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生きることは演じること?
今年40歳になるにあたり、SNSに載せている自分の写真を新しいものに変えようと思い、写真を撮り直した。
これまでもプロの写真家に写真を撮ってもらう機会があったけど、就職・転職や資格用の証明写真目的だったこともあり、必要以上に笑わないように、少し口角を上げることに注意していれば良かった。
今回はSNS用ということもあり、もう少し、いや自由にポーズを取ってOKだった。でも、いざ自由にと言われるとどうしていいかわからなかった。
真っすぐカメラを見つめてにっこり笑ってみる。それだけじゃなく、敢えて視線を外すということもやってみたけど、自分の顔が一番よく映る角度がわからない。
そして、一番困ったのが手だ。前で重ねてみる、横に真っすぐつけてみる、以上!という感じで、置きどころが全く分からなかった。
撮影が終わって思ったのは、撮影する側の技術もさることながら、
撮影される側にも技術がいる
ということだった。私は自分の身体(特に手)を使って表現する力が必要だと思い、手に取った一冊が演出家・鴻上尚史さんの「演劇入門」だった。
子どもの頃に情操教育として親にミュージカルに連れて行ってもらったことがあったけど、自分の意志で演劇を見に行ったことはまだない。そんな演劇初心者の私に演劇の魅力を伝えるには十分な内容で、読み終わった今、「2025年は観劇したい!」、「演劇のワークショップに参加してみたい!」という気持ちでいっぱいになっている。
なぜなら、人生は演劇に似ているのかもしれないと思ったからだ。
色々な役割を使い分けている
人は意識・無意識のうちに色々な役割を演じているという。自分について考えてみると、会社員、娘、アラフォー独身女性、趣味の和太鼓教室の生徒など、その時々で求められていることや状況に応じて、違う反応をしている。
無理をしている、していないは別として、役割を演じていると言われれば、そうかもしれない。
そして、それは生きている限り続くはずだ。果たして、自分はうまく使い分けているんだろうか?
トラブルがあっても途中で止めることができない
映像と演劇の違いについての記述で納得してしまった。
映像は主人公の演技力がない場合でも、カメラのアングルを工夫して映らないようにしたり、いわゆる脇役と呼ばれる俳優陣の表情を映すことで主人公を引き立てることができるということ。
それに対して、演劇は観客から見えない部分が少ない上に、トラブルがあっても止めてやり直すことができない。また、見る側からしても家でテレビや配信を見る時は自分の都合で早送りしたり、一時停止することができるけれど、演劇はそれができない。
人生も山あり谷ありで、いい時だけではないし、悪い時もある。でも、ゲームみたいにリセットして他人になって人生やり直すことはできない。だから、トラブルがあってもうまく対処する術を身に着ける必要がある。
この前も、初めてSNSのLIVE配信なるものに挑戦してみたところ、LIVE配信の相手が途中で通信エラーになるというトラブルに見舞われ、全く想定外だったためにあたふたして咄嗟に何も言えずに切ってしまった。
別にこれは命にかかわる大問題ではない。でも、こういう時に冷静に考えて動けるような人になりたい。
そんな理由で、今、私の中で「自分の求めているものが演劇をすることで得られるのでは?!」という思いが沸き上がり、がぜん演劇熱が急上昇している。
まずは観客として、「演劇は俳優だけではなく観客も一緒に作るもの」というものを感じてみたい。