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“ヨバレル”事の可視化……映画『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(ネタバレ有感想・考察)


□はじめに


昨年の『みなに幸あれ』に続き、第2回角川ホラー映画大賞『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』が長編化、遂に公開となった。
私はサブスク配信にて事前に、選考・受賞段階の短編バージョンも視聴していたが、この角川ホラー映画大賞、第2回から早くも“素直に怖い”作品が選考されなくなっているように感じた。受賞作は商業映画化、というコンペティションなのに、である。
まあモロにオバケや呪いを正統派にやらなくても、第1回受賞作のような新しい「恐怖」の映像表現を発掘しようという狙いなのかなという感想。それこそ“宙ぶらりんにした謎で考察論客と議論交流を盛り上げる”がトレンドの昨今の日本ホラー界隈を見ればこそ、
「シナリオなんてあってないような、変化球や子供の傾倒ギリギリのビデオドラッグ寸前のものにも“含み”への評価として受賞させるんだろうな」
と、正直2回目にして若干冷めた感触を味わっていたのを告白する。
(そもそもあのコンペティションは「選ばれた作品を長編化する」ものなのか「受賞作の監督に長編映画制作権を授与する」ものなのかよく分からない。前者だとしたら受賞理由があまりに分かりかねるスタイルのものもあったので)

しかし第2回受賞作品中唯一
「この感じなら更に長く拡張されたのを観たいかも」
と思ったのが、本作の短編版『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』だった。
長い説明台詞などではなく、あくまで親しさの中の会話の中で人物や物語背景を語り、何かをモロに見せるのではなく、ストーリーテリングと最低限の小道具とカメラワークで恐怖を描く。
そんな風に多くを語らずしてざらりとした異物感を理解させていながらも、物語として(観客目線でも)しっかりと帰結する答えの用意された秀逸な短編ホラーだったと私は思っている。

「考察頼み?違うぜ、言葉少ななホラーはこうやるんだよ」というような、言うなれば雄弁な沈黙の節度と言おうか。
映像の使い分け、カメラワーク、俳優さんの目つきの演技も良く、説明台詞顔芸ワーキャーではない「静かに、鬼気迫る」緊張感が素晴らしく怖かった。

さて、この度、長編として公開された『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』を観て、私はこのコンペティションに抱いていた前述の
「既視感や親しまれた手法でない、新しい恐怖表現を発掘しようという狙いで選考してるんだろうな」
という印象の半分を塗り替えられる事となった。

この映画は、確かに新しい。実験的で挑戦的である。だが、長らくJホラーが試行錯誤とともに通ってきた恐怖表現をブラッシュアップして踏襲し、オワコン化著しい昨今のJホラーが決して成し得ない表現で商業作品の世界に、更には考察流行りのホラーシーンにもリーチしつつ打って出た。
そんな記念すべき作品だったように感じている。

今回は、映画『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』に関して、ネタバレ有りの感想を。
(考察、と呼べるような丁寧な解析は書きませんが、本編で語られきっていない部分に言及している箇所があります)
また入場特典冊子『未必の故意』、近年のJホラームーブメントを代表する『行方不明展』『近畿地方のある場所について』『飯沼一家に謝罪します』の内容にも触れますので、各自ネタバレ注意、閲覧は自己責任でお願いいたします。

ヒューマントラストシネマ渋谷さん展示


□ホラー映画の観点から(ネタバレ注意!)

まず、ホラー映画としての観点から個人的に思った事や印象的だった部分を。
このあたりは私よりもJホラーだとか撮影手法に詳しい方が幾らでもいるので、それに比べたらペラッペラな感想でしかないとは思うけれど。

真っ先に感じた映画としての見やすさ、優れた表現として、説明パートをわざわざ作らない・のに、どんな人物なのかを順次物語っていく人物描写の過不足無さにかなり惚れ惚れした。
黎明期のJホラーは、登場人物の「個」を重要視しなかった。反して、今のJホラーは特殊能力だの背景だの、酷い時には変なクセ等をゴリゴリ押しつけるような「キャラもの」と言って差し支えない。
本作の登場人物達は、さしてヒロイックだったり、いわゆる「主人公補正」が無い(霊感のある青年・司が主人公でないのが特にひと抑え効いている所に顕著)。
外見的に変わっていたりもしなければ、特に一つの分野への有識者キャラというわけでもない。皆普通のスーパー店員や塾講師、記者等だ。
しかし、没個性的かというとそうではなく、主人公の敬太には「過去や家族とのしがらみ」が、相棒の司には「霊感」が、記者の久住には「何らかの影」がある。彼らはそれをペラペラと自分語り台詞で説明したりせず、あくまでもやり取りや振る舞いの中で少しずつ観る者が理解できるようになっている。
(短編版の時からこの演出傾向がある)

その、ヒーロー不在・クセ強キャラ不在の人物達によって描き出される恐怖もまた、かつてのJホラーの質感と、『リング』『呪怨』以降のおばけキャラ有りJホラーとの折衷かのような温度感を保つ。
遠くにぼやけて見える人影、部屋の角に見える黒い翳り等は、『回路』の黒澤清監督が発明した不明瞭さの恐怖表現に忠実である。
ビデオテープ映像や音声のノイズ、勝手につくテレビ等の「首謀者(おばけ本体)の姿無き恐怖描写」には『リング』や『呪怨』の霊障的表現を思い出した人も多いのではないだろうか。
結局「何が正体で彼らをどうやったのか」は明確に語られない等を含め、不明瞭で、おばけ丸出しでない恐怖表現はかなり黎明期のJホラーの色が濃い。
そしてこの「不明瞭」が、現代の流行である「考察」と非常に相性が良く、相互作用的に映画の怖さを深くし、観る者の想像力を掻き立てている。
ここが何とも良かった。

そうやって進んでいくストーリーの中で、最後にはしっかりと、記者・久住の腕をつかむ禍々しい何者かの手が姿を現す。この直接的強烈さをしっかり同居させているのも恐ろしい!

暗く、閉鎖的な映像の雰囲気と規模感もストーリーにちょうどよく、スマホや配信の普及のせいで昨今やみくもにリアリティ出しのつもりで使われがちな「POV映像」の使い所もしっかり意味があり、空撮、森の深さを物語る木々の下から上へのシーンも、映像にメリハリと不穏さを加えていて観ていて面白かった。


□民俗学好きの観点から(大量ネタバレ、個人的考察注意!!)



もくじからここにジャンプしてきた人にあらためて伝えますが、この項には特に
考察、と呼べるような丁寧な解析は書きませんが、本編で語られきっていない部分に言及している箇所があります。
また入場特典冊子『未必の故意』、近年のJホラームーブメントを代表する『行方不明展』『近畿地方のある場所について』『飯沼一家に謝罪します』の内容にも触れますので、各自ネタバレ注意、閲覧は自己責任でお願いいたします

モキュメンタリーJホラーの作り手が共同事業化して、共通する世界観を用いてくるのはある程度同一作者とか関連シリーズと明言されてるのなら楽しめるけど、変に
“暗黙・ないしファンだけが分かるユニバース化”
みたいになってくのなら個人的にはちょっと楽しめないし乗れないかも、と私は少し思っている。
『飯沼一家に謝罪します』が、映像媒体同士ならともかく『行方不明展』との関連を匂わせてるあたりからそう思っているのだけど、まあ、それは余談なので映画の話に戻ろう。

結局あの山は何だったのか――

劇中、骨壺の大量遺棄を発見した敬太が辿り着いた民宿で、ぶっきらぼうなのに母親にだけは口汚い、いわゆるコミュ障っぽい民宿の青年・雪斗が、敬太に「山の言い伝え」と「祖母の体験談」を語る。
“神を捨てる場所”だと。
それは供養(=一族の繋がり)をやめた故人だったり、信仰をやめた神棚の神のようなものだったのであろう事は、彼の言葉からも分かる。
この「供養(=一族の繫がり)をやめた故人」という所、更には遺骨というのが、敬太の母から見た敬太の父と一致するのも厭な感じを煽る。

あの山を知る人々は夜、山に行き、辿り着いた場所で
「背負いきれないもの」
を捨てて縁を切る。
この俗信と、本当に縁を切る事のできる力があの山には備わっている
と考えて差し支えないだろう。
遺骨を捨てたい人であったり、体の変化を無くしたい雪斗の祖母であったり……13年前、家族の演技くささに辟易し、弟を邪魔に思い子供ながらに冷たく当たっていた少年であったり……?
先程書いた、離婚して母とは無縁になり、敬太のもとに送られてきた父の遺骨も「縁切りを望まれていたもの」だし、敬太が“死を直視しなかった(既に母と縁を切りたいと思っていたから視えなかった?)”母親も彼の「捨てたいもの」だ。
更には、弟は死んでいると(方便か、本当に見えていたかは分からないが)敬太に突きつけた司も、あの時敬太によって「認めたくない」と切り捨てられたとも考えられる。

では、人々が“辿り着いた場所”とは何なのか。
それはおそらく「捨てたいもののある者(とその同行者?)だけが辿り着く事のできる場所」。
雪斗の祖母の代ではそこはゴミ捨て場のような様相をしており、近代には二階建ての廃墟の様相に変貌しているようだ。

“ヨバレル”という日本語がある。
名指しで来るよう声をかけられる、とかご馳走になる・食事の席に加わる、の意味とは違うニュアンスの語彙だ。
決して古い言葉ではなく、(見えない作用によってと想像できる)ふらっと足が向く事態を表現し現代でも用いられる。
A「何でいきなり伊勢神宮に日帰りで?」
B「分かんない。急に行こう!と思い立って。お伊勢様にヨバレタのかな」
のような感じだ。
行き先を、見えない作用によって決められた状態と言えば分かりやすい。

このヨバレタ状態の者だけが辿り着ける(迷い込む)場所、というタイプの俗信は幾つか日本民俗の中にある。
(『となりのトトロ』で描かれる、条件の明確でない、トトロの巣に行き着き会えるケースの存在もこのヨバレタ状態に近い)

その一つこそ、古くは『遠野物語』に、そして本作の入場特典冊子『未必の故意』の主人公の知識として記されている「マヨヒガ」である。
このマヨヒガ(迷い家、の字をあてる)は、山や森などに迷い込んだら見たことのない場所や建物に行き着く、という類型の伝承だ。
冊子の主人公・道枝の祖父が言い聞かせ、彼女が例の廃墟を前に想起した。

しかしあの廃墟が「マヨヒガ」であるとは私にはどうしても思えない。
「マヨヒガ」は一般に、迷い込んだものに幸福や財産をもたらす縁起のいい聖域、ないし楽園的な場所だとする言い伝えが多いからだ。

では、何なのか。
ここからは私の、突拍子もない想像の憶測に過ぎないので、一つの妄想として読み流して欲しい。

民宿の青年・雪斗の祖母から聞いたエピソードのうち、二つ目の話を思い出す。
「生理が来たのが恥ずかしく、森に捨てようと思い立ち、森に入って辿り着いたゴミ捨て場のような場所に血で汚れた下着を捨てた。それ以降、生理が無くなったそうだ」
ここに、民俗学をかじっている人間として強烈な違和感と恐怖、よからぬ気配を感じずにはいられない。

山は、山の神は、経血を忌む。本来であれば。
生理中の女性は山に拒まれ、山の神や聖域性を侵すとして入山させない掟や通念が多く存在する。
その理由の一つは、山岳信仰である修験道の女人禁制の他、山の神自身が女性であるからだとも言われている。

日本に多く存在し信仰されている「女人忌み」の山の神があの山にいたならば、経血の出ている女性を「力のある場所」へなんて通さないはずだと考えられる。
生理中の女性が、山の特別な場所へ導かれヨバレル事は考えにくい。
あの山にいるのは「山の神」なんかじゃない
。久住の腕をつかんだ手を目の当たりにし、更に確信できる。
闇から現れたあれは、どう見てもたくましい男の手だった。
敬太や司を惑わしていたそれは、女性の久住だけに手を握った


一つ……一つだけ、私には思い当たる「存在」がある。
これは民俗学の書物になく、都市伝説とも言えない、ある「ネット書き込み」に見えたおぼろげな存在だが。

山にヨバレる女性……月経のなくなり、それでも子孫を成した雪斗の祖母は、山にヨバレ、経血のついた下着から「成人した肉体の女性」だと悟られ、あのたくましい腕の「存在」に神隠しとはまた別の形で目をつけられて手中に落ちたのではないか?
そして司の行方不明後、13年前の日向の死は判明し、自身はあれだけ恐ろしい経験をしたというのに、久住は山に執着し続けている。まるで山に魅力され取り憑かれ――ヨバレタ状態の継続かのように――。

一つだけ知っている。
“こ し い れ せ よ”
そう山に女性を呼ばい誘う、神と見なされながらも、本質はまるで違うもの。
そうだ、あんなものを“神”だなどと。

敬太達が入った山の名前は、近代に改名されていたはずだ。

摩白山……ましらやま……マシラ



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