2023年の映画について。

 中学校で社会科を教えていると、「なぜ鎌倉幕府は滅びたのか?」という問いを考えるために「分割相続」について説明する。「土地所有者が死んだら配偶者と子ども全員に土地を分配する。結果として、一人当たりの領地はどんどん小さくなる」と図を使って説明すると、中学生はすぐさま「武士の生活が苦しくなる」と気付き、「こんな方法やめればいい」と言う意見が出てくる。「え、じゃあどうやって相続するの?」とたずねると、「きょうだいで戦えばいい」という意見が出てくることもある。そして、「でもさ、きょうだいの誰かが独り占めするのと1人の取り分が少なくてもみんなもらえるのはどっちがいいんだろうね」と言うとみんな黙ってしまう。その前者が『高慢と偏見』の世界だ。男子しか相続できない決まりの中で5姉妹は「よい結婚」のために奔走する。なお、話を日本に戻すと鎌倉時代には女性の地頭もいた。いつから女は1人では生きていけない構造になったのだろう。

 毎日、勝手な妄想をして生きているので、BBC版の『高慢と偏見』を観た後、ソフィア・コッポラは「お金持ちと結婚しても孤独は続くんだけどな」と思ったのではと考えた。恵まれた家庭に生まれても女の子だから死ぬしかないし、言語の通じない国で夫から放置されたらしょぼいおっさんに相手してもらうしかない。(おそらく日本にいようがアメリカにいようがあの関係性は変わらず、シャーロットは暇を持て余す日々を送るのだろう。)お金があっても女は蚊帳の外でいつもずっと寂しい。結局、どこにも女の居場所はない。

 そんなことを日々考えていたので、映画『バービー』を観たときは驚いた。子どもを「人形の子守り」というグロテスクな遊びから解放して、突如現れたバービーは子どもに主体性と夢を与える存在として宇宙飛行士、大統領、医者になっていく。もちろん身体的にも多様性を得て、バービーワールドは女の子たちの夢の世界として存在する。しかし、ケンは職業も家もなく、ビーチでバービーにからんだり、パーティで踊ったりするだけである。リアルワールドで撮影したマグショットには「and KEN」と書かれており、完全にバービーの添え物になっている。そして、君がいないとダメなんだとメソメソする。つまり、家父長制の下における女性の役をケンが担っているのだ。白人の中年の男をメタメタにして女性の話をするという構造をつくったことに驚いた。また、マーゴット・ロビーが演じる「定型バービー」は、特別な技能や知識をもっていない。だからこそ、最初は自分の身体に異変が起きてもリアル・ワールドへ行くこともためらう。特別な技能や権威もなく、男の手を借りずに、女同士で連帯して、恋愛もせずに物語の主役になるなんて「理想」でしかない。バービーワールドに家父長制が導入されてバービーたちが亭主関白プレイに洗脳されてもそれから解放する方法は「魔法」ではなく「普通の女の苦しみの叫び」だった。そして、そこからバービーたちが男に喜ばれる女を演じていくシーンにつながるカタルシスの気持ちよさである。ほとんどの女達が味わったことのある「マンス・プレイニング」の連続である。一見するとかわいいバービーワールドだが、脚本の皮肉っぷりは容赦がない。ピンクの世界は「女の子たちのもの」と思っている人にこそ必要な映画となっていた。
 
 居場所がない女性がそこを脱出するという点では『イニシェリン島の精霊』も大好きな映画だった。もちろん、もっと女を主題にしている『SHE SAID』も『ウーマン・トーキング』も『アシスタント』も良かった。でも、これらを観る人にはこれらの映画はあまり必要ではないのかもしれないとも思った。『イニシェリン島の精霊』は、男が主役で、男が散々滑稽なことをして、人をバカにしまくって、でもその中で一番賢いのが女であるという構造にしびれた。結局、「男たちの戦い」とはそれを経て自分の地位を高めるためにするわけだから相手を殺せないなら仲良くダンスをするしかないのだろう。(『バービー』を観た後はもういろんな映画の戦闘シーンがダンスにしか見えなくなっている。リドリー・スコットの『ナポレオン』もまさにそうだった。)『イニシェリン島の精霊』の主人公の妹シボーンは、実の兄にも、その兄が愚かであることはずっと前からわかっていたのに急に絶交するその友人にも下世話な島の人々にも辟易して島を出ていく。それは、彼女が本を愛し、知識をもっていたからだろう。そのことは多少の残酷さがありつつも私にとっては救いであると感じた。人と一緒にいても孤独は終わらない。もちろん、経済力や権威があっても変わらない。だから私たちには本や映画や音楽が必要なのかもしれない。
 
 ということで、去年からずっと楽しみで仕方なかった映画『バービー』のことをSNSで追ったり、サントラの曲を聴いたりして公開を待ち、ピンク色の服を着て嬉々として映画館に行ったらあっという間に2023年が終わりかけている。グレタ・ガーウィグがノア・バームバックと共同で脚本を書き、監督するというニュースを知ったのは去年のことだった。絶対にフェミニズムを扱うものということを勝手に想像し、ワクワクしていたが、その結果はその予想を遥かに超えていた。でも、地方都市で公務員をしている私の周りには『バービー』の話をしている人なんて全くいない。だから、広報をほとんどしていない映画がとても話題になっていて勝手に悔しくもなった。巨匠の作品も大事かもしれないが、世界を変えるような中年の女性が撮った映画が重用される世の中であって欲しいと思った。2023年の日本は、既得権益のある高齢の男性を大切にし、女性というのは些末な存在として扱ったということだ。この物語を必要としている人が少ないのは、それくらい主体的に生きているからか、ケンの足を揉むのに忙しいからだろう。夜遅くに職場で仕事をしていると「ここにいる人たちのご飯の支度や子どもたちの育児は誰がやっているのだろうか」と思うことがある。もちろん、亭主関白プレイを自ら好む人がいるということはわかっている。でも、それは小さな頃から「人形の子守り」をしていなくても生まれた嗜好なのだろうか。本当に女は1人では生きていけないのだとすれば、それはいつからなのだろう。
 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?