたが、そうでない人もいそうだなとは思ってしまったので。
□アカデミー賞 最多7冠受賞おめでとうございます
観た時には前述のように
「変な映画だな~でも楽しいしテーマは普通にいい話だったな!ミシェル・ヨーさん凄かった!!」
というライトな印象だったので、アカデミー賞、しかも最多の受賞となりめちゃくちゃびっくりしている。おめでとうございます!
とはいえ、映画好きといっても私はアカデミー賞受賞作とかほとんど観た事が無いし、「これがアカデミー賞とった映画か!観たろ!」というような鑑賞の指標にもならない。
なのでアカデミー賞7冠の凄さとか意味が全くよく分かっていない……というのが事実である。
しかし、こういう大きくて世界的な賞を獲得すると、
「アメリカで苦労してる中国人移民の生活を物語の中に描いているから受賞したのでは?」
「同性愛者の娘を受け入れる、とかの設定が今風だからでは?」
等、『エブエブ』の社会風刺的とかポリコレ的な面が視野の中で強調されてしまう人が多くなりそうな気がする。
勿論、これらは悪い要素ではないし、今現在、時には過度に(無理矢理取って付けたような追加要素として)配慮されまくったり乱発されまくったりしている要素でもある。
だから、特にこの映画を観て面白くなかった人の中に、
面白くなかったのに何でアカデミー賞→所詮移民とレズのポリコレウケかよ
みたいに、その部分への否定や嫌悪を向けてしまう人が出てきそうではあるな、と。
勿論、こういった個人個人の感想は悪ではないし、批判したり嫌ったりは自由な権利なので、だから何が悪い、って話ではないのだけど。
個人的には、夫には中国語・娘には英語で話すエブリンから、異国の地で生きる移住者のリアリティを感じた。
□『エブエブ』が残したあたたかいもの
上手くいかない自分とはかけ離れた、華やかでパワフルな“別の宇宙の自分”を経験し知ったエブリン。
そして、自分は全宇宙のエブリンの中で最も上手くいっていないエブリンという事実を知ってしまう。だからそのお陰で他の宇宙のエブリンが(バランスのようなもので?)上手くいっているのだとも。
しかし、この上手く行かない生活の源、今の人生の「選択」をしたのは他でもないエブリンだった。
好きになった夫と結婚する為に父の反対を押しきって駆け落ちし、中国からアメリカへ渡った。
その「選択」をしなかった可能性の宇宙では、エブリンは独身だがカンフーの達人となり、カンフースターとなり、またウェイモンドも社会的に成功をおさめているようだ。
しかし、カンフースターのエブリンの宇宙では、ウェイモンドはエブリンの夫ではない。
そして当たり前に、二人の間に娘も生まれていない。
いつも優しいだけの夫と、エブリンを困らせる娘は、「上手くいかないエブリンの宇宙」でなければ彼女の家族ではないのだ。
そして古い価値観からエブリン達の恋を否定したかつてのエブリンの父親と同じように、エブリンも今、娘が同性愛者である事に納得できずにいると気づいたのではないだろうか。
エブリンは、何にでもなれるが故に虚無感に捕らわれたジョブ・トゥバキに対し「全エブリンいち上手くいかない宇宙のエブリン、だけどこの宇宙では貴女の母親」だとして向き合う。
この上手くいかない人生、だけどこの人生でここにいる大切な家族。それを受け入れる。
これはあたたかく寛容な優しさに溢れたエブリンの「選択」だった。
これは同時にとても残酷な妥協でもある。全ての自分の可能性で最も上手くいかない自分と現状を受け入れる、という事なのだから。
しかしエブリンは、不幸に屈してこの「選択」をしたのではない。夫と娘、そして父ーー家族の存在という幸福をとった。
そう私は思っている。
あ、あと、ギャグでしかないと思ってた「手がウィンナーの宇宙」。
あの宇宙では、エブリンは娘と同じに女性のパートナー(上手くいかない宇宙での税金おばさん)がいる。
“可能性(確率、という言葉は私からは使わないでおく)次第で、自分も同性を愛する宇宙が存在している”
というこの体験があった事が、僅かにでも、エブリンが娘の恋へのわだかまりを捨て去れた一因になっているであろう事を考えさせる。
一人で自由に何もかもを全部乗せして、何味かも分からなくなった真っ黒のベーグル。
豪華なハムや高級オリーブオイルなんてなくて、塩を振っただけの安物ベーグル。
同じ“味気ないベーグル”でも、後者をみんなと一緒に分かち合えば、きっと楽しく食べられる。
エブリンが守った「家族」とは、きっとそういうものなんだろうな。
頼りないけど優しい夫も、女の子に恋する娘も、ボケてもまだまだ頑固な父も。
どんなだって、どこだって、一緒に。
『エブエブ』は、自分より成功した自分がいくらでもいるマルチバースの中だからこそ、自分のいる宇宙と、この上手くいかない自分をこそ愛する理由を見つける物語だ。