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お節句にお節介な自分を振り返る
カントー地方に引っ越しました。
あっという間に人生の一大事と季節の節目がやってきて、そして気がつけば、月が変わって数日が過ぎている。桃の節句はもう過ぎにけり。
眠れなくて、Twitterを開く。(それが良くない)
そして、フォロワーさんのnoteを読む。
今の自分にしっくりくる文章を見つけ、編集画面を開く。どうせ眠れやしないんだ、気が済むまで文字を書こうと思う。
“時々反芻して、悪かったこととか反省したこととかを改めて悔いることは必要だけど、だからって今の私を否定するのは違う。”
考えても、想像しても、反省しても、きりがないというのに、縁が切れてしまった友人のことを、事あるごとに思い出す。今日も今日とて《引っ越し記念スペース》を開催したら、話の中で、つい、口から言葉が溢れてしまった。
友人は、色んな理不尽をおかしいと口にしつつも、でもそれはそれなりに、自分で現状に満足しているんだ、その環境を選んでいるんだ、ということは分かっていた。分かっていたが、納得はできなかった。
きっと、本人がいいならと、流せるだけの度量のない自分がいけないのだ。
私は弱い人間だ。自他境界が曖昧すぎる。度を越して心配しすぎる。
信じられないほどのエネルギッシュさ、そして、やる気も優しさも真面目さも、不誠実な雇い主の良いように使われて、安く手頃な都合のいい駒のような扱いは、もう、聞くに耐えなかった。
愚痴が自分の許容量を越える前に、はっきり拒否すればよかった。
社会の決まりを無視するやり方は、ごめん、私は聞き流せるタイプではないんだと。他人の選択だからと、何でも聞けるだけの器がある人間ではないのだ、と。決まりを破ること、不平等や不公平が生じている話。そういうのは、そういうのだけは、どうにも、聞いていて我慢がならないのだと。
実情に合わない、不利益のある社会制度は変えればいいと思うし、杓子定規に制度を当てはめていたら仕事にならない現実があることも、知っている。
でも、逆に不利益を無くすどころか、誰かが不利益を被らない為にできたはずの法律を無視してしまったなら、自ら、不利益に飛び込んでいることになってしまう。それを、何でもないことのように打ち明けて話し、自らは、それを変えるでもなく消極的に加担している…それを聞かされて、ただ聞き流せというのだろうか。
美輪明宏さんが、前にテレビか何かで言っていた。「友人はゴミ箱じゃない」と。
こちらだって心ある人間で、どう考えても、遠からず苦境に陥りそうな大切な人を、その愚痴を、ただの愚痴と流して、放っておけと言うのだろうか。
私の言動が、本人にとってもまた、我慢がならないことだったのは理解するし、傷つけたことは確かだ。怒りは甘んじて受け止める。けれど、こちらだって加害者一辺倒で謝るだけでは、割に合わない。
ところで、親が、新生活に対してよかれと提案をしてくる。アドバイスをしてくる。相変わらず、こちらが不満げにしていると「心配なんだから」という言葉で親の立場への理解を求めてくる。
自分で決めて自分でやろうとする人生の決断に対して、できないとか、無理するなとか、そんなことしなくていい、そういう類の言葉掛けばかりしてくる。
悪く思っているみたいだけど、何か勘違いしてない?とも言う。親の言う通りにして欲しいわけじゃないとも言う。
そのくせ、こんなのはどうだ、こんなのを見つけた、と口は出してくる。何かを、したらどうだと言ってくる。
この母にしてこの子あり、とは言い当て妙だ。
前述の友人に対して自分がぶつけた不安や不満は、そっくりそのまま、母から自分への言葉にも当てはまる。
無理をしてほしくない ←→ 無理なんてしていない
我慢しなくていい ←→ 我慢なんかしていない
しんどくても、辛くても、頑張らなければいけない時というのは、誰しもある。頑張りたいと自ら決めて、物事に臨む時が、人にはある。
そういう時、親密な他者のことが、勝手に不安で心配でどうにかしたい、力になりたいと思う気持ちは、間違いなのだろうか。
いや、きっとそれもまた、間違いではないのだろう。自分の良さでもあり、欠点でもある、ただそれだけ。良し悪しは時と場合によるのだと、自分に言い聞かせる。
“時々反芻して、悪かったこととか反省したこととかを改めて悔いることは必要だけど、だからって今の私を否定するのは違う。”