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有終の後味

前回の往復書簡
『タッタカタ』


まいちゃん、先日はお誕生日祝いの即レス(往復書簡というやや古典的な言い回しに即レスだなんて面白おかしくてくつくつしてしまうね)ありがとう。
金木犀(の入った器はもしやお揃いのやつ?)がおうちにあることがとても羨ましい上に、それで香水だなんて!素敵だー!仕上がったらぜひ、くんかくんかさせてほしい。この夏は、頂き物のドクダミチンキにとてもお世話になって、感嘆しながら、枇杷の種でチンキを作ってみたりしたの。チンキもリカーなどにつけて成分を抽出するもの。枇杷の種チンキは、口内炎などに効くらしく、口に含むと、甘い枇杷の香りが広がって、芳潤でさえあった。杏仁みたいな感じ。枇杷の種に含まれる薬効は、所謂毒にも薬にも、というやつで、少し強いものらしいので、口に含んでうがいをして、飲みはしなかった。その儚さの落とした余韻が、芳しさを増す魔法のようで、より素晴らしい風味に感じたのかも。


余韻、というのは、つまり、終わること、終わりがあること、の、その後の話。物事にはすべからく終わりがある。有終の美、という言葉は有名だ。
そういえば最近、次女の様子から、有終、ということについて、考えることがあった。


いつも我が家のムードメーカーである、朗らかな次女。繊細で、捉えようによっては神経質、な長女とは対照的な、次女。小さな頃から『快い』いう感覚をつかまえるのが上手くて、小さなことを面白がり、気持ち良いと言い、それは『不快』を圧倒するらしく、概ねにこにことしている。赤ちゃんの頃から、よく天井だとかそういうものを見て声を上げて笑っていた。
そんな彼女が、突然に、『死ぬ』こと、をとても怖いと言い始め、随分泣いた日があった。それをきっかけに、風船を膨らませて喜んでは、直後、『これがしぼんで小さくなることが悲しい…』と号泣。自分で丸めたおチビさんの月見団子を愛でては『食べたら無くなっちゃう』と号泣。今、風船は踏んで割ったりしないよう大切にカゴに毛布をかけてしまわれていて(毎朝、小さくなってない?と確認していたが、頻度が減ってきた)、お団子は写真に撮り自分で絵に描くことで、納得した様子。終わりがあること、有終、ということに、向き合って、なんとか折り合いをつけようとしているところなのかなぁ、と、興味深くみている。

かたや私。家族みな揃って(風邪は完治はせず、なんとなくそこに居たけれど)長女のお誕生日を祝い、荷物やお手紙というたくさんの祝福を受けて喜び合い、一夜開けての今日、朝からしっとりと濡れそぼる世界に、随分ほっとしていた。意欲的な状態の人ならば、しかめっ面したくなるような、朝からしっかりと雨の日なのに。
たぶんそれは、お誕生日お祝い、が、終わったからなのであった。終わることの寂しさ、に、ほっとしてしまう、というのか。わたしの根っこには随分そういうとこがあるようで、人は寂しい、というのが、わたしの軸足になっているような気がする。人と会う、集まる、お祝いなどのイベント、そういう賑やかなことも決して嫌いじゃないのだけど、その後で一人に(もしくは家族だけに)なった時の、寂しいけどほっとする感じ(誰しもが感じたことのあると思われる、あれです、あれ)が、好き。あぁ、やっぱり一人だったんだよな。という。それはとても身軽で、そしてその分きちんと寂しい。

何かが始まること、は、終わりに向かっていくことだ、という考え方は、もうしばらく前からわたしの中にある。だから始まる前がいちばんわくわくする。始まってからは、それを夢中で楽しむ自分もいるけど、あぁもうどんどん終わっていくんだな、という冷めた自分もいる。小さく。それで、終わると、ホッとする。わたしなりに、有終に折り合いをつけてきた結果なのか。名残惜しさにつかまらぬよう、終わり、には、潔く、割とパッと手は離す。その後の余韻を慎重に味わう。それは枇杷の種チンキの芳潤さのようにわたしを楽しませる。長くいつまでも。

雨降りの今日、ホッとしながら、Helen Merrillを聴いていた。かさかさとしながらも深い歌声は、雨に濡れる落ち葉のような憂いがあって、一雨ごとに秋が深まりゆくこの時期に、すごく親和するので、おすすめ。

当然なのだが、終わりは、はじまり。今はお誕生日祝いにやってきた、栗(冷凍して、甘さを引き出している)を、心待ちにしているところ。

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