ぼくの問いとシュティルナーの答え①
ぼくがシュティルナーを深く理解したい理由について書きました。
ぼくの問いは『教育の意味とは何か』です。
「意味」とは、人間を理性的に突き動かす理由となる要素です。
「教育の意味」を問うことは、人間を教育することへと理性的に動かす理由となる要素を探すことです。
ぼくの問いには、「人間は教育しないではいられない」という前提があります。人間にとって教育は「よい」もの。だから、教育しないではいられない。人間の本性(ほんせい)が教育を求めているのです。人間は教育に何を期待しているのか、それを記述したいです。
それには、人間そのものについて理解することから始めなければならないでしょう。教育の根本的な要素、存在している理由は人間がそれを行うからです。
以上の仮定(前提)を覆す結論に至るかもしれません。例えば、人間ではない何かが教育を求め、人間に人間を教育させているのかもしれないし、本当に欲しいものと教育とをぼくたちは履き違えているのかもしれません。
「教育=学校教育」という視点から抜け出すのは難しそうです。しかし、この視点をひとまず脇に置いておいて、新しいものを迎え入れるスペースを空けておきましょう。教育について考えていたのに、いつの間にか教育とはよべない「◎◎◎」について考えていた、という不思議なことが起こるかもしれません。とてもわくわくします。
✍ぼくはぼく自身をどうみているか
さて、どこから始めましょう。人間について考えることは、「ぼく」(最も身近なサンプル)について考えることでもありますね。(少しだけ違和感があります。別の機会に「人間=ぼく」の違和感について書きます)
ぼくの考え方や振る舞いは、相手(人やモノに限らず)との関係によって変化し続けています。ぼくは相手との係わり合いを通して自己の同一性を脱けだして、新しく生きることができることを実感しています。
これまで全く関心のなかったボルダリングにいま夢中になれるのは、ぼくの好きな人がボルダリングに夢中だからです。ぼくが道端の草花に足を止め「きれい」と声をかけるようになったのは、尊敬する先生がそうしていたからでしょう。(意識的に振り返るとそういう気がします。自分の意志でそうした、という確信が持てるものがあまりないです)
こうも考えられます。
ぼくが存在している意味は、遺伝子に書き込まれているのでしょう。また、日本社会を担う市民だからこそ生きて存在している価値があるのでしょう。しかし、それはぼくにとって本質的な生きていく意味にはならないような気がします。
社会や時代の「当然なこと」がそのままぼくの存在する意味になるのではなく、ぼくと具体的な相手とが係わり合うことによって生きている実感、存在しているという実感を味わうことができるのだと思います。すなわち、ぼくはあなたと係わり合うなかで意味(ぼくが理性的に生きようとする理由)が生まれ、絶えず変容していくのです。
∂ 別の視点から
ぼくが誰か(ぼく以外の人間)の立場に立って、その人の人生を生きることはできません。例えば、あなたと同じ部屋で同じ朝を同時に迎えることはできません。あなたの視野に広がる光景をぼくの位置からは視ることはできないのです。
海洋汚染の問題やあなたの幸福についてぼくが何かを思い巡らしているときも同様です。実際にぼくの意見のスタート地点は、「ぼく」からにすぎないのです。(このことに気づくとき安堵します)
「私からどう見えているか」
この見え方が物事に対するぼくの係わり方を方向付けているのです。この見え方が生活に対する姿勢、生きている気分を作りあげているのです。
✍まとめ
①ぼく(人間)はあなた(ヒト・モノ・コト)と係わり合うなかで意味をもち、変容していく。
②ぼく(人間)はぼく(人間)である。
(②にやはり違和感が残りますね)
続きはまたこんど。