だからスキを手渡したいんだ week17
こんにちは、だいすーけです。
その週にスキを押したnoteからいくつかのnoteをピックアップしてご紹介するという取り組みをやっていこうと思い、今年からはじめています。今回はその17回目。
今年はGWどこもいけないね、なんて去年話してたんですよね。今年も同じ話をするなんて、まさかなぁ。
おうちでいかにたのしむか、これは今も引きつづき大切なテーマ。このシリーズがすこしでも、みなさんのあたらしい出会いや再発見につながるといいなと思っています。
それではご紹介します。
17回目。
どうぞ。
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いい読み手になればnoteはもっと楽しくなる / 納木(のき) まもる さん
この「note」という空間を、みなさんはどのようなものだと認識していますか。ここで、どのようなことをしていこうと思っていますか。
noteは想いを綴る場所。
そう思っていた納木まもるさんが、それだけではない楽しみ方がある、と気づいたことについてまとめてくださいました。
自分の書いたものにたいして何らかのリアクションがあれば、基本的にはうれしいはず。でも、とくにはじめて間もない頃というのは思った以上に読まれない。ここでこころが折れてしまう人もすくなからずいると思うんです。
そんなときは、視点を変えてみる。文章のよき「読み手」に、まずは自分がなってみる。
僕の思う"読み手"は文字や言葉に書かれていないことまで"読み解く人"です。
文章、行間、そこに込められているものを読みとろうとしてみる。それは書き手への理解につながり、自分が起こすリアクション(コメントやtwitterへのシェアなど)にもそれが表れるようになる。
相手への理解に基づくリアクションは、コミュニケーションに発展しやすいです。そして、自分の内面も反映されるものです。
つまり、相手も自分を理解してくれやすい環境になります。
人の文章をしっかり「読み解く」ことで、コミュニケーションが生まれやすい環境を整えること。結果的に、それが回りまわって自分が「いい読み手」を獲得することにつながる。「急がば回れ」の気持ちが大切なんですよね。
約1年前に書かれたこのnoteですが、ユーザーが増えつづける中、ますます貴重さを増すこの提言。noteビギナーの方はご参考に、それ以外の方は初心を思い出す気持ちで、読んでいただけたらうれしいなと思います。
情熱はどうしたら戻ってくるか / 森野きのこ さん
感じることを言葉にするのに壁を感じている。いや、言葉にするのではなく、感じることそのものに障壁を感じている。
人に何かを伝えようとするとき、たとえばその手段が文章であったなら、文章自体の巧拙はあれど、もっとも大切なのはそこに込められた熱意なのだと思います。熱意があれば、良くも悪くも人のこころを打つ、こころに刺さるようなものが書けるはず。
だから、その熱意を見失ってしまうということは、動力源を失ってしまうことと同じ。ネタがないんじゃないんです。これはもっと根本的な部分のお話。そこにたいする悩みを、森野きのこさんが形にしてくださいました。
だから極力、人を感情的にしないよう、人が感情的になったときも火に油を注がないように冷静に、理知の部分だけで対応しようとしてきた。
ポジティブな感情さえうまく伝われば。感情を表出させることが難しくても、何とかなるはずだ。無意識の防衛本能か、これまではこうすることで「うまくやってきた」。
でも、そうして心掛けてきた「良い面だけ見よう」が、感情を掬う、表現の熱量ということにたいして必ずしも良い方向に機能しないことがある。
ネガティブな感情を、「リフレーミングして」なかったことにしてしまう。生きるうえでそれはとても楽になることだけれど、それによって「感じる」という機能をどんどん鈍化させてしまっているのではないだろうか。
生きやすさと感情の充実とは、また別の問題なのかもしれないんですよね。
美しい情景を見て美しいと感動する心、好きなものを見聞きして感激するパワーを取り戻したい。
感情と向き合うこと、(そのストレスと適切な距離をもって)うまく生きること、そのバランスを探ること。それぞれがちがう答えを持つであろう部分のお話、適切な答えが見つかるといいなと思います。
それは全部王さまの夢でした、ならいいのに。 / 岡田環/Tamaki Okada さん
遠めに見たnoteのホーム画面に不穏なヘッダー画像をみとめて、それがふだんヘッダー画像をご自身の撮影された写真で飾っている環さんのnoteだとわかったときに、なんだかゾクッとしたんです。
何を言っているのかわからないと思いますが、環さんが綴られる言葉の表情がいつも何とも、身体に沁み込ませるのが難しい。腹の底にどしりと据えられるようなのにそれは儚くて限りない日常で。noteを開いてヘッダーがクリムトだと気づいて数行ののち、肉付きのよい「エヴァ」の脚でエッセイではないことに気付く。これは何かあるな、なんて、覚悟しなきゃなぁと。
2020年春、私たちは未曾有の孤独を体験した。
読みはじめにかすかに覚えた違和感があって、ひととおり読んで何度か読んで、その理由に気付きました。
これは小説なんです。タグもついてる。
小説なんですけど、導入の主語が「私たち」なんですよね。それで、思ったんです。これは、自分ごととして、読むべきなのかもしれないと。
私たちは、私たちの孤独を、そんなふうに埋める努力をたくさん重ねて、不安に押しつぶされないように、孤独に蝕まれないように、日々を温かで居心地の良いものにしようと努めてきた。
突如として強いられることになった孤独に、「私たち」は蝕まれつづけて今に至る。その孤独と対峙してその孤独を飼い慣らして、探して求めて手に入れたピースで肉体的に精神的にそのすき間を埋めようともがいてきた(機械的にと言ってしまってもいいくらいのやり方だったとしても)。
ぼくの人生には「ゆりちゃん」も「はるきくん」も「カイ」もいないけれど、それでもぼくにとっての彼らはどこかに存在する。ときに都合よく、ときに愛をもってぼくは彼らに接してきて、与え、受け取り、満たされて疲れている。そしてこれはもちろん、誰にでも言えることだと思っていて。
これが小説であることを、安堵と疑い(ぼくらにとっての「自分ごと」としての可能性があることを忘れたくないから)をもって受けとめたい。
そんなふうに思えるnoteでした。何とも言えない読後感が好き。
腸活始めました(前編) / RUMI さん
腸活始めました(後編) / RUMI さん
便秘は治ります。
以前ぼくも、潰瘍性大腸炎と診断された経験があります。2年ほど前に寛解の診断を頂きましたが、今でも腸のご機嫌を取るのはとても難しい。だからお腹の困りごとに関してならちょっとうるさいですよ。笑
というのは冗談として、お通じに関するお話ってまじめに書くのはとっても勇気の要ることだと思うんです。経験のない人にはおそらく想像もつかない内容。デリケートなお話の体験談、それだけでこれは貴重。ルミさんの勇気に拍手です。
前編は、「腸活」に至るまでのエピソードを。後編はその実践編、という流れ。同じような症状でお悩みの方は、必読だと思います。
以前からつらい便秘に悩まされ続けていたルミさん。ある日の仕事中、急激に襲ってきた腹痛により、病院で診断を受けることに。
「今のうちにしっかり治しておきましょう」
先生の言葉にも背中を押され、私の腸活が始まった。
「腸活」と銘打って便秘を治すためにルミさんが取り組んだことが、後半のnoteに書かれています。基本的であり大切なことだけど、習慣にしようとすると意外に難しい。そんな内容のこと。
これを実践したところ、思ったよりもすんなり症状が改善されたルミさん。症状が改善されたことで、こんなふうに思うようになりました。
幸福感が増えた気がします。
お腹に違和感を覚えながら生活していると、怖いんですよね。いつ腹痛に襲われるかわからないから、楽しみなイベントも不安を抱えながら参加せざるを得ません。おかげで楽しみは半減、QOLダダ下がり。これは、生活に根差す問題なんです。ご本人にとっても、ご家族にとってさえも。
便秘を改善したら、前向きになれた。
同じ悩みを持つ方は、このnoteを参考にされてはいかがでしょうか。決して大げさではなく、人生を変えるような結果を得られるかもしれませんよね。
「好き」は、諸刃の剣。 / 森本しおり さん
惹かれることを「心を奪われる」「酔わされる」「溺れる」って表現、しますけど、本当にピッタリですよね。
なるほどなぁと思いました。
もちろん「好き」という感情が悪いわけではないけれど、それが「諸刃の剣」になり得るということ。その「好き」が強ければ強いほど、その対象に「心を奪われる」し、「溺れる」。
その「好き」がなかったら味わうことのなかった感情は、なにもポジティブなものばかりではありません。暗い気持ちになることもあるし、そこに付け込まれる恐れだってある。「好き」は素晴らしい感情だけれども、気持ちに不安定さをもたらすこともありますよね。
もちろん、ここから先は、人による。ポジティブもネガティブも、清濁あわせて味わいたい。「好き」の先に見えているものがある。そう思える人もいれば、感情が揺さぶられることを避ける方を選ぶ人もいる。
どちらかに分ける話ではないけれど、みなさんはどうですか。「推し」がいる人いない人、これはまたすこしちがうかな。
私は何か一つに自分を賭けるのが苦手。「それがダメになったら、どうしよう」って思ってしまう。
その一方で、
たまに「手放しで何かを好きな人」や「一つに自分を賭けられる人」がうらやましくなります。
いずれにせよ大事なのは、「好き」に依存せず、コントロールできる状態にしておくこと、なのでしょうか。でもそれだと夢中になるとか際限のない熱意を注ぐとか、その領域にたどり着かない気もするし。バランスの難しいお話ですが、考えてみると面白い。ぼくも「好き」にブレーキをかけるというかリスクを分散させてしまいがちなので、とても共感しました。
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「だからスキを手渡したいんだ week17」、いかがだったでしょうか。未読の作品がありましたか?気になる作品があったらぜひ、リンクに飛んでみてください。あたらしい「スキ」が、待っているかもしれません。
これを書くためにというわけではないけれど、日々たくさんのnoteを読んでいます。ここでご紹介できなくても好きだと思う作品は多いし、自分の言葉にうまく落としこめなくてご紹介を断念することもあります。何度読んでも紹介文の冒頭が浮かばないこともあって。好きなのになぁ、何でだろうと、自分の言葉の拙さや不勉強さを思い知るいいきっかけにもなっています。べつに修行しているわけでもないんですけど...もっとうまいこと書けるようになりたいな。へこたれるときもあるんですけど、これからもがんばります。「いつも楽しみにしています」、と言ってくれる人もいる。ほんとうに、嬉しく思っています。ありがとうございます。
さて。
それでは今回はこのへんで、失礼します。
いつも素敵な作品を提供してくださり、そして、お付き合いいただき、ありがとうございます。
このシリーズはマガジンにまとめていますので、よかったらぜひこちらもご覧ください。
いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。