相対性の中で自分が見つかるから、多様なコミュニティがあると楽しい
私は時に読書家になり、時に全然本を読まない人になる。時に映画好きになれば時に全然映画を知らない人になる。時に旅行好きになれば時に海外旅行経験が少ない人になる。時に好奇心に従って生きている人になれば時に慎重派になる。時に論理的であれば時に感情的なタイプでもある。
性格というのは相対的なもので、所属しているコミュニティによって自他共に認識が変わる。会社の同期と話していると、「私って全然本読んでないな」と日々感じる。あの人は普段あんなに読んでるのか、あの人はもうあの最近出た本を読んだのか。全然違う仕事をしている高校の友人が家に来た時、本棚に驚いた。「すごい、やっぱり読書家だよね、さすがって感じ」
会社の同期と話していると、私はかなり旅行好きな部類に入る。比較的忙しめな仕事なので、3連休程度やましてや土日だけでなんて、気軽には旅行に行きたがらないからかもしれない。アメリカ留学中に出会った日本人友達との4人組で集まると、私は急に旅行経験が少ない立場になる。みんな旅行のために働いて、有給休暇を使って旅行する。
こんなことがあらゆる私の性格・性質に対して起きる。すごく「好奇心のままに生きている」と見られることがあれば、「慎重派だよね」と思われることもある。論理的に話を進めていて「感情に左右されることないの?」と驚かれることがあれば、「共感性が高くて感情豊かだよね」と言われることもある。
これが逆に、誰といても変わらない性格がある。私は以前「絶対的いじられキャラだよね」と友人に言われたことがある(笑)。その子曰く、「いじる・いじられる、ツッコミ・ボケみたいな関係性って所属するグループとかによって変わる相対的なものだけど、mayだけは絶対、どのグループでもいじられキャラでしょ」とのこと。そう、これは本当に間違いなくて、小中学校、その頃の習い事のクラブチーム、高校のクラスに部活、大学のいつめんにゼミ、就職した企業のどの部署でも、いじられキャラは揺るがない。
他はどうだろう。たぶん「真面目」というのも変わらない。別にふざけてるし、いじられキャラだし、合理性重視で無駄なルールは破ることもあるけど、物事に向き合う姿勢として「真面目・素直・一生懸命」なのはどの集団でも認識されている気がする。真面目に馬鹿をしている感じ。
よく笑う、聞き上手もそうかもしれない。だいたい人の話を聞きながら、私が1番爆笑している。そして話している人の目を見ながら頷いている。質問も私が1番多くしているかもしれない。喋る量は所属によって変わることがあるけど、聞く姿勢だけは不変な気がする。
こうして、いる場所によって性格は変わり得るものだからこそ自分の新たな一面を知ることができて面白いし、逆にその中でも変わらないものがあると「これが私の性格・性質」と確認できる。多様なコミュニティや多様な友人の大切さがよく説かれているのには、こういう面もあると思う。
最近感じることが多くてこんなことを考えていたら、朝井リョウさんの『ままならないから私とあなた』を思い出して再読したくなった。あの小説の良さ・考えさせられることはたくさんあるけど、人はみんなできることもできないことも違うからこそ、相手のことを知りたいと思うし、相手と接することで自分では生み出すことができない反応や感情を見つけられるんだと感じた。
時間に心に余裕がなくなると「違い」を受け入れられなくなることもある。でも、違いこそ豊かさであり、違いがあるからこそ相手が魅力的で、自分の魅力にも気づかせてくれるんだと忘れずにいたい。