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自由の質量/映画「ノマドランド」

あらすじ

ネバダ州に暮らす60代の女性ファーンは、リーマンショックのあおりを受けて、長年住んでいた家を失ってしまう。やがてキャンピングカーに所持品を詰め込んだ彼女は、アメリカ各地で季節労働をこなしながら旅をするノマド (遊牧民)生活を開始。

引用元

死別との折り合い

ファーンはノマド生活を開始するまで、死別した夫の存在を感じながら、夫が愛した町にある2人で住んでいた家に居続けていた。
その後始めたノマド生活は、ファーンにとってどういう位置づけなのだろう。今一番したいことか、夫との死別と折り合いをつける方法か、どちらなのだろう。

私が同居人を亡くしたら、いま2人で暮らしているこの家を手放せなくなると思う。いつか来る死別と折り合いをつける方法をずっと模索している。

ファーンと同じノマド生活者のひとりが言った「一定の場所にとどまらなければ「さよなら」がない。「さよなら」ではなく「またね」になって、必ずまた会える。死別した大事な人だって同じでまた巡り合えると信じることができる。」(すごく意訳)というセリフがある。
ここで言いたいことは私には分からなかった。分からなかったけれど、大事な人との死別に対する星の数ほどある向き合い方の一つであることは分かる。
その生き方が見つかってよかったねと思う。


したいように生きるのは大変

家を持たない(持てない)ことの価値観を問うシーンがいくつか出てくる。
そのうちの一つが、ファーンが「身軽だ」と言われて、「旅をして暮らすのは重い決断だ」と返すところ。そう、彼女の毎日は生活の苦労や執着に満ちていて、決して身軽ではない。
もう一つが、彼女の姉が彼女のことを「自分で生き方を選ぶのは、変わり者だからじゃない。勇敢で自由だからだ。」(とても意訳)と言うシーン。世の中には本当はたくさんの選択肢があって、その中から自分で選んで生きていくことは勇敢で自由だからできること。

私が大事に思っている人の中に、ひときわ自分の好きに生きているように見える人がいる。私は今の世の中でやりたいように生きていくにはある程度傲慢であることが必要だと思っていて、その人を傲慢のお手本にしてきた。
その人は「自分は選択肢があることを人より知っているだけ」と言っていたけれど、それだけではなくて、勇敢で自由だったんだとこの映画をみて分かった。選択肢があることを知っていて、勇敢で自由で、そして傲慢なんだ。

一緒にみた同居人は、「家を持たない不便さや日々の生活に追われることで、そこにあるはずの自由に気づけなくなってしまいそう。その考え方が自分にあることが好きではない。」と言っていた。

自分で選んで生きるのってなんだかすごく大変だ。でもまあたぶんできると思えた。


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