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悪ガキよ、野山を爆走し、ペイント弾を放て!!――映画『リトル・ワンダーズ』の無邪気な無法の先へ(ネタバレ有感想)


私の観る映画はほとんどがホラー映画である。
一度「何故ホラー映画が好きなのか?」と聞かれたことがあるが、その時に自分の感覚から導き出した答えはこれだ。
「私の喜怒哀楽は年齢とともに薄まり、若い頃から現在までの実生活の経験上、死別や余命を涙の肥やしにする娯楽性を見出す事ができなかった。
男女間の恋愛の文脈も顕微鏡で見る生き物の求愛行動に近く、寄り添うには生まれつきの限界があり、無計画妊娠の美化やスキャンダラスな脚色などにはおそらく作り手の意図をくみ取る事ができない。
喜怒哀楽・死別・余命・恋愛と出産、これらへの感受性が人より明らかに鈍く生まれ育ってしまった私の中で、物心ついてから現在まで温度の変わらない未知で鮮烈な感情は、得体の知れないものや身の危険に対する“恐怖”しか残っていないからなのかもしれない」

……こんな風に整理して書くと
「なんだコイツ、人と違う・無感情=カッコいい、って思ってるネクラなガキレベルかな?」
とかクソみたいな誤解を受けて馬鹿にされるだけなので日頃はそこまで大っぴらに言わないし、喜怒哀楽のカタルシスや、“泣ける話”だとか、何にでも恋愛要素を求める人の好みも自由なので否定するつもりはない。

そんなわけで、私は日頃ホラージャンルに入り浸っているわけだが、ホラー作品でもないのに、偶然Xで前情報と予告編を目にしてから
「絶対観たい」
「よく分からないけど面白そうで仕方ない」
と思い続けてきた映画があった。

それが『リトル・ワンダーズ(原題:RIDDLE OF FIRE)』だ。

今回は、10月25日に待望の公開を迎えたこの映画の話と、直感通りの面白さ・期待以上の素晴らしさの感想を書いていく。

※冒頭のあらすじと公式予告編引用の後、警告文を挟んでネタバレ有りの感想となります。
(Filmarks感想文に加筆修正)



◆冒頭のあらすじ

田舎のデコボコ道を、子供用レースバイクで駆け抜ける三人組。
サングラスでキメるおかっぱのリーダー格・紅一点のアリス
怖いものなしの行動力のわんぱく坊主・ヘイゼル
二人より年少で、まだ幼いながら背伸びして凄みを見せるヘイゼルの弟・ジョディ

大人もへっちゃらの暴走とコソ泥常習犯の彼らは、ゲットした念願のゲームで遊ぶべく、今度はテレビのパスワードを握るお母さんの大好物“ブルーベリーパイ”獲得に乗り出す。
しかし、その先には思いもしない大騒動が待ち受けていて……?


(公式予告編。卵パックのシーンの弟・ジョディの表情がとにかく良すぎる)


※ここから先は映画の内容・登場人物等に触れる感想となります。ネタバレ注意!



第一印象として目に焼きつくのは、16ミリフィルム撮影によるレトロで荒い映像。
これが自然溢れる田舎町の風景や、子供達のパワフルすぎる無邪気さ、無法っぷりを飾り気なく描写する素朴さで一気に引き込まれた。
しかもこの質感で、子供達がスマートフォンを使いこなす現代の話というのが面食らう程面白い。

そこに、カタルシス盛り上げ装置として感情に接触しようとしてこない、どこか古いファンタジーゲームを思わせるシンセサイザーの音楽が、客観的に美しく、語り手のような朴訥としたストーリーテリングの質感を添える。
ちょうど、広大なワールドマップに繰り出したり、妖しい森を進んだりする時に、画面上の小さな主人公キャラクターが壮大な音楽に包まれるロールプレイングゲームのように。

これらの演出の温度は、物語の骨格として常に子供たちに並走しているのにも関わらず、
“単なるレトロ調加工によるやみくもな「よさげ感」”
やら、邦画の常套手段
“ここはこの感情を動かす所ですよ〜劇伴”
のような、言葉を選ばずに言ってしまうと「映像へのしゃらくさい小手先添加物」を一切私に感じさせなかった。
もはや無骨と言ってしまえる程の、一回り外から物語の額縁として映画を見守っている、包容力としての距離感のたくましさがある。

そして何よりも、
「この子供達でなければ実現し得なかった!」
と思わせられる素晴らしいキャストが、子供ならではの(子供の骨格や身軽さの持つ)キレッキレの身のこなしやおかしみのある体さばきで元気いっぱいに大冒険を盛り上げる。
予告編にもあるが、映画冒頭、紅一点のアリスがバイクでグリグリ走り回るワンシーンだけで、彼女のボスっぷりに打ちのめされた(笑)。
ワルな色男予備軍の面構えなのにちょっとシャイなヘイゼル、まだカッコよさをイマイチ理解していないウォーボーイレベル1みたいな可愛いジョディに、ミステリアスだが野生児的な活力もあるペタルも、全員それぞれに魅力たっぷりだ。
(『ライオン・キング』の3匹のハイエナとか『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のロックショックバレルみたいな、女ボス+蛮勇男+おとぼけ男、みたいな構図が私は好きなのかも)

また、個人的な好みのレベルだが日本の某監督作品等にある「世間知らずな若さ故の醜い過ちや衝動」を遠巻きに美化する空気がどうしても受け入れられない(公の場での無許可の音楽パフォーマンスをルール違反で注意される事を「若者への世間の世知辛さ〜」みたいにされても何も思わない)私には、美醜善悪がド直球に刺さるストレートさが嬉しかった。

正直、本作における子供達の悪行は“いたずら”では済まされない程に悪質だ。
不法侵入に始まり、カジュアルに窃盗を繰り返し、大人に怒られればガスガンで攻撃し、馬鹿にしてずらかる。
世間で評価されている尾崎豊楽曲を聴いて
「バイクを盗まれた被害者がいたり、学校のガラス破壊したりする犯罪行為を、青春美談として何を良い歌みたくしてんだ!」
と憤る人には許せないレベルの悪行三昧であろう。この“悪すぎさ”が微笑ましく見えず、シンプルに冒険として没入できないな〜という人も少なからずいる事は想像できる。

私も途中までは
「映画としてはコミカルな悪ガキのいたずら的に描いてるけど、ちょっとやり過ぎ感やばいな」
と思っていた。
しかし、映画後半、悪ガキ三人が密猟者の大人達に本格的に喧嘩を売ってしまった辺りから、映画の雰囲気が微かに変わり始めたのを感じた。

悪ガキのペイント弾なんかではない、実弾入りの銃を持ち、迷いなく人に向ける大人の存在。
約束を守らず心を踏みにじる大人の存在。
悪ガキの機動力や大暴れが通用せず、その上容赦のない危害を加えることも辞さない大人の存在。
そして、冒頭に行ったゲーム機泥棒がバレた彼らがパトカーの窓越しに見たものは、罪によって警察に捕まり「犯罪者」となった大人達の姿だった

我が物顔で大人や世間を馬鹿にし、無法を重ねて悪ぶってきた“怖いものなし”の子供達は、いつも通りの軽はずみな泥棒行為で手に入れようとしたパイの材料の卵をきっかけに、悪事・凶行・大人のリアルを目の当たりにし“怖いもの”を知ったのだ。

そして「罪を犯すこと」の重大さも。
盗みがバレ、大ごとにすると宣言されてパトカーに閉じ込められながら、視線の先、連行される密猟者を見つめる子供達の目

罪を犯し「犯罪者」となった者は、警察に捕まり連れて行かれる
それだけではない。子供らの仲間であるペタルの母が捕まった事は、ペタルを――あの魔女密猟者は血を分けた家族を――「犯罪者の家族」にした。

アリスや、ヘイゼルや、ジョディは何を思っただろう。
彼らが大好きな母親の事を、彼らの行いで「ゲーム泥棒の家族」にしてしまったと、気づかされたのではないだろうか。

あの一連のシーンは、静謐で演出的にも言葉少なでありながら、子供達の箱庭的価値観が現実を突きつけられ、彼らが心の奥底で「罪を犯した者」の末路を悟った瞬間としてほろ苦く印象に残り続けている。

しかし、映画は明るく、子供達は元気いっぱいにエンディングを迎えた。
そう、悪ガキ達が冒険で得たものは、危険な経験や大人の怖さや罪の意識だけではなかった。

父のいないヘイゼルとジョディ兄弟、劇中少しだけ家庭環境が語られるも映像で描かれる事はなく、しかし同じように複雑な事情を抱えていると思われるアリスが、冒険を通して友達になった不思議な少女ペタル。
彼女は「変わった力を持ち、密猟者である母に家に閉じ込められ、学校にも通わせてもらえず、母の価値観に束縛されて、しまいに母は逮捕されていった」という身の上である。

皆それぞれに一筋縄ではいかない生い立ちの中で出会った四人の少年少女は、ひと晩の冒険の中で恐ろしくほろ苦い思いを経験し、それでも元気に笑顔を交わして、力を合わせ不格好なブルーベリーパイを完成させた。
そのパイはヘイゼルの母を笑顔にし、子供達はペタルも一緒に、念願のテレビゲームに興じる。

この後、ペタルは犯罪者の娘として、大人に保護され過去を調べられ、困難に直面する事も出てくるだろう。
アリス、ヘイゼル、ジョディはゲーム機窃盗の罪が親達に周知され、ゲーム機もおそらく取り上げられ、叱られる事になるのだ。

けれど……けれど、きっとペタルはそんな困難を乗り越えるだろう。
アリス達は変わらず元気な悪ガキでいるだろうが、今までの彼女達とは違い、あの時パトカーから見た「罪」の光景を知っている。二度と盗みに手を染めたりはしないだろう。

私は何故か、そんな“これから”を心の底から確信してやまない。


そしてきっと、アリス、ヘイゼル、ジョディ、ペタルはずっとずっと仲良しだ。
『スタンド・バイ・ミー』は少年の日の友情が味気なく解けていく形を示していたが、彼ら四人の“不死身のワニ団”の絆は永遠のもののように思える。
そう思える、と思わせてくれる。
友情、恋、勇気……たった1日の冒険の中で、ほろ苦い経験だけでなく、子供達はかけがえのないものを手に入れたのだから。

馬鹿な大人、悪い大人、良い大人、正しい大人、そして魔法にも似た少しの不思議と、仲間の絆……わんぱくで間違っていて体当たりな冒険の中、子供達が見て学び、知っていくものを、映像表現と劇伴で映画はありありと描き出してくれた。

冒頭と終盤に、バイクで爆走する子供達の表情を正面から捉えた、全く同じ画角のシークエンスがあるが、冒頭の面構えと終盤の面構えとで子供達の表情の違いが微笑ましくも羨ましいほどに眩しい。


新宿武蔵野館さんの、監督サイン入りポスター



映画館を後にしながら、何故いつもはホラーにしか惹かれない私がこの映画の予告編に強く惹かれたのか分かった気がした。

『リトル・ワンダーズ』に私が感じた気配も同じだったのだ。
「眩しいくらいの経験を味わう、子供時代のフルパワーの大冒険」。
これは私が経験した事のないものだ。
経験せぬまま大人になった今、本作からほとばしるバイタリティは、私にとってまだ見ぬ新鮮で未知の感覚、いやそれ以上に、望んでももう絶対に味わえない感覚に他ならない。
つまりはこの記事の最初に書いた
“物心ついてから現在まで温度の変わらない、未知で鮮烈な感情”。
形は違えど、ホラーに惹かれ続ける感覚と同じなのだ。

悪ガキ達の大冒険は、さしたる冒険もないままに世間を理解してしまった大人である私の胸をうつ。
私の中で麻痺も色褪せることもないどころか経験さえ出来なかった、あまりにも新鮮で眩しい、未知の感覚。この映画に、私はそれを感じとっていたのだ。


2020年代最高の、ガラ悪ジュブナイルムービー。
かつて悪ガキだった大人も、冒険に憧れていた大人も、きっとみんなの心が「不死身のワニ団」と一緒に、レースバイクで走り出す。
青春の閉塞感に満ちた暗い夜の帳じゃなく、少年の可能性が広がる、明るい朝の陽射しの中へ。

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