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エッセイ「推しマンガ”違国日記”」

わたしは小説をこよなく愛しているけれど、おそらく同じくらいの熱量でマンガも愛している。今は小説家になりたいと思っているけれど、小さい頃は長らくマンガ家になりたいと思っていた。

「あなたは白い紙とペンを渡しておけば、
 いつまでも絵を描いていたからラクだった」

と、いまだに母から言われる。確かに思い返してみると暇さえあれば新聞広告の中から裏面が白いものを探し、その時そこにある筆記用具で、ひたすら絵を描いていた。

当時にしては珍しく、父の仕事の関係で、我が家にはパソコンとプリンターがあった。紙はミシン目のついたジャバラのもので、左右に穴が空いていて、その穴と機械の突起を合わせて印刷をする。時々役所の窓口を覗くと、懐かしいそのプリンターが鎮座していることがある。今の若者は、アレを使いこなせるのだろうか。

印刷し損じた紙をミシン目で破き、半分に折り、ホチキスで留めたら簡易的な冊子になる。幼い私は、そこに延々とマンガを描き進めていた。

顔の輪郭を書き出す時、彼らは生まれる。髪の毛や、瞳、まつ毛、すっと通る鼻すじ、上がる口角。わたしはキャラクターが言いそうなセリフを喋りながら描いた。もしくは、しそうな表情をしながら。描き上げたキャラクターは、わたしとは分離して、紙の中でしばらく生きた。この感覚は小説を書く今でも、しばしば起きるし、あの頃夢中になったその感覚こそが、今、小説を書くことへの原風景だと思う。

しかし当時のわたしは可愛い絵を描くことはできても、ストーリーを組み立てる技術がなかった。そしていつしか漫画は「読む」だけのものになり、残った情熱は「物語を紡ぐ」ほうへと帆先を向けた。

タイトルに戻るが「違国日記」は、久しぶりに雷に撃たれたような衝撃を受けたマンガだった。はじめて読んだのはXで、タイムラインに流れてきた。

私なんぞが紹介せずとも各種受賞作なので、ご存知の方も多いかもしれない。内容は「ほぼ絶縁していた姉夫婦が事故で亡くなり、一人娘の姪を引き取る」という、謂わば少し重たい日常系。読み進めていくと衝撃が走る。

なんだ、この間は。
なんだ、この言葉の重みは。

特に、通夜で姪を引き取ると決めたシーン。
主人公が発する言葉が美しく、何度も繰り返し繰り返し読んでしまう。

「あなたは15歳の子供は
 こんな醜悪な場にふさわしくない。
 少なくともわたしはそれを知っている。
 もっと美しいものを受けるに値する。
 あなたの寝床はきのうと同じだ。
 そこしか場所がない。
 部屋はいつも散らかっているし、
 わたしは大体不機嫌だし
 あなたを愛せるかどうかは分からない。
 でもわたしは決して、あなたを踏みにじらない。
 それでもよければ明日も明後日も
 ずっとうちに帰ってきなさい。
 たらいまわしはなしだ」

出典:ヤマシタトモコ「違国日記」

そしてナレーション的に挟まる、朝の言葉にも泣いてしまう。

この日、このひとは
群をはぐれた狼のような目で
わたしの天涯孤独の運命を退けた。

出典:ヤマシタトモコ「違国日記」

ヤマシタトモコ先生は「発達障害の主人公を描きたかった」と仰っていたけれど、発達障害云々を差し引いても素晴らしい作品であることには間違いないと思う。私がそうだったように、この作品の美しい言葉たちに救われる人は、多いのではないかなと思う。

めったに買わない漫画を、全巻揃えた。(いつぶりかしら)そして東京に持ってきた。寂しくなったら読むつもり。

砂漠。
ほかの人にも砂漠はあるのだろうか。

出典:ヤマシタトモコ「違国日記」

ひとつひとつの言葉が美しく、正しく届く。
こんな美しい文章を、言葉を、紡ぎたいと思う。

ちなみに映画も上映中。勿論観に行きました。
主人公は、我らがガッキー!!
「ちょっと合わなくない…?」とは思いつつも、やはり女優。ぼさぼさ頭のアンニュイな小説家。朝役の早瀬憩ちゃんもかわいい。あ、そうそう、映画ではガッキーの「夢の中へ(井上陽水)」が聴けます。

アニメ化も決定したようです。これからの楽しみが増えました!

これからも、繰り返し繰り返し読んでいきたい漫画です。


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